---------登場人物---------
秋月 暁人:主人公
秋月 唯子:暁人の母
秋月 暁年:暁人の父(M商事・開発部・課長←オリジナル設定)
三好 満司:調教師・主人公の遠縁(暁年の母方の従祖母の孫娘の夫)
葛城 浩夢:名ピアニスト・唯子の初恋の人
プールナーナンダ:謎の修行僧
漆黒の闇:漆黒の短剣の中の人(声は上川隆也さんって事で・・・)
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「君は間違いなくショパコン(ショパン国際ピアノコンクール)で優勝するだろう。いや、ほかの名だたる賞すらも・・・」
最初、それはお世辞に類する言葉だと思っていた。自殺願望に囚われ、打ち沈んでいた葛城浩夢が生きる希望を見出し、多少饒舌になっていただけのかもしれない。だが、その言葉の裏に唯子は何の下心も不純な動機すらも感じなかった。心の底からそう思ってくれているのがよく分かった。そして彼は心から唯子と、そしてそれを見出した自分を祝福していた。
「あのご夫婦、素敵でしたね・・・金婚式・・・私もそんな結婚が出来たらいいな・・・・」
そう思ってふと自分の左手の薬指を右手で摩ってしまう。
(あれ・・・無いわ・・・)
そう思った途端に愕然とする。無いって・・・何が・・・思わず指輪を触ろうと左の薬指を摩っていた右手を不思議に見つめながら、心にチクリとした痛みを感じる。なぜそう思ったの・・・私・・・。
「本当に素晴らしい老夫婦だったね。永遠の愛・・・そんな言葉を思わず思い出してしまったよ」
葛城浩夢がそう言いながら唇を近づけてくる。嬉しさに心が高まり、思わず目をつぶってしまう。だが唇を受け入れようとした瞬間に、身体が凍り付いたように動かなくなる。
(永遠の愛・・・私はそれを裏切ってしまった・・・)
ピクリと拒絶するような唯子の反応に、葛城は驚いたように唇を遠ざける。唯子自身、なぜそう考えたのかさっぱり分からない。永遠の愛を誓うのはこの人・・・葛城浩夢以外に在り得ないではないか・・・。
「どうしたの?まさか初めて?」
そう聞かれて思わず首を振っていた。嘘だった。
(ファーストキスはあなたのために・・・葛城浩夢のためだけに取っておきました)
そんな事を言える訳がなかった。
そんな唯子の初心(うぶ)な反応を柔(にこ)やかに受け止めながら、葛城はBMW・Z4のイグニッションを回していた。
「門限は10時だったね・・・大丈夫、高速を飛ばせば1時間とかからないだろう・・・」
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SMクラブ「J-POP」に到着する数十m手前で、暁年と唯子は別行動をとっていた。唯子は裏方の従業員口から、そして暁年は特別会員だけが許される地下入口から「観覧料」を払って入店する手はずだった。別れ際、唯子は一瞬こちらを振り返った。その顔はすでに紅潮し、高まるどうしようもない肉欲の疼きに支配されつつあるようだった。だが、その表情は悲し気で、理性を裏切り続ける心と身体に絶望しきっていた。そして、暁年は自分も同じ表情を浮かべていたことに気が付く。互いに敵わぬ何かを訴えかけ、必死で見つめる一瞬・・・暁年は確かに愛を感じていた。全てを諦めかけた暁年に一瞬希望が湧き上がる。
(こんな時にも二人は愛を信じている・・・・)
二人がほんの一瞬の希望を共有した途端、迎え出た満司が、ドア口で唯子の唇を奪った。唇を奪われた途端、唯子はウットリと全てを預けるように満司に寄り添い、そのまま裏口のドアから見えなくなっていった。
(これは1カ月前にすでに経験していた屈辱だった。もうすでに味わった絶望・・・理性を裏切り続ける本能・・・二度目の・・・深い絶望・・・そしてこれからもっと酷い目に会う・・・この肉欲の支配が、やがて純愛に変化していくのを目の当たりにする)
絶望が暁年を覆っていた。希望が全て食い尽くされそうになっていた。
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マジックミラーで囲まれた特別ステージを擁した地下施設には、既に数十人の特別会員が集まっていた。
「三好唯子って、本当は普通の主婦だろ・・・旦那さんも公認らしいじゃないか?」
「よくこんな事を許すよな・・・」
「寝取られ亭主・・・お前知らないのか?旦那もドマゾなんだよ」
「だから燃えるんだろ・・・寝取るほうも寝取られる方も・・・けへへッ」
屈辱に暁年は強く手を握りしめてしまう。だが、何も言い返せない。一か月前・・・この場面に遭遇したときは、最後の最後には唯子は自分の元に戻ってくれると、淡い期待を抱いていた。自分勝手な都合の良すぎる期待・・・今思い返せば反吐の出るような最低な期待だった。
「永遠の愛」を心から信じていた。二人には「永遠の愛」が無条件に存在すると思い込んでいた。小娘のように勝手にそう信じてしまっていた。
「永遠の愛などない」
そう・・私はこのすぐ後にその幻想を打ち砕かれる。惨めに、徹底的に・・・打ちのめされる・・・。永遠の愛を誓い合った我が妻は、長い時間かけて身も心も変えられ、愛の対象すら変えられてしまっている。
「永遠の愛などない」
そう・・・私は間違っていた。「永遠の愛」など幻想にしか過ぎないことを・・・。「永遠の愛」にすがり、唯子を追い詰めてしまっていた。今、やっとその報いを受けるのだ。
そして今回は・・・それを上回る絶望が待っている。プールナーナンダ師匠も洋子さんも一之介探偵も、綾乃ちゃんも居ない。全くの希望のない世界。絶対的な絶望が大きな口を広げて、私を呑み込もうとしている。「強い愛」を示そうにも、私にはもう仲間も仲間から与えられた力もない。そして、無理に「強い愛」を行使してしまえば、偽善に落ちてしまう。正義や倫理で唯子は押しつぶされ、セクストーションの餌食になっていく。家族はあっという間に破滅し、誰も、どんな幸福ももたらされない。私だけが耐えれば、少なくとも暁人だけは救える。かりそめの家族は維持できる。今夜のような夕食を続ければ良い。もうすぐ暁人も社会人となり巣立っていく。それまで耐えればいい・・・。
ふと気づくと・・・唯子の嬌声が聞こえてきた。マジックミラー越しに満司と演じるSMショーの地獄のような生々しい嬌声が・・・
「あああああっ・・・あなたごめんなさい・・・・はあああひゃああん・・・これなの・・・だめなの・・・これじゃないと・・・あああぅこの大きなサイズじゃないと・・・このたくましいオチンポでないと・・・こうやって突き立ててられると・・・狂っちゃうの・・っ!」
「あああぁ・・・あなたごめんなさい・・・わたし・・・このチンポじゃないと・・・」
「ごめんなさいあなたっ・・・あっあなた・・つ」
「ほら・・・言えよ」
「あっ」
「今さらなんだ」
「自分が誰の女だと思ってやがるっ」
「え?オラッ」
「あっ あはっ・・」
「どっちが好きなんだっ・・・俺のコイツは亭主のナニはっ」
「あっ」
「体裁付けずに ハッキリと言えっ」
「あっ・・・あっ♡」
「こ・・つ こっち こっちが・・好き・・っ」
「あ♡」
「比べものに・・・っあっ・・なら・・ないのっ♡」
「オレを 愛しているかっ」
「愛して・・・るっ」
「もっと言えよっ」
「愛して・・・ますぅ・・っ!」
「はっあっ あーっ♡」
「愛して・・・ますっっ♡」
「だ・・っ誰よりもっ・・・」
「愛してます・・・満司様を 愛してますううっ♡」
「あ・・ああ はああっ」
「ダ・・ダメっ も・・ぅもうイクっ イキますっ」
「唯子・・・あっ・・・イキますっ」
「寝取られ負け犬亭主に告白しろっ!今・・・お前がどんな気分なのか・・・っ」
「はっ♡」
「どんな状態で絶頂するのかを・・っ」
「はぁあァっ♡」
「あ・・あなたっ あなたぁっ♡」
「唯子は・・っ 満司さんの・・・女です・・・っ」
「カレの・・・っ 所有物ですぅつ♡」
「カレに・・出会えて・・っ」
「満司さんの女になれて・・・っ」
「唯子は本当に・・っしあわせ ですぅぅ♡」
「あっ」「はああ」「い・・っ 唯子・・・イクっ♡」
きっと私の目は血走り、後悔の涙を浮かべていたに違いない。1年前に唯子を手放したばっかりに・・・・
(今となっては私こそ不要の存在だ・・・手放されるのは私の方だ・・・)
なぜなら、唯子はいま、確かに幸せの絶頂に居るからだ。私抜きで彼女は幸せになっている。幸せが快感の充足行為であるとするなら、今の唯子にとってこの状態は「しあわせ」に他ならない。ならば唯子が満司に「愛」を感じてしまうのは尤もなことだ。「しあわせ」を共有できる相手こそ愛を感じる人間であるべきだ。セックス依存に堕ち、淫欲以外の事が考えられなくなった今の唯子にとって、満司こそ愛の対象にふさわしい。彼女を縛る縄はそのまま彼女に加えられる被虐の快感の元だ。調教師はその苦痛と快感を巧みに操り、依存させ、完璧に変えてしまう。
しかし、洋子さんやプールナーナンダ師匠が居ない今、唯子のセックス依存を直ちに治癒する事は難しい。だから、1か月前・・・この世界線では・・・今のこの時点で、私は唯子の総てを受け入れ、共に生きようと心の中で誓った。あのような屈辱的な契約をしてまで・・・。しかし、唯子の魂と心がここまで乖離した状態だったことに私は気が付いていなかった。洋子さんとプールナーナンダ師匠から教わった教訓はまだはっきりと私の中で息づいている。今の唯子はぎりぎりだ。ここで私が「強い愛」を求めた途端、唯子は魂を売り渡す。そう・・・私たちはこの時、満司に最後の一手を刺され、夫婦として終わってしまったのだ。私が戦いを挑めば、唯子は二者択一に迫られる。魂か心を選ばなければならなくなる。今の唯子では嬉々として快感に浸りながら魂を売りわたし、悪の側に堕ち、戻って来ることはなくなるだろう。そう、満司に完全に身も心も寝取られる。そして、間違いなく不幸な状態に転がり落ちていく。それを私はただ手をこまねいて見ているだけしかないのだ・・・。
「・・・・・・!」
その時・・・何か嫌な予感が背筋を通り抜けるのを感じる。恐る恐る後ろを振り返ると、暁人が呆然と母親の姿を見つめていた。
(なんてことだ・・・・)
私はその場に膝をついて頭を覆っていた。
(管理人が入れてしまった?これすらも満司の差し金なのか!それとも黒い影・・・)
絶対的な絶望がじわじわと私を追い詰め始める・・・
(今すぐ戦わなければ!ここで、満司と対決せねば・・・暁人が・・・壊れる・・・尊敬し慕っていたものが、邪淫に崩れ落ちるところを見せてはいけない・・・そして私に勝つ見込みは全くない)
(だがここで戦えば・・・唯子が壊れ・・・悪に転落する・・・)
このまま見過ごす事も、このまま行動することも出来ない・・・絶対的な絶望が暁年に襲い掛かる・・・
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「師匠・・・父の魂の光が・・・どんどん小さく・・・これでは・・・こんなのでは・・・・」
一同が取り囲むなか、暁年の魂は風前の灯火になっていた。希望に輝いていた光は、漆黒の空間に染まり、溶け込む様に小さくなっていく。
「今はただ、暁年を信じ、それを支えてやるほかすることはない。この場は漆黒の短剣が支配する場・・・我々はそこに忍び込み、盗み見ているだけの存在。出来ることはあまりない。焦らず、暁年を信じる他に何も出来ん」
そこに、綾乃の思念が紛れ込む。暁人がそのイメージを掴む。
「綾乃はどうやら母さんを心配しているようです。母さんの魂を見つけなくていいのですか?どうしたら見つけられるのでしょう?」
「暁年の威勢のいい魂はすぐに見つかった。しかし、唯子殿は・・・・」
プールナーナンダはそう言って目の前で光を失いつつある暁年の魂をじっと見つめるだけだった。
「父さん・・・頑張れ!」
悲痛な感情がチーム「MRO」の面々に流れ始めていた。ただ一心に暁年に希望を送ることだけを考え、念じるだけしかできなかった。
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だが・・・不思議だ・・・私は絶望しないでいられる。訴える様なピアノの音が・・・ほんの握りこぶしぐらいの僅かな熱が・・・私を絶望から救ってくれている。
(私は何かを求めて・・・ここに居る。何を求めていた?何で抗う?)
そして何か胸の奥に熱いものがこみあげてくることに気が付く。
絶望するな!
絶対に希望を捨てるな!
不思議だった・・・・なぜ自分はこんな状況で絶望しないのだろう?・・・。居ないと分かっている人々の存在をなぜ感じてしまうのだろう。答えは簡単だ。私の魂の中で彼らが生きているから・・・彼らの思いは、例えその存在が無くてもこの胸の中にしっかりと生き続けている。多分それが魂・・・。不変の存在・・・そして闇の存在が最も求めているもの。私はその思いが有る限り、絶対に希望を失う訳にはいかない。絶対に絶望しない・・・・。
「絶対にあきらめるな」
ピアノの声がそう訴える。頭に響くピアノがはっきりと訴える。全ての人の思いが、魂を揺さぶる。
唯子に「強い愛」示せないのであれば・・・
唯子に「本当の幸せ」を思い出させればいい
快楽の充足に勝る「しあわせ」を・・・快楽の充足しない愛を・・・ただ辛いだけの愛を・・・取り戻させなければならない。辛いだけで、苦しいだけで、快楽からほど遠い・・・しかし希望を持ち続ける力、未来を信じ続ける力、熱意を抱き続ける力・・・私たち人間の・・・人間だけの能力。存在意識に潜む根源的な快楽(id)の怪物に打ち勝ち、人々の未來と希望を信じ、永遠に努力し続けなければならない。この状況を打開するためには、とりもなおさず唯子自身が「強い愛」を取り戻さなければならない。私が押し付けるのではなく、唯子自身の手で・・・。自分で生み出し、作り上げたものの素晴らしさと、未来を切り開く「強い愛」を思いださなければならない。車から降ろすのではなく、自分から降りなければ意味がない。なぜなら・・・
(これは唯子の戦いだからだ・・・)
最初から分かっていた。これを解決できるのは、この事態から抜け出せるのは唯子だけしかいない。これは唯子が唯魔子にならない最後の根源的な戦い・・・。
答えは最初から分かっていたような気がする。そう・・・暁人から聞いている。洋魔子となった洋子が無意識のうちに暁人に教えた事。最後は唯子自身が解決せねばならない事。
「肉欲の虜になった彼女に、あえて戦いを申し出る。私の敵は満司ではない。唯子だ。唯子の中の何かを変えなければ、同じことがまた起きるだけだ」
気が付くと私は唯子と私を隔てる、マジックミラーの前に立っていた。そして、股間から他人の精液を滴らせ絶頂の余韻に浸っている我が妻に向かって、切々を語りかけていた。だが、私の声はマジックミラーにさえぎられて、唯子に届かない。
「唯子・・・戦ってくれ!」
私はマジックミラーを拳でたたき始めていた。
ドンドンドン・・・
だが強化ガラスで出来たマジックミラーは多少撓んだだけで、ビクともしなかった。手が腫れ上がり、痛みが走るのを無視して、私はガラスを強くたたき続けた。私は唯子に知らせなければならない・・・。
「唯子・・・戦ってくれ・・・これは君の戦いだ・・・」
だが、唯子はおびえたような表情を浮かべながら満司に寄り添うと、ステージの奥のドアから逃げる様に消え去ってしまった。そして、ステージのスポットライトが消え、空しく私は取り残されてしまっていた。あたりは真っ暗な闇に包まれていった。
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私のすぐ背後に気配を感じる・・・すべての光を吸収する暗黒の闇が背後に迫る。世界が再び凍り付いたように時間が止まる・・・・。その漆黒の闇が素粒子の声で私に語り掛ける。
【お前は本当に面白い個体だな・・・この状況でまだ希望を失っていないのだからな・・・だが、もう限界なはずだ・・・】
「私は絶対にあきらめない・・・絶対に絶望しない・・・」
だが・・・私の声は次第に絶望に萎んでいく。私を取り囲む無慈悲で、無残な現実に取り囲まれて・・・。
【さあ・・・お前の今の行動の結果が、どのような事態を引き起こすのか、先に見せてやろう】
私の背後に立った影が、心の中で響く声でそう囁く・・・その途端に再び私は意識を失っていった。
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プールナーナンダがその波動を感じて眉間をピクリと動かす。
「暁年のやつ挫けそうになっておるな」
一同がその輪の中に抱いていた暁年の魂は輝きがとんどんと無くなり、暗くなり始め、今や風前の灯火となっているのが分かる。そして、ゆっくりと一同の輪から外れ始め、漆黒の空間を漂い始める。他のマリンスノーのような雑多な魂と混じって漂流し始める。
「いかん・・・見失うでない・・・あのように淡くなってしまっては一度見失うと、もう二度と発見することは叶わんぞ・・・」
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暗く何もない・・・全てが平穏で、憂いも、心配も、苦悩も何もない。幸福もない代わりに不幸もない。平安で、静かで、落ち着いた無の世界・・・。
(幸福は不幸・・・快感は苦痛・・・生は死・・・)
裏切りも、変節も、背徳も何もない世界・・・・。抗うことも、戦うことも必要のない世界・・・。努力も、挑戦も、探求も、何も必要のない世界・・・・。愛がない代わりに、裏切りの無い世界・・・・。
(唯子・・・変わってしまったのか?・・・君の全てが・・・理性では押さえられない肉欲に流されて・・・「本当の幸せ」を見ることなく・・・魂を真っ黒にしながら・・・人々に不幸をもたらしながら・・・それでも「しあわせ」を叫ぶのか・・・・)
絶対的な絶望が私を苛む・・・・真っ黒な空間だけが、私の周りを包囲していた。
(君を信じたい・・・そうでない君を・・・「強い愛」を持った君を・・・唯子!)
そして・・・私の手に何か暖かなものが触れた・・・。老婆の手だった。骨ばり、深いしわが寄った手が、マジックミラーを叩き続けて腫れ上がった私の手を優しく包んでいた。
「暁年さん・・・起きてください・・・暁年さん?」
ふとよく見ると、その手にはいくつもの邪悪な紋章が彫りこまれている。
(この紋様は・・・)
そう思って、顔を上げた暁年の目の前に、一人の年老いた老婆が立っていた。憂いを帯びたはにかむような笑い・・・。その笑顔は変わっていなかった。
「唯子・・・なのか?」
豊胸手術を受けたのだろう肥大化して人間離れした巨大な乳房はすでに醜く垂れていた。そして・・・胸部以外のガリガリに痩せた身体・・・。あまりの変わりように暁年はわが目を疑う。身体中の至る所に邪悪な淫紋が彫りこまれ、逆十字や逆五芒星を象ったピアスが見えるところだけでも数か所は打ち付けられていた。だがその左手の薬指には、暁年が贈った結婚指輪がまだ輝いていた。
「満司さんからお暇を出されましたの。ずっとあなたと暮らしてよいと・・・3年前に」
「3年・・・あれから何年たったんだ?今は何年何月何日なんだ?」
「あなたが昏睡状態になってもう20年経ちました。あの後・・・あなたがあのショーで狂ったようにマジックミラーを叩きながら気を失って・・・20年です。すぐに病院に運ばれて・・・今の今まで眠り続けていたのですよ」
「20年も経ったのか・・・」
暁年は愕然と病室の中を見渡す。暁年が知っている医療機器はほとんどなく、未来的なデザインの機械が所狭しと並んでいる。
「私ももう58歳になってしまいました」
「しかし、今の君は・・・・」
「・・・・80歳を超えるおばあさんに見えるでしょ?」
髪の毛は真っ白で、唯子の動作はヨボヨボと鈍くて弱弱しい。
「・・・・・・・・・・・・・」
「妊娠、堕胎を何度も繰り返してきましたから・・・歯は全て入れ歯ですし、肉体の酷使で至る所に障害が出てしまっています。何人もの見知らぬ方々と乱交を行い、生中だしOKの危険なセックスばかりしてきました。妊娠だけでなく、何度も性病や粘膜感染を起こす病気をうつされ、身体を蝕んでいきました。肉体の損傷も激しくて、年よりも随分老けてしまいました。」
「畜生・・・満司のやつ・・・」
起き上がろうとする暁年を押さえながら、唯子が続ける。
「あら、みんな私の望んだこと。旦那様・・・満司さんも・・・途中から「止めろ」と仰ったのだけれど・・・私・・・どうしても自分が許せなくて・・・自分を追い込む様に・・・SMにのめり込んでしまいましたの・・・・」
そう言って悲し気に顔を伏せた。
「暁人はどうした?」
話題を変えようと、希望の感じられる話題を振りたかった。聡明な彼の事だ・・・幸せな人生を送っているに違いない。
「暁人は・・・もうこの世にはいません・・・」
「何だって?!」
絶望がヒタヒタと暁年を包みこむ・・・。
「あなたが昏睡状態で病院に運ばれた数か月後、暁人は満司さんを殺そうと路上で襲い掛かってきたんです。あなたの看病に疲れたのかもしれませんが、多分私のためですわ。それを、たまたま通りかかった警察官が取り押さえて、殺人未遂で逮捕されて・・・10年の懲役刑を受けました。それが投獄されて5年後に・・・・私達には「獄死」としか伝えられていませんが、どうやら自殺したようです・・・」
「そ・・・そんな・・・あんなに正義感の強い男だったのに・・・」
「だからなのかもしれません・・・・」
「・・・・・・・・・」
「満司さんはそれすら私を責める道具にされました・・・暁人の位牌を使って、私の陰部を弄んだり・・・、暁人のお墓を尻に敷きながら、満司さんとセックスをした事が何度もありましたわ・・・」
「な・・・何だと?!」
「私・・・それすら快感にしてしまいましたの・・・死んでも息子を汚し続ける背徳の快感に・・・「息子を殺したのはお前だ」と責められながら・・・それだけで濡れ濡れになって・・・絶頂を何度も極めて・・・お墓を汚していきました」
涙を湛えながら、その瞳には絶対的な絶望しか宿っていない・・・・
「私はその時・・・人間ですらなくなってしまったの・・・」
あまりにも残酷な結末に、暁年は驚愕のあまりそれ以上の言葉を失う。
「でも、私が死ぬ前にこうしてあなたと会えて本当に良かったですわ・・・」
「君が死ぬ?」
暁年は改めて唯子の服装を見て、病衣を着ていることに気が付く。
(唯子もこの病院に入院している?)
「ええ・・・私・・・余命3か月と、半年前に言われましたの。あなたが目覚めるのをこうして待ち続けて・・・余命宣告より3か月も長く生き延びましたわ。あなたがお目覚めになる前に死ねないと思って・・・一日でも長く生きながらえようとしてきましたの。本当に良かったわ・・・これであなたにやっと言えますわ」
そう言った唯子は、決然とした表情で暁年に向き直っていた。
「もう決して私を許さないでください。あえて「ごめんなさい」とは言いませんわ。もう私と共にありたいなどと考えてはいけませんわ。あなたは私と一緒に地獄に落ちないでください。あなただけは、天国に行ってください。私は地獄に落ちます。旦那様も多分そうでしょう。私がこんな病になったのは罰が当たったからですわ。私・・・何度も幼い命を旦那様に言われるまま殺してきましたから・・・。暁人も満司さんの仰る通り・・・いろいろな人を巻き添えに不幸にしてきましたから・・・。でもあなたは、あなたと暁人だけは、天国に行って欲しい。きっとあなたの事だから、私と一緒に地獄に行こうとなさるでしょう。でもダメです。あなたこそが天国にふさわしい。そして私は地獄に行きたい。それほど罪深い人生を送ってしまいました」
「永遠の愛」
「えっ?今何か仰いました?」
「永遠の愛」
「はい・・・そうですね。永遠の愛・・・私も信じていました・・・20年前あなたがこん睡状態に陥るあの時まで・・・あなたへの愛を私は貫き通せると思っていました・・・でも」
そう言って左手御薬指を悲しく見つめる。残酷な永遠の輝き・・・・。
「そう・・・永遠の愛などない」
唯子の目が大きく見開かれる。暁年の衝撃の言葉に二の句が継げないでいるのがよく分かる。その目から涙がハラハラと零れ落ちる。
「あなた・・・暁年さん・・・ありがとう・・・そして・・・さようなら」
唯子が老婆の足取りで、よぼよぼと病室を後にしようとする。しかし、その手に暁年の手が握られている。
「永遠の愛などない・・・しかし、それを互いに信じ、互いに追い求め、互いに不断の努力を続ければ生み出すことはできる。永遠の愛を誓うとはそう言う事だと、昔、ある人から教わった。だから美しんだ。努力し希求し続けるからこそ美しいんだ。永遠の愛などない・・・でも「強い愛」を持ち続ければそれは叶う。私達の結婚誓約書はそれを謳っていたはずだ」
唯子の手を握った暁年の指にも、やはり結婚指輪が輝いていた。
「私・・・私は・・・その努力をしてきませんでしたわ・・・あなたを裏切り・・・そして暁人を裏切り・・・全てを破滅させてしまったんです。あなたの成すべきだったお仕事も、暁人の輝かしい未来も、すべて私の裏切りで台無しにしてしまいました」
握られた手を振り払うように、唯子は病室を出て行った。暁年はただ無言でその様子を見送る他なかった。すぐに駆け寄って、抱きしめたくとも、20年間昏眠り続けた暁年は起き上がるのが精いっぱいだった。ベットから立ち上がった途端、その場に膝をついてしまっていた。
全ては遅すぎた。せめて私が出来る事は唯子を解放してあげる事だけだった。私にできる事は唯子を決して許さない事・・・彼女ときっちり決別し、彼女から私と言う最後の檻を外してあげる事・・・彼女の魂を解放してあげる事・・・それだけだった。