タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
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人名の「品鳥」を「日土里」に修正しました。
(調布智美視点)
「――紫藤さんが行かれるところのご連絡先、いただいてもいいでしょうか?」
私の問いに、その、奨学会の担当者。
しかし、答えようという様子もみせなかった。
ただ、温厚そうな笑みを浮かべて、感情の感じられないやわらかな視線を返してきた。
その無感情な視線に、私はひるみそうになったが。
私が求めていることは、決して常識外れのことではないはずだ。
だから、丁重に言葉を重ねた。
「どのくらい、紫藤さんのご用事の時間がかかるのかわかりません。
ご迷惑かと思いますが、もし遅くなったときに備えて、ご連絡先をいただけないでしょうか?」
「―――」
答えは、ない。
施場さんは、相変わらず、唇の端を釣り上げて。
一見、温かそうな笑みを浮かべて私の顔をじっと見つめている。
私はその対応と彼の表情に、違和感を覚えていた。
いや、表情については、今に始まったことではない。先ほど顔を合わせたときからだ。
どういえばいいのだろう。
微笑むときに、当然に伴う顔の自然な動きの一部が欠けている、とでもいえばいいのだろうか。
簡単に言えば、この人の笑みは、つくり笑いだ。
ただ笑っているかのような形に唇を釣り上げ、目を細めているだけなのだ。
そして、求めた答えは返ってこない。
考えている、迷っているという風ですらない。
聞こえてはいるのだろう、こんなにじっと見返しているのだから。
でも、答えを返そうという意思があるかどうかすら、よくわからない。
この、居心地の悪い沈黙に。
私の横の先生が身じろぎする気配を感じた。
微妙に緊張した空気の中で。
私は勝利条件を変えよう、と決意する。
この人から直接、連絡先の情報を引き出せなくてもいい。
善意に解釈すれば、おそらく。
この人は、臨機応変な、柔軟な判断ができない人なんじゃないか、と私は想像する。
「常識の範囲内で」みたいな曖昧な指示が、苦手で。
だからいきなり出てきた部外者の小娘に、予想外のことを言われて。
そう、連絡先を言っていいかどうかすら、判断できなくて固まっている。
――そんな人じゃないか?と。
それならそれで、やりようがある。
ちょっとかわいそうだけど、この人の不器用さ、融通の利かなさを、際立たせて。
この人には頼れない、生徒がかわいそうだ、と同席している担任の先生に思わせて。
先生を味方に引き込めば、この人の連絡先を先生から入手したり、あるいは先生を通じて連絡を取ったりできるだろう。
そのルートを狙おう。
もちろん、私もこの奨学財団の人(施場さん)が、本当に不審な人だなんて、思っていない。
表情や応対がぎこちないだけで、誘拐犯だとか飯場の手先だとかいうわけじゃないのだろう。
誘拐目的なら、こんなあからさまに怪しまれそうな人は出さないだろうし。
まだ仕事に就いたわけでもない小娘の私の、失礼な想像でしかないが。
直接に利益を生み出すわけではない奨学会というのは、利益を重んじる企業グループでは、花形部署とはされていないのではないだろうか。
もしかすると企業グループの社員の中で、人付き合いとかが苦手な人が配置されやすいのかもしれない。
仮に、そうだとすれば。
この人も、そういう人の一人なのかもしれない。
杓子定規で、対人ビジネスには不向きと思われて、この仕事の担当とされたのではないか。
ただ、それはそれとして。
私としては、責任を果たすために。
みなりの連絡先を入手しておきたいのだ。
先生も、この奨学会の人の挙動には、不審さを感じたみたいだ。
大人である先生をこっちに引き込むために、私は素知らぬ体で、たたみかけた。
「それか、もしこちらからご連絡するのにさしさわりがあるんでしたら。
紫藤さんからあたしに連絡することができるよう、お取り計らいをお願いできませんでしょうか。」
答えはない。
温和そうな表情、作り物めいた笑みのまま、固まっている。
先生は、私の問いかけに対する先方の沈黙にますます困惑を深めたようだ。
先生が咳ばらいをして、発言した。
「断りなく他の生徒を同席させたこと、もしかすると失礼だったでしょうか?
ただ、この生徒の言うとおり、学校の生徒たちの活動の必要がありまして、――」
先生は、もともとは特に積極的に介入したりするつもりはなかったのだと思う。
それは仕方ない。先生も忙しいし、部外者の一生徒に連絡先は教えられない、と言われたら、そうですよね、とあっさり引っ込むつもりだったんじゃないかな。
でも、さすがに私が完全無視(?)されたこのいきさつをみて、看過しかねたのだろう。
私のシナリオに乗って、先生も助太刀になる言葉を述べてくれる。
「たしか、さきほど、お名刺をいただきましたが。
そちらのご連絡先でしたら、お伝えしてもよろしいでしょうか?」
先生、よくぞ言ってくれた。期待以上だ。
そのルートで連絡先を入手しよう、と思ったとき。
ようやく奨学会の人から、柔和な声での返事が返ってきた。
私にはどこか人工的に思える、つくり笑いを伴って。
「ええ、事情はわかりました。
特別奨学生の方のお帰りは、遅くなるかもしれません。
だから事務窓口の電話番号と担当者をお伝えしましょう。
そして、その窓口からお知らせがあれば、こちらから折り返しご連絡を入れるようにいたしましょう。」
そして、吉祥奨学会の窓口ですが、と電話番号を伝えられる。私はメモを取る。
奨学会の人が、言うには。
みなりは住み込みの条件での特別奨学生なので、居住地は財団関係者の私宅となる。今日、行くのもそこだ。
だから、その私宅を連絡先にするわけにはいかない。
その代わり、こちらの事務所の窓口経由で連絡が取れるようにしておく、とのことだ。
つまり、この連絡先の事務所にみなりがいるわけではないが、その事務所からみなりに連絡を取り、みなりから
まあまあ満足できる回答だ。しかも。
「それとは別に、もちろん一度、夕刻以降にご連絡を入れていただくようにしましょう。」
夕刻以降までかかるのか、と思ったけど。
連絡ができるのなら、それはそれでいい。
だが、私はさっきまでとはまた違った、妙な胸騒ぎを覚えはじめた。
目的を果たしたことになった私は、そこにとどまる理由を失い。
それでは私は失礼します、紫藤さん、またね?とみなりに声をかけて、退出する。
みなりが、ちょっと心細そうな目でこちらを見やる。
私は、この財団の担当者の方からは死角になる側の目だけをつぶってみせ。
何気なく、人差し指の甲で唇を撫でるようにしてみせた。
担当者の方はみなりの方を見ていて、気づいていない。
そしてみなりは私のサインに気づいた、と思う。
担当者の方は、柔和な笑顔にみえる表情で、応接室から出て行こうとする私に振り返った。
私はその方の不自然な笑顔にも目を合わせ、微笑んで深く礼をして。
そしてみなりと先生にも、礼をして退出した。
――――――
廊下を教室へ向かって歩く。
授業が終わって、男子たちが大声をあげてる。女子たちの、かしましく黄色い声が響く。
ガチャガチャと机と椅子の鳴る音、階段を降りる足音、交わされるあいさつの声。
その音の洪水の中を歩きながら、私は今の一幕を反芻する。
この、不意に高まってきた胸騒ぎ。
これが何に起因するかを、分析しようとする。
あの奨学会の人の妙に固定的な笑顔への、違和感。
それに、みなりは気づいてた。
最初に目を見交わしたときに、既に何か異常を訴えるような表情だった。
そして私ももちろん、あの人の表情の不自然さに気づいたけれど。
あの最後に退出する直前に胸騒ぎを覚えるまでは、それがあの人の個性によるものと思っていた。
だけど、あの人の不自然さに対する私の解釈は、正しかったのだろうか?
私はあの人の表情の不自然さを、人付き合いの下手な人、表情を作るのが下手な人だからだろう、って思っていた。
たとえば、太宰治の「人間失格」。
あの物語の主人公、大庭葉蔵の笑みも、「一から十まで造り物の感じ」と評されていた。
そういう人は、いるのだ。
だからと言ってその人が悪い人だというわけじゃない。不器用なだけだ。
大庭葉蔵も、心中未遂で相手を死なせはしたが、誰のことも意図的には傷つけてない。
それともうひとつ、私があのつくり笑いをみて思い出したこと。
それは、私の親戚のことだ。
私の親戚、本家の人間で、過労で軽く精神を病んで休職していた人がいた。
私と親が帰省した折に、実家(本家)に戻ってきていたその人と話す機会があったが、その人に、あの奨学会の人は少し似てると思った。
笑う表情の、どこか不自然な感じ。痛々しく、無理してる感じ。
とても優秀だったし、ちょっとかっこよくて幼い頃は憧れみたいなものを持ってた従兄だったのに、そのときはどこか燃え尽きた木像のように見えた。
彼は休職期間を経て復帰したが、その後自殺した。
私も親と参列した葬儀の場で、泣きくずれてた彼の母親の声を、今でも覚えている。
そう。そうした例が頭をよぎって。
表情が固定的なのも、返事がなかなか返ってこないのも、性格か精神的な不調かによって臨機応変さに欠ける状態だからだろう。
そう、解釈してた。
しかし今にして思うと、その解釈は正しかったのだろうか。
途中から、あの担当者の人は、急にごく真っ当な内容の返事をなめらかに返してきた。
そこからだ。違和感が弱まるどころか、かえって強まる感覚を覚えたのは。
精神的な不調や、人格的な杓子定規さがあるというのなら、あんなすらすらと答えは返ってこないだろう。
だとしたら、あの答えてくれるまでの沈黙は何だったんだろう?
何かの指示や指令を待って、沈黙してた?
そんな突拍子もない考えが頭をよぎって、あわてて頭を振って打ち消した。
妙なうそ寒さを、私は感じながらも。
少なくとも彼単体は変な人であっても、背後関係からは害となるような要素はみつからないし。
志野が心配してる、飯場みたいな後ろぐらい関係との結びつきもなさそうだ。
そう、自分を納得させて。
とりあえずは廊下で行き交った友達の無邪気な声に、笑ってあいさつを返し。
部活のことや、部活が終わってからハルカを送って行くときのことについて、頭を切り替えていた。
――――――
――――――
(紫藤みなり視点)
「ほう、そうですか。優秀そうな生徒さんですね。」
「ええ、こう言ってはなんですが、あの子は立派ですよ。
成績もトップクラスで、文化祭もきちっと企画立案して、運営も仕切ってくれて。
大人顔負けですよ。クラスのリーダー格ですね。」
「もしよろしければ。
あの生徒さんにも、こちらの奨学プログラムへのご応募をお勧めしたいと思いますが。」
「あ、いえ。
優秀さでは、彼女はもちろんいうことなしなんですが――。」
「本当に、おすすめしたいのですよ。
優秀な人材を発掘し、
応募要項を、お渡しくださいませんか。
是非、ご本人におすすめください。」
わたしの目の前で、担当者の方(勇お父さんの兄だから、私からは伯父にあたるのだろうか?)と、担任の先生の雑談が続いてる。
話の内容は、さとみんも特別奨学生にどうか?という勧誘の依頼らしい。
担当者の人も、さすがにさとみんの覇気に気づいたんだろうな。
この人間味のない人には不思議なほどの熱意で、奨学生への応募を勧めている。
わたしは、自分のことではないのに、なんとなくうれしくなる。
だけど、やっぱりどういうわけかわたしは、奨学会の人だというこの伯父さんが、普通の人にみえない。
すっごく精巧なアンドロイド、みたいな感じを受けてしまう。
そして勇お父さんが、この人のことを、人形みたいになってきてる、って言ってたことを思い出してしまう。
さとみんも、この人の不自然さには気づいてた。
去り際の目配せと、指で唇をなでる動作。
たぶんあれは、言葉に気をつけて、というサインだろう。
「あ、お引き止めしてしまいましたか。
ええ、いい話かと思いますが、本人次第ですね。本人にも、お伝えしておきますが。
そして、紫藤みなりさんのこと、どうぞよろしくお願いします。すごく頑張り屋さんの、優秀な子ですから。」
「大切にお預かりして、彼女にも
それでは、ここで失礼させていただきます。」
担当者の人は、丁寧に礼をして、先生も礼を返す。
そして先生は、お送りしますよ、と言って私たちを駐車場まで送ってくれる。
廊下を歩きながら、先生が。
――紫藤さん、お母さんのこともあるし、転校することになると大変だと思いますが。
転校した後でも、もし困ったことがあったら連絡くださいね。
小さいこと。なじめないな、とかいう程度のことでもいいんですよ。
うまくいったらいったで、たまにふらっと立ち寄ってお話、聞かせてくれたらうれしいです。
そう、言ってくれた。
お礼を言いながら。
ちょっと変人だと思われてるけど、この先生はいい人だな、と思った。
駐車場には、すでにエンジンがかかっている、立派な黒塗りのドイツ車がある。
窓にはスモークが入ってて、なんだかこわい人たちの乗る車みたいだ。
私は、後部座席の右側に座るように指示された。
左ハンドルの外車なので、運転手さんは左前の位置にいる。
この担当者の人(勇お父さんのお兄さん。私の伯父さんだね)は、助手席に座るのかと思ったけど、運転手さんの後ろの左後ろの席に入ってきた。
「
白髪混じりで顔も笑いじわみたいなシワがあるけど、たぶん外見ほどは年取ってない。
まだ30代前半くらいじゃないだろうか、とわたしは見積もった。
お邪魔します、と言って車に入った私に対し、彼は視線を合わせず、声も返さず。
でも運転席からおもむろに振り向いて、座ったわたしの顔は見ずに、なんかじろじろと首から下をなめまわすように見はじめた。
胸元とか、腕とか、スカートから出てる脚とか。それはもう露骨に。
なんだか、あっけにとられてしまった。
いや、志野くんもけっこうわたしの、その、まだまだ子供の体を熱心にみてることがある。
この小さい胸とか、脚とかね。
でも志野くんは、わたしが志野くんの視線に気づいたって思うと(本当はそれ以外のときも、ぜんぶ気づいてるよ?)、目を伏せたりそらしたり、はずかしそうにしたりする。
そんなところも、――うん、かわいい。許せる。いいんだよもっと見てくれて。志野くんなら、ね。
でも、この近知郎さんはぜんぜんちがう。
好奇心というか性欲というか、何かの関心がむきだしで。
そしてどこか値踏みするような視線。あけすけなんだ。
なんかむかっとしたけど、ぐっとおさえた。
「近知郎、わきまえなさい。」
伯父さんが、穏やかながら咎める声をかけると、しぶしぶ近知郎さんは前を向いた。
「先に吉祥、本社の総務部ビルに。その次、御前様に。」
伯父さんの声に対して、了解、とだけ言って、その
後部窓から振り返る。
ひげをはやした先生は、にこにこと見送って手を振ってくれてる。
スモークのガラス越しだから先生には見えないかもしれないけど、私は後部窓からぺこっと頭を下げた。
そのふりかえっていたわたしを、舐めるように。
運転席のルームミラー越しにみつめていた視線に、わたしはそのとき気づいていなかった。
――――――
一般道に出て、滑るように車は道路を疾走していく。
後部窓から見える学校は、すぐに遠ざかって行った。
サスペンションがよく効いているのか、快適そのものの乗り心地なのに。
車の中は、どこか居心地のわるい沈黙が漂っている。
これからどこに行くのでしょうか、と小柄な男の人、つまり伯父さんに尋ねたけれど。
にこにこと笑顔(張り付いたような笑顔)を返されただけ。
前の運転席の
わたしは余計なことを言ったのだろうか。わたしは萎縮してうつむいた。
「先に、吉祥奨学会に寄ります。」
そう話しかけられて、わたしはびくっとした。
さっきの問いかけの返事だったらしいが、こんな時間差、置かないでほしい。
でも、もしかすると。
わたしの落ちこみをみて、フォローしてくれたのかも?
「吉祥は、形式的な窓口です。今回挨拶に寄る以外に、今後連絡することはありません。
担当者(伯父さん)は、言葉を続けた。
こうしゃべっているときは、比較的普通にみえる。
「あなたには、上屋敷で、御前様に侍女として仕えてもらうことになります。
――もうすぐ
「――わかりました。」
よくわからないが、上屋敷というのはその御前様というヤツザキグループの元会長のご隠居さんの住んでるところなのだろう。
そして、わたしはそのご老人の介護要員となる、ということだろう。それは覚悟してる。
空きが出る、ということは、誰か卒業するのかな?
いや、外国なら8月とかに卒業することもあるんだろうけど、ここは日本だ。
受験勉強に専念するために外してもらえる、とかだといいんだけどな。
ただ、このやりとりを聞いた
わたしの勘違いでなければ、嘲笑のこもった一瞥を投げてきた。
何も知らない馬鹿な小娘が!とでも、いうような。
その視線は同時に、中学のときのクラスにいた、格下の子をいびるいじめっ子みたいな冷酷なよろこびを湛えていて。
それでわたしはまた萎縮して、黙り込むことにした。
さらに数分。多賀島市街の中心部近くの建物に、自動車は到着した。
ちょっと年季が入っているけど、ごく普通のオフィスビルだ。
駐車場に自動車を入れ、また伯父さんと私だけでとことこと建物に入る。
窓口のお姉さんに一言、伯父さんが何かを伝えると、すぐに奥の応接室に通され。
数分で、温かいお茶が運ばれてきた。
「これは、ようこそ。吉祥奨学会担当の、
ちょっと疲れ気味だけど、いかにも人が良さそうでちょっぴりダンディなおじさんが入ってきた。
「側用人の施場です。この子の採用について、ご報告に。」
「ああ、御前様の特別奨学生ですね、昨年創設されたとか。
――これ、うちは純粋に窓口だけだ、と伺いましたが、――?」
「ええ、そうなります。今後は、すべてこちらで担当しますし、いちいちご報告で煩わせることなどいたしません。」
「――はい。そうですか。」
このダンディなおじさん(吉祥寺さん)も、ちょっと何か言いたそうな感じ。困惑気味だ。
「あなたは、特別奨学生の紫藤さんですね。」
なにかもの言いたげなダンディおじさんは、矛先を変えてわたしに声をかけてきた。
思わず、背筋を伸ばす。
「はい!がんばります!」
思わず声がうわずってしまったら、にこ、とダンディおじさんが笑ってくれた。
悪い感じじゃない。
「うちの娘も、たしかあなたと同じ学校なんですよ。
学年は、1つ上だったかなぁ?」
ESSかなにかの部活もやってて、けっこう、楽しくやってるみたいですよ。今年は受験生ですが。
ああでもそうだ、紫藤さんは、転校することになるのかな?
最初は大変かもしれないけど、がんばってくださいね。
なんだかわたしのことをちゃんと心配してくれてることが伝わるようなあたたかな声で、そう言ってくれて。
わたしもおもわず、大丈夫です、がんばります、と答えながらにこにこしてしまった。
「それでは、このくらいで。」
わたしの伯父さんに当たる人は、わたしたちの間でそういう会話が、ひととおりされたのを見計らって。
そう言って、ダンディな吉祥寺さんに慇懃に頭を下げた。
こうしているところは、普通のビジネスマンっぽい。
「こちらは形式的な窓口なので、今後はやりとりはなくなってしまいますが。
でも、何かあったらお気軽に連絡して大丈夫ですからね。」
そう言われて、ダンディおじさんに名刺を渡された。
名刺をみると、「吉祥商事 人事部次長(人材育成担当、吉祥奨学会担当)
次長さんって、けっこうえらい人なんじゃないかな?
あまりこういうときのマナーはよくわからないけど、ありがとうございます、と押し頂くようにもらう。
ダンディおじさんが、かわいいものをみるように目じりを下げたから、まあこれでよかったんだろう。
ダンディおじさんも、出口までわたしたちを送ってくれた。
わたしが車に乗るときにお辞儀をすると、手を振ってくれた。フレンドリーだ。
娘が、わたしたちの1学年上にいる、って言ってた。
なんか吉祥寺さんっていう名前の先輩のこと、聞いたことがある気がする。
はて、どこで誰から聞いたんだったかな。
わたしは手の中の名刺をみながら、そうぼんやり思った。
――――――
車はそのまま、多賀島の郊外に出る。
高速道路に乗り、スピードを上げて車線を進む。
畑や森が、窓の外を流れていくのをわたしは見ていた。
この方向は、あのいつか志野くんとピクニックに来た、樋木崎渓谷のほうだ。
御前様の屋敷、あのおばさんの言ってたところだ。おばさんは、あまり近づくな、っていってたけど。
高速道路をおりると、山中の道路を進む。やがて、私道と思われる舗装のよい専用道に入った。
ときどき、道路にゲートがある。そのたびに近知郎さんは、ダッシュボードのそばからリモコンを取って操作し、ゲートを開けて車をすすめた。
そうして進んでいくうちに、車は小さな集落に行き着いた。
集落は、たぶん害獣よけなのだろう、尾根沿いに有刺鉄線の柵が張り巡らされていた。
学校のグラウンドふたつぶんくらいか、それよりすこし広い程度の谷間の平地や、それを囲む丘の斜面に、20軒ほどの建物が散在してる。
いくつかの、アクセスの悪い周辺部の家とかは今は使われてなさそうで、トタンのさびた雨戸が閉め切ってあるのが遠目にみえる。
だけど集落の中心の三叉路交差点のまわりの、広くターミナルみたいにひらけた広場付近の家や建物は使われてるみたいで、きれいに整備されている。
いくつかの建物は、新築されたようだ。
人気はなく、夏の午後のひざしが広場を照りつけていて、旗の掲揚ポールかなにかの影が長く白く乾いた地面に延びている。
この集落が目的地かな?と思ったが、違った。
車は三叉路の一つに入り、さらに林を抜けて、高台にむかう。
丘を超えるあたりに、あの集落を囲んでいた柵よりも、さらにものものしい二重の有刺鉄線つき鉄条網の柵とゲート、そして守衛所のようなものが設置されていた。
車がゲート前に来ると、守衛所から背の高い、すこし太めな人が出てきた。
その手に、銃のようなものが握られているのに気づいて、わたしはぎくっとした。ここは日本なのに!
近知郎さんは、全く緊張感なく車の横の窓を下げて、ひらひら手を振る。
「ほらよ、次のデラべっぴんをつれてきたがゃ?
御前様も○○○○○も、楽しみしとるがね。」
なんだかなー、感じ悪いな!
わたしはまた、近知郎さんへの評価を下げた。
と同時に。
もしかすると、やっぱりろくでもない、いやらしいことをされる前提なんじゃないかって、後悔しはじめた。
だって、まるでこれって、男の人たちが飲みに行くキャバレー?キャバクラ?
よくしらないけど、とにかくそんなところで交わされる会話みたいな感じだ。
△△子ちゃんがやめたけど、次の◇◇子が入った!みたいな。
わたしも何かそういうサービス(?)を求められるのかな。
でも、面接のときに伯父さんは、そんなことはないって言ってたはずだ。
わたしはちら、と横に座ってる伯父さんの方に目をやった。
ちなみに近知郎さんの言った、「○○○○○」は、日本人発音だったけど外国の人の名前みたいだった。
わたしの耳には、「くるしい歯」あるいは「フルシーハー」みたいな音に聞こえた。
聞いて、なんだか歯が悪いのにつまようじをくわえてシーハーしてるおじさんをイメージしたよ。
「あたらしい子ですか?
この前、たしか代わりが入る当てが、なくなってしまったからって、――」
「そりゃ別口だがぁね。だって、――」
巨体の人と近知郎さんとの会話が、始まりかけたとき。
「近知郎、わきまえなさい。
だれの代わりでも、ありません。
今いる特別奨学生の子たちと同様、ちゃんと学校に通って勉強してもらうのですよ。」
穏やかながら、やや強い口調で咎める伯父さんの声。
慣れたせいか、伯父さんがさっきよりずっと自然に話してる感じがしてきた。
「えへへ、えらいすんません。」「申し訳ありません。」
へらへらと笑いながら、近知郎さんは誠意の欠片もない返事。
それに対して江渡門さんは、非を認めてうっそりとおじぎした。
体も大きいし、おそろしいことに銃を持ってるけど、江渡門さんは意外に紳士的な人かもしれない。
「近知郎。本当に、その態度を改めなさい。
あなたも、
穏やかに、しかし声を強調して。
伯父さんがあまり反省のみられない、近知郎さんに言うと。
近知郎さんの顔が、こわばり。
すみませんでした、とハンドルに頭をつくくらいに下げ、神妙な声で謝罪した。
やっぱりな、とわたしは思う。
近知郎さんみたいな、いいかげんな性格だと、仕事がみつからないんだろう。
この仕事をクビになると、困るにちがいない。
そしてちょっと強そうな近知郎さんを叱れる伯父さんは、やっぱり割とえらい人なのかもしれない。
側用人って、言ってたっけ。えらい人のお付きの人、側近だからかな。
わたしは、ささやかながら溜飲を下げた。
ゲートが開き、わたしたちの車は中に入る。
少し登ると、丘の上のちょっと開けた台地に出た。
適度に刈り込まれた木々、その隙間から美しい遠景が透けてみえる。
台地の中央部は少しひらけていて、木々ごしに、かなり大きな、床面積としては小さめの体育館くらいもありそうな西洋風の別荘がみえた。
その館の前にも車寄せがあって、自動車で建物の正面玄関あたりに横づけすることも一応可能そうだ。
だけど、普通はそうはしないのだろう。駐車場は建物のちょっと手前につくってあり、歩行者用アプローチを歩いて、館に向かうつくりになってる。
近知郎さんは、その手前の駐車場に車を停める。
わたしはちょっと、この洋館のたたずまいに既視感を覚えた。
この建物、わたしはどこかで、すごく最近みたことがある。
どこだろう。
だけど思い出す前に、近知郎さんは、車を停めて。
伯父さんの方のドアを柄にもなくうやうやしく開けて、伯父さんが降りる手伝いをしてる。
わたしも自分の側のドアをあけようとして、――開かない?
「そこは閉まってんで! こっちから下りな。」
近知郎さんが、そういう。
そういえば、さっき吉祥奨学会のときも、伯父さんの側から下りたから気づかなかったけど。
チャイルドロックが、かけてあるのか。
わたし、もう子供じゃないんだけどな。でも、近知郎さんには子供にみえるのか。
わたしは言われたとおり、伯父さんの座ってた席まで移って、そこから下りた。
「まずは御前様に、ごあいさつしましょう。
――ちょっと、私は先触れに行って準備を確かめてきます。
近知郎、失礼のないように、
その後は、
そう言って、伯父さんはすっすっと早い足取りで、先に歩いて行ってしまった。
わたしは、心細い気持ちでその後ろ姿を見やった。
しかたねえな、と言って、近知郎さんが自動車のトランクを開け、わたしの学校の荷物と、そして何やらとても重いものが入っているらしい、スーツケースを取り出す。
「ほら、その道をまっすぐ行けよ。」
近知郎さんは、そう言ってぼうっと館を見つめて立っていたわたしに学校のかばんを押し付け、肩を強く押した。
わたしは、軽くよろけてしまう。
そうして、ときおり小突かれながら。
わたしは、どこかおぼつかない足取りで、館への小道をすすみ始めた。