月の綺麗な夜だった。
といっても、まだ満月ではない。少し足りない、十三夜の月。
よく晴れた星空に浮かぶその月を、縁側に座って姫が見ていた。
団子の乗った皿とお茶とを、どうぞ、と脇へ置いた私の顔へ、ふと頭を傾けて視線を向けた姫の大きな瞳の中に、一瞬その月の光がきらめいて見えて、その美しさと、ありがとう、と続いた鈴のような声に、思わず神妙な心持ちになる。
「これ、あなたの?」
「いえ、イナバたちのですけど。でも十五夜には私も作りますから」
「そう。楽しみ」
ついと楊枝を持ち上げて団子を口に入れ、優雅にもぐもぐする姫の横顔を見ながら、この会話も何度目だろうな、と思う。
要するに、あなたも普段から作りなさい、と催促されているのだけど。でも、日々の仕事とか兎たちの作業とかとの兼ね合いやらが……。いや、やっぱり作ろう。時間がないわけではないんだし、少しだけでも。とりあえず、明日から。
そんなちょっとした決意を抱きつつ、私も座って月を見上げ、かつてあそこで団子を作っていた日々を思い出していたら、隣からカチャカチャと何かが動く音がして、
「鈴仙」
続いた姫の声にそちらを見れば、皿と湯呑みを反対側へどかした姫が、にっこり笑ってぽんぽんと膝を叩いていた。
「……はい」
素直に縁側に転がり、そこへ頭を横向きに乗せる。
もう幾度目かわからないほど枕にした姫の膝。その柔らかさに身を預け、優しく撫でられているうちに、なんだか自分が、他の多くの人から色々に見られ呼ばれる何者でもない、ただの一匹の兎になったような気がしてきて、どうにも逆らいがたく力が抜けてしまうのだ。
……のだけれど、やはり根っから臆病者な私は、他のイナバたちみたいに安心しきることはできなくて、どこかで緊張し続けながら、その心地よさを味わってきた。そして、そんな私をなぜだか姫は、ことに好んで膝に誘う。いつまでもびくびくしているその感触が面白いのか、あるいはなんとしても完全に馴らしてやろうと思っているのかは、聞いてみないとわからない。もちろん、そんなことを聞く度胸など私にはないし、仮に答えを聞いたところで、別段なにも変わりはしないのだろう。
特に今は、少しばかりの隠し事のせいで、頭がもぞもぞ落ち着かない。そんな調子で月を見ていた私の上に、
「最近、少し柔らかくなったね」
そっと喉をくすぐりながら、姫はそんな言葉を落としてきた。
とっさに意味がわからず、聞き返す。
「え? 団子ですか?」
「鈴仙が」
「……はひ?」
変な声が出てしまった。いや、前より硬くなってると思うんですけど。少なくとも今は。
「少し前までは、なんだかいっつもピリピリしてたけど。肩から適度に力が抜けてるっていうか。頑張ってるなぁ、って感じは相変わらずだけどね」
「えー? そうですか……?」
もちろん姫が言うならそうなんだろうけど……どうも自分じゃピンとこない。
……いや。
まったく自覚がない、というわけでもなかった。
そうなった理由の、心当たりも────
「……地上の生活に、慣れてきたのかもしれません。今更にして、ですけど」
とっさに頭に浮かんだ、それっぽい答えを返しておく。思った以上にさらりと出たその言葉も、以前ならあからさまにおかしな声色になっていたかもしれない。
ふふ、と笑って姫の手が、また私の頭を撫でる。
「最近、外に出かけることも多いもんね。友達も結構できたみたいだし」
うーん、あんまり友達と認めたくないやつもいるんですけど。でも、それなりに仲良くおしゃべりできる相手は、確かに増えたと思う。
「私も、もっと外を歩いて、地上の社交を楽しみたいんだけどなぁ。永琳ったら変な虫がどうのこうのってうるさくて。……あ、これ秘密にしといてね」
ころころと悪戯っぽい笑い声を上げる。
「はーい。でも、お師匠様は地獄耳ですから。聞こえちゃってたら知りませんよ」
そんな砕けた会話の中で、なんだかいつもより力が抜けて、姫の膝の上でくつろげているような気分になっていた私だった。
が。
「妹紅とはよく会うの?」
「えっ?」
突然のその名前に、心臓が跳ねる。
もちろんそれは、外で顔を合わせることがあるか、という意味だと、すぐに気づいたけど。
「……そう、ですね、結構会いますよ。行商の行き帰りとか、散歩のときとか」
だけどその動揺が、姫に伝わってしまったんじゃないかと更に動揺を呼んで、早鐘はしばらく収まってくれなかった。
「竹林で? 襲われたりしてない?」
「ええ、もちろん。こないだの異変でちょっとやりあって、それっきりです」
すいません。別の意味で襲われました。というか自分から襲われに行ってます。
なんて、とてもじゃないけど言えない事を、ふわふわ揺らされる頭の中で思う。
「あいつも、なんだかずいぶん丸くなっちゃった。と言っても、ここの宴には相変わらずさっぱり来ないけど。あなたからも誘ってみてくれる?」
わかりました、と返事をして、少し経ってから、その違和感に気づく。
あなたから
……私以外の誰かにも、それを頼んだ? でも、兎は妹紅に寄りつかない。じゃあてゐに? あるいは他の、たとえば稀神様とかに? ……どっちも、ちょっと考えにくい。
師匠に? あるいは姫が自分で? でも二人とも、特に姫はここから出ない……師匠に出してもらえない。そして妹紅がここに襲撃という名のじゃれあいをしにきたときも、そういうやりとりをしてたことはない……と思う。
だとしたら、私の知らないところで、妹紅がこの屋敷にやってきている?
あるいは、逆に姫が……そうだ、さっきだって
そんな考えを察したのか、そうでないのか。
耳に唇を近づけて、これも永琳には内緒ね、と囁いた姫の声は、きっとその推測が正しいことを示していて、そして私は自分の上に積み増された新たな秘密の後ろめたさと共に、なにか薄ぼんやりとした不安を抱えたまま、やっぱりただ、はい、と返事をするほかはなかった。
◆ ◆ ◆
「最近、なんだか丸くなったねぇ」
ああ、言われた。ついに言われてしまった。いちばん言われたくなかったこいつにも。
診療もない昼下がり。散歩に行こうと屋敷を出たとたん、こいつがぴょんと門から飛び降りてきて、どこ行くの、やら、近頃よく出かけるね、やら質問を浴びせたあげくの言葉がこれだ。
「そうかもね。変わってくもんでしょ、誰だって」
竹林を歩む足を速めつつ、ひとまずそう返しておく。変に否定するのも不自然だし、面倒だ。
「そうそう、そういうとこ。前ならとりあえず否定して、お前に何がわかる、みたいな態度だったのにさ。それも、ここひと月ばかりで、急にだ」
うざがられてるのなど承知の上で、ぴょんこぴょんこと後ろをついてくる。きっとあのにやにや顔でだろう。私は溜息をつきながら、ぶつかりそうになった竹を半身にかわすついでに、散歩のルートを微妙に変えた。穏密しても、消えた方向がそのまんまなのは、流石にまずい。
「人が急に変わる理由はいくつかあるよね。重大な事件が起きた。環境が大きく変わった。でも、鈴仙の場合はそういうのじゃなさそうだ。とすれば」
ぴょーんと大きく跳ねた体が、頭上を飛び越え、私の真ん前へくるくる回って着地して、予想したとおりのその顔が、びしりと指を一本立てる。
「ずばり、誰かいい人ができたね?」
……当然、そういう結論になるんだろうな。えいちくしょう。
「……憶測をめぐらすのは勝手だけど。でも、そんな根も葉もない話、言いふらすのはやめてよね」
いっそ蹴り飛ばしてやりたくなるのをぐっと抑えて、また足の向く先を変え、横をすり抜け人里の方向へ進む。ここはいったん竹林を出たほうがよさそうだ。
「根も葉もないときたか。まあ確かにね、実際のところ、あんたがどこに行ってるのかは、さっぱりわかんなかったんだよね。ブラブラ散歩してるだけ、と言われたら否定しようがない」
やっぱり何度か私をつけていたらしい。念のためにと警戒しといて大正解だった。
「鈴仙が本気になると、流石に私でも追跡できないからねぇ。でもさ、たかが散歩のはずなのに、本気で行方をくらまそうとするってことは、つまりそういうことだよねぇ?」
「うっ……」
心に多少の余裕ができたといっても、もちろん隠し事が得意になるわけじゃなかった。それでも流石にまだ、そこは盲点になっているようだけど。でも、そのうち目が向かないとも限らない。そう思うと余裕もどんどん目減りして、替わりに出てくる焦りと不安で、ますます足が速くなる。
「うーん、いいねぇ。若いってのはいい。いや私もまだまだ若いけど」
「べっ……つに、そういうアレじゃないし! ちょっといろいろ、悩みとか聞いてもらってるだけ! だいたい、そんないいもんでもないでしょ、色恋なんて!」
せっかく丸くなったはずの言葉が、こいつのしつこい追及で、また元の木阿弥にとんがってくる。なにが幸運の兎だ、この疫病神め。
「いやいや、恋というのはいいものだよ。人生に潤いと喜びを与えてくれる。たとえ片思いでもね」
うんうん、と頷く気配がした後に、がしりと腰に腕が回って、私は上体をつんのめらせた。
「ちょっ!? 何すんの、離せ!」
「それで、相手は誰なのさ? ほら言ってみ? ホラホラ」
「あーもーうるさいっ! 言うかバカッ!」
けけけ、と笑いながらまとわりついてくる地兎を引き剥がし、穏形も使って逃げ出す私の胸は、秘密がバレる不安とは違う思いで、ちくりちくりと痛んでいた。
たぶん私に向けて言われたのではないはずの、その一言が、刺さって抜けなかったからだ。
◆ ◆ ◆
何度も止まり激しく乱れた呼吸と、血を燃やさんばかりに回転していた心臓とが、ゆっくり落ち着いてくる時間。
そっと髪を梳くように、頭を撫でられる感触が、ゆらりゆらりと私を揺らす。
地上に来てからは、長らく姫にだけ許していた行為。そして、その姫の手とも、月で感じた手とも違う、直接指が頭の中に滑りこんでくるような、そんな錯覚すらする妹紅の手つき。
まぶた自身に任せるように、じんわり開いたすぐ目の前に、私の隣に寝転がる、妹紅の優しい笑顔があった。
ほんのりと何か言いたそうな、その眼差しを見ていたら、
「何か言いたそう」
こっちのセリフを、そのまま先に言われた。
「……妹紅が、何か言いたそうだなって、思ってただけ」
「あ、私? いや、大したことじゃないから」
くすくす笑って、私の髪をくるくる指先でいじる。
「気になるから、言ってよ」
「そんなに声、我慢しなくてもいいんじゃない? って」
聞かなきゃよかった。いや、いくら兎が近づかないといっても、もしも迷い人とか他の妖怪とか、それこそてゐとかに聞かれたらまずいから。単に恥ずかしいとか、そういうことじゃなく。
……本当に何の心配も恥じらいもなく、獣のように乱れてみたら、もっと気持ちいいのかなぁ、なんてふと思ったせいで、だんだん醒めてきていたはずの顔が、また少しだけ火照ってしまう。
あれから私は、結構な頻度でこの小屋を訪れては、妹紅と肌を重ねていた。
姫からお呼びのかからない夜、時にはこうして昼間から。どこかで宴会などある日には、ほどほどのところで抜け出して、そのままここまで飛んできたりと。
有体に言えば、すっかりハマってしまっていたのだ。このひどく刺激的で、果てなく甘い関係に。
最初のうちこそ妙な意地を張って、今日は私がする番、などと構えていたのだけど、いやがおうにもナマの自分をさらけだす中で、今までずっと誰かに奉仕する立場にあって、それが自然だと思っていた私が実は、ひたすらされるほうが好きだったということを自覚させられ、そして妹紅はされるよりもするほうが好きなんだということもわかってきて、自然とそういう形に落ち着いていた。たまに私からすることもあるから、完全に一方的ではないけれど。
……いや、別に必ずヤッてるというわけじゃない。あまり時間がないときとか、ちょっとそんな気分じゃない日なんかは、普通におしゃべりをして帰るだけ。
そう、ただ私はあくまでも、あの夜こいつに言われたとおり、日々に溜まった心身の凝りを、ほぐしてもらいに来ているだけだから────
「……丸くなった、って言われちゃった」
「誰に?」
「てゐに。あと姫にも」
妹紅は、うん、と何か納得したような顔を少し傾けて、私を検分するみたいに見る。
「私から見てもそう思うくらいだから、そりゃあいつらは気づくだろうね」
「やだなぁ」
「いいじゃん。かわいくなって悪いことなんかないよ。ほかの連中とも、あんまり衝突しなくなったでしょ?」
おっしゃる通り。ふと外で出合った弾みに彼女らから飛んでくる、言葉の奇妙に出っ張った部分が、それまで思っていたような私を傷つけるための棘ではなくて、そこを掴んで投げ返すための取っ手なのだと気づいてから、私もその地上流の──幻想郷流の、だろうか──キャッチボールを楽しめるようになっていた。……まだまだ年季の差があって、今ひとつ不器用な投げ方だけど、それでも。
「……うん。でも、そんなかわいくなったつもりはないから」
「なってるなってる。その顔がもうかわいい」
「うー」
これも以前なら、うっさい、とか、大きなお世話、とか返していたんだろうな。
やっぱり、私は変えられてしまったのだろう。今も私のかたちを整えるみたいに、髪に肌に触れる妹紅の手によって。……いや、変えてもらった、と言うべきなのかもしれない。そのことについては少しばかり、感謝したいとも思ってるんだから。
……心の中では、だけど。面と向かって言うのは、恥ずかしすぎて無理だ。今はまだ。
そういえば、その類のことを師匠からは言われてないな、とふと思う。
気づいてないということは絶対にないはずだけど、多分わざわざ言うまでもないと思っているんだろう。時折なんとなく、ちょっと何かを言いたげな雰囲気だけは感じるけれど。
なんならもう、相手が妹紅であることも、あの人なら気づいているかもしれない。それでも何も言わないのなら、黙認されていると解釈していいのかな。そんな風に考えながら、もう一つ思い出したことを聞いてみる。
「あんたさ、うちの宴に来る気はないの?」
「うーん……行こうかと思うときもあるけどね。でもやっぱりあそこへ近づくと、喧嘩の気分になっちゃうんだよなぁ」
ころんころんと頭を転がし、苦笑ぎみに笑う。さらりと肩から流れた髪が、白い裸の胸元に落ちた。そこに手を伸ばし、彼女が私にしているように指を絡め、ついでにその肌にも指を這わせて、それからつんと突っついてやる。
「あんたこそ、もっと丸くなったほうがいいんじゃないの? その喧嘩の相手からも誘われてるのにさ」
「ん? あれ? 輝夜から聞いた?」
ぱちくりと
「聞いてない。やっぱり会ってたんだ」
「……おっと、やられた。んー、会ってる、というのは少し違うかもだけど、ね」
そうはぐらかしつつ、そのくせ特に後ろめたい所もなさそうな妹紅は、けれどこれ以上、その中身を語る気はないようだった。
そんな彼女の態度に、まあ、だいたい予想はつくし、と心の中を洗い流す。
だけどやっぱり、流しきれない棘がすみっこに引っかかっていて、そのかすかな痛みを意識の外へ追いやろうと、私はまた彼女の胸元を、ゆっくり円を描くように指先で撫で、ほんのりとそれを催促した。
「……まだ戻らなくていいの?」
「うん……もう少し。あんたがいいなら」
「私はどうせ自由人さ」
「暇人でしょ?」
「そうとも言う」
おどけながら手を頭から頬へ、そして肩へと降ろし、少しだけ私を引き寄せる。
微笑むその顔と、涼やかに澄んだ瞳。
柔らかな唇と、そこからこぼれる言葉。
そして、私に触れる手と肌のぬくもり、それらの全てを今、何物にも代えがたいものに感じてしまう。
ああ、ちょろいなぁ、と思う。
永遠亭を抜け出して、こうして妹紅の手に、唇にほぐされ、癒されている中で、いつしかそこに、気持ちよさでも、感謝でも、居心地のよさでもない、それがしっかりと居座ってしまっていて。
だから、私は。
「……ねえ、妹紅」
「ん? なに?」
優しく笑って聞き返す、目の前にある顔に向かって、私は────
「なんでもない」
今日もまた、本当に言いたい言葉を、飲みこんだ。
短い、ほんの短い、簡単なことば。
それを言ったら、何かがもう少し変わるかもしれない言葉。
そして、もしかしたら、すべてが終わってしまうかもしれない言葉。
どちらであろうと、私とこいつの関係を決定づける、その一言が、どうしても言いたくて、言えなくて。
きっともう、私が言おうとしている言葉なんて、とっくに察しているはずの、それでも何も言わずに私を抱く妹紅の本当の気持ちが、どこにあるのか、知りたくて、それと同じくらい、知りたくなくて。
そうやって、薄々その真実を察しながらも目をそらし、自分で自分をしめつけている、自分自身のこの気持ちが、本当の本当に心からの想いなのかすらも、情けないほど未熟な私には、自信が持てなくて────
「鈴仙」
だから、今日も私は、その脳をとろかす呼びかけと、体を抱き寄せる暖かい腕に、黙って自分を預けるしかできなかった。
この人は、永遠。
決して途切れることなく、無限の彼方へと波打ち続ける三角関数。
きっと、それと重なることができるのは、同じ無限の長さを持つ波だけで、私はただ、その波の上に存在したというだけの、単なる点にすぎないのだろう。
それでも、もしかしたらそれが、その波にとっての何かの特異点であるかもしれない、あってほしい、そう願いながら、彼女の名を何度も呼び返しながら、彼女に強く強くしがみつき、私が今、この一瞬にどれだけ振動しているかを伝えながら、それでも私は、その真偽を証明する勇気を持てない、どうしようもない意気地なしだった。