※この作品はR-18です。

続・続・月下香の檻 セックスバトルロワイヤル   作:シン之助

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漆黒の短剣に取り込まれた者は、夢や希望が全てかなった理想郷で目覚め、つらい現実世界を忘れていきながら、魂の全てを蝕まれていく・・・。ピアニストになる夢を抱いていた唯子は、漆黒の短剣内で19歳の時に戻って目を覚ます。暁年と出会う前・・・自殺したハズの初恋の人・葛城浩夢が生きている世界、断念したハズのピアノが続けられる世界・・・
 唯子の夢や希望の行方は?
 再び現実世界へ戻ることは?
 そして暁年との邂逅はあるのだろうか?
危うし悠年・・・危うし悠人・・・
【漆黒の短剣・・・実は「天元突破グレンラガン」の「多元宇宙迷宮」(さらに言うと元ネタの「太陽の王子」の「迷いの森」)と同じです。どうしてもやってみたかったネタです。ガブリエル・マリーの「金婚式」を聞きながらお読みください。割合と物悲しく聞こえます。https://www.youtube.com/watch?v=qcYE1XzuKII】


第48話 もう一つの世界1/5 しあわせの世界

---------登場人物---------

秋月 暁人:主人公

秋月 唯子:暁人の母(旧姓:住吉唯子←オリジナル設定)

秋月 暁年:暁人の父(M商事・開発部・課長←オリジナル設定)

葛城浩夢:ピアニスト・唯子の家庭教師(オリジナルキャラ)

-----------------------------

 唯子はふと目を覚ます。いつの間にかピアノの練習中にうたたねをしてしまったようだ。

 

「あれ?いつの間に・・・寝てしまった・・・」

 

 2か月後に控えた「ショパコン(ショパン国際ピアノコンクール)」アジア大会予備予選に向けた猛練習のため、冷房の効いたレッスン室に籠りっきりでいた事を思い出していた。

 

(早く今日のパートを仕上げないとまた葛城さんを失望させてしまう)

 

 葛城浩夢・・・そう思っただけで、唯子の胸が熱くなりはじめる。若くしてその才能を認められ、将来を嘱望された天才ピアニスト・・・。彼がショパコン優勝を果たす5年前に、会社の伝手で父親がレッスン講師を依頼していたのだ。それは偶然の産物で、父親に見る目が有ったという訳ではない。それから10年、唯子は9歳の時から葛城の指導を受けてきた。新進気鋭の葛城はショパコン優勝後に一気に知られるようになり、その美貌やスタイルの良さもあって、今やTV出演や雑誌取材が引く手数多(あまた)の著名人になっていた。リサイタルで海外公演に行くことも多く、もし今の段階でレッスンを申し込んでも、個人レッスンなど望むべくもなかったろう。実際、葛城の個人指導を望む者は多かったが、指導を受けているのは唯子だけだった。

 

(私は葛城先生に才能を認められているのかしら?それとも10年間続いている腐れ縁?)

 

 だが唯子はその恋心を、葛城に打ち明けたことはない。10歳も年が離れている音大の1年生など、葛城にとってはネンネの一人としか見てくれないのは当然だった。

 

(早く葛城先生に認められ・・・そして・・・)

 

 今や、唯子のピアノへの情熱は葛城浩夢の為だと言って過言ではなかった。その時ふとどこからともなくベートーヴェンの「テンペスト」が微かに聞こえてくる。

 

(中々良い演奏だわ。CDかしら・・・)

 

 と思っているとミスタッチが入った。一旦ミスタッチが入ると緊張の糸が途切れたように連続してミスが重なっていく。

 

(お隣の美代ちゃんかしら・・・。でも・・・美代ちゃんは趣味程度にやっているだけ。この感じはそんなお遊び程度ではない。それに・・・どこかで聞いたことがあるような・・・)

 

ピンポーン

 

 玄関のチャイムの音が階下から聞こえる。

 

「はーい」

 

 母親の声が玄関先で聞こえ、葛城先生が来たことを告げる。

 

「フレデリック・ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53」

 

 今日の葛城は急いでいるのか、挨拶もそこそこに唯子にショパコン・アジア予備予選の課題曲名を告げると、練習の成果を求めるように演奏を促す。唯子は心なしか葛城の表情がいつもより硬い気がしたが、言われるままにピアノの前に腰かけると、心を落ち着かせ、盤面を見つめる。目をつぶり、軽く深呼吸をした後、一気に力強いリズムを盤面にたたきつける。「英雄」と呼ばれるこの曲は超絶技巧が随所に入る難曲の上に、女性では難しいとされる力強い曲調、芯のあるしっかりした音が求められる。この曲を弾きこなすのに、どれほどの特訓をしてきたころだろう。

 

「弾く時に手首の位置が上下しないように、指だけで弾ききれ」

「利き手でない左手が弱い!そうだ・・・」

「筋力を弾き方でカバーしろ!無駄な動きはするな」

「クレッシェンドをしっかり」

 

 葛城の声が頭の中で何度も去来する。たった十数分間の演奏を終えただけでも、唯子は息切れが起こるほどだった。気が付くと、ゼーゼーと肩で息をしながら、唯子は体力のほとんどを使い果たしたような疲労感を感じていた。葛城から告げられる酷評を聞くのが恐ろしく、しばらく顔を上げることもできない。グラッと自分の回りが揺らめき、一瞬、強烈な眩暈を感じる。もう耐えられない・・そう当思った時・・・

 

パチパチパチ

 

 唯子のすぐ後ろから、拍手が聞こえた。葛城だった。厳しかったその目がやさしい微笑みに変っている。

 

「ブラボーッ」

 

 そう言って嬉しそうに唯子を見つめる。

 

「素晴らしい演奏だった。非の打ち所がない。アジア大会予選突破は間違いがないだろう」

 

 意外な葛城の誉め言葉に、唯子は嬉しさのあまり葛城に抱き着こうとして思いとどまる。

 

(もしここで、葛城先生に抱き着いて拒絶されてしまったら・・・。私は両方を失ってしまう。恋する人とピアノ・・・その両方を・・・・)

 

 その胸に飛び込む勇気がなかった。そして自分のひそかな恋心を悟られたくはなかった。あまりにも身分違い。ピアノ界の国際的なスターと学生・・・そして物心ついたときからの教師と教え子・・・。まさに月とスッポンだった。唯子はきつく胸の前で手を組み合わせただけで、讃辞に対する感謝のお礼を葛城に丁寧に返すけだった。その様子をニコニコと眺めていた葛城だったが、一瞬だけ寂しそうな一面が覗いたのを唯子は見逃さなかった。

 

「ショパコン本選出場も夢ではない。いや・・・優勝も夢ではない」

 

 そう言って、物といたげに唯子を見つめ続ける。端正な顔に掛かった前髪がはらりと落ちても、それを掻き上げる事すらしようとしない。

 

「君の仕上がりは完璧だ・・・もう・・・教えることは何もない」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 その言葉を聞いて、唯子は充実した達成感と共に一抹の寂しさを感じる。葛城の目の奥に宿る絶望を感じ取っていたのかもしれない。そして、それが意味するところの重大さに思い至り始める。

 

「そっ・・・それって・・・もう・・・会えないとうい事ですか?」

 

 そう言った途端、先ほど感じた強い眩暈を再び感じる。

 

(この言葉・・・覚えている・・・そんな気がする)

 

 そして・・・その言葉の真意に思い至る。

 

(葛城さん・・・限界を感じている・・・芸術家としての超えなければならない壁に悩んでいる)

 

 何で20歳にもならない自分がそんなことにまで思い至るのか不思議でならない。だが、なぜかすぐに察することができた。その目の奥に宿る、不思議な感情を・・・・。

 気恥ずかしさに駆られた唯子はレッスン室にかけられているカレンダーをフト顧みる。ショパコン予選まであと58日・・・・赤い罰点が何個もつけられたカレンダー・・・は無情に迫る時を示している。そして今日の日付に釘付けになる・・・・。

 

(9月14日・・・)

 

 何か重要な日付の様な気がする。その数字を見ると胸が締め付けられる様な痛みを感じる。でも思い出せない。訳も分からず、物問いた気な視線を返すだけだった。

 

トントン

 

 レッスン室をノックする音が聞こえ、母親が茶菓子を持って現れる。演奏が終わり、中休みになったことが分かったのだろう。

 

「葛城先生・・・お忙しい中を唯子のために有難うございます。仕上がりは如何ですか?」

「素晴らしいの一言です。コンクール本戦への出場はまず間違いないでしょう」

 

 手放しの先生の評価に母が満面の笑みを浮かべている。

 

「先生のおかげですわ・・・有難うございます。唯子、努力の甲斐があったわね」

 

 まるで本当に優勝した時のように、満面の笑みを浮かべている母親を見て、唯子は再び胸が熱くなるのを感じ始める。

 

(・・・・?)

 

 まるで懐かしいような、寂しいような不思議な感情・・・。

 

「せっかくお菓子まで用意していただいたのですが・・・今日はこれにて失礼させていただきます。少し急用ができまして・・・」

 

 そう言ってそそくさと立ち上がろうとする葛城の手を、唯子はいつの間にかつかんでいた。

 

「・・・・・」

 

 自分でも訳が分からず、唯子は葛城をつかんだ手を思わず見返してしまう。

 

「どうしたの?唯子?」

 

 母親が唯子の突然の行動に不思議そうに尋ねる。

 

(行かせてはいけない・・・何でだろう・・・このまま葛城さんの手を離したら、もう会えないような気がする)

「唯子君?」

 

 葛城も唯子の思わぬ行動に驚きを隠せないようだ。

 

「もう一曲だけ・・・先生・・・もう一曲だけ聞いていただけませんか?」

 

 そう言った途端、先ほど感じた2度の強い眩暈よりもさらに強烈に感じられる。周りの景色がぐらりと大きく揺れ、世界が歪み始める。まるで、世界が再構築されていくように・・・「シュレーディンガーの猫」が嘶(いなな)く・・・一瞬だけ、素粒子の声で・・・。そして何事もなかったように元に戻っている。私がよく知っている世界。何も変わらぬ悲惨な世界。

 

「コレ・・・何を言っているの唯子・・・葛城先生はお忙しい方なのよ。教えていただけるだけでも凄い事なんだから・・・」

 

 困ったような表情で、母親が唯子を叱る。しかし、唯子の目に涙が浮かんでいることに気が付き、思わず黙り込む。何でこんなことをしているのか自分でもさっぱりわからない。何で泣いているかさえ分からない。でも行かせてはいけない。

 

9月14日

 

 引き止めなければいけない。かすかに聞こえてくる「テンペスト」のせいかもしれない。先ほどから頭の中で響いているベートーヴェンの遺書・・・。

 

「いいでしょう。でも一曲だけだよ、唯子君」

 

 葛城はそう言って、立ち上がりかけた椅子に再び腰掛けると、唯子の演奏を促す。

 

「有難うございます。先生・・・・・」

 

 弾く曲は決まっている。テンペスト・・・先ほどから頭の中に響いている曲・・・。

 

(うまく弾きこなせるかしら・・・)

 

 呼吸を整え、鍵盤に向き合う。指先にあたる鍵盤の心地よい反発力を感じながら、唯子は一心にテンペストと向き合う。そして、頭の中で響いていた音と同じで音が響き始めることに気が付き始める。

 

(私の音?)

 

 何か胸がチクリと痛んだ気がする。懐かしいどこか悲しい音・・・。今までこんな風に弾いたことはない。なぜ懐かしいのだろう? しかし、とても心地よい。何より、葛城への熱い思いがそのまま指先に現れているような、心と身体がハーモニーを奏で上げていくのを感じる。そしてその理由に思い当たる。

 

(初めて人のために弾いている)

 

 今まで私は自分のために弾いていた。コンクールや賞のため・・・。でも今私は葛城浩夢の事を気にかけ、彼のためだけに、自分を忘れて弾いていた・・・・。その後は、ひたすら頭に響く音をなぞる様に、懐かしい、そして初めての音を紡いでいった。気が付くとノーミスで一気に「ベートーヴェン:ピアノソナタ第17番 ニ短調 作品31-2」を弾きあげていた。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 葛城浩夢が一言も発しない。打たれたようにその場にたたずみ、ほんの一言も発していない。ピアノを知らぬ母親でさえ、何かを感じ取ったようだ。両手で胸を押さえ、目を潤ませている。

 

「唯子ったら・・・母さん、何だかビックリしちゃったわ。凄い演奏・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 葛城がおもむろに立ち上がると唯子の肩をポンと叩く。唯子は最後の一音を弾き終わった時の姿勢のまま固まっていたのだ。

 

「もう少し、聞かせてもらおうか」

 

 ハッとして我に返った唯子は、やっと我に返っていた。こうして、葛城浩夢は帰ることなく、予定通りにレッスンが再開された。母親が邪魔をしないようにそっと部屋を後にする。その後、唯子は自分が何を弾き、何を教わったのかほとんど覚えていない。ただ生まれて初めて、葛城とのレッスンが楽しいものに思えていた。教師としてではなく、人間としての葛城浩夢に初めて触れたような気分になっていた。シュレーディンガーの猫の鳴き声が心の中に響いていた。

 レッスンが終わり、母親と一緒に玄関まで葛城を見送りに出ると、葛城にしては珍しくは唯子に近寄り、別れ際に握手をしてくれた。

 

「今夜のテンペストは素晴らしかった。あの感じを忘れないように」

 

 そう言いながら、駐車場に向かっていった。初めての握手に、顔を真っ赤に染めながら唯子は大きくうなずくと、葛城の乗ったBMW・Z4のテールランプが視界から見えなくなるまで見続けていた。帰り際に母親には見えないように手渡された紙片を握りしめながら・・・。

 

 ドキドキしながら自室に引き上げた唯子は、部屋に入るなり渡された紙片を食い入るよ言うに見つめる。

 

「9月19日 17時30分 八重洲会館 喫茶「オクターブ」」

 

とだけ走り書きされたその紙片は汗で湿っていた。どこからともなく猫の鳴き声が聞こえていた。

 

---------------------

 指定された時間の15分前に喫茶「オクターブ」に着くと、葛城浩夢はすでに一番奥の席に目立たぬように腰掛けていた。普段と違った目立たぬ服装に大きめのサングラス・・・お忍びを地で行ったような格好に、唯子すら気が付かずに通り過ぎるところだった。

 

「あのようなもので呼び出して申し訳なかったね・・・」

 

 そう言った葛城はいつもの自信にあふれている様子とは違い、どことなく怯えた表情になっていた。

 

「実は取材を一つすっぽかしたんだ」

 

 葛城はおしぼりと水を運んできたウェイトレスが立ち去るのを確認してからゆっくりと話し出す。サングラスの奥に隠れた表情は昨日よりも険しさが抜けているように感じられた。でも先生らしくない。

 

「どうされたんですか?先生・・・」

 

 急な置手紙、家族に内緒の待ち合わせ、普段と違った格好、サングラス・・・どれも紳士を絵にかいたような葛城らしくない。ましてや取材のドタキャンなど・・・・。

 

「実は・・・」

 

 だが、そう言いかけた葛城は唯子を見つめたまま言葉を飲み込んでしまう。

 

「いや・・・何でもない・・・それよりこんな場所では話しづらい事でね。少し付き合ってくれないかな・・・大丈夫、君の門限の10時までにはお家に送り届けるから」

 

 唯子は憧れの葛城から個人的なお誘いを受けても素直に喜ぶことが出来ないでいた。その戸惑いは今日の唯子の服装にも表れている。マキシ丈のワンピースはグレーの大人らしい上品なイメージを醸していたが、いつにもまして控えめで地味なものを選んでいた。でもこの服は・・・どこか重要な会合にも着ていったような気がする。

 

(昨日買ってきたばかりだというのに・・・)

 

 頭を振って邪念を振り払う。すぐ目の前に、憧れの人がいるのだから。その憧れの人が、唯子に求めを乞う様に見つめている。唯子は思わず頷き返していた。

 

(もっと嬉しい気分にならなければいけないのに・・・何で私は悲しいんだろう・・・)

 

 どこかで猫が鳴いたような気がした。葛城はウェイトレスが注文を取りに来る前に立ち上がると、唯子の返事も聞かずに喫茶店の出口に向かっていた。

 

 地下駐車場に止めてあったBMW・Z4のシートに納まって初めて、葛城はサングラスを外すと人心地が付いたようだ。

 

「どうされたんです・・先生?」

 

 唯子は思わず同じ質問をしていた。

 

「どこに行きたい?」

 

 葛城はその質問に答えず、無理に作ったような笑顔を唯子に向けていた。

 

「えっ?・・・」

 

 あまりに突然の質問に言葉を詰まらせていると、葛城が促すように唯子を見つめる。思わずいつもの癖で顔を斜めに傾け、人差し指を顎に付けて考える。その仕草がおかしかったのか、葛城の微笑みが自然なもの変化していく。

 

「そうですね・・・海が見たいです」

 

 葛城の自然な笑顔に誘われるようにそう言っていた。

 

「海か・・・良いね・・・よし、じゃあ江の島まで行ってみるか」

 

 葛城はそう答えるとZ4のエンジンを軽快にスタートさていた。

 

--------------

 暮れなずむ首都高は晩夏の火照りをやや残しつつも、オープンカーに乗っていても耐えられぬほど熱くはなかった。吹き込む風が快く、唯子はアップにまとめた長い髪が風に流されていくのをそのまま受けとめていた。

 首都高湾岸線下りから羽田線まで下り車線は混むこともなく、1時間弱で江の島海岸まで到達していた。車内での葛城はいつものように気さくな会話をしながら唯子を楽しませてくれた。音楽業界の近況や、海外リサイタルでの珍しい逸話・・・唯子にとってはどれも新鮮で、憧れの世界の話だった。江の島海岸に着いた頃には日はどっぷりと暮れ、海岸線は真っ暗になっていたが、磯から吹き込む風が心地よかった。

 

「磯の匂い・・・とてもいい香だわ・・・」

 

 唯子は風に流されるままにしていた髪をアップで止め直し、潮騒を聞きながら磯の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。

 

「コンサート前の大事な時間を僕に頂いた・・・有難う」

 

 海岸線の傍らに車を止めると、葛城は素直に唯子に詫びを入れるように頭を下げていた。

 

「そろそろ教えていただけますか?」

 

 唯子がそう言った時だった。「グゥー」とお腹の虫が鳴った。ちょうど夕食どき・・・。磯の香に誘われるようにお腹がすき始めていた。真っ赤になった唯子を尻目に、吹き出しそうになるのを何とかこらえながら葛城がスマホを取り出す。

 

「この辺にちょっとおしゃれなフレンチの店がある。特にシーフードは一品だ。伊勢海老の良いものがあればいいのだが・・・」

 

 唯子の質問には答えず、葛城はフレンチの店の予約を始める。

 

「葛城です。2席用意していただきたいんですが。良かった。あと10分で行けます」

 

 そう言うとスマホの電源を切ってニコリとほほ笑む。その少年のような顔に唯子も思わず引き込まれるように頷いていた。

 

-------------

 その店は「ちょっとおしゃれなフレンチ」とはいいがたい本格的なフランス料理店であった。テレビや雑誌で紹介されたことのある有名店なのは唯子にもすぐに分かった。

 

「あの私・・・こんな格好では・・・」

 

 気おくれする唯子に軽く微笑みかけながら、葛城は手をそっと取ると、スマートな身のこなしで店の入り口から着席まで優雅にエスコトートしてくれた。

 

(あの人とは大違い・・・)

 

 そう思ってクスリとほほ笑んだ唯子は、愕然として固まってしまう。

 

(あの人って?・・・)

 

 慣れた態度でウェイターに注文をする葛城を見ながら、唯子は言い知れぬ違和感と戦っていた。

 

(とても幸せなはずなのに・・・憧れの人と・・・お忍びのデート・・・まるで夢のようなのに)

 

 再び、猫の鳴き声がしたような気がした。

 

---------------

 運ばれてくる料理はどれも素晴らしいものだった。シーフードだけでなく、前菜からスープ、デザートに至るまで、都心にある3つ星店に全く引けを取らない。その味の芸術性に思わず引き込まれ、葛城への疑念も忘れて舌鼓を打っていた。食後のコーヒーが運ばれてくるまで・・・まるで心が求めるように・・・。

 

(素材重視で、控えめで、それでいて濃厚な味・・・)

 

 その様子を葛城が眩しそうに見つめている事に気が付く。その微笑みが唯子にはとても温かく感じられた。

 

(同じ・・・あの人と同じ・・・あき・・??)

 

 誰かの顔がちらついたように感じた。何か胸がチクチクとする・・・・。でも今は聞かなければいけないことがある。

 

「葛城さん・・・この前のレッスンから・・・。おかしいです。どうされたんですか?」

 

 知らなければ幸せでいられる事実。知ってしまえばつらくなる事実・・・でも・・・知らなければならない事実。私は数日後に20歳になる。大人なら知っていなければならない。聞かれたくなかった質問を聞かれた顔。そして答えを言わなければならない重要な質問に迫られた顔・・・せっかく温かみを取り戻した葛城先生の顔が曇り始める。聞いたばかりだというのに、酷い後悔が唯子を襲う。

 

(先に延ばせばよかった?・・・知る必要はなかった?・・・)

 

 その時、一組の老夫婦が二人のテーブルに近づいてくる。少しおどおどとした二人の表情は敬意に溢れている。

 

「葛城浩夢さんですよね。私たち夫婦は二人ともあなたの大ファンです。リサイタルには必ず行かさせて頂いています。大変失礼かと思いましたが、この日にあなたにお会いできたのは何かの縁(えにし)なのかもしれません。出来ましたら、一曲だけでも何か弾いてもらえないでしょうか?今日は二人の金婚式なのです」

 

 そう言ってニコニコとほほ笑む二人は、人生の艱難辛苦を乗り越え、充実した日々を送ってきた者だけが見せる余裕と重厚さが感じられた。

 

(あんな老後が迎えられたらいいな・・・)

 

 唯子はその老夫婦を羨ましげに見つめていた。ふと葛城を見ると、やはり同じように二人を温かく見つめている。

 

「ええ・・もちろんです。ぜひ結婚50周年を迎えるお二人に一曲プレゼントさせてください。どのような曲をお望みですか?」

「いえ・・・そんなに詳しい訳でもないので・・・」

「そうだな・・・ではガブリエル・マリーの「金婚式」では如何ですか?」

「おお・・・そんな曲が・・・是非お願いします」

 

 葛城は店の隅に置かれていたグランドピアノに向かうと、キーを確認するようにいくつかの試し打ちをする。調律は行き届き、音階はさほど狂っていないようだ。椅子の高さを調節し、その場にいた即席の観客たちに向かって軽く会釈をする。

 

「この曲は大きく分けて3つの構成になっています。冒頭はイ短調、途中でイ長調に変わり、最後は冒頭部分のイ短調に戻ります。中間部のイ長調は「老夫婦の入場」と言われ、教会のオルガン演奏・・・つまり結婚式の入場シーンを描いていると言われています。ぜひ長年連れ添ったお二人のもう一度の結婚式をこの場でプレゼントできたらと存じます」

 

 大きな拍手が沸き起こり、葛城の演奏がはじまった。

 

「あっ・・・これ聞いたことがあるわ。「金婚式」って言う題だったんだ」

「さすがのセレクトだね・・・」

 

 レストラン内の囁き声はやがて葛城の軽快かつウィットにとんだ演奏に引き込まれ、静まり返ったレストラン内を魅了していった。そして、たった4分たらずの演奏はあっという間に終了した。

 演奏後のしばしの余韻の後、レストラン内は割れんばかりの拍手が巻き起こり、老夫婦は幸せそうな会釈を葛城に返しながら、急遽店側が用意した花束を受け取っていた。

 

 だが、唯子は愕然として葛城の演奏を聞いていた。うまく誤魔化しているが少しも「葛城浩夢」の演奏になっていなかったからだ。第一、軽快に入るべきスタッカートの処理が甘すぎた。打鍵が弱く、それをテクニックでカバーしている・・・。ここにいる観客・・・いや大概の評論家や音楽家は騙せても、10年間師事した私の耳は誤魔化せない・・・。

 葛城は颯爽とピアノ椅子から立ち上がると、涙を浮かべている老夫婦に祝福の言葉を掛けながら二人の席まで送り届ける。周りの客からの賛辞を受けながら葛城がテーブルに戻って来たのは15分もたってからだった。

 

「プライベートの時間にすまない・・・有名税ってやつだ」

 

 葛城は済まなそうにそう言いながら唯子の隣に腰かける。そして唯子の険しい表情を読み取ってしまう。

 

「どうやら話さなければいけないようだね」

 

 そう言って席を立つと、そのまま出口に向かって歩み始めた。

 急な演奏に恐縮し、支払いを辞去する店主に無理やりお金を掴ませた葛城は、先に店外に出てBMWの前で佇む唯子に手を振った。力なく手を振り返す唯子を紳士らしい振る舞いで助手席側にエスコートし、ドアを開けて着席を促す。自らのシートに腰かけた葛城は、電動の幌を閉じると唯子に向き直った。

 

「気が付いてしまったんだね」

 

 そう言うと探るように唯子を見つめる。

 

「先生・・・今の演奏・・・どういうことですか?」

 

 唯子は張り裂けんばかりの不安に直截的な聞き方しかできない。葛城は苦笑いを浮かべながら、それを有難く受け止める。

 

「症状が出たのは半年前だった。打鍵に力が入らなくなってきたとその前からうすうす感じ始めていた。そしてすぐに専門医に診てもらった」

 

そう言ってじっと唯子の目を見る。

 

 「「筋ジストロフィー」と診断された・・・筋肉が壊れやすく、再生されにくい病気。次第に筋萎縮と筋力低下が進行していく遺伝性筋疾患のことだ」

「治るんですよね?」

 

「現時点で筋ジストロフィーに対する根本的な治療薬は無い・・・指定難病の一つだ」

「・・・・・・・」

 

 唯子は信じられない思いで葛城を見返す。だが、不思議なことに心のざわつきがすぐに落ち着き始める。まるで、その事実をすでに知っていたように・・・ストンと胸に落ちていた。不思議な感覚・・・誰かから既に聞かされていたような・・・。

 

「あの日・・・君が「英雄」の見事な演奏をし終えた日・・・僕は死のうと思っていた。ピアニストにとって、一番大切なものを失うくらいなら、この人生を生きていてもしょうがないと考えていた。君が僕の教えた通り、僕のスタイルと全く同じように「英雄」を弾き切った時、僕は死を決意した。僕のピアノを受け継ぐ者がいて、安心して死ねると心からそう思った」

 

 だが、葛城の顔からあの時感じた憂いはない。

 

「決心はついていた。そう思っていた。だが、君のテンペストを聞いて・・・初めて悟った。君には僕以上の才能がある。そして、そんな君に僕が魅かれ始めてしまった事に・・」

 

 唯子はハッとして葛城を見返す。その顔には嘘偽りのない素直な感情が現れている。

 

「君の「テンペスト」からは愛が感じられた。ベートーベンが自らの命を絶とうとしたときに書いたという「テンペスト」・・・君が弾いていたテンペストは、僕のテンペストとは違う。君の心の中にある「絶対にあきらめない」という強い意志を直に感じていた。僕は恥ずかしかった・・・逃げようとしていたことに。筋ジストロフィーは難病ではあっても、不治の病ではない。病状の改善は望めなくても、進行は抑えられる。君の心のこもったテンペストを聞いた途端、僕にも「絶対にあきらめない」という強い意志を貰ったような気がした。」

 

「そして・・・初めて気が付いた。いつまでも少女だった君ではなく、大人になり、素晴らしい女性として変貌した君に。私がいつの間にか君に恋に落ちていたことに」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

「私のピアニストとしての人生はこれでおわりかもしれない。しかし、君がいる。君を育てる事。一流のピアニストとして大成させること。それが僕のこれからの生きる希望だ」

「唯子君・・・いや・・・唯子・・・君は僕の希望なんだ」

 

 唯子は強烈な葛城の告白を聞いて、女としても、ピアニストとしても、無上の幸福を感じざるを得なかった。幸せな気分に満たされながら、葛城の抱擁を受けていた。猫の鳴き声が微かに響いているような気がした。




本小説は以下のサイトにも不定期で(作者に余裕があれば時々挿絵付きで)掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=16093219
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