※この作品はR-18です。

タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。   作:Marchhatter

159 / 321
少し時間を前に戻して、国領ハルカと志野が竜神の洞窟を脱出した朝の時点での、竜神の娘周辺の話です。


159 罪がまだ美しかった頃(15)(三人称)

 

 朝まだき、白みゆく空にきらめく朝露。

 国領ハルカという少女と、その婚約者であろう志野という青年。

 二人を見送った際に受けた心理的衝撃を癒そうと、竜神の娘は森の中を歩いていた。

 

 ちなみに衝撃を受けたのは、心術で少女の記憶の一部を読み取ったからであり。

 朴訥そうで心惹かれていた志野という勇士の青年が、思いのほか変態性欲的な行為をしていたことを発見し。

 暫くは足ががくがくするくらいの、少なからぬショックを受けていたのだ。

 

 覚束なくふるえていた足元が、固まり。

 青ざめた後、彼らの営みの記憶を再度検分して急激に赤面したため、顔に上がって鱗部分すらも火照って赤らんだかに思えた血が引いて、しばらく。

 1台の貨物自動車の気配がこの竜神村の傍の道路まで来て、そしてそこから人の気配が2つ降りて、近づいてきたことを彼女は察知した。

 

 ――ああ、頼んでいたあれだな。

 せっかくだが、本来の用途としては不要になってしまったが。

 まあ、使い道はある。

 村の童に氷菓子でも作ってやっても、いいし。

 村の共用の氷室に足しておくのでも、いいだろう。

 

 彼女は、人には不可能な速度で、まだ空気が冷たい森の木々の間を疾走する。

 志野を追っていたときには、武器を警戒して間合いを一定に保ち、速度も抑えていたが。

 今このときは、地形の許す限り全力で。そう、馬なみの速度で走ってみる。

 耳元を、冷たい風がひゅうひゅうとうなりを上げる。

 この力を得てから覚えた、爽快感の一つだ。

 この姿をみられたら。きっとひと昔前なら「山姥」とでも呼ばれていたであろう。

 昔話の山姥も、自分のように超常の力を得た存在だったのかもしれない。

 

 もっとも、竜神たる「父」は、この身以外には自身の力を受け継ぐ存在を創れなかったと言っていた。

 ただ、父以外にも父の世界からこの世界に来た存在はいたかもしれない。

 そのような痕跡を、父は昔は見たことがあると言っていたし。

 動植物も、それぞれの世界に独自のものがあるが、共通したものも多いと言っていた。

 父の来た、彼岸の地について夢想してみる。

 

 ――おそらく彼岸と此岸とは、かつてはもう少し行き来しやすかったのだろうな。

 人間も、往来したのであろうし。

 義経も蒙古でなく、父の故地にたどり着いて子孫を残していたりしたら、愉快だな。

 

 そんなことを、思ううちに。

 おっかなびっくり覚束ない足取りで森の道をたどり、トロ箱を運んでいる二人の近くに到着する。

 ちょっと悪戯心を起こして、近くになると足音を忍ばせ、傍に忍び寄り。

 ものかげから、まさに通り過ぎようとする二人に呼びかける。

 

「ご大儀様。早速、もってきてくれたのですね。」

 

「うわあっ!」「ひいっ、――ああ、姫さんでしたか。はぁ、はぁ、――」

 

 声を立ててしまい、あたりの小鳥を驚かせてバサバサと飛び立たせてしまった一人は、飯場そばの工事現場でも見かけたことがある茶色の短髪の若い男だ。

 もう一人はよくなじみのある、飯場の運営会社との窓口役の、白髪混じりの中年男。

 ふたりとも暗がりにまぎれて近づいた彼女に気づいておらず、狙ったとおり驚いてくれた。

 その様子に、思わずくつくつと笑いが漏れてしまう。

 

 この中年男は彼女が子供の頃、かわいがってくれた村人の小父さんによく似ている。

 別人だとわかっているが、ついつい面影を重ねて甘えてしまうのだ。

 この中年男は、荒っぽいこの業界の人間にしてはそこそこ温厚かつ善良であり。

 彼女の異常な能力や、鱗や猫に似た瞳孔など奇妙な外見に対する偏見も少なく。

 仕事以外のときは、ただの若い娘として彼女を甘やかしてくれる、稀有な人間である。

 もっとも村内部のことは何一つ知らせてないので、年端もいかない彼女に何もかもをやらせている竜神教(という体裁を作っている)や、その上層部(本当は、存在しないが)には、かなり批判的な言動をこぼす。

 その分、彼女個人には同情的で。

 時折、珍奇で色鮮やかな樹脂の袋に入った美味なお菓子とか、お洒落な小物や化粧水をくれたり。

 ときには、余ったからと言って未開封の酒の瓶や裂き烏賊の大袋を渡してくれたりする。

 自認するように、酒好き女好きのダメ親爺の気があったりするが。

 そんなところも妻に先立たれて男やもめだった村の小父さんに似ていて、親近感が湧く。

 

 彼女の叔父だけでなく、その村の小父さんも、彼女を竜神の贄に捧げることに反対してくれた。

 もちろん、抜け道を見つけて帰ってきた彼女を再度、窖に放り込むことにも。

 ただ最後は脅されて黙らされ、罪悪感にみちた目で彼女を見送っていたことを、彼女は覚えている。

 50年後に、消息を求めたが。

 殺されはしなかったものの、彼女が贄にされて直後にめぼしい財産を取り上げられ、村を追い出されたと聞いた。

 彼女のせいで、不幸にしてしまったのだろう。

 彼女を贄とした村人たちへの苛烈な復讐は、彼女の抱くその罪悪感の反動だったかもしれない。

 自分の受けた汚らわしい行為は、もうどうでも良かった。

 あれは自分自身への加害への報復ではなく、自分に殉じてくれた人々への弔い合戦だったのだ。

 そんな想念を、頭を軽く振って隅に追いやる。

 

「姫さんも、お人が悪い。心臓止まるかと思いましたぜ。

 ――それにしても、どうしてわかるんですかい。もしかすると、ずっと待ってらしたんで?」

 

「まさか。ただ歩いていたら運良く、小父さんを見つけられたのですよ。」

 

「――またまたぁ。まー、良いんですけどね。」

 

 横目でみる限り、もう一人の若者は度肝を抜かれた様子ではあるが、彼女の異相などに対する忌避感はあまり感じられない。

 中年男が、ひじで若者をつつく。

 

「ほらアツ、挨拶や。――すみません、挨拶遅うなって。うちの有望株ですわ。」

 

「押忍、大以田 敦っす。」

 

「アツ、見たことはあるよな?沢上村のな、咲耶姫さんや。」

 

「咲耶です。この度は、お骨折りありがとうございます。」

 

 贄とされ50年後に目覚めて以来、姓は捨てている。

 神職だった親は贄とされた一人娘のことを悲しみ、自責の念に苦しみ。

 その後、1年もたたないうちに母は自殺し。

 父もそれを追うように食を断ち、衰弱死したと聞いた。

 彼女が殺したようなものかもしれない。

 親の姓を名乗らないのは、それを継ぐ資格のない親不孝者だからだ。

 

 挨拶して丁寧に頭を下げると、へどもどしながらアツシという青年もぎこちなく頭を下げた。

 肉体労働に従事している者にありがちな粗削りな作法だが、悪印象はない。

 純朴そうな好青年だ、と思った。

 

「おう、きっと姫さんが思いのほかべっぴんさんで、照れとるんですわ。」

 

「タモさんっ!」

 

 仲よさげな様子に、思わず笑ってしまう。

 アツシという青年は、彼女の笑顔にびっくりしたように目を見張り。また中年男に冷やかされて苦笑いした。

 空気が弛緩した頃。

 

「それで、すんません。品物なんやけど。」

 

 中年男は、まだ店があいてなくてまだ少ししか用意できませんだ、と申し訳なさげに言って。

 道に若者が運んでいた大きなトロ箱を置き、蓋を開け。

 中に詰められたどらいあいす、樹脂の袋入りの氷数袋と、「あいすのん」という小さめの枕ほどの大きさの冷却剤のパック数個を示してみせた。

 「あいすのん」は、流感などで熱のあるときの氷嚢や氷枕に使えるという。繰り返し凍らせて使えるので、返してくれたら凍らせて仕事の入った際に渡す、とも。

 

「これでよいのです。ありがとうございました。

 ただ、事情が変わって、追加分は要らなくなりました。」

 

「!」

 

 男たち二人は、少し驚いた様子だったが。

 

「そうでしたか、では、今回はこれだけということで。」

 

 また必要なら、いつでも言うてください。と中年男が言う。

 また宜しくお願いいたします、と返す。

 

 代金を礼儀までに聞くが、また今度の仕事でお願いしますよ、それで十分でさあ、と返される。

 この手のことを時々頼むが、彼はほとんど受け取ったことがない。経費で落ちるんですわ、という。

 

 彼は、大きい、青年の運んでいたそのトロ箱を彼女に引き渡すと。

 さらに、もしこっちもよければ、と。

 小さい方の、中年男の運んでいたトロ箱も渡してよこす。

 彼女が開けてみると、村の住人に行き渡るだけの氷菓と菓子がどらいあいすや冷却剤とともに詰めてあった。

 

 一度、この樹脂の袋に入った氷菓を仕事の後に貰って食べたことがある。

 信じられないほどに、甘く美味で。

 夢中で食してしまったのを、覚えている。

 そういえば、この男。あれを微笑ましげに見ていたな。

 きっと、覚えていてくれたのだろう。

 

 覚えず頬を緩めながら礼を言うと、安もんなんで、気にされるとかえってきまり悪うなりますわ、と笑って言われた。

 

 この男もただのお人好しではない。十分な利益を彼女の働きから得ているのだろうけど。

 ただ、そうだとしても。その心遣いは嬉しかった。

 

 ―――――

 

 しばし立ち話をして。

 タモさんと呼ばれている中年男(ちなみに名前は、上仲平(かみなかだいら)保(たもつ)というらしいが、彼女は懐旧の思いから『小父さん』と呼んでしまうことが多い)は、帰り際にあることを彼女に伝えてきた。

 

「そう、あの頼んでた『人の仲買』のことなんですが。

 話、流れそうなんですわ。上の方に、お伝え願います。」

 

「あの、奉公人さんの周旋の件でしょうか。」

 

 「仲買い」「周旋」というのは、彼女が飯場から請けることのある仕事の一つだ。

 最初は飯場と彼女たちの集落は、あまり良好な関係ではなかったが。

 小競り合いで示された彼女の圧倒的な腕力に、飯場側が目を付けて、仕事を依頼するようになり。

 その一つとして、この中年男の勤務する会社つまり飯場を運営する会社が、この中年男を通じて、ときどき物の物品の売買の仲介や立ち合いを彼女に頼むことがあるのだ。

 わざわざこんなところで立ち合いを頼まれるのは、簡単に言えば売買の相手方が法を尊重しない組織だからだろう。

 中には非合法な物品もあるのかもしれない。普通の物品なら、普通に売買するだろうから。

 ただ、今までのところは彼女がその実力を振るう機会はなかった。

 取引に先立ち、両当事者を竜神から受けついだ心術で軽く威圧するのが効いているのかもしれない。

 そして、先日のこと。

 

 ――奉公人を一人、とある屋敷に入れることにしたい。

 ただ、新しい雇主も今の雇主もお互いに素性を知られたくないし、飯場の運営側も主体的に関与したと知られたくないので、いったん竜神教がその奉公人の身元を引き取るという形で、仲介役を演じてくれないか。

 

 そう頼まれて、断り切れず引き受けた。

 これまでは物品だけだったのだが、今回は人。

 なんでも、これまで別の仲介人を通じていたのだが、その仲介人が死んでしまい、そのルートが使えなくなったとのことだった。

 簡単にいえば、名義貸しに近い。奉公人をいったん引き受けると言っても、実際に村に滞在するわけでもなく、旧雇主から奉公人の身元を預かり、新雇主に引き渡して終わり。

 それで、それなりの仲介料を払うといわれた。

 仲介人が死んだというのも怪しい。何か後ろぐらい事情がありそうだ。

 それに加えて貧しい村を食い物にしていた、人買いを生業とする周旋人たちの悪業を耳にしていた彼女は、その仕事にあまり乗り気ではなかった。

 

「ええ、――姫さんも、お嫌みたいだったじゃないですか。

 そう、あっしもね、」

 

 上がり始めて木々を通して届いた陽の光を、中年男は眩しそうに目を細めて見上げた。若者も、それに倣う。

 今日までは天気が持ちそうだ。

 

「頼んだあっしが言うのも、なんですが。

 なんか今回のあの周旋の件は、お偉いさんの命令で、しかたなくお願いしてましたけど。

 前にもちょい言うたように、何やらけったくそ悪いんですわ。

 これ、多分売り手と買い手のどっちか、あるいは両方、嘘ついてますわ。」

 

 そう、彼は吐き捨てる。

 具体的な事情までは言わないが、温厚な彼は何か思うことがあったのだろう。

 

 こういうところが、彼女がこの男を好ましいと思う理由なのだ。

 この男は善良ではあるが、まあこの組織では比較的まともだというだけのこと。世間的には後ろ暗いこともしている。

 保身も図るだろうし、嘘もつくだろう。裏切ることも、もしかするとあるかもしれない。

 だけど、この男は人間なのだ。組織の非情さに、どこかで染まりきれていないのだ。組織人としては、あまり好ましくないあり方なのだろうが。

 だから、人間としては信用できる。弱い人間だから、己を曲げることはあるだろうとしても。

 贄にされたあの夜、自分を見送っていた、あの村の小父さんの涙で腫れた赤い目を思い出す。

 

「――そうですか。」

 

 だったら、話が流れるのはよかったのでしょうね。

 そう、言葉を返す。

 

「姫さんも、気に食わない話がきたら。

 断っちまえれば、いいんでしょうけどね。」

 

 中年男は、声を少し潜めてそういう。

 こっちでも、ほんとにヤバそうなのは言いますから、と。

 

「そういうのは小父さんが取引相手に言ってはいけますまい、お仕事なのですから。

 でも、ここにいらしたときは、仕事でなく気楽に独り言でも愚痴でもこぼしてくださいまし。

 もしかすると、上の人が判じるときに。

 小父さんの話をもれ聞いた私の差し出口を、上の人が思い出すこともあるかもしれません。」

 

「ええ、いや、そうですな。これは一本取られた。

 姫さんの方が、よほど大人だ。

 なあアツ、いまの話は、聞かなかったってことで、頼むな?」

 

「え?あ、もちろんっすよ。」

 

 オレも、手当は高くても。

 なんかよくわからない、ヤバそうなのは嫌っすよ。

 

 そう、アツシ青年も言って、そうだよなあ、と男が相好を崩してばんばんとアツシの肩を叩いた。

 

「あ、長々すんません。

 姫さんも、お気をつけて。」

 

 そこで、話は終わり。

 トロ箱を集落まで運ぼうかと言われたが、彼女一人で十分だし、どうも睡眠不足そうな彼らの時間を奪うのも悪いので、丁重に断り。

 彼らも少しほっとしたように頭を下げ、帰っていく。

 彼女は、彼らが軽トラックに向かう道をたどるのを見送り。

 荷物をかさねて抱え、集落への道を帰っていく。

 日は、そうこうしているうちにかなり上がってきていた。

 

 ―――――

 

 彼女の村、沢上あるいは上竜神沢と呼ばれる集落は。

 彼女が半世紀にわたる眠りから目覚めるころには、すでにかなり衰退していた。

 彼女が目覚め、数名残っていた仇を竜神に引き渡す形で処刑した後。

 彼女は、集落の立て直しと整理を図った。

 村以外にに身寄りのいたり、仕事の当てがついたりする者には、支度金を捻出して転出を図ってもらった。

 彼女を贄に捧げることを決めた者たちにも重なる、身勝手な長老たちに村や各家の財産が食いつぶされていて。

 若者もまったくいなくなってしまったこの村に、未来がないことは明らかだったから。

 最後に残った十数名の、身寄りのない老婆や寡婦。

 それらで、一種の共同体として生活を始めたのだ。

 彼女が飯場と交渉して、金と仕事を得る形で。

 

 もともとこの集落は、極度に孤立していた。

 竜神という秘密を守るためだったのだろう、村外への伝手も少なく。

 残った十数名も、わずかな農地を耕すくらいしかできない。

 そこへダム建設の話が持ち上がる。

 最初は、揉めた。

 飯場が、彼らのテリトリー(実際には村の長老たちが勝手に入会地や他人の土地を売り飛ばしたりして、権利関係がもつれきった場所であったが)に、勝手に工事を始めたからだ。

 

 数度の小競り合いの後、話がついた。

 なにしろ彼女には竜神譲りの超常の力、心術と怪力があった。

 暴力をなりわいとしていると思しき、怪しげな愚連隊の乗る自動車を、彼女は軽々と持ち上げてみせ。

 それで度肝をぬかれたあたりを契機に、飯場側は力による解決の愚を悟り。

 

 彼女は、この村周辺にかぎり土木工事を手伝い、飯場は礼金を与える。

 ダム工事でこの村の土地が必要な場合、正当な見舞金を飯場は支払う。

 飯場は、彼女が認めた者以外は、この村には立ち入らない。

 

 そういった内容で、取り決めがなされた。

 当初の計画(当初は私腹を肥やそうとした長老たちが好き勝手していて、この村も相当部分が水に沈むはずだった)も変えてもらい。

 その見返りとして、また村のための収入を得るために、彼女は大活躍した。

 そう、その異常な膂力で。

 

 起重機やショベルカーなどでも入れないような困難な地形での作業も、彼女にとっては造作もなく。

 大木を次々に引き抜き、急傾斜地も縦横無尽に走り回り、次々に整地していく。

 もちろん、飯場側もその彼女の働きに対して相当の報酬で報いた。

 それでも人員を割き、高価な工作機械を入れるよりはるかに安上がりなので、会社は大いに潤った。

 ただ、一人の人間がそんな異常な働きをしたと記録して、目をつけられるわけにもいかず。

 会計帳簿上は、芳しからぬ操作が入ることにはなったが。

 

 ともかくそうした収入で彼女は資金を得て村を整備し、古風だが穏やかな生活をこの死にゆく村にもたらした。

 その過程で、行き場なくこの僻地まで逃げてきて無理心中しようとしていた母子たちを引き受けたりもした。

 それでわずかに、村に新しい風も吹き込んだ。

 

 ただ。

 彼女は誓約により竜神から離れられない。仕事は、この集落周辺でしかできない。

 そして、村には貨幣収入を得る手段が、ダムに供する土地の見舞金と彼女の働き以外にはない。

 どちらも、ダムが完成すればもはや見込めない。

 もっとも、住人のほとんどはもはや明日亡くなってもおかしくない老人たちだし。

 ほかに身寄りのない母子たちも、母が仕事をみつけたり、子が働けるようになったりすれば村から出て生きていけるだろう。

 

 そうすれば、彼女は責任をすべて果たし。

 少しずつ異形化が進んでいき、心身が化け物に成り果て。

 殺戮の衝動にこの身が染まりきるまでに、間に合うように。

 すべての人々をこの村から逃がすことができる筈だ。

 そう、彼女は考える。

 

 老いた竜神たる父が今はいてくれるが、彼が死したら、理性を失った彼女を抑えきれる存在はない。

 そして竜神の死は、近い。

 

 そんな折にあの勇者、志野を見出して。

 彼女の心は、さまざまに揺れ動いていた。

 竜神の娘という異形のこの生に終止符を打ってくれるであろう、英雄への期待と恐怖。

 そして、平凡な世間知らずの一村娘としての、ほのかな思慕。

 

 彼に許嫁がいることは、知っていても。

 彼のことを考えると、心臓の鼓動が不規則に乱れるのだ。

 彼の異常性欲を知ったことも、いまは興奮を高める奇妙な香辛料となっていることに気づき、苦笑する。

 彼に討ち果たされるまで心に秘めねばならない邪恋であるな、と思う。

 

 村の十字路にたどり着くと、起きて水を打っている人影。

 彼女の同年代の幼馴染、いまではこの集落の取りまとめ役である老婆だ。

 菊という名のその老婆はまだ矍鑠としていて、彼女の方針にも賛同してくれて。

 彼女とともにこの村の舵取りを担ってくれている。

 この幼馴染も、彼女の異相を気にせず、昔の幸せだった時代のことを彼女と語らい合うことを無上の楽しみとしているようで。

 そういうときの笑い声は、昔の少女時代のそれなのだ。

 

 トロ箱を見せて菓子のことを知らせると、いかにも嬉しそうに口をすぼめて相好をくずす。甘党なのだ。

 彼女らの話し声に気づいたらしい小さな童が、起き出して家事をしていた母のもとを離れて突進してきて、彼女の膝のあたりに抱きつく。

 母も出てきて、丁寧に挨拶してくれる。ちょっと距離があるのは寂しいが、悪感情はなく畏敬の念があるのを感じる。

 

 ほらほら、荷物があるからいまはだめですよ、と幼馴染に言い聞かされてしぶしぶ離れた童子に、あとで遊ぼうか、美味しいものがあるよと約束し。

 

 氷室に向かう彼女の足取りは、心持ち軽くなっていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。