※この作品はR-18です。

傷跡   作:氷室雪美

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五 傷跡


 

  結局、それを言えないまま、私たちの関係は続いた。

 

  梅雨を過ぎ、盛夏となって、ちょっと大きな異変が片付き、そろそろ秋の気配もするかという頃になっても、私はそれを保留し続けていた。だから、その関係も変わらなかった────色々と慣れて、遠慮がなくなったことは、たくさんあるけれど。

 

  もう本当に、このままずっと、私以外の誰か、あるいは何かによって、二人の秘密が壊されるまで、このぬるくて甘い水に浮かんでいてもいいんじゃないか。そんな風に思うようにもなっていた。

 

 

 

  そんなある日のことだった。

 

  いつものように、薬の行商に出かける日。

  そして、妹紅の小屋に寄ると決めていた日の朝。

 

  荷物をチェックし、何かお菓子でも買っていこうかな、などとほんのり浮かれ気分で、少し多めの小遣いを財布に入れた私の背後から、鈴が転がるような声がした。

 

「イナバ」

 

  振り向いた先には、声でわかっていたとおり、姫が立っていた。

 

「はい、なんでしょう?」

 

  お使いでも命じられるだろうか。そう思いながらその笑顔を見つめ、次の言葉を待った私の頭に、それが刺さった。

 

 

  イナバ?

 

 

  そうだ。確かに姫は私をそう呼んだ────呼んでいた。昔は。

  他のイナバたちと区別せず。

 

  でも、今は、ちゃんと、

 

「鈴仙がね」

 

  そう、ちゃんと鈴仙と名前で

 

 

 

  鈴仙がね?

 

 

 

「最近、夜毎どこかへ出かけているみたいなんだけど」

 

 

  腹の底で、なにかがぐにゃりと蠢いた。

 

 

「どこに行っているのか、知らない?」

 

 

 

 

 

  脳髄が凍る。

 

  体の芯が、冷えていく。

 

  反対に身の表面は、沸き立つように熱くなり、そのねっとりとした黒い水が、ざわざわ、ぞくぞくと、肉を、皮を震わせながら、全身に溢れだしてくる。

  眼球のまわりが、じりじりと痛い。

 

  棘の生えた棒で心臓を叩かれる音が、耳の奥に小さく、すぐに大きく響きはじめ、やがて聞き取りがたい雑音となって、私の周囲を覆っていく。

 

 

  姫は、ただにこにこと笑って、私の前に立っている。

 

  その姿はいつもと変わらず、一片の曇りもなく麗しく、笑みは優しく、穏やかで。

 

  だけど、目が。

 

  大きく美しい、その黒い瞳が。

 

  あの、すべてを死に誘う亡霊のような、底知れない闇の色に見えた。

 

 

 

「知りません」

 

  その時の私の頭には、一体なんて答えるべきだろうか、なんて姑息な考えを巡らす余地も、何もなかったように思う。

 

  尻の下から、顎の先まで、ぐらぐらがたがたと揺れる私の中身が、互いにぶつかりあい、弾かれあい、砕けて乱雑に跳ね返りあったあげくに、はずみで口から飛び出した言葉が、それだっただけだ。

 

  実際の発音は、

 

  っひししぃりましぇンッ

 

  みたいなものだった気がする。

 

 

 

「そう」

 

  それだけ言って、まったく変わらぬ笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私に背を向け、姫は部屋を出ていった。

 

 

 

  さっきから腹の中でぐるぐる暴れまわっている何かが、いよいよ口から這い出してこようとするのを、歯をくいしばって抑えつけながら、私はトイレに駆けこんだ。

 

  下着が、ぐっしょりと濡れていた。

  それを恥ずかしいとか、情けないとか思う余裕すら、私にはなかった。

 

  ただ、この身のうちに渦巻く穢れが、頭蓋の底を突き破って脳を汚染する前に、その全てを汁として、あるいは音として、顔の穴という穴から搾り出そうと必死だった。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 

 

  抜け殻のように、あるいは死人のように、私は数日を過ごした。

 

  もしかしたら、数十日か、数ヶ月だったかもしれない。そんなこともよくわからないまま、ただ後悔と喪失感に震えながら、私は独り生きていた。

 

 

  毎夜、姫は私を膝に誘った。

 

  何も言えず、逆らえもせず、ただその上で固まっている私の頭を、やはり何も言わずに姫は撫でつづけた。

  お前の主人は私だ────と、じっくり刷りこもうとしているみたいな、その優しくて温かい手が、だからとても恐ろしくて、そこから開放されてもなお、朝の光がわずかに表面を融かしてくれるまで、凍った兎は布団の上で、じっと転がっているしかできなかった。

 

 

  てゐは最初のころ、柄にもなく心配しているような顔で、幾度か私に声をかけてきた。一方で、それに返事もせずに背を向け逃げだす私を、あえて追いかけてくることはなかった。

 

  やがてその話しかけもなくなり、けれど屋敷のどこにいても、ちらりちらりと遠くにその姿があって、そうしてずっと私を見ているらしかった。その決して不快ではない視線から、けれどもふと離れたくなるたびに、私はふらふらと足の向くまま、狭いほうへ暗いほうへと、屋敷の中をさまよっていた。

 

 

  師匠は、やっぱり何も言わなかった。

 

  特に態度が変わるようなこともなかった。ただ、もう行商はしなくていい、と言われた。それが師匠の判断なのか、姫からの指示なのかはわからないけど、とにかく私は言われたとおりにした────つまり、私が永遠亭から出ることは、完全になくなった。日々の散歩や宴会になど、もちろん行けるはずもなく。

 

 

  そして妹紅も、ここにやってくることは、一度もなかった。

 

 

 

  わかっていたはずなのに。

  遅かれ早かれ、どんな形であれ、二人の関係が終わってしまうことは。

 

  それが、こんな最悪の形になってしまったのはきっと、その真理の苦しさから目をそらし続け、ありえない夢想に酔っていた私のせいなのだ。

 

  だから、この結果を受け入れるしかない。そして忘れるしかないんだ。あの心地よさと、暖かさと、喜びと切なさに満ちた日々のすべてを────

 

 

  大丈夫だ。忘れられる。

  永遠に続く痛みなんてない。

  決して許されない罪なんてない。

 

  ほんの少しずつでも、この傷が癒え、過ちが過去へと遠ざかり、そしていつか何でもない笑い話として、姫と、みんなと、そして妹紅とも、普通に話せるときが来る。

 

  そう信じて私はその日まで、ただの一匹の兎になることを決めた。

 

 

  ────そのはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 

 

  静かな夜だった。

 

  風もない竹薮の片隅に、静寂が満ちていた。

 

  少し開けた高い梢の上から、顔を出した満月が、あたりを明るく照らしている、その下で。

 

 

「久しぶりだね、鈴仙ちゃん」

 

 

  後ろから抱きしめられ、カラカラに乾いた喉で、あえぐようにかすれた息を鳴らす私の耳元で、その声が響いた。

 

 

  私はなぜ、ここにいるのか。

 

  どうして今、妹紅の腕の中で、身動きもできず、竹林に立ち尽くしているのか────

 

 

 

 

 

 

 

  あの庭師が悪いのだ。

 

 

  外部との一切の関係を、まったく突然に絶ってしまった私を心配して──そう、心配してだ。そこに悪意がないことはわかってる。彼女一人だけの心配ではないことも。そしてそれ自体は、とても嬉しくもあったのだ。でも、その心配の言葉と共に、強引に押し通してきたそれは、やっぱりとんでもなく大きなお世話だった。

 

  ちょっと顔を見せるだけ、すぐ戻ります。そんなうわずった言葉を師匠に託した私を、彼女は引きずるようにして、神社の宴会に連れ出した。

 

 

  いつもの面々の多くが、私のことを心配していた。

 

  勘のよさそうな、あるいは特に長く生きていそうな者たちは、おおよその事情を察しているようだった。それ以外のうちの何人かは、なんとかその事情を私から聞き出そうと、いくつもの質問をぶつけてきた。そのいくつかをはぐらかし、いくつかは明確に回答を拒否して、それでも私は皆に礼を言い、何も入りそうにない胃にほんの少しばかりの酒を流しこんだあと、大丈夫だから、心配しないで、という言葉と作り笑いを残して、早々に宴を後にした。

 

 

 

  決して捕まってはいけない相手に、当然のように捕まってしまったのは、その帰り道だった。

 

 

 

 

 

 

 

「離して」

 

  何秒かのあと、ようやくのことで震え声を絞り出した私の体を、がっしりと捕まえている二本の腕は、しかしまったく緩む気配がなかった。

 

「お願い、離して」

 

  もう一度、繰りかえす。それでもやはり解けない腕の主が返してきた言葉は、了解でも、拒否でもなかった。

 

 

「輝夜にバレた?」

 

 

  妹紅はわかってる。知っている。当然だ。ちょっと考えれば、すぐにわかること。

 

  すべてわかっていて今、あえてそれを問い、そして私を捕まえ続けている。

 

 

「……わかってるなら、離して!」

 

  そんな彼女に、私はなお、それを繰りかえすしかできない。

  離してくれないと、わかっていながら。

 

「いいじゃん、別に」

 

  いいわけがない。何も良くない。

 

「輝夜がどう思ったって、知ったことじゃない」

 

  駄目だ。無理だ。あんたはよくても、私には。

 

  私は永遠亭の兎なのだから。

 

 

「鈴仙」

 

 

  呼ばないで。

  私を呼ばないで。

  ことここに至ってすら、心臓と脳を甘く揉みほぐす、その麻薬のような声で、私の名を。

 

「鈴仙は、もう私としたくないの?」

 

  やめて。聞かないで。

  答えられない質問をしないで。お願いだから。

 

  そして、動かないで。

  動くな、私の喉。私の口。私の舌。

 

「妹紅は」

 

  やめろ。駄目だ。

  それを聞いては駄目。

 

「妹紅は、私を、抱きたいの?」

 

「うん」

 

 

  ……妹紅が、私を求めている。

 

  永遠の存在が、一瞬にすぎない私を求めて、抱きしめている。

 

  妹紅は、私を────

 

 

  でも、駄目だ。

 

  もう駄目だ。終わったのだ。終わらせなければいけないのだ、この関係を。

 

  私は永遠亭に戻らなければならない。絶対に。

 

  そう、絶対に……。

 

 

  ……なのに。

 

 

  どうして、私は動けないのだろう。

 

  どうして、今すぐ逃げ出さないのだろう。

 

  どうして、振りほどこうとすることすら、できないのだろう。

 

 

  どうして?

 

  ────そんなの、わかってるくせに。

 

 

  だいたい、どうして途中で宴会から抜けた?

  あとで師匠に叱られようが、前後不覚になるまで呑んで、朝まで神社でつぶれていればよかったのに。

 

  あるいはそもそも最初から、肩が抜けそうなほど腕を引っ張られようと、彼女を殴り飛ばしてでも、柱にかじりついてでも断固として、永遠亭から出なければよかったのに。

 

  そして、そのどちらもができなかったとしても────この竹林を駆け抜ける間、全力で隠密していれば、それで済んだはずなのに。

 

  断れなくて? うっかり? 空きっ腹に入れた酒のせい?

  ありえない。馬鹿でもわかる、幼稚すぎる嘘。

 

 

  こうなることを、望んでたくせに。

 

  このまま、私を抱きしめたまま、彼女の小屋へ引きずりこんで、竹林じゅうに響くほど鳴き狂わせてほしいと、そう願っているくせに。

  いやむしろ、もっともっと遠い、ここではないどこか、誰も知らない彼方へと、さらって行ってほしいとすら思っているくせに。

 

  そして、そこまでわかっていながらなお、自分からそこへ落ちていくこともできないなんて、本当にどうしようもなく、私は────

 

 

 

「離れなさい」

 

  月から声が降ってきた。

 

 

「────!!」

「おっと」

 

  喉に空気のかたまりを詰まらせた私が、そして妹紅が仰いだ夜空に、人型の影が浮いていた。

 

  静やかに、月光の上を滑り降りるように、それが私の三歩前へと降り立つ。

 

「輝夜……様……」

 

「帰りましょう、鈴仙。さあ」

 

  金の真砂(まさご)が流れるような声で、にっこりと笑って、右手を差し出す。

 

  私には、その口元しか見えなかった。いや、見なかった。見たくなかった。視線をその一点に集中し、それ以外のすべて、その口元の上にあるはずの黒い宝石を、ピントの外へ、眼球の乾きに歪んだノイズの中へ、必死で押し隠していた。

 

「鈴仙ちゃんは、帰りたくないってさ」

 

「……さあ、鈴仙」

 

  からかうような妹紅の言葉を無視して、姫はなお私に呼びかける。

 

「無理な要求で人を困らせるのが、本当に好きだなぁ、お前は」

 

  その言葉に続く笑い声が、響くか響かないかの一瞬。

 

  妹紅の足が地面を蹴り、私ごと真横へ飛ぶのと同時に、何かがそのすぐ脇で閃いた。

 

  向き直った、いや後ろから抱かれたまま向き直らされた先、たった今まで私と妹紅がいた場所には、瞬間移動したように姫が立っていて、そして二、三片の白い布が、ぱさりと地面の上に落ちた。

  一辺だけが異様に滑らかに断ち切られた、妹紅の袖の切れ端だった。

 

  依然、流麗な弧を描いたままのその唇が、ゆっくりとこちらを向き、そしてまた言葉を紡ぐ。

 

「もう一度だけ言う。鈴仙を離しなさい」

 

「嫌だと言ったら?」

 

  直後。

  姫の手元が眩(まばゆ)く光ったように見えた瞬間、私の視界は斜めに回転し、爆裂音と共に満月がそこを横切って、それから背中に大きな何かが叩きつけられた。

 

  妹紅が私を突き飛ばしたのだと分かったのは、地面に倒れた半秒後だった。

 

「危ないなぁ。鈴仙ちゃんに当たっちゃったら、どうするんだ?」

 

  あわてて咳きこみながら上半身を起こして見た先で、服のあちこちを焦がした妹紅の右腕が、ボロボロの炭と化していた。

  真っ白い灰になった、おそらく呪符だったものが、その指先ごと崩れて落ちると共に、炭が更にひび割れ、砕けながら燃え散った後には、いつもどおりの妹紅の腕がついていた。

 

「流石に、そこまで愚かじゃないと思ってるもの」

 

  眉すら動かさず、うっすら笑ってそう言う、姫の横顔。

 

「だけど性根は昔から、なんにも変わっていないよね。他人のものを掠め取る盗人。本当に手癖が悪いったら」

 

「三つ子の魂百までって言うしな。でもいつだって、本当に欲しいものはそれじゃない」

 

  もう一つの横顔が、こちらはにやりと強く笑って一歩、鼻を突き出すように前へ出た。

 

「なあ輝夜。お前、羨ましいんじゃないのか?」

 

「羨ましい? 誰が?」

 

「鈴仙がさ」

 

 

  姫の顔から、微笑が消えた。

 

  凪いでいたはずの風が、ざわりと梢を揺らす。

 

 

「……何故?」

 

「鈴仙が私に抱かれたことが、羨ましいんじゃないかって言ってるんだよ」

 

 

  永い沈黙が落ちた。

 

  それが本当に永かったのかどうかは、わからない。

  ただ、私の胸の奥で、そして頭の中で徐々に大きくなった、鈍く不気味な音が、数え切れないほど繰り返されて、夏の月夜を埋め尽くしたように、私には思えた。

 

 

「頭がおかしくなったの?」

 

「おかしくなってないとでも思ってたのか?」

 

  ややあって低く響いた姫の言葉に、妹紅は天まで届けとばかり、高らかに笑った。

 

「脱げよ、輝夜」

 

「……何を言っているの?」

 

「私に抱いて欲しいなら、この場で服を脱いで、裸になって、抱いてくださいって私を誘っ」

 

  月をも欠きそうな閃光と共に、妹紅の上半身が吹き飛んだ。

 

  腰から下だけになったその残骸が、すぐさま燃え上がる。

  炎は一気に火勢を増して、竹の梢を焦がす火柱が、星空にまで吹き上がる。

 

「あー……痛(い)って……」

 

  炎の中から、声がした。

 

「ああ、痛い、痛かったな……久しぶり、だったなぁ」

 

  生まれ変わった不死鳥が、そこに立っていた。

  熱風に舞い上がる呪符が体を覆い、その服までをも再生させる。

 

「……最近、少し心地よすぎた。のんびりとぬるま湯に揺られて、崩れかけていた。……私が、私でなくなりかけていた」

 

  炎を纏って姫を見据える妹紅は、私がいつか見たことのある顔をしていた。

  もうずっと前、姫と殺し合いをしていたときの、憎悪と、狂気と、歓喜に満ちた顔。

 

「ああ、痛い、痛いなぁ。熱いなぁ……憎いなぁ。

 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い」

 

  呪文のように繰りかえされる言葉を、黙って聞いている姫は、私が見たことのない顔をしていた。

  感情の何もかもを失ったような、白く美しく、滑らかな石の仮面。

 

「なあ、輝夜」

 

  だけど、その、妹紅の一言で。

 

「私が、なんでお前を憎むのか、教えてやろうか」

 

  白磁の仮面に、ひびが入ったように見えた。

 

「……知ってる」

 

「そうか? 思い違いかも知れないぞ。その理由はな」

 

「言わなくていい」

 

「単純な話なんだ。私は」

 

「言うなっっっ!!」

 

 

  その夜を裂く悲痛な叫びも、私が始めて聞く声だった。

 

 

  いっそうに吊り上がった妹紅の口が、答えを吐いた。

 

「私は、お前が憎いから、憎いのさ」

 

 

 

  静かだった。

 

  虫の鳴く音。風に梢の揺れる音。妹紅のまわりの草が竹が、ちりちりと焦げて燃える音。

  そして何より、私の心臓の音。

  それらの音が、まるで本当は存在していないみたいな、凍りついた夜の静寂が、ここに満ちていた。

 

「憎い。私はお前が憎い。藤原妹紅は、蓬莱山輝夜が憎い。ただそれだけだ。他はもう、ぜんぶ燃えてしまって、何もない。私という現象に刻みこまれた、再生し続ける永劫の定理」

 

  場違いなほどに浪々と、陽気にさえ聞こえる妹紅の声も、まるでどこか別の世界から、この夜に響いてきているようだった。

 

「私は、私が私であるために、憎み続ける。いつか永琳の言う因果の果て、世界のすべてが空(くう)に還るその時まで、お前を」

 

 

  そんな妹紅を見つめる姫は、また、私が見たことのない顔をしていた。

 

  頬に、涙が流れていた。

 

  嗚咽のひとかけらもなく、眉も唇も動かすことなく、ただ涙を流す姫の姿は、やはり世界のあらゆる美を集めたように美しくて、だからそれは、まったく同じだけ悲しく見えた。

 

「安心しろよ、輝夜」

 

  なおも言葉を続ける妹紅の顔は、さっきから変わらず、嬉しそうに憎しみをたたえた鬼女のそれだった。

 

「私は変わらない。お前も変わらない。

 私とお前の関係は、絶対に変わらない。

 誰にも変えることはできない……だから安心して、絶望しろ。私のように」

 

  だけど、やはり私の目には、妹紅も泣いているように見えた。

 

 

 

  やがて、止まることなく涙を流す姫の体が、ゆっくりと後ろを向いて。

 

「ごめんね、鈴仙」

 

  永遠亭のほうへと去ってゆく、その間際に聞こえた謝意が、いったい何についてのものだったのか、私にはよくわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

  燃え盛っていた炎は、いつしか消えていた。

 

  ただ、今更にひどく鼻をつく焦げ臭さだけが、その憎悪の激しさの名残として、静寂の中に漂っていた。

 

 

  満月の下に浮かぶ妹紅のシルエットは、ぼんやりとしてよく見えなかったけれど、たぶんいつもの、なんでもないような表情のその横顔が、ふと口を開いた。

 

「うち、来る?」

 

「行かない」

 

「そっか。じゃ、おやすみ」

 

  その声も、本当にまったくいつもと変わらぬ妹紅の声だった。

 

 

「一つだけ、答えて」

 

  背を向け、去って行こうとする彼女を、そう言って私は呼び止めた。

 

「あんたは、姫を挑発するために、私を抱いたの?」

 

 

 

  少し長い沈黙の後、背を向けたまま彼女は答えた。

 

「……ああ、そうだな。そんな目論見も、少しはあったかもしれない……。いや、あったよ、確かに。最初に君にちょっかいを掛けた動機は、間違いなくそれだったと思う」

 

  誰か知らない人が、知らない誰かに語りかけるような、淡々とした声が、星空の下に響く。

 

「さっき言ったとおりさ。あの暖かい陽だまりの中で干され、乾いて崩れてゆく日々に耐えられなくなって、それをぶち壊し、再生するために、私は自分だけの勝手な都合で、君のすべてを利用した」

 

  満月の光を見上げながら、ポケットに両手をつっこんで、微動だにせず立つ背中は黒々として、その姿からも声からも、彼女の表情を伺い知ることはできなかった。

 

「そして同時に、確かに私は君に夢中になった。それも嘘じゃない。……信じるかどうかは、君次第だけど」

 

「だけど、あんたは」

 

  聞いたことのない汚くしわがれた声が、私の喉から響く。

 

「私を抱いている間すら、姫を憎んでいたんでしょ」

 

「ああ」

 

  全身の力を込めて地面を蹴り、月光の中に跳ね上がった私は、突き飛ばすように彼女を振り向かせながら、勢いのまま襟元を掴んで、後ろの竹にその背中を叩きつけた。

 

「鈴仙ちゃん?」

 

  呆けた顔でそう言って、私を見つめた瞳は、穏やかで、静かで、濁って、乾ききっていた。

 

「言ったよね。兎はこう見えて、執念深いって。喉笛を食いちぎることもあるって」

 

  左手で握りしめた襟の下、首元に右手の指を突っこんで、ありったけの力で引き降ろす。

  ぶちぶちと、布と糸と私の皮膚が切れる音がして、シャツのボタンが弾け飛んだ。

 

「あんたが、姫へのあてつけに私を抱いたっていうんなら。

 私も、あてつけにあんたを抱いてやる」

 

「誰への?」

 

  その問いには答えず、襟を掴んだまま足を払って、竹の葉の積もった地面の上に押し倒す。

 

「泣くなよ、鈴仙」

 

  深い虚無の瞳で私を見上げながら、あまりにも優しく、哀しい笑顔を浮かべた彼女の服を剥ぎ、私はその白い首筋に噛みついた。

 

 

 

 

 

  この人は、永遠。

 

  数限りなく交わりながらも、どこまでも重なり合うことはない、もう一つの波と、果てしなくもつれ合い続ける、憎しみの三角関数。

 

  私は一瞬。

 

  二つの波の無数の交点の、そのたった一箇所に、たまさか存在しただけの、何の意味もない座標。

 

  だけどもしも、決して途切れぬはずの波の、ただ一須臾(しゅゆ)にでも、切れ込みを入れることができたなら────

 

 

  その傷跡は、永遠になれるだろうか。

 

 


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