……これが朝チュンってやつかぁ……。
呑んだ翌朝特有の、ちょっと重ったるいまぶたを押し開け、見上げた窓から差しこむ光は、
少し湿った薄い布団の上にぺたんと座り、体の前を毛布で押さえただけの格好で、ぼーっとその光を見つめていた私の背後から、妹紅がもそもそ服を着る気配が伝わってくる。
こっそりと首だけ振り向いてみた先に座る彼女の後ろ姿の、耳がほんのり赤くなっているのを見て取って、それでちょっとだけ恥ずかしさが和らぐと同時に、かえって気まずさが沸いてきた。
あーあ、やっちゃった。やってしまった。屋台で呑み始めてからの行動すべて、なんでどこかで止められなかったのか。ほとほと自分が嫌になる。
その相手がこいつだったこと自体は、驚くほどに嫌ではなくて、それが余計に嫌だった。
あの後は、どうなったんだっけ。そう、ゆらゆら余韻に揺れている耳に、何かを敷く音が聞こえてきて、それからあの、あれだ、例の抱き方で、抱え上げられて……意外と力あるんだなぁ、なんてぼんやりと、いや、私が軽いということにしておこう。とにかく布団に運ばれて、ぜんぶ脱がされちゃって、妹紅も脱いでいて、久しぶりの人の手がとっても心地よくて、そして……ああもう、よくわかんない。いや、思い出したくない。思い出すな、忘れろ。っていうか、いつぶりだったっけ。少なくともその前は、月にいたときが最後。初めて体験する、地上の痴情だ。あっはっは。バカか私は。
にしても、やばい。だんだん冷静になってくると、これは本当にやばい。まいったなぁ、どうしよう。
最大の問題は、てゐだ。少なくともそういう行為があったことだけは、あいつには絶対バレてはいけない。徹底的にいじられる。ことによると年単位でだ。さらに、あいつ自身はそこまで口が軽いわけではないけれど、兎経由で竹林の外に、特にあのブンヤにでも漏れたりしたら、それはもう……ああ、ああ、考えたくもない。
あとはまあ、師匠には叱られるだろう。といってもあの人は、単に酒を飲んだとか、無断外泊しただとか、あるいは妹紅と寝ただとか、そういうことでは怒らない。いっときの感情のままにヤケ酒をかっくらい、後先も考えず流されて、結果こうして後悔を抱えこむという、情けない性根を叱るのだ。それそのものは毎度のことで、慣れているからいいとする。言ったらそれこそ、慣れてどうする、とこっぴどく説教されてしまうだろうけど。
姫様は……どうだろう。やっぱり、外泊自体にどうこうは言わないはず。ただ、日ごろから可愛がっている──多分に愛玩動物的に、だが──私と、いろんな意味で複雑な因縁にまつわる感情を
笑うだろうか? 呆れるだろうか? てゐのように私を、いやむしろ妹紅をいじるネタにするだろうか?
もしくは嫌悪に顔をしかめ、そんなペットに興味はない、と冷たく捨てられてしまうだろうか? それとも、師匠と同様に、さしてなんとも思わないだろうか?
あるいはもしかしたら、激怒するなんてことが……あるかなぁ。ないとは言い切れないけれど。けっこう長く付き合ってきたつもりだが、いまだに姫の心が動く方向は、私にはよくわからない。
いずれにせよ、誰に対しても、核心を知られないに越したことはない。なんとかうまくごまかそう。そんな風に考えていた私の背中に、
「鈴仙ちゃん」
立ち上がって振り向く気配と共に、そんな声が掛けられて、
「……なんでまだ着てないの?」
そう続いた言葉に、思わずひゃあと間抜けな声を漏らして肩を縮めた私は、丸出しのまま突き出されていたお尻の上で感じた視線をさえぎろうと、あわてて後ろ手に毛布を引っかけた。
「ちょ、ちょっとボーッとしてただけ! いま着るから! あっち向いててよ!」
「あー、はいはい」
くるりと
「色々と採りに行くんで、しばらく戻らない。別に戸締りを心配するような家じゃないし、全部そのままにしといていいから。お腹がすいてるなら、勝手に食べてもいいよ。じゃあね」
そうして戸が閉じられる音がして、竹の葉が踏まれて鳴る音も、すぐに遠ざかって聞こえなくなった。
「はぁ~あぁ……」
でっかい溜息を吐き出しながら、がっくりと深くうなだれて、それでもえいと頭を切り替え、毛布を投げ捨て服を着る。自分でそうした覚えはないのに、そこそこちゃんと畳んでまとめて、布団のわきに置いてあったのが、どうにもこうにも小憎らしい。あいつってそんな几帳面だっけ?
放っておいていいとは言われたけれど、流石に食い散らかし呑み散らかしたままに去るのは気が引けたので、最低限の片付けはした。ついでにそっちは言われたとおり、いくつか残りの団子やらを口の中に放りこみつつ。
こんなんでいいでしょ、と目処をつけ、水を一杯頂いて。
それから、いちおう布団も畳んでおくか、とそこへ歩み寄ってしまったのが、私の最後の失敗だった。
「うっ……」
じっとりと、あるいは点々と、使い古した布に残る真新しい情事の痕跡に、忘れたつもりの昨晩の記憶が、そのほとんど全てが私自身のものであるという事実と一緒に、またぞろ湧き上がってきて、あーとかぎゃーとか意味のない声を上げながら、私は荷物をひっつかみ、ダッシュで小屋を飛び出した。
◆ ◆ ◆
……とにかく、すっかり日が昇ってしまった以上、朝帰り自体をごまかすのは無理だ。
私はどうにも、嘘をつくのが下手だ。そこを聞かれたら正直に、帰りに酒に誘われて、うっかり酔いつぶれました、と返すしかないだろう。誰と、とまで聞かれたら……それも、素直に言うしかないだろうな。幻想郷はなんだかんだで狭い。口裏を合わせてもいない相手を嘘に巻きこんだら、遅かれ早かれ必ずバレる。というか屋台のおかみという証人もいるし。
九割の真実で話を埋めて、核心の一割で嘘をつく。その程度のセオリーは知っている。あとはもう自分の演技力を信じるしかないと──正直、あんまり信頼に足らないけれど──覚悟を決めて、私は永遠亭の門をくぐった。
てゐの手下の兎たちは、さほど私に興味がなくて、わざわざ向こうから話しかけてくることは殆どない。今日もなかった。そして、いちばん厄介なてゐの姿も、幸いにも見当たらなかった。
あいつは、いつもこの屋敷にいるわけじゃない。というか半分かそれ以上は、竹林の中で過ごしているらしい。いわく、
とにかく最大の難関をひとまずはスルーして、少しほっとしながら入口の戸を開けたところで、
「あら、鈴仙?」
ちょうど姫様が廊下からこっちを見ていて、私は思わずうわぁと声を上げそうになった。
「か、輝夜様……おはようございます」
「おはよう。いま帰ったの? 昨夜はなぜか見かけないと思ったけど、そもそもいなかったんだ」
ちょっと首をかしげて笑う。その姿は、やっぱりつい見とれるほど美しかった。
「はい……ちょっとトラブルが重なって遅くなったのと、そのあと酒に誘われたのとで、そのまま……。お相手できず、すみません」
あらかじめ考えていた口上を、そのまま告げる。
割と自然に言えたと思う。……それ自体は嘘じゃないし。
「ああ、別に探してたわけじゃないから、気にしないで。後でまた遊びましょう」
そう言って滑るように廊下を去っていく後ろ姿に、はい、といちおう返事をしてから、私は最後の
「別に日々のすべてを誠実に過ごせなんて言わないけど。でも自由意志での行動には、節度や自制というものが要る。そうでしょ?」
「はい……反省してます」
姫にしたのとほぼ同じ説明を、二度目だけあって滑らかに繰り返した私に、そのトラブルの中身をもう少し問いただした師匠は、椅子の上で軽く足を組みながら、だいたい予想通りの説教を垂れてきた。
といっても、口調からして、特に怒っている感じはない。ちょっとした注意、小言といったところか。一時はどうなることかと冷や汗をかいたけど、意外と何事もなく済みそうで、内心ほっと胸を撫で下ろしながら、はい、はい、と素直に頭を下げる。
「反省だけでは……って、これじゃ誰かの受け売りね。まあ、いいとしましょう。じゃあ荷物を片付けて、いつもの薬のセットと器具を出しておいて。それが終わったら部屋に戻りなさい」
「え? でも診察が」
そう言って顔を上げた私に、師匠はジト目で机をとんとん叩く。
「あなたの今日の出番は、早くとも午後から。その理由すら言われないとわからないようなら、本当におしおきが必要ね」
「あう」
とっくに抜けたつもりでいたけれど、まだ少し酒臭かったらしい。どうにも自分じゃ気づかないものだ。師匠が鋭いだけかもしれないけど。
「風呂入って水飲んで寝てます……」
「よろしい。ああ、それから、アフターピルはいる?」
「ぴぃっ!?」
部屋を出ようとした背中に不意打ちで矢がぶっささり、私はおどおどと首だけを振り向いた。
「ひ……必要ありませんけど?」
「そう。ならいいけど、その回答は零点ね」
「えっ?」
指先でくるくる回ったペンが、ぴしりと私の眉間を指す。
「そこはせめて、白々しいのは承知の上で、何の話ですか? って答えなきゃ」
「……あっ。あ~……」
確かに、今の返事では、妊娠の心配がない相手だと言ったも同然だ。
「……なんて答えたら、満点だったんですかね」
「あなたにできる演技の範囲で、ということなら、溜息ついて無言で出て行くか、あるいは、まだそんな関係じゃありません、あたりね」
「精進します……」
言われたからというわけではないが、あらためて溜息をつきながら出口へ向かった私は、もう一度だけ振り返る。
「ちなみに、お師匠様だったらなんて答えるんです?」
「私はそもそも、そんなことを聞かれて困るような状況を作らない」
「ですよね」
酒臭い服を洗濯籠に放りこみ、いろいろと臭くてベタついた体を洗う。酒だけじゃなく、こっちも気づかれてたかな、と溜息をつきなおしつつ、しっかりと、隅々まで。
……そう、隅々までだ。仕方なく。そしてそのことでいやおうもなく、昨夜の出来事の隅々までが、頭に浮かび上がってくる中で、うーうー唸りながらなんとか洗いきり、温かい湯の中に飛びこんだ。
あー、と大きく息を吐いて身体を伸ばし、湯船のふちに頭をもたれて天井を見上げる私の中に、今更ながらにしみじみと、その感慨が沸いてくる。
セックス、しちゃったんだなぁ────
月の民は、生死に関わるそれらを嫌う。
けれど滑稽にも、完全にその悦びを捨てることもできなかった。だからセックスではなくプレジャーと呼び、定められた手順に従って進む遊戯、あるいは肉体をメンテナンスする処置として、見方によっては
だけど、昨夜のあれは、明らかに月で覚えたものとは違っていた。
性急なのに、それ以上に身体を加速させる、激しくて優しい指使い。
月では下品と忌避されていた、唇で大きく湿った音を立てる行為。
互いの皮膚を、最大の面積で密着させ、にじみ出る体液を塗り広げるような、軟体動物じみた動き。
そしてあの、何の意味もないはずの、無駄な囁きの数々。
鈴仙。
気持ちいい?
ここ、好きなんだね。
鈴仙。
もっと見せて。
もっと聞かせてよ。
鈴仙。
かわいいよ。
鈴仙。
鈴仙。
鈴仙────
「あー……もう……」
無意識に動こうとした腕を、すんでのところで湯船の外に投げ出し、私はまた大きな溜息をついた。目をつぶって寄せた眉根の上を、ぴちょん、と天井から落ちた雫が叩く。
もちろん私は、妹紅のそれしか知らない。だからあれが、地上における一般的な行為なのかどうかはわからない。ただ、実際に経験はしなくても、チラチラと耳に目に入ってきていた、その手の情報と付き合わせるかぎり、たぶん特異なものではないんだろうという気がした。
まさにあの、どうにも淫猥で乱雑で穢れた、あらゆる意味で
そしてそんな行為を、ようやくにして体験してしまったということは、私がいよいよ穢れにまみれた地上の兎となったことを意味していた。
もちろん、これまでだって、大小さまざまな生死で穢れゆく折々に、その認識は深まっていた。だけど、今までは諦めや寂しさと共に受け入れていたそれが、今回はなぜだか心が昂ぶるような、そう、もしかしたら、ある種の喜びと共に────
いや。
いやいやいや。気のせい。気のせいだ。何を浮かれてるんだ私は。頭を冷やせとばかりに湯から飛び出し、文字通りに冷水をタライ一杯ひっかぶる。
依然として、昨夜のことがバレたらまずい状況に変わりはないのだ。しばらくの間は、気を引き締めて生活しなければ。ただでさえ顔に出やすいタチだと、そこはいちおう自覚している。
髪を洗い、体を拭いて乾かして、それから水をたっぷり飲んで、布団の上に転がった。
この半日は、ただの夢。午後からはもう、いつも通りの私。そう強く念じて目を閉じて、なのに私は頭のどこかで、おかしなことを考えていた。
このまま終わらせるのは、しゃくだなぁ……と。