タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
前話と同日の放課後、調布視点です。
私はその日。志野やみなりたちと別れると、すぐさま下校して。
駅近くのファッションテナントが入る商業ビルに入り、トイレで服を着替え、靴をアンクルストラップつきのヒールローファーに履き替え、洗面台で簡単に化粧をした。
あまり熱心に化粧していたことはないが、やってたことはあるし、それほど下手でもない。
今日は、教科書を学校に置いてきた。
残りは、補助バッグにすべて詰め込んだ。
着替えなどで少し膨らんでしまって不格好だが、仕方ない。
十数分後、裾のやや短い濃紺のワンピースに身を包んだ、どこか人形を彷彿とさせる姿が、鏡の中に出現した。
じっと見つめる。おかしくはないはずだ。男の気を惹けるように少しだけ挑発的に装った。
――童貞殺し、ってあなたに言われたけど。
あなたも童貞なのかしら?
唇にルージュを引きながら、志野が私に言ってた言葉を思い出す。
いやそんなはずはない、と思い返す。
あれだけのものなれた愛撫。がっつき童貞のなしうる業ではない。
だとすると、彼はどこで、――
あ、いけない。
考えるのは後だ。時間には遅れてはいけない、たとえそれが好きでもない相手との待ち合わせだとしても。
鏡の中の自分に、笑いかける。
整っているが、少し冷たい感じの笑み。
もう少し口角を上げて、目を細めて顔を崩し、温かみをだそうか。
最後の微調整をして、私は洗面所を出た。
―――――
私は今日、みなりの小父様と待ち合わせをしていた。
文化祭のとき。みなりが外泊することを認めてもらうため、電話をかけた。
そのときの小父様のリクエストが、なにか娘の話を聞かせてくれませんかね?ということだった。
みなりの小父様の提案で、私は彼と食事会をすることにした。
お互い分かってる、これはバーター取引なのだ。
さすがに絵柄的に、制服でいく選択はない。
志野には言うべきか迷ったが、過保護な彼に認めてもらえない気もして、黙って決行した。
わずかに、罪悪感があった。
ただ今回は、万全を期した。
行ってみたいところがあるので、店は選ばせてください。と言い。
私も両親と行ったことのある、ちゃんとしたお店を選んだ。
もちろん、門限があって遅くなれないんです。ごめんなさい、と牽制した。
それでもいい、と言っていた小父様には、どのような目算があるのだろうか。
電話での彼の声は、とても爽やかだった。
ただ、保険として門限を過ぎたら両親に書置きを見てもらうことにした。
書置きには会ってる相手、会ってる場所などが書いてある。
ただ、そんなものものしい書置きなんか渡しておくと、時間が来る前に見られてしまう可能性がある。
それでいきなり私の両親からみなりの小父様に問い合わせが行ってこじれて、それでみなりの立場が悪くなったりするのは避けたい。
だから、志野に一枚かんでもらった。
時間を過ぎてしまったら、志野に私の両親に電話を掛けてもらう。
そこではじめて、私の両親は私の書置きを発見することになる。
志野自身も、書置きの中身は知らない。
そういうことにした。
―――――
待ち合わせの時計台には、大学生らしきカップルとか、人待ち顔のスカートの短い女子高生とか、人目をひきたくて大声をあげてじゃれ合う面皰だらけの男子中学生とか、真面目そうなOLさんとか。
いろいろな人がいる。
門限が早いので、早くに始めてもらってもいいですか、と図々しく要求して。
みなりの小父様、勇さんには仕事上がりすぐに来てもらうようにした。
午後5時半の時報の鐘が鳴る。
待ち合わせ場所についてから、待つこと10分くらい。
鐘の音が消えて、数十秒といったところで。
人波を分けて背の高いダンディな紳士が顔に笑みを浮かべて歩いてくるのを見つける。
小父様だ。
手を振って、こちらも迎えに行く。
「ごめんごめん、待たせたかな?」
「いえ、全然待ってません。時間ちょうどでした。」
猫をかぶって、笑顔を浮かべる。
練習した、あたたかい風な笑顔を。
彼は整った容貌をしている。背も高いし、とてもモテる人なのだろう。
少し体重が増えてしまってるが、それも好意的にみれば貫禄がついたと評せる範囲。
顔に人好きのする笑顔を浮かべると、まるで有名俳優のよう。
現に、私の周りで彼に視線を投げてる女の子が何人もいる。
アルファ・メイルというやつなのだと思う。
私にも、女の子たちのやっかみというか値踏みの視線が飛ぶ。
ただ、私が彼に心を動かされたかというと。
まったくそんなことはない。どちらかというと苦手なタイプだ。
志野みたいな地味なヤツ、なんで構うのさ?とハルカには聞かれたけれど。
地味でいい。いや地味な方が、妙な傲慢さがないだけまだマシだと思う。
ただ、それはそれとして、小父様の長所は認めねばならないだろう。
如才なく私の服装を褒める彼に向かい、私も。
小父様こそ、とてもかっこいいです。何かスポーツしてらっしゃったんですか?とか聞いてみる。
たいていこの手の人は褒められると口も緩む。
私は表面上はかっこいい年上男性にあこがれる女子高生の演技で、彼の話を引き出す。
ただ。
以前に病院であった時より、今日はすこし浮ついてない印象。より沈着な印象がある。
私に対する視線。
どこかべとついた、性欲の対象として見ていた視線。
そのべとつきは変わらずに彼の視線に存在しているものの、別の要素がより前面に出てきている。
そう、今日の彼の視線には何か別のものが濃く混じっている。
冷酷さ、残酷さ?
そう、しいて言えば。
「悪意」に近いだろうか。
生きたまま蝶の羽をもいだり、猫を用水路に投げ込んだりする少年のような、奇妙に冷めた視線。
――サイコパスの視線だ。
私は、気を引き締めた。
―――――
街外れに移動して、予約しておいたイタリアンレストランに入る。
それほど高価でないのに美味しいと母親が言ってひいきにしてる店だ。
2階の特別の個室スペースの一つに入る。傾きかけた日に照らされる町の眺望が、ロマンティックだ。
彼は、申し訳なさそうに喫煙の許可を求めた。食後だけにとどめるから、と。
私は決して煙草の匂いを好きではないが、絶対イヤ、というほど潔癖でもない。
隣県の母方の祖父が吸っていて、揺り椅子に座ってすぼんだ口に煙草をくわえ、美味しそうにくゆらせていたのを懐かしく覚えている。
だから、了承した。個室だから他のお客さんにも、迷惑はかからない。
彼は運転するからと言って、アルコールは頼まなかった。正直、少し意外だった。
私は少しだけカクテルやワインのメニューに心が動いたが、もちろん普通にジンジャエールを頼んだ。
この店のは、全然甘くないので私の好みなのだ。
食事を待ちながら、彼と会話を交わす。
私は私なりに、適度に彼に気に入られるように振る舞う。
話を熱心に聞く。ちょっとしたところで彼を立てる。
みなりの友人である私が彼の気を損ねては、みなりに害が及んでしまう。
肝心なところは躱す。ただ躱すだけでなく、ちょっと機転の利くところも見せて。
彼の好みの女の子が、そういう子だと感じたから。
頭が良くて気が強い女の子。ダルくない感じの子だ。
私の勘違いでなければ、彼もこうしたやり取りを楽しんでいる。
会話は多岐にわたり。
みなりのこと、お仕事のこと。
自分の学生時代のこと。
彼は話し上手で、私は演技する必要もなく彼の話に聞き入った。
彼の子供のころの話。家族の話もちらっと出た。
彼の目の底のどこか冷ややかな悪意は、そうしているうちに薄れてきて。
特に注意深く観察しないと気づかないくらいにまで濃度が低下した。
それに対してべとついた性欲は、変わらず存在している。
私がメニューをみているときなど、私の胸元や腕にさりげなく投げかけられる目線に。
ただそれは、まあ一般的なレベルで、そこまで気にもならない。
彼との会話は、普通に面白く。
食事も、もちろん美味しく。
私は自分でも意外なほどにこの場を楽しんでいた。
間違いでなければ、彼もそうだ。
私も尋ねられれば自分の話題も提供し。
そして機を見計らって、みなりの親しい友人であること、一緒に勉強などして親交を深めていることを強調し。
それとなく彼がみなりに自由を認めてくれるよう、ねだる。彼は目を細めて黙って頷いている。
もちろん、大人と子供の間の話でしかない。
プラスに転ぶことを祈ろう。
話は多岐にわたり。
そのうち、彼は仕事や趣味のことも口に上せた。
彼は釣りもたしなむらしい。
最近こそあまり行かないが、昔は釣り船に乗って沖合に釣りに出ることも多かったとか。
獲物を釣り上げる楽しみを語り、竿を引きリールを巻く手つきを実演して見せる。
大きな目がくるくるとして、少年のように無邪気な笑みに、思わず、私も笑みを浮かべてしまい。
迎合するつもりもなく、私もしてみたいです、みたいなことを言った。
それに対して、彼はいいよいいよと言って。
「ただ、ね?――釣りとか、あと僕は、やったことないけど狩りとかも同じだと思うけど。
やっぱり、命を奪うことだからね。命は、――」
そう言いかけ。
そこで彼はふと何かを思い出したように、うっとえずき、真顔になった。
「さとみさん、ちょっとごめんね。ちょっと食べ過ぎたかな、お手洗い行ってくる。」
彼はそう言って、優雅に席を立ってトイレに向かった。
ただ、彼は気取られなかったと思ったようだったが。
彼の悪心を覚えたと思われる顔に浮かんでいた表情が、私の関心を惹いた。
私が間違っていなければ。
その表情には「罪悪感」ないし「恐怖心」があったから。
―――――
彼は自分で言ったとおり、少し食べすぎたのか。
その後自分はデザートも取らず、私が食べるのをにこにこしながら見守っていて。
私の食事が済んでから、やや独特な匂いの煙草に火を点けた。
そして意外にも何事もなく、食事会は終わった。
彼は私に、楽しかった、また会いたい、と言ってきた。
私も、楽しかったです、しばらくはちょっと忙しいかもしれませんが是非またご連絡させてください、と躱す。
空約束だ。具体的な約束は、しない。
彼もそれは分かってる。ふられたかな?と苦笑いしてみせる。
もう、そんなんじゃありませんから!と少し頬を膨らませ、笑いを取って見せる。
彼はウェイターさんを呼び、テーブルでお会計を依頼した。
そのときに私に意向を聞いて、食後のコーヒーも注文してそれも会計につけてくれた。
彼は代金を払おうとしたが、そこも固辞し、ほぼ半々くらいの割合で私も出す。流石に端数は出してもらった。
ごちそうになるようなことは良くないと言われました、と親を引き合いに出して困った風に眉を寄せて猫をかぶる。
いや、親は別にそこらへんのマナーについて何も言ったことはない。
だいたい親は知らない。こんな風に年の離れた男性と食事をしていると知ったら、激怒するだろう。
お金を出したのは、別にそれが平等に叶うとか思ったからではない。
ただ、私としては彼に心理的な優越感を抱かれたくなかった。
心理的な優越感、というのは少し違うかもしれないな。
要は、私に対して「貸し」があるという状態にしたくなかった。
そう、私を「お金を出して、買ったもの」と思われたくなかったのだ。
あいつに奢ったことがある、と思うと、男の人はそのサンクコストを回収しようと執着する気がしたから。
少し最後、清算や次回の話で私が譲らないと空気を悪くしてしまうかと思ったが、彼は思ったよりこだわらず、笑って切り上げてくれた。
そして、まだ最後に注文した私のコーヒーが来る前に。
よかったら、食後のコーヒー、ゆっくりどうぞ。
僕は、ちょっとだけ職場に用事を残してしまったのを思い出したよ。
本当は送って行くべきなんだけど、ごめんね。
今日は本当に楽しかったよ、気を付けて帰ってね。
そう彼は言って、ウィンクして先に出ていった。
もしかすると正式なマナーからいえば、女性を一人残していくなんてよろしくないのかもしれない。
吸いかけの煙草を消し忘れて灰皿に残していくのも、いただけない。
でも私には、先に帰って私を一人にさせてくれたのが、かえってありがたかった。
思いがけず楽しめたとはいえ、個室ではあったし。
彼に強く迫られたらどうしよう、ということはどこかで考えていて緊張していたから。
杞憂だった。
だけど、気のせいだろうか。
話をするうちに、かなり明るくなってはきていたが。
彼の目の底には、やっぱり沈んだ暗い光があって、陰惨で暴力的な、危険な香りがした。
でもまあ、結果オーライだ。
これでみなりの外泊を認めてもらった義理は果たした。
あとは少しでもみなりの行動の自由度が上がれば儲けものだ。
ほうっと息をついて。
肩の荷をおろして、供されたコーヒーを楽しむ。
ここのコーヒーも、喫茶店のものほど手をかけてないんだろうけどな。何気なく美味しい。
灰皿に残って燻ってた、彼の吸い残した煙草の火を消す。
煙草のニコチン臭さはほとんどなく、甘い、バニラみたいな匂いで少しだけ頭がくらくらする。お香に近い。
彼の口にはさんだものを手に取るのはちょっと気が引けたが、しかたない。灰皿にこすりつけて消す。
空気を入れ替えたいところだが、冷房が入ってる。まあ換気扇も回ってるので、そのうち匂いは消えるだろう。
飲み終わった私は、やがて立ち上がろうとして、――軽く躓いてしまった。
履きなれない、ヒール高めの靴のせいもあるけど。
アルコールを飲んだときのような感じではないが、少し体が怠い。
個室のドアが、重い。
おかしいな。肩を軽く回して、頬を軽くたたき。気を付けて足を運び。
ありがとうございましたー、という店員さんの声を背に、私は足元に注意しながらお店を出た。
少し疲れただけだ。
そのときは、そう思っていた。
―――――
店を出てしばらくは、どうもなかった。
店を出た途端に、どういうわけか場違いにもしつこくナンパしてくるガマガエルのような男とカマキリみたいな男の二人組を軽くあしらって追い払い。
あまり慣れないヒールの靴にすこし閉口しながら、坂を下る(このレストランは、街の少し外れの、緑の多い丘を上がったところにあった)。
下りてすぐのところに、バス停がある。それほどの距離ではないが、バスで帰ろう。
しかし、この丘の坂道を下る途中に。
私は、奇妙な恐怖に襲われはじめた。
何かが、私を見ている。
周りを見回す。そして発見する。
月。
月はまだ、下弦になりきっていない、いわゆる居待月で空に上がり始めたばかりだ。
私には、その地平近くの大きな赤みを帯びた月が、とても恐ろしいもののように思えた。
そう、何かの悪意ある生き物のように、見つめている。
いつもはかすかな月の模様が、異様にくっきりと見え。
疫病のせいでできたかさぶたのように、悍しく思えた。
パニックに襲われる。
いつのまにか、足元のアスファルトがとても柔らかくぐにゃぐにゃとしたものに変化している。
ちゃんと踏みしめても、ぐずっとゆれて倒れてしまいそうだ。
――違う。ぐにゃぐにゃしてるのは、私だ。
片側が公園になった、坂道の途中。公園の樹木が風に揺られ、葉が音を立て、セミが鳴きかわす。
なにかそれらが多くの害意を持った何かのささやきかわす声に聞こえる。
聞こえよがしに、私の噂をしている。罠に嵌ったことを嘲る歌が響く。
人が数人なにかを話しながら、思わずしゃがみこんでしまった私を追い越していく。
こちらは逆に。私の理性では日本語だとわかるのに、会話の意味が取れない。
怖い。
人が、たまらなく怖い。
彼らが、意味が取れないが私のことを何か言っていたような気がする。
遠くの人も、何か私のことを注意深く観察しているようだ。
そこらの瀟洒な白塗りのマンションの窓にも、監視の目があるような気がする。
力の入らない足を、無理やり叱咤して立ち上がる。
私の感覚は、狂わされている。私の感覚でまっすぐ立とうとすると、斜めになってしまう。いや、自分で垂直だと思う方向がゆらゆらと変わってしまう。
だから、理性で、頼りにならない感覚に逆らい、「こっちが上のはずだ」と計算して直立し、足で自分を支えた。
だが、もはや視覚もあまりあてにならない。
さっきから、妙なものが視野の隅、いや外にいる気がする。
視野のごく外側にいる。緑色の小人。
志野が前夜祭の夜に泊まった時に言ってた、怪談に出てくるような。
さびたスプーンで、目玉を抉り出すのだ。
怖い。
理性で恐怖を抑え込み、ふらつかずにゆっくりと歩くことを心掛ける。
しかし、恐怖心はどうしようもない。人の姿に、凍りつくような恐怖を覚える。
人の多いところになど、到底行けない。
まばらに近くを通り過ぎる人影。
普通の人ではない。奇妙に目玉を光らせた獣のような人である気がする。
私が目をそらした一瞬に、毒のしたたる尖った牙ある口を開くのだ。
普通の人の体の一部が、異形に見える。
通り過ぎた青年の手がカギ爪になっているように見えて、二度見してしまった。
結局、私は満足に歩くことができず。
坂道の途中の横にあった公園に階段の手すりを伝って慎重に降りて。
幸運にも空いていた電話ボックスになんとかよろめき入る。
べたべたとあられもない女性の写真を載せたピンクビラが貼りまくってある、電話ボックス。
煙草を押し付けたのか、おつりの取り出し口のプラスチックが溶けている。
私は苦労して財布を抜き出し、テレカを入れて、ナンバーを押そうとして硬直した。
ナンバーのボタンが、動いている。
まるで小さな蛆虫のように、ぷるぷると動いて移動している。
あまりのおぞましさに、吐き気がこみ上げてくる。
考える。助けを求めるのは、自宅か、志野か。
本当なら、自宅だろう。だが、この状態で親に見つかるのは、やはりまずい。
何らかの薬物でラリってる我が子。最悪だ。
それに親が帰ってくるのはたしか8時前くらいだったか。まだ帰ってきてるか怪しい。
腕時計を見ようとして断念する。時計の針が狂ったように早く回ってるように見えたから。そしてその針の先端が、私の目に刺さるような気がしたから。
志野に電話しよう。迷惑をかけてばかりだけど。
冷静な思考力を半ば欠いた私は。
志野に電話をかけようと、無理やりなけなしの理性で這いまわるボタンへの恐怖を押さえる。
チカチカとボタンが回転し、番号すら、どこがどこだかわからない。私は目を閉じた。
――左上から、右に1、2、3と並んでいたはずだ。
目を閉じたまま触ったボタンが、指の下で這いまわる気がして、鳥肌が立つ。
しかし私は思考を止めて、覚えている志野の家の電話番号を押していく。
電話の繋がる音。
はあっ、はあっという荒い息が聞こえて、害をなすものがすぐそばにいるのではと身を恐怖に固くする。
自分の息だった。
「調布か?」
涙が出てしまっていた。
切れ切れに、彼にこの場所のことを伝える。
―――――
いつのまにか、とっぷりと日が暮れてしまってる。
公園の街灯の下に、よく見えないが何かの生き物がたむろしている。
さっきまでは、たしか高校生くらいのだぶだぶした改造ズボンを履いた少年たちがいた気がする。
今は、何か奇妙に歪んだ体の悪魔が3体、いるようにみえる。思えてしまう。
こっちを見ている。
日が暮れた今、彼らの狩の時間なのだ。
シャボン玉のような、たよりなくぶるぶる震える公衆電話ボックスの柔らかいガラスだけが、彼らの邪視から私を守っている。
お願い、早く来て。志野。
怖い。
でも、彼が怖かったら?
志野も、悪魔みたいにみえたら。
そして私が、彼を彼とわからなかったら?
私は精一杯、普通であるように装い、志野に言われたとおり女子トイレに移動した。
街灯下の小さな悪魔たちが、こっちに注目してるように感じられたから。
また私の後ろの方に、大柄な別の悪魔が陰鬱にこちらを伺っているように感じられたから。
だけど。
公園の立ち木につかまり、よろめきながらおそらくはトイレであろうと思われるプルプル震える四角いものの開口部に入り。
決してきれいとはいえない、ぬめぬめと柔らかい床を踏みしめ。
女子トイレの個室であろうと思われるコンパートメントに入り、便器のふたを下して腰かけた。
何者かがすぐ後に来ている。驚いて、かろうじて扉を閉めるのに間に合った。
がんっ、とその何者かが入ろうとして扉に阻まれる。
ごん!ごん!と扉を叩かれ、叩き返す。
思ったより音が響いてしまい、私はびくっとした。
それは相手も同じようで、いったん、何者かの気配は消えた。
しかし。
気配は戻ってきた。――複数の気配に代わって。
入ってます。と言うのに対し。
開けろ、と声を低めて、脅すようにささやく声。
お前が出てくるまで、ここにいる。
早く出てこい。でなきゃブチ破るぞ、と。
耳障りな、ガラスを発泡スチロール片で擦るような声で。
この声は、そのままの声なのか、私に変に聞こえてるのか。
私に脅迫してるのは、さっきの悪魔みたいに歪んで見えたヤンキーたちなのか。
普通の状態なら、あの程度のヤンキー風情は蹴散らせる自信がある。でも今、この状態では、――
体の自由がきかない。叫ぼうとしても声が出せない。
私は、追い詰められていた。