この編では明確な性行為の描写は存在しませんので、ご了承ください。
「今日、泊まっていく感じか」
「うん。……あんまり、あっちの雰囲気よくないから。それに、家事は済ましてるし、問題ない」
「……分かった。じゃあ、するか」
「よし、やろ」
ある夏の日の午後。閉めきった部屋に鳴り響く、軽快な電子音のBGM。
それを流している、小さなテーブルの上に乗せられたブラウン管のテレビには、魔物を引き連れた主人公が、行進している。
夏場の暇潰しとして、翔と渚は、RPGを共にプレイするという遊びに興じていた。
序盤の過酷な展開を順調に乗り越え、そして今、中盤のある山場を迎えていた。
主人公の花嫁として、幼なじみかお嬢様のどちらかを選ぶかという問題である。
ベッドに座り込んで胡座をかいている、コントローラーを握っている渚の隣から、翔は口を挟んだ。
「うーむ。どっちがいいんだろうなこれ」
「……いやぁ、普通にビアンカじゃない?」
「まあ…そうなる、か。じゃあ、話しかけてみようぜ」
「あ、待った。まだルドマンと話してなかった」
「そうか。…………くっ、はははは」
「ふふふふっ」
キャラの会話に仕込まれたユーモアに、2人の笑いのツボは刺激されて、思わず肩が揺れる程に笑い合う。
和気藹々とした一時。
しかしふと、翔は視界の隅で見えたそれを、注視してしまった。
今日の渚は外出時のようなこだわったものではなく、ショートパンツにオーバーサイズのシャツという、ラフな格好である。
そして体を揺らしていることで大きなシャツの中の、日焼けした肌と異なる、露出していないことで保たれている白い肌と、下着がチラリと垣間見えた。
ドキリ、と翔の胸の内に、僅かに沸き上がる情欲。
翔は無意識の内に手を伸ばし、指の腹で、渚の首筋を撫でていた。
ぴくりと、撫でられた方は体を一瞬緊張させる。
渚は撫でる指の動きが止まらないことを確認すると、コントローラーを横にどけた。
そうして、2人の空いていた距離を詰めて、首筋に置かれていた指に自分の指を絡めた。
それは、了承のサイン。
画面の進行が止まっているのと手の感触で、翔は性交の合意を求める、2人の中だけで通じる合図を意識外で行っていたことに、やっと気づいた。
「えっあっ、いや。これは、そういうつもりじゃ」
「……」
渚は離れようとした翔の手を、少しだけ力を込めて、ぐにぐにと指を埋めるように揉んで、絡めとる。
真っ正面を向いたまま視線をそちらへと寄越さない、彼女の頬には、期待の色が浮かんでいた。
「…………ごめん、じゃあ」
翔の謝罪を皮切りに手を繋いだまま2人、共にベットへと倒れ込んだ。
*
──2人の初体験より時が流れて、翔が1番に恐れていた渚との関係の崩壊は、特に起きることなく、そして変化もなかった。
しかし、今までの友情関係に、性的な感情が混じることで、親友でありながら性的対象であるのが当然となった、爛れた物に成り果てた。
後で許しを得たとはいえ、強引に渚の了承なく押し倒して犯してしまったことへの罪悪感と引け目は、ついぞ消えることはなかったが、少女の体で性を消費する快感と、体を重ね合わることでしか得られない、多幸感を前に、翔は我慢できなかった。
とはいえ、流石に毎度毎度会って遊ぶ度に盛るわけではないし、渚の月経への配慮もあった。
しかしそれでも、1カ月に2回か3回の頻度で翔は渚を抱いた。渚の許可の条件に加え、生での挿入がトラウマとなっていた為、翔はゴムを常備している。
いざするとなった時に予備がなくて、止めるならまだしも、ゴム無しでの性交を行いかねない己への不信の為に、そうしていた。
そして、性の捌け口の対象となった渚は拒絶することなく、何度も何度も翔の肉棒を受け入れた。
親友だからと許容してくれる優しさで成り立っているこの関係に、翔は自己嫌悪しながらも甘えていた。
そうやってずっと交わりを繰り返しそれが日常となったことで、翔は己が抱いてる渚への好意がぐちゃぐちゃになり、よく分からなくなっていて、そしてそれを日の元に晒して、明確なものにしたくなかった。
己よりも大事な人であることに違いはない。
しかし大事である理由がいつの間にか、ヤらせてくれるから、といった、即物的な理由に変わっていることを恐れたからだった。
だからこそ、翔は、性的感情が挟まらない友人関係に戻りたいと考えていた。
薄汚れているであろう心理が露呈する前に、友人に戻って、そして、俺以外の男か、女を見つけて幸せになってほしいと願う。
渚を抱く直前まで燃えに燃えていた嫉妬と不安は、今では多少の落ち着きを見せていたが、それでもたまに再燃することがあって、そうなると渚を束縛しようと考えたりする最悪の奴が。
彼女を犯した理由が、勝手に妄想して生じた独占欲が暴走した結果だと、距離を取られることに怯えて未だに言えていない、友人の優しさに漬け込んで性欲のままに体を貪る最低の奴が。
──渚の隣にいる資格なんてないと、翔は確信していた。
……だけれど、その人を見つけるまで、隣にいることを許してくれ。誰も近寄らないように、守るから。
翔は密かに、そう誓っていた。
しかし、決意してみたはいいもの、結局のところ肉体関係を捨てきれず、友人に戻りたいなんて言う勇気は、出てこなく。
そうして、3年の歳月が過ぎて。
──翔と渚が20歳を迎える直前の19歳の時、運命の夏がやって来た。
*
2人が大学に入学して一年がたち、随分小慣れてきた大学生活。年々暑さが増しているような気がして、直近の未来を憂う夏期休暇が到来した。
様々な悩みやストレスを抱えた現代社会で生きる人々の平穏でない心情を、暑さと湿気が逆撫でし、逆上させトラブルを誘発させる。
そしてそれは翔の身の回りである、渚の家庭にて発生した。
それは彼女の両親の離婚問題。
渚の両親は社会人になってから、意気投合し成立した普遍的な夫婦であったが、互いが望んだ共働きの維持による、時間が合わないことでのすれ違い。
そして根本的な問題としての、結婚に浮かれて分からなかった性格や相性の不一致が離婚の危機へと導くことの要因となった。
食べ物の好み、金銭感覚、趣味や興味、等の大きな価値観の相違。
そして物の配置や、掃除や食事の時間のズレ等の、細やかな所が合わない。
そんなものだと割りきれれば良かったのだが、夫婦としての時間が他と比べ少ないからこそより目立ち、納得出来なかった。
ただ、目を離せばすぐにでもどこかへ行ってしまいそうな暴れ盛りの我が子の世話においては、幸いにして、自然と協力でき、夫婦の問題を忘れることができた。
しかし渚は共働きの両親を心配させまいとして、甘えたい気持ちを我慢して明るく振る舞い、極力両親の前で泣かないように努力した。
そして翔の母から、一通りの最低限の家事を学んで、実践できていたことと、そもそも翔の家に預けるという選択肢をいつでも選べたことで、子が親にかける負担はどんどん最小の物になっていった。
皮肉なことに、渚がそうやって面倒がかからない、良い子であったからこそ、2人は子育てという部分で団結することがなくなり、自分達の問題に集中してしまっていた。
渚が中学生3年生を迎えた時期に、2人は最も険悪となっていた。
その時彼らを、夫婦として繋ぎ合わせていたのは愛などではなく、血を分けた存在である、渚という従順な人形を養育しなければならないという僅かな責任感と義務感だけであり、いつ瓦解してもおかしくない状況だった。
しかし、TS病発症による息子の一大事により、一度は息子を通して歩み寄り、仲が修復されたかと思われたが、渚が女性としての生活に順応し、大学に入学後からしばらくして、修復されていた箇所に再び罅が入り始めていた。
度々翔の両親が仲裁に入っていたものの、今年の夏の始まりに、渚の父の浮気という、物理的で決定的な証拠が発見され、事態が好転する兆しはなくなった。
そんな渦中にて、翔と渚は、明確な離婚を決意したであろう口論にたまたま立ち会ってしまった。
父の浮気発覚により、険悪極まる我が家から逃げ出して翔の家に身を寄せていた渚が、部屋の掃除や洗濯物の家事の滞りと、母親達の様子が心配だと、帰宅しようとしたところを翔が、連れたって渚の家に向かったのが、不幸の始まりだった。
──僅かな夜道を通り抜け、渚の家へとたどり着き、玄関の扉を開けた。
すると、玄関から入ってすぐの、リビングの扉越しから聞こえる、罵倒と侮辱が2人の耳をつんざく。
渚の父の、浮気の批判を主題とした喧嘩なのかと翔は思ったが、約20年間の月日で、お互いが散々に溜め込んでいた不満不平をぶつけているような口論だった。
渚と翔が玄関の扉を開け家に侵入したというのに、渚の両親は言い争いに夢中なようで、一切の反応を見せなかった。
ほとぼりが冷めてから戻ろうと、渚の手を取って引き帰そうとしたが、仲裁したい、と渚が諦め切れない眼差しを向けて提案してきたので、翔は渋々了承することとした。
2人は丁度のいい介入のタイミングを見計らっていたのだが、いよいよその口論は過熱を極めていた。
テーブルへ何かをぶつける音、皿やグラスが割れる音、椅子が床へ叩きつけられ転がっていく音。
親交のある知人達が、醜く罵りあい感情のままに物へ当たり散らかす様に、翔は言い様のない気持ち悪さを、よくないものを飲み込んだような、腹の中で邪悪に蠢く不快感と一緒に味わった。
これ以上は聞くに耐えないし、もし仲裁の為に部屋に入ったとしても、渚に暴力が飛びかねないことを危惧し、彼女を家の外に連れだそうと決意した瞬間だった。
この20年間は全部無駄だったと言い切り、一瞬の溜めの後、あの子が生まれたのが私たちの間違いだった、と激情のままに、渚の母は絶叫した。
その呪いの言葉を、渚が聞いてるとも知らずに。
それが耳に届いた瞬間、翔は渚を連れて即座にそこから飛び出して、己の家にて渚を匿った。
帰宅してから泣き続ける渚を、翔は慰め続けていた。
──それより一週間後、渚は両親に呼び出されて、3人が揃ったことで開催された家族会議にて、2人は離婚することを決定したと言い、これからの渚の処遇について伝えられた。
渚が20歳の誕生日を越えてから、離婚の手続きを行うとのこと。渚の大学の学費や生活費は、大学卒業まで2人が折半して支払うとの合意がなされた。
自宅は残ったローンをこれまた2人が折半して支払うことを許容した上で、渚の名義となった。
渚の父は一緒に住まうことを辞退し、母親は特に何も言わなかったが、今も帰宅してこないところを見るに、新しい男を見つけたのだろうと、渚は予想していた。
その話を聞いて、渚の両親は一刻も早く、この家庭から逃げ出したいのを隠しもしないところに、翔は怒りを滲ませた。
──最後の家族会議を終えて、渚の家が空っぽになってから一週間近く経った。
自分の出生を肯定してくれた筈の親が、憎悪のままに自分の生まれを否定し、自分の元から立ち去ったという現実に、渚は打ちひしがれていた。
ただでさえ、両親の不仲に心が擦りきれていたというのに、そこでトドメの一言を受けたことで、今の渚はTS病で入院した直後のように、透明な表情を曇らせ、心に影を落としていた。
吉凶のどちらに転ぶか分からなかったあの夏の頃よりも、凶なのが確定してしまった今の方が、深刻だ。
夜、翔の家に身を寄せていた渚は翔とその母とで食卓を囲んだ後、1番風呂に入る権利をもらった為入浴するべくして、風呂場へと向かった。
そうやって居間に親子だけとなると、渚の前では直接的に言うのが憚られていた、かの両親に対しての散々語り尽くしてきた文句や不満を言いたくなっていた。
だが、がやがやと大きな声で騒ぎ立てるような話題ではない為、声を抑えながら、翔と、翔の母は止まることのない憤りをぶちまけ始めた。
「──やっぱり、私達に相談もしなかったことに思うところはあるけど、渚ちゃんに何の話もせずに勝手に全部決めるのは本当に、酷いわ」
「……それも酷いが、もっと酷いのがある。渚がいなかったらなんて、1兆歩譲っても思っちゃいけないし、言っちゃいけないだろ」
「流石に、2人とも心の底からそう思ってる訳じゃないと思うわ。そうじゃなきゃ、渚ちゃんをここまで育てない。…でも心のどっかでは、あの子が邪魔だって感じてたから、口から出た訳だし……。どうしようもない話ね」
「渚の存在を否定するなんて、1番の悪手だ。TS病を発症して、自分の存在が不安定になって辛い思いをしたのを、あの人達は何も分かってないのかよ……」
「……そこにあんたが怒っても何も変わらないわ。重要なのは渚ちゃんよ」
あの時に、強引に引っ張ってでも帰宅するべきだったという負い目が翔の語気を強めていた。
そんな並々ならぬ様子の翔を、母が諌める。
そして母は翔へとアドバイスを送る。
「──渚ちゃんの隣に絶対いてあげるのよ。泣きそうになってたら抱き締めてあげなさい。ぎゅー、とね!こんな風に!」
「無駄に抱きつくな!親父にやれよそれは!……はぁ、言われなくても、そうするつもりだよ、お袋」
沈痛な雰囲気のまま、風呂上がりの渚を迎えることを良しとしなかったが故に、年甲斐なく遠慮のないハグをかましてきた母を引き剥がした翔は、真剣な面持ちを、少しは元に戻すことができた。
翔の母にとって渚は自分の子供同然の存在であった。
自分の息子に匹敵する程の付き合いの為、変化に敏感であり渚と翔の間に何かが起きたことを勘づいていた。
勘づいた当初は少し戸惑いもしたが、2人の息子に幸せになってほしいのを夢想しているからこそ、翔と渚の進展も後退もしない関係を見守っていた。
そして息子のプライバシーに配慮して、はっきりと口に出すことはないが、こうやってアドバイスを翔に送ることは多々あった。
──脱衣所の扉の開閉音。
翔達は会話を取り止めた。渚は、2人がいる居間へと入って、翔へと声をかける。
「翔、出たよ」
「ああ。分かった。じゃあ部屋で」
渚を待たせる時間を減らすべく、翔は素早く風呂場へと駆けていった。
そして母と渚の2人だけとなった。
翔の母の視界に写るパジャマを着こんだ渚は、風呂上がりの血色の良さで、その可憐な雰囲気をより華やかなものにしていたが、全体から滲み出ている憂いが、それを帳消しにしていた。
翔の母が椅子から立ち上がると、渚を労るべく、声をかける。
「しっかりリラックスできた?」
「はい。1番風呂、気持ちよかったです」
笑顔を見せるものの、哀しみを隠しきれていない痛ましい様子に、例え押しつけがましくても、それでもと、翔の母が腕を広げる。
そして渚を目一杯抱き締めた。
「何回でも言うけれど、この家はあなたの家も同然よ。遠慮なく頼って欲しい。ゆっくり休みなさい。……渚」
「……ありがとう、お休みなさい。……お母さん」
血を分けた訳でも、腹を痛めて産んだ訳でもないが、実の母よりも深いと自負する、愛を乗せた慈母の抱擁。
渚も、翔の母の背中に手を置いて、体を母に寄せることでその愛に答えた。
翔はカラスの行水のように手早く入浴を済ませ、階段を上り、己の自室の扉を開く。
食事を済まし、湯を浴びて今は10時。後は寝るだけとなったが、まだ就寝するには少し早い。
だが、渚は翔のベットに既に入り込んでいた。
それを見た翔は部屋の電気を消すと、渚の隣へと寝転がり、シーツで自分達をくるむ。
──ここ最近は、翔の部屋で2人同じ枕を頭に、就寝していた。
翔の家で使われてなかった部屋を整えた、客室という名の実質的な渚の部屋はある。
けれど、共に寝ることで、窮屈ではあるものの、その分温もりを強く感じられて気分が落ち着く、と渚が言うので、翔はそうしていた。
燐光を讃えた優しい月明かりが、物憂げな夜に寄り添う。サイドランプなんて洒落た物はないため、窓から差し込む月光が、互いの顔を認識できる唯一の光源であった。
「……翔。寝る前に1つ、聞いてもいいかな」
「ああ。どうした?」
月の光で浮かび上がった儚げな顔つきの渚が、壁へと体を向けたまま、呟いた。
「……俺って、生まれてきて、良かったのかな」
「……何言ってんだ。お前がいない人生なんて、俺は考えられない。渚と出会わなかったら、何かが足りないことを自覚できないまま生きてただろうな。俺も、母さん達も、お前が生まれて出会えたことを良かったと思ってる。だからそんな、……悲しいことを言わないでくれ」
「……ごめん。ありがとう」
──渚とて、多少の折り合いはつけていた。少なくとも翔と、その家族から認められている現状に、とても救われていた。
ただ、それでも翔から肯定の言葉が欲しくて、憐憫の情を抱かざるを得ないような言い方で不安を吐露し、翔に慰めさせた。
それで安心するというよりも、翔の想いの丈を計って、変わっていないことに喜んでいる自分は、どれほど卑しくて醜いのか。
分かっているけれど、止められなかった。
そんな親友の甘え方を翔は理解できない男ではない。
疑問を口に出さず、気づかない振りをして、渚の欲しがる言葉を、行動を、与えていた。
そして、そうしてくれる親友に、渚は当の昔に上限を突破している、信頼を更に高めた。
「ね、翔。抱き締めて、欲しい……」
「ああ。分かった」
翔が渚の背中から抱き締める。渚は目を細めて、体を縮こまらせ、翔の体温に浸る。
鈴虫の鳴き声も風も響かない、静謐な時間。
渚は当初よりも平常の元気さに多少近づいていたが、このままでは、ふとしたことで崩れてしまいそうな、危うさを抱えたままだ。
元気を取り戻して欲しい一心で、翔はある提案をすることにした。
「……明日さ。どっか遊びに行かないか。お前の行きたい所があったらそこでいい。無かったら映画館とか、ゲーセンとか。俺が全部奢るよ。とにかく、どこかに行こう」
「……じゃあ、ね。──遊園地。遊園地に、行きたい」
「遊園地か。……もしかして、小学生の頃に一緒に行った所か?」
記憶を掘り返すまでもなく、翔が小学生3年生の時に、渚の家族と共に遊園地に行った思い出がよぎる。
翔の確認に、彼女はおずおずと頷いた。
「……うん。あそこが、いい」
「分かった。なら、さっさと寝よう。明日は早いぜ」
渚へシーツを被せると、翔は寝台に深く体を沈め、無意識の内に込めていた力を抜いていく。
壁へと向いていた渚が腕の中で身じろぎ寝返りを打って、翔の瞳に自分を写す。
瞳の中にいる女は、とても辛気臭い顔をしていた。
「……ごめんね。金かかる上に、気、遣わせて」
「いいんだよ」
渚の艶のあるさらさらとした髪を、翔は撫で付けた。
ふわりと漂う嗅ぎ慣れたシャンプーの香料。
自分と同じものを使っているというのに、なぜこうも香しい薫りになるのか、不思議でならない。
こうやって泣きじゃくるのを慰めていた幼き頃を想起しながら、頭を撫でていると、寝言に近いような舌ったらずの言葉が渚の口から漏れ出た。
「──しょう。いっしょ、に…………」
「……ああ、俺は一緒にいるよ」
返事は帰ってこなかった。すうすうと、体を丸めて渚は寝息を立て始めたからだ。
友人が眠ったのを確認した翔は、撫でていた手を離し、己もシーツを頭まで被った。
服越しに伝わる、渚の体温。その温かさは眠気を誘発して、直ぐさま翔にも、夢の帳が下りた。
──翌日。僅かに雲があるが快晴であり、天気が崩れる予兆もない、気温を除けば非の打ち所のない天候となった、好ましい日。
目的の遊園地へ向かうべく、渚と共に、暑さが本格化する直前の時間帯にやって来た電車へと搭乗する。
電車内を一瞥すると、夏休みであるためか、若い学生が目立つ。無用に騒ぎださないことを祈りながら、2人分の空いてる席を見つけると渚の手を引き、隣同士で座り込んだ。
車掌の間延びしたアナウンスが電車内に響き渡ると、体を引っ張られる振動と共に、発進した。
ゆったりと、見慣れた風景が流れていく。
空調によって保たれている心地のよい室温が、渚の眠気を誘ったようで、出発早々、渚は目を閉じ眠りこけていた。
渚はここのところ、深く眠れない日が続いている。
両親の離婚によるストレスが原因なのは、言うまでもない。
現に今日も、まだ空が白み始めたぐらいに翔は不意に目を覚ましたが、横で寝ていた渚は既に起きていて、己の寝顔を見つめていたというのだから、心配は余りある。
翔の肩に頭を預け、静かに眠る渚がずり落ちないように、彼女の肩を手で抱いて、姿勢を固定させた。
そうなると、片手しか動かせなくなり、車内の暇潰しにと、肩掛けのバッグに入れておいた本は読み辛い。
退屈が襲いかかってきたが、代わりに、活力に満ち溢れた緑が彩る、夏の景色を堪能することとした。
暫く電車内にて揺られていると、目的の遊園地の最寄りの駅が、次の停車駅だと車掌が予告した。
翔は肩へ組んでいた手を動かし、渚を起こそうとしたが、安らかな顔の渚を今起こすのは忍びなくなった。
ならば、渚を運ぶことで睡眠を少しでも多くとってもらって、遊園地を存分に楽しめるよう体調を万全にしてもらった方がいいと、翔は結論づけた。
わらわらと少年少女や家族連れが降りる中、翔は渚の手が握っていた切符を抜き取ると、眠り姫へ背中を向けてしゃがみこみ、彼女の両腕を己の肩に乗せ、首で交差させた。
座席とフレアスカートの裾を敷いた渚の太ももとの、隙間に手を滑り込ませ、力を込めて持ち上げ、おんぶした。
渚は低身長と、女体化によって胃袋が小さくなり食事の量が減ったのも相まって、体重が軽い。
鍛え上げている訳でもない一般的な大学生が、楽々と持ち運べる程に。
そうしてホームを進んでいき、窓口の駅員に背を向けて、面倒をかけて申し訳ない、と口と心の両方で謝罪しつつ、背中に回している手の指と指の間に挟まった切符を引き取ってもらうこととした。
怪訝な目を向けられたが、翔は気にしない。
遊園地へと向かって、渚を背負いながら歩いていく。
如何せん暑い上に登り坂という2重苦だが、街路樹による木陰の内の涼しさが翔の体を労り、激励するかのように、熱を孕んでいない爽やかな風が翔の頬を撫で背中を押す。
翔は、沸いてきた活力を持って夏に立ち向かう。
なだらかな丘となっている道を上りきれば、いよいよ遊園地の全容を拝めるかというところで、翔の肩に沈んでいた小さな頭が、持ち上がった。
渚は寝起き特有のふわふわとした口調で翔へ尋ねる。
「ん……あれ。……運んでくれてるの、翔」
「ああ、よく眠れたか」
「……うん、ありがと。でも、ごめん。重いだろ」
「気にするな。それと今日は、俺への謝罪は無しでいい。遠慮なく俺に迷惑をかけて、存分に遊園地を楽しもうぜ」
それにお前は軽い、と太ももを支えている腕を持ち上げることで、翔は渚に苦ではないと表明した。
翔の優しさに甘え、渚はしがみつく力を強くした。
そうしてやっと到達した丘の頂上にて。
絢爛たる外観のそれが、姿を現した。
「おお」
「うわぁ」
目下に広がる遊園地は、多少変化しているところはあったが、記憶の中の風景と、おおよそ変わりなかった。
ここの周辺には競合が存在しないこともあって、10年以上経った今でも、地元の貴重な大規模レジャーランドとして、相応に賑わっているようだ。
凶悪な角度のレールで加速し、客を地へと叩き落とさんばかりの、いつか死人が出ると噂されていた、名物のジェットコースターは健在のようで、怖いものみたさのチャレンジャーに想像以上の恐怖を与え、相も変わらず絶叫させているようだ。
その証拠に、悲鳴が園外まで届いてきている。
「翔。もう降りるよ」
「分かった」
少女の温もりが翔の背中から離れると、渚は地に足を着けた。
寝起きの覚束ない足取りを、翔が手を握りゆっくりと引くことで補助をした。
そうして、入場口にたどり着くと、フリーパスを2人分購入して、一時の夢と幸せで出来た幻想の世界へと、入場した。
──南国をモデルとした異国情緒溢れる園内は、稼働する乗り物とそれに群がる人でひしめき合っていて、騒がしくはあるが、そのお祭り騒ぎがレジャーの特別感を演出していた。
遠目に見える、主流のデザインからちょっとずれた、バタ臭いマスコットキャラクターの着ぐるみが、来客に愛想を振り撒いている。
あのキャラクターも昔から変わっていない。
園内のきらびやかで、そしてあの情景と同じままの、景色に、童心がくすぐられる。
あの頃の全てが眩しく、夢で溢れていた特別な時間を、日々を、思い出す。
思わず、懐古の言が翔の口から零れ出した。
「……懐かしい」
「変わってないね……あの時のまま」
渚は顔を手で拭うと、微かにあった憂いを消して喜色満面となって、ワクワクを滾らせ始めていた。
翔は入場口で受け取ったパンフレットを取り出して、渚へと手渡した。
そうして彼女が開いたところを覗き込んだ。
園内の案内のページにて、アトラクションの場所を確認していると、ナイトショーとして花火を行うとの記述が記載されているのが目に留まる。
「へぇ、花火あるのか。どうする渚?」
「……うーん。その時の体の疲れ具合で決めよう」
「分かった。──さ、どこに行く?」
「とりあえず、ここの、フリーフォールかな」
「じゃ、行くか」
それはこの遊園地に来た時に、初めに行った乗り物であり、そこで翔は泣きわめいた記憶がある。
大分成長した今ならどう感じるのだろうか、と気分を弾ませながら、早足で向かおうとする渚に歩調を合わせた。
「おおああああああ!!」
「ははっ、おおぉー!なつかしぃぃぃ」
楽しそうに声を張る渚に、やってくるGに叫び続ける翔。
スリルを味わうという点にて存分に楽しめたが、自分が特に成長していないことが露呈したことに、翔は何とも言えない気持ちになった。
「くそっ、これがマリオカートだったなら!」
「おばけ沼で毎回落ちてた奴がよく言う!」
──絶叫を終え、次は競争する形式のゴーカートにて、ゲームで争い合ってきた自信を持って、翔は渚に勝負を仕掛けることとなった。
しかし当然だが、ゲームと現実では操作は全く持って異なるものであり、翔は壁にゴリゴリと車体を擦り付けることとなった。
目の前を悠々と走り抜ける渚に歯噛みする。
それでも何とかカートを前へと向けさせ、アクセルを踏み込みコースを進んでいく。
だが、そんな翔の懸命な頑張りを嘲笑うように、無情にも渚との間で広がっていく距離。
翔はある存在を切望し、叫ぶ。
「赤コウラが欲しいぃ!」
「ないよそんなもん!」
一周遅れとなった翔は、渚に白旗を上げた。
「じゃあ次は、ジェットコースターだ!…行ける?」
「舐めるなよ、ジェットコースターなんて何体倒したか知れない」
──翔は悪名高きアトラクションを前に見栄を張ったが、正直に言えば、死にたくなかった。
だが渚の頼みとあらば仕方ない、と腹を括る。
絞首台や電気椅子よりも恐ろしい、ギラギラと輝いて己を挑発する黄色い車体を、翔は長い列の最後尾から睨み付けた。
「ぎゃああああああああぁーっ!!」
「うわーっ!あー!あはははっ!」
渚の嬉しそうな悲鳴とは天と地の差がある、園外に届くほどの、威勢と見栄が吹き飛んだ、やかましい翔の断末魔がこだました。
「──あぁ、楽しかったぁ!」
「……そりゃあぁぁ、良かったぜぇぇ……」
──想像以上のスリルを味わえて、歓喜で体を震わせる渚とは対照的に、未だ恐怖に震える足腰と喉を叱咤しながら、疲弊した体をふらつかせている生まれたての小鹿のような男が、そこにいた。
少しの休憩を挟み、震えが微かに落ち着いてくると、五体満足で生き残っている安心感からか、翔は空腹を覚えた。
手元の腕時計を見ると丁度短針が頂点で、ぴったりと止まっていた。
「……もう12時か。飯食べに行くか?」
「うん。……じゃあ、あの時食べたところはどう?」
「オッケーだ」
そうなると翔の体は現金な物で、食欲を前にして震えが止まっていて、前へ進もうとしていることに、翔は思わず苦笑した。
──レストランパクパク。捻りがないのが捻りのような名前の店へと、入店した。
様々な層の客で大いに賑わっていたが、幸いにも席が空いていた為、店員の案内を受けて奥の方に着席した2人は、メニュー表を取り出して今日の昼食を吟味する。
普遍的な洋食や中華料理等の、外れがない王道の料理名がメニュー票には並んでいるが、ここはあの時の食事を再現してみたいという気持ちが翔の中で大きくなった。
そしてそれは、渚も同じようだ。
だが、食べ盛りであった小学生男子の頃とは異なり、今の渚にとって、かつての昼食は少々量が多い。
「ぎり、食べきれるかな」
「食いきれなかったら、いつも通り俺が食ってやるさ」
「いいの?……じゃあ、ピラフと、から揚げで」
注文を済ませてから、しばしの待ち時間の末、注文した品が運ばれて、そのテーブルにはあの日の昼食が再現された。
翔は欲張りだったかつての自分を省みながら、頼んだラーメンとハンバーグへと箸を伸ばす。
客の入りが良いだけあると、懐かしくあるその味に納得しながら、すっからかんの腹に飯を詰め込んでいく。
「美味い。こんな味だったなぁ」
「ほんとだね。……翔。ほら、あーん」
「ん?お、おう」
翔は、渚に箸で差し出された唐揚げに食いついた。
香ばしい衣に歯を入れると、サクっと心地よい食感の次に、内に収まったモモ肉が、浸けられた出汁で味付けされた肉汁を滴らせながら、口の中で弾ける。
噛み締めれば噛み締めるほど舌に強烈な旨味を残して、美味であった。
こうやって食べ進めていく内に、色々と懐かしい話題が上がったりして、会話が弾みに弾んで少し食べ進める手が止まったりもしたが、気づけばテーブルの上の皿達は、すっかりと空になっていた。
翔は満ち足りた腹に満足しながら、水を口に含んでいる中、渚がメニュー表を拾い上げて眺めていた。
「どうした?何か頼むのか」
「翔、デザート食べれる?食べたい奴があるんだけど、量が多くて」
「デザートは別腹だぜ、頼もう。ちなみにどれ?」
「……クリームソーダ」
「ふーん、ん?」
予想外の返答に眉をひそめる翔を尻目に、渚は手早く注文用の呼び出しのボタンを押した。
「すみません。えーと……。これ、ください」
渚は口頭で注文するのではなく、指でメニューを指して頼んだ。渚はメニュー表をテーブルで広げず、手で持ったままなので、翔の側からは何を頼んだか覗けない。
様々な疑問が翔に襲い来る中、注文を受けた女性の店員は、微笑ましいものを見たような顔をして、注文の再確認をすることなく去っていった。
その少し後、グラスをトレイに乗せて先程の女性店員がやってきた。
「お待たせしました、アツアツ♡クリームソーダです」
「……は?え?」
テーブルの中央に置かれたそれは、一見して只のクリームソーダである。
夏の暑気を払うにぴったりの爽やかな青色の炭酸水が大きなグラスに並々と注がれて、そこに浮かべられた、大きな純白のアイスクリームが、青に映えて美しい。
しかし、クリームソーダのグラスの形がハートになっていて、そこに吸い口が2つになった一本のストロー、所謂アベックストローが刺さっていた。
翔は側に置かれていたメニュー表をひったくり、デザートの方へと指を走らせると、カップル専用と題されたページに、この飲料は存在していた。
『アツアツ♡クリームソーダ』という考案者は脳味噌が茹だっていたに違いない名前に、何故渚がメニューを指差して注文したかを翔は理解する。
誰だってこんなものを口頭では言いたくないだろう。店員でさえも。
翔はこの、げに恐ろしき飲料名を何でもないように言い切った、女性店員のプロ精神に感服した。
「さっ、食べよう?」
「何で頼んだこれ……」
「……動揺するお前が見たくて。あ、食べたかったのは事実だから」
親友の見慣れたニヤニヤとした顔。
ただ、そうやって冗談を言えるようになったということは、元気になっていることの証左。
そう思うことにして、とりあえず翔はストローの先に口をつけて、喉を潤そうとする。
けれど、どれだけ口をすぼめて吸引しても、液体は口へ流れない。
「ん、んん?はれ、ふえねえ!」
「あ、なるほど。こうかな、ん」
渚もストローを咥え、吸い上げると、透明な管に青が満ちていき、枝分かれして2人の口先へ運ばれた。
清涼感溢れる甘味と酸味、それに強い炭酸が舌と喉を喜ばすが、味に浸れるほど翔に余裕はなかった。
「……」
「…………」
アベックストローは仕様上、2人で一緒に吸うため、近距離で互いに見つめ合うことになる。
互いから目線を外すことなく、半笑いの表情を浮かべてソーダを吸い上げていく翔と渚は、恋人たちのような甘いそれではなくて、ほぼにらめっこの様相であった。
一進一退の攻防の末、気恥ずかしさで先に吹き出したのは──。
「──んぶっ!」
「ふはっ!くくっ」
──翔だった。
勝てるわけがないと、けらけらと笑う渚から翔は目をそらしながら、大人しくストローから口を離した。
プカプカと青海に揺蕩う、甘美な牛乳の小島に、匙を挿し込み一口分に掬い上げると、翔は敗北感と共に口へと放り込んだ。
「コーヒーカップ、行かない?」
「え?ああ、おう」
──食事を済ませ、満腹感で頭の回転が鈍りつつある翔は、渚の提案に僅かに困惑した。
今日体験しているアトラクションは、過去に行った時のものと同じであり、順番もおそらく一緒であると記憶していた。
てっきりそれは意図的にしていると推測していたのだが、その予想は外れたようだ。
それはそれとして、渚たっての要望を断る理由は、翔には存在しなかった。
意気揚々と2人はカップへと乗り込んだ。
「あああああああああああ!!」
「ふふっ、あははっ!もっともっと!」
初めはゆっくりと可愛らしい回し方であったが、いつの間にか外へ飛び出すのではないかと思わんばかりの凄まじい回転により、翔の視界は溶けて混ざって、1つになっていく。
現実と幻想の境界は何処か。翔はこの世から解脱していくような気分になっていった。
「──大丈夫か俺の三半規管。生きてるか?え?生きてない?御愁傷様……おぇっ」
「……ごめん翔。回しすぎた」
「いや、謝る必要はないぞ三半規管、大丈夫だから行こうぜ三半規管」
「…………マジでごめん」
──頭の中で脳味噌がシェイクされ、平衡感覚の消失を現在体感中の翔は、次のアトラクションに向かうまで支離滅裂な言動を繰り返し、三半規管が語尾となった。
「なあ渚。お前やっぱりこういうの無理では」
「……うん、ちょっと後悔してきた」
──次はここ、と渚が指差した、サイコホラーを題材とした、殺人鬼が徘徊する、おどろおどろしい屋敷の探索という体のお化け屋敷へと翔は突入した。
最低限の明かりしかない部屋を突き進んでいく。
渚は本や映像越しならば娯楽として享受できるが、心霊スポットやお化け屋敷等の、実感をもって娯楽とするホラーは、苦手であった。
視覚型と体験型、両方を楽しめる翔のその足取りは、ゆっくりであるが余裕を持っている。
その隣で渚は、おっかなびっくりついていく。
不意に、天井から響く木材が軋む音。
そちらへと2人の意識が行くと同時に、大袈裟な音と共に、天井から殺人鬼の犠牲者であろう痛ましい死体の模型が飛び出し、目の前で宙ぶらりんとなった。
「おおっ」
「ひゃああああああ!?」
その突然の急襲を受け、渚は心底怯えた。
翔の腕へと抱き付き、分かりやすく体を振動させる。
「あああ、怖い!翔!さっさとそいつぶっ倒して!」
「いやこれ被害者だから、多分」
「多分なら倒そうよぉ!」
腕にしがみついて震える少女を何とか引っ張りながらどうにか殺人鬼の仕掛けた罠をくぐり抜け、翔達は脱出に成功した。
「メリーゴーランド?」
「そう。乗ってみたくない?」
「まあ、そう言われると……?」
──突飛な提案に翔は面食らうが、どんなものなのか体験してみたいという気持ちが、微かにあるような錯覚を覚えたので、搭乗することにした。
優雅な曲に乗って、上下する馬に跨がりながらの遊覧劇。中々の速度で一周しているが、かのコーヒーカップの殺人的な回転を体験した今では、ぬるま湯に等しかった。
「思ったより中々楽しいな。そっちはどうだ?」
「俺もそう思うよ!どんなものかなって舐めてたけどっ、え、ちょっ、わわっ」
「おいっ!」
体を持ち上げて、高い視界を確保しようとして不意にバランスを崩し倒れこもうとする渚を、隣同士の馬を選んだ為、馬から体を乗り出して、手を掴んで引き留めることに翔は成功した。
安堵のため息を吐いて、手を離そうとするが、離れない。渚が力を込めているからだ。
「渚、渚?この体勢辛いから、離してくれないか」
「……このままじゃ、ダメ、かな」
「え。…………分かった」
不安なのか、それとも別の原因があるのか。
何にせよ繋げと言われたのだから、繋ぐしかない。
回転が終わるまで、他の客の目線を無視して、翔は体を乗り出して渚と手を繋げたまま、騎乗していた。
「そうそう。欲しいお土産があるから、帰るより前に買いに行きたいんだけど、どうかな」
「おう。遠慮なくだ」
「……あ。お土産まで奢って貰うのはあれだから、自分で出すよ」
「世知辛いことを言うな。全部買ってやる……ほどほどの値段の奴なら」
「ふふっ、じゃあ甘える。……1番高い奴買お」
「人の話聞いてた?」
──しょうもない冗談の応酬を終え、入園口の近くにある大きな複合型の売店へと着く。敷居を跨ぐと渚はお目当ての物を探しにいった。
こちらも父と母と渚に菓子でも買おう、と適当に歩を進めることにした。
そうしている内にいつの間にかアクセサリー等が陳列されているコーナーに入っていたようだ。
軽く覗いている内に、ある一つの物品が目に入った。
「お……これは」
ゴールドのリングに取り付けられたサファイアの指輪を手に取ると、かつての情景が、不意に蘇った。
──誕生石や誕生花などの、そういう自分の記念を形にできる物を好きになる年頃だったことで、サファイアが自分の誕生石ということを調べていた渚は、ここでこの指輪を見つけた途端熱烈に自分の両親にねだった。
だが子供が欲しがるには結構な値段ということで買って貰えずに、悔しそうにしていた、というもの。
別に何ともない場面の筈なのに、やけに印象づいていた故に翔は覚えていたが、渚はそんな些細な記憶を覚えているだろうか。
翔は興味が湧いて、渚を探そうとする。
だが、両親との思い出をこちらから下手に刺激するのは不味いだろう、と思い直し、踵を返した。
その後、様々なコーナーを巡った結果、翔は渚の好きな苺味の菓子の詰め合わせを3つと、何となく先程の、指輪を購入することにした。
精算し終わって、翔が土産の特別感を演出する赤いレジ袋を引っ提げていると、渚がこちらへ近づいてきた。
買うものが見つかったようであった。
「結局、何が欲しかったんだ?」
「これこれ」
渚は、買い物かごの中に入れられた土産を、翔に手渡した。
それは、ここの看板マスコットキャラクターの、性別が女である鳥の大きなぬいぐるみである。
夢の国のネズミの番の例に漏れず、ここの遊園地の広告塔の代表も、男女のペアであった。
「前に男の方を買ってたからさ。で、まだ存命だから、折角だし揃えてやろうと思って」
「なるほど、了解した。……ん、かごの中にまだ入ってるけど、それもか?」
買い物かごを覗くと、ぬいぐるみが取り出されたことで、その下に隠されていた2つの商品があった。
その1つである、ペアのマグカップが梱包された箱を渚は、かごから取り出した。
「ああ、いや。こいつは翔の母さんと父さんに贈る分。流石にこれは自分で買うよ」
「あ、そうか。そう言われればそうだな。……じゃあ、そいつは?」
2つの土産の残った一つ、看板マスコットの鳥達が、和風に描かれた柄の、日常使いできそうな箸に向けて翔が指を指すと、渚はほんの僅かに言い淀む。
「……これは、ね」
「おう」
「──お前にプレゼントしたいから、自分で買いたいんだ」
「…………」
前まで使ってた奴が折れて新しいのが欲しいって言ってたよな、と少女は親友の様子を伺った。
翔は感謝を込めた返答をしようとして、言葉を詰まらせた。
親友からのプレゼントなんて、特にキテレツなものでない限りは、心底嬉しいことである。
だが、そういう感動で声が出なくなった訳ではない。
翔はその時、渚が浮かべていた表情に驚いて、そうなったのだ。
上目遣いでこちらと目線を合わせる、ほんのりと赤くなっている、渚の顔。
そんな筈はないというのに、まるでそれが、純とした想いを秘めた、恋する乙女のように見えて。
親友の知らない顔に、心臓が跳ねて止まらない。
鼓動が聞こえないか不安になりながら、それでもどうにか喉から声を絞り出した。
「……ありがとうな、渚」
──太陽が中天から大きく傾き、花火を見るとすれば、夕食の時間も加味して次ぐらいが最後のアトラクションになるかという中、渚が観覧車に乗りたい、と提案したことにより、決定した。
「トイレ行ってくる。すぐ戻るから」
「気をつけてな、あっちで座ってるぜ」
渚は翔に土産が入った袋を預け、女子トイレに出来た行列へと駆けて行った。
見送ると、少し歩いたところにあるベンチへと、翔は腰を落ち着けた。
いやはや疲れた、と翔は心の内で呟く。
けれどその疲労は充実した時間を過ごせたという満足感に比べれば、些細なものであった。
親友と、こうやって無邪気に遊びに興じ、時間を共有するというのは、やはり素晴らしく楽しくあり、得られがたく尊いものである。
また行きたいものだ、と再来訪の予定を脳内のいつかのカレンダーに書き込んだ。
それを終えると、翔は、暇を持て余し始めた。
こうも暇となると、思考に空白ができ、それを埋めたくなる。
渚が何故、遊園地に行きたいと言ってきたのか、翔は気になり始めた。
とはいえ、大体の予想という名の妄想は固まっていたので、おおよその結論をまとめるだけだ。
この遊園地への外出の意図は、かつての思い出と対峙し、折り合いをつけようとしているのかもしれない。
それとも家族と過ごした尊い記憶を、今で汚されないように、記憶の補強を行い、忘却曲線を緩やかにするためなのだろう。
だがしかし、それにしては、過去に体験したアトラクションの全てを網羅し追体験する訳ではないようだが、と今まで伏せていた不可解な部分を、脳が指摘する。
事実、記憶にないコーヒーカップやお化け屋敷に行き、次は観覧車へと搭乗しようとしている。
それは、どういうことなのか。
──いや、これ以上は無駄だ。これで渚が、前を向いて進めるのなら、気にする必要はないのだ。
翔は、余計な邪推を始める脳を止めることにした。
──さて、微妙な待ち時間がまだ全然残っている。
トイレの行列を覗き見れば、渚はまだ後ろから数えた方が早い位置に立っていた。
どうするかと翔は考え、バッグの奥底に封じられたままの漫画の存在を思い出すが、わざわざここまで来て,それを読むのも野暮だ。
なら、と、しまいこんでいたパンフレットを広げてみて、待ち時間を潰そうとするが、今日という日で散々見たことが祟り、速攻で飽きがきた。
紙へ落としていた顔を上げると、目の前に広げる喧騒に注目した。
これだ、と翔は、人間観察と洒落込むことにした。
──目の輝きを一層強くしてアトラクションを指差し、ほとほと疲れたという風体の親を引っ張っていく子供。
──今生の別れなのかと錯覚せんばかりに熱く抱き締めあっている、お盛んなカップル。
──パンフレットをなぞりあって、きゃあきゃあと、かしましく騒ぎ合う女子の集団。
誰もが一時の夢を友人や恋人や家族と謳歌している中、渚待ちとはいえ、1人ポツンとしているのは、この周辺では翔しかいないようだ。
早く渚が帰ってこないものかと、親友の笑顔が恋しくなった。
いよいよ人間観察も馬鹿らしくなって、暮れ始めた空をぼうっと眺め、心地好い疲労に浸っていると、視界の角に自分と同じ境遇の、ポツリと1人立っている女性がいるのを発見した。
同類相憐れむということで、そちらへ目の焦点を合わせてみる。
──黒々と艶めく髪が風でたなびいてる、目鼻立ちがはっきりとした、美しい女性。
暇を持て余した翔は、彼女を一瞥してそう感想を抱いた。
黒のタートルネックに切り詰めたミニスカート。底の厚いブーツを履いた彼女は所謂、アムラーのようだが、メリハリのついたスタイルの良さが、二番煎じでは終わらせていない、オンリーワンのスタイルとなっている。
どこかで見たことがあるような気がしたが、芸能人かモデルと見紛うほどのべっぴんなので、テレビか雑誌で記憶している似たような顔の女優と、照らし合わせているだけだと、既視感を訴える脳を翔は落ち着かせた。
到底遊園地に1人で来るような人種には、見えない。
こんな風に、滔々と意味のない観察と考察を積み上げてみたが、大方、此方と似たような理由だろうと、翔は推察した。
彼氏がトイレ行ってるとか、女友達がトイレ行ってるとか。
大したことのない理由で彼女は1人なのだろう。
いや、こんな所で、あの美しさを持て余すほど、彼女は矮小な人間ではない可能性はなきにしも、あらず。
もしかすると、もしかするかもしれない。
ならば彼女は──。
──暇潰しとして、翔の頭の中でどうでもいい妄想巨編が繰り広げられ始めた刹那。
暇人の脳内にて、その魅力溢れる体をもて余している振りをし、下心ありきで近づいてきた男をたぶらかし、破滅させる、悠久の時を生きるファムファタールという設定になっていた、風に揺られている一人ぼっちの女性と、その男の視線が交差する。
こちらの空虚な視線に微妙な表情を浮かべたように見えたが気のせいだろう。
そういうことにしておきたい、と翔はそう願った。
女性に、不躾な視線を向けたことを心の中で謝罪しながら翔は再び、パンフレットを開いた。
そこに、でかでかと描かれているマスコットキャラクターで、今度は妄想感動大作を作りあげようと画策した矢先。あろうことか、彼女がこちらへと近づいてきた。
ブーツを鳴らしながら、翔の目の前にて仁王立ちするアムラー。
そんなに自分が投げた目線が危うかったのか、と内心震え散らかしながら、何かあちら側からアクションがあるまで、パンフレットを食い入るように見つめて、次に乗るアトラクションの品定めをする、真っ当な遊園地ボーイを翔は演じた。
2つ折りの紙から顔を上げることができないので、仔細は分からないが、翔は女がこちらを覗き込んでいるような気がした。
何をするでもない眼前の女性に焦れてきた、純真ではない遊園地男に、その女は意外な言葉をかけた。
「──もしかして、尾上くん?」
「……え。ああ、そうだけど……。何で俺の名前を」
「私だよ私!えーと、そうそう!これ見て、ほらっ!」
自分の名字を言い当てられたことに動揺し、用意周到な美人局かと翔は警戒を強めるも、唐突に繰り広げられるラケットのスイングと思わしき動作に、思わず気が抜ける。
とはいえ、柔軟な体を利用しての流麗で洗練されたそれには、目を見張るものがあった。
素直に見入っていると、ふと、覚えたデシャブ。
それが古い記憶と結び付いたことで、彼女の正体が、解き明かされた。
「──ああ、山浪さん!」
「そうっ、せいかーい!……久し振りだね?」
彼女の名前は、山浪夏海。
翔が小学生4年生の頃、同じクラスとなった同級生であり、そして。
翔の初恋の女の子であった。
中編②も早い内に投稿します。
感想お待ちしております。