タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
少し時間を戻して、土曜日の午後、ふたりが美術室で落ち合って、外に昼食に出たあたりからです。
(第三者(中河原 桜)視点)
──時は、わずかにさかのぼる。
土曜日の午後、学校近くの商店街。
この通りの店のいくつかは、多賀島中央高校*1の生徒たちによって、学校の外にある学食だと認定されている。
午前授業で終わる土曜日の学校帰りや部活までの空き時間に、空腹を満たすためにそんな店に立ち寄って昼食を楽しむ生徒たちもいる。
校則の厳しさと学校のレベルの高さは、大まかには反比例する。東京の進学校では、校則はおろか制服すらないらしい、と中河原 桜は聞いたことがある。
やや保守的な風土の多賀島では、さすがに制服なしの高校などはない。でも、進学校になるほど校則が緩いのは同じ。
ただ田舎なので、建前上、たとえ県立高でも*2たいていは下校途中の買い食いはご法度。もっとも、運動部の生徒にそんなルールなんて守れるはずないのでみんなこっそりやってて、「校則って意味ねー」と、真面目な生徒ほど思わされるらしいが。
彼らの通う多賀島中央高はその貴重な例外の一つで、その手のことも(積極的とはいえないまでも)黙認されていた。
一応校則上は、「特に必要な場合をのぞくほか、登下校時に寄り道をしてはならない」とあるが。
中央高の穏やかな環境に長くいた先生たちは、おおむね生徒を信頼して放任している。ごくまれな例外だけれども、土曜日など、「ついでに買ってきて」みたいに、お昼に買い出しに出る生徒にお金を渡して頼む先生もいたりする。
校則の厳しい他校から移ってきた先生の中には、はじめは事情を知らずに買い食いする生徒たちを注意する人もいないわけではないが、そのうち染まっていく。
だいたい、わりと世間には知られてて、むしろ「さすが中央」みたいに言われたり、羨ましがられたりすることが多い。
そうした、生徒たちのお小づかいでも手が届く、お手頃な軽食屋さんの一つ。
お昼時間帯だけの生パスタ(なぜかすごい格安価格なのだ)とサラダ、それ以外の時間も注文できるホットケーキやフライドポテト、季節メニューで夏にソフトクリーム・冬にクレープという程度で、メニューは限られているが美味しいと人気のお店。
商店街のはずれにあるその店のテラス席の端のプラスチックの丸テーブルに、吉祥寺美鷹と中河原桜の姿があった。
桜の観察によると、美鷹は、あまりこのようなテラス席に座ることはない。人目を引いてしまうからだろうか。
でも、お腹がすいたし早く何か食べたい、という事情が優先されるらしくて。
昼食の時間帯がすぎて、食券を贖う客たちの行列が短くなりはじめたこの店のテラスの、隣の店との柵とはみだしたノボリ旗のかげんで表の通りからはやや見えにくい、端っこのテーブルに二人は場所を取ることができたのだ。
「私、買ってくるよ?
「あー、ごめん。──
「サーモンクリーム。さっちゃん、タラコ取らない?半分こしようよ。」
了承すると、ちょっと嬉しそうに美鷹はお財布を持って注文に向かった。
カウンター横の販売機で食券を買い、カウンターで食事と引き換えるセルフサービス式だ。
多少は待つことになるが、
たぶん代金、持ってくれようとするんだろうな。
それに味は良くて良心的とはいえ、美鷹には庶民的すぎる店じゃないだろうか。
一応はお嬢様の美鷹なら、もう少し豪華でサービスの充実したお店とかにも、行けるはずだ。
そう考えて、きまりわるい思いを、桜は感じる。
(一応、桜もおこづかいのお金はある。だけどあまり潤沢ではない。)
いつまでも甘えるのはいけない。
今日は、自分のぶんは自分で払おうかな。
美鷹の、もうそれだけで美少女っぽい(?)ことが明らかな、すっきりと背筋が伸びた後ろ姿を見送って、そう思う。
しばしの、待ち時間。
生パスタは茹であがるのが早いし、ソースはまとめて作ってるお店だから、待ったとしても2、3分だろう。
そんな、待ち時間に。
「あ、ネッシーじゃん」
ひやかすような声が、通りからかかる。
はっと顔を上げると。1年のとき同じクラスで知ってる男子と、直接は知らなくて名前程度しか知らない男子の2人組。
表通りから、こっちのテーブルのあるテラス席に、上がってくる。
立ったままなので、相席しようってつもりではなさそうだ。
いや、申し入れられても拒否したいけど。
だって「ネッシー」って、ネクラっぽいって意味で、この元クラスメイトのサル顔男子につけられた嫌なあだ名だ。もちろん、この子以外は、使わない。
嫌がらせでコミュニケーションするタイプの子だったよな、と思いだす。
要は、小学生みたいな感じと言えばいいのだろうか。
女の子には「ブス」とか言ったり、わざと嫌なことを言ってからかうんだ。
「あー、こんにちは。」
それでも、一応は笑顔をつくって応える。美鷹から学んだ処世術の一つだ。
本人がそこまで悪気がない場合もあるし、悪気があっても、気にしたら図に乗るからね、と言ってたな。
「なになに?ネドっち、こんなジミいのがタイプなん?」
「ま・さ・かー!ありえんって!」
サル顔が大声出すから、隣のテーブルに今ちょうど入ってきた別の女子校の生徒たちらしい子たちがびっくりしてこっちを見てる。
あー、このサルっぽい男の子(たしか、「根取君」って言ってたな)と、横の校則ギリギリの勘違い長髪風の*3男の子。
この2人組、こんな風に女の子にべたべたからんでるの、ときどき見かけるな、と桜は思い出す。
長髪気味の子のことはよく知らないけど、サルっぽい根取君は、美人な子には下手に出るけど、謎の格付けで自分より下って判断すると、すごいぞんざいっていうか失礼なことを言ってくる子だったな。
桜も、1年で同じクラスだったとき、じろじろ眺めまわされて「貧乏くせー!だけど、意外と、パ○でかっ!」なんて言われた記憶がある。
「ネッシー、こんなところ来ていいのー?お金、ダイジョウブー?」
桜の家があまり裕福でないってこと、たまたま知られてしまってる。それをネタにされてからかわれてる。
こんなときにちょっとムキになって言い返せたりする子や、むしろ口喧嘩を楽しめる子ならいいんだろうけど、人見知りの桜にはただ不快なだけだ。
「
同情じゃなくてお金あげるから、
長髪男子(マーシーってあだ名の子。たしか
すごく、居心地が悪い。
隣のテーブルの、近くの女子校の制服の子たちからの、こっちを観察する、同情と好奇心の入り混じった視線を感じる。
うーん、どうしよう?
なんだかどうしたらいいかわからずに、体がこわばってうつむいてしまう。口も固まってしまって、空気がねばっこく、重くなってきて、身動きが──
「ちょっとごめんねー、通してください。
遅くなってごめん、さっちゃん!」
その彼らに、澄んだ、よくとおる声がかけられ。
振り向いた根取とマーシーが、気圧されたように引く。
さあっと、新鮮な空気が流れ込んだように桜は感じて、息をつき、顔をあげた。
夏の暑い日なのに清涼感を漂わせる、トレーを持った美少女の姿。
トレーの上には、二人分のパスタとポテト(勝手に美鷹がつけてくれたみたいだ)と水の入ったコップ。
「ありがとう、そしてお話、じゃましてごめんね?
さっちゃんのお友だち?同級生くんかな?」
空気は読める、美鷹だ。
おそらく桜の窮地を薄々察していると思われるけれど、それでも親しげに男子どもに話しかける。
男子どもは、なんというか。
一瞬ぽかんとして、学校の有名人の美鷹だとわかったら姿勢を正し、直立不動っていうか、緊張した様子。
格の違いを感じ取ってか、桜に対するのとはあからさまに違う態度だ。
「吉祥寺、センパイ――!?」
「あ、知ってるんだ。
そういえば、そっちの君。○○部の子じゃなかったっけ?
私、タカムラ君と同じクラスなんだよ。」
「は、はい。タカムラさんから、聞いてまっす──」
「タカムラ君、すごいよね。そっちの君も、同じ部?」
「タカムラさん」って、たしか◯◯部のエースだ(だった)とかいう、有名らしい男の先輩のことだったかな、と桜はぼんやり思い出す。
その名前を出された男子二人は、タカムラさんの後輩なのだろうか。
タカムラ先輩って人の名前のこと、美鷹からも聞いたことがあった気がする。
2年のときに一回コクられて断ったのに、また3年で同じクラスだよ、気まずいよね。って、たしか美鷹が4月に一度こぼしてた気がする。
だいたい告白なんかされても断わるのが面倒だから、美鷹がそういう
美鷹がコクられたこと自体が意外だと思ったから、そのことを覚えてた。
「あ、僕もです。僕ら、レギュラーじゃないんスけど、──」
「そうなんだー。でも今度金風戦、あるんでしょう?出番あるよ、きっと。
これから練習かな?頑張ってね!」
バイバイ、と手を振り、絶妙な間合いで美鷹は話を切り上げる。
男子二人も、押忍っ、ありがとうございますっ、って、偉い人に褒められた新入社員みたいに、みるからにわかりやすく喜んで送り出されていってる。うまく話を切られたのも、たぶん気づいてない。
隣の席の女子高生たちが、さっきからなんだか固まってホケーって感じで、このいきさつをみてる。
美鷹たちっていうか、美鷹に目を奪われてたけど、この一幕が終わって、ようやく解凍されて。
こっちには聞こえてないと思ってるらしいけど、美鷹のことを「あの子すごーい」「あたし知ってるよ」とか、小声でささやき交わしてる気配がある。
それを知ってか知らずか、美鷹は楽しそうに重ねて2枚、持ってきてたトレーを外して1枚を桜の前にも置き、桜の分のたらこパスタと水を置きなおす。
飲み物も買えただろうに普通の水にしてるのは、きっと気を使ってほしくないからだろう。
ちなみに代金を出すと申し出たけど、気持ちよく姉御風を吹かされて一笑に付された。
「タラコ美味しそう!分けてくれると、お姉ちゃんはうれしいなー?」
「もー、みーちゃんは仕方ないなー」
ようやくこわばりがとれて(ああいうときに固まってしまうのは、一種のパニック障害みたいなものなのだろう、と桜は自己診断している)、自由に動けるようになった、桜は。
なにもなかったような美鷹の様子に調子を取り戻して、ちょっと口を尖らせながらパスタを半分くらい交換する。
安いのに、ちゃんとキノコとブロッコリーの入ったたらこパスタと、ホウレンソウの入ったサーモンクリームパスタ。
それぞれ、違う味わいだ。桜はたらこパスタが好きだけど、でももらったサーモンクリームも美味しいなあ、と思う。
「さっきはごめんね、さっちゃん。
変なの湧いてたのに、すぐ来れなくて。」
パスタの味を楽しみ、空腹を癒し。
隣の席の女子校生たちの興味も、ほかに移ったあたりで、美鷹はそうさりげなく切り出す。
──あの顔、見たことあるし。
もし許せなかったら、タカムラ君使ってビシって言ってもらおうか?
そう、まるでパスタの味を語るような気楽さで言う美鷹に、桜はそれほどのことじゃないからいいよ、と、内心アワアワしながら返事する。
もっとも、幸か不幸か、あまり動揺が表に出ない体質なのだが。
「あの手の男の子って、うっとおしいよねー。
でもね、あれはさっちゃんのことが好きっていうか、気になってるんだよね。」
──さっちゃん、ほんとはすごい美人だし。
きっとあの子たちも、女の子を見る目はあるんだよ。
でもあんまりいい感じの子たちじゃないし、やめといたほうがいいだろうけどさ。
でももっといい子も、いるでしょう?なに?いるけど寄ってこない?
じゃあさ、さっちゃん。ちょっぴりイメチェンしてみよう!
来週日曜の全統模試が終わったら。
いっしょに新町とかお買い物、行ってみない?
そう、楽しそうな顔で言う。
なぜかこの美しい従姉は、桜に対する評価が過剰に高いのだ。
いつも桜のことを可愛い、美人だ、性格も最高、と褒めちぎり。
今みたいなイジリとかがあると、男の子(たち)が桜に気があるからだと解釈してる。
たぶんそういうんじゃない。あいつらにとって
従姉とは逆に過剰に自己評価が低い桜は、内心で思う。
もっともそんなことを言うと、この従姉はこんこんと口説くかのように情熱的な言葉を重ねて、桜を洗脳してくる面倒くさい人に変貌するから、まあ言わないんだけどさ。
それにしても。
「タカムラ先輩、って。みーちゃん、気まずいんじゃなかった?」
話をそらすために、振ってみる。
「あー、前、そう言ったっけ。
まあ今は、そんなことないよ。ちゃんと断ったし。
タカムラくんもいい子だからさ、急に距離置いたりできないし、今も友達なのは変わりないよ。」
うーん、そうかなー?
美鷹から聞き出した話をそれとなく検分するに、そのタカムラさんとかいう人。
どうもまだこの美少女に脳を
「何しろ受験生だからね、みんな忙しいんだよ。クラスの男子たちも最近はうっとうしく寄ってこないし」とか美鷹がちょっと前言ってたけど。
たぶんそのタカムラさんが、クラスのほかの男子、威圧してるんじゃないかな。
美鷹はコミュ力がゴミカスの桜なんかより、はるかに対人関係を上手くやるけど、実のところ、ごくときたまではあるけれどすごい勘違いミスがある、と桜は思っている。
いや、だから年上ではあるけれど自分が守ってあげなきゃ、と思うし、実際にそうして守ってあげられたこともあったんだけど。
美鷹が勝手にオーダーに加えて買ってきてくれた、かりっと揚がったポテトをつまみながら。
あー、バイオリンもバレエのレッスンもしばらくお休みになるし、勉強漬けの灰色の日々になるよー、と言って伸びをする、従姉の美しい胸の盛り上がりに、隣の席の女子校生たち同様に、目を奪われる。
「ねえ、さっちゃん。部活に戻る?」
「あー、もういいかな。」
鞄も持ってきたし、そのまま帰ろうか。
そう、心に決める。
戸締りしたかどうか自信がないけど、きっと誰かがしてくれるよ。用務員さんとか。
ひとしきり、乾いた砂に水を吸わせるように従姉との会話を交わし、桜は心の渇きを癒した。
(同年代の友達もできたけど、なんだかんだ言って桜がいちばん気が許せる親友は、この美しい従姉だった。)
話はやがて、どうでもいいような趣味の話になったりする。
きのう放送のスレイヤ○ズ、美鷹も見てたらしい。ちなみに二人とも小説は最新刊まで読んでて、桜はゼル様推し。
美鷹は主人公のリナ推しで、男性キャラはどれもピンとこないらしい。強いていえば某獣神官が少し気になると言っていた。ぜんぜん好きじゃないけど、なんかときどきぞくっとするところがいい、と。桜は、怖いからやだ。
あと、TVドラマはやっぱり「○していると言ってくれ」が気になるという。
憧れてる、って言うけれど、みーちゃんの方がきれいだと思うよ。
それにしても、結構テレビ見てるみたいだけど、いいのかな、とふと桜は気になる。
「受験生なのに、いいの?」
「ほんとは、いけないんだけどね。
だから、息抜きで見てるのはその2つと、あとセーラームー○くらいだよ。それに、」
それだって、もうやめなきゃいけないかもね、と。
なんだか美鷹の顔が、暗くなる。
どうやら面倒なお家事情というものが、あるらしい。
ふむふむと、話を聞く。
基本、美鷹の父親はこの可愛い娘に甘い。
母親は厳しいが、ただそれは娘のことを思ってのことでもあるらしく。
「現役で医学部とか帝大以上に受からなかったら、コネで○○短大に入れるって谷津崎のおじいさま、──ひいおじいさま、御前様ね、──から最近、言われたみたいでさ。」
だから、母親からの締め付けが厳しくなってきたのだ、と。
めずらしく軽い諦念を口調にただよわせ、美鷹はいう。
まわりに、彼女らの会話を聞いている耳がないのを再度確かめながら、続ける。
「本家からは、その場合、いや、四大進学でも、──卒業と同時に結婚しろ、って。」
もちろん美鷹も、昔は半分以上がお見合い結婚だったし、それでそこそこうまくいってたことも知っているし。
身近にも、お見合いで結婚した兄夫婦だって、そこそこうまくいっている。最近、子供もできたらしい。
それに田舎の成り上がり者とはいえ裕福な財閥(?)一族に生まれ、何不自由なく育ててもらった恩を返す義務がある、と、頭ではわかっているが。
「でも、ほんとうはそんな自分で稼いだ訳じゃないお金なんて、いらないよ。
──もっと自由に、生きたい。」
バカみたいだけど、そしてさ、──身を焼きこがすような、恋がしたい。
辛い恋で、身を滅ぼすことになったとしても、いい。
ほんとうに好きな人のために、この命を賭けても。
もし、自分一人のことなら、ね。
そう、ぽつりと呟き。
──あー、さっちゃん、ここ、笑うところだよ?
そんなこと、できるわけないのに、ってさ。
自嘲するように、笑った。
桜の目には、その笑みを浮かべた美鷹の顔も、とても美しく映ったのだが。
ただ、この美しい従姉がそんなうつろな、歪んだ笑いを見せることは、とても珍しいことのように思えて。
どこか、不吉な思いを抱いたのだった。
――――――
そこでちょっと湿った空気を、打ち払うように。
じゃあ、行こっか、と美鷹は元気に言ったが。
桜は、どこかこのいつもは頼れる従姉のことを放っておけない気がした。
そこでごねて、相変わらず妹分には甘いこの従姉を説得し、ふたりは途中まで一緒に歩いて帰ることになった。
忙しい受験生なのに、とは思ったが、空気の読めない自分ですら心配になるというのは、おそらく常人基準だととても深刻な状況なのでは、と思ったからだ。
美術室でのハイテンションぶりと、さっきかいま見た暗い目の間の、大きな落差。
美術室での浮かれぶりは、おそらく。
健全なものではなく、見たくない現実から目をそらした、逃避によるところが大きかったのではないだろうか。
美術室への訪問自体、今にして思うと彼女の普段の行動パターンからはすこしズレてる気もする。
川沿いの道。自動車は走らない、自転車が行き交う程度。
河川敷に、麦わら帽子や野球帽をかぶった少年たちが補虫網を振り回してるのを見ながら、二人は歩く。
さっきの話、どういうこと?と、桜は聞く。
忘れてくれていいんだよ、つい愚痴こぼしたくなっちゃって、と美鷹は言うが、不器用に押す桜に根負けして、しぶしぶ口を開き、現在の状況に思うところを説明する。
まあ、政略結婚は覚悟してた。いつか、話が来るだろうことも。
でも、こんなに早くなるとは思ってなかったし。
(まだ『候補』段階だが)相手を知って、驚くほど落ち込んでる、という。
──甘えてる、甘ったれた話だよね、自分でもわかってる。
でもお父さんなら、たぶん。
私が泣いて、本当に嫌がったら。
好きなようにしろ、って言ってくれると思う。会社を辞めることになったとしても。一族ぜんぶ、敵に回しても、どうにかしてやるから心配するな、って。
お母さんも、心のそこではそうさせてあげたいって思ってるんじゃないかな。だって自分はお父さんと、恋愛結婚だし。
だから私に勉強しろ、って言うのも、四大で勉強する時間を稼ぐためだと思う。その間に状況変わるかも、って。御前様も、もういい歳だし。
でもさ、御前様は元気そうだし、だいたいお父さんやお母さんにそんな辛い思いなんて、させられないよ。
それに、お兄ちゃんもいるんだ。せっかく子どももできてうまく行ってるのに、私のワガママでぶち壊したりなんて、できない。
お見合いでも、恋愛することもあるし、上手くいくかも、って?
昔は、そうだったみたいだね。
でも、──無理だと思う。
もう、実はいくつか話が出て、本命も決まったみたいなんだ。財閥系の名家の跡継ぎ息子。
本決まりじゃないけれど、先方はすごく私のこと気に入って、押してきてるみたい。あまり家格は釣り合ってなくて、まあ向こうがはるかに格上なんだけどね。
その人、一度パーティーで、会わされたこともあるんだ。
いい人かって?──一度会っただけだし、わからないよ。
でも。
顔も良くてかっこいいし、いい大学出てて仕事もできる風だったけど、──嫌な臭いがしてたんだ。
なんだか肉の腐るような、ちょっと甘いような、むかつく臭いが。
「――」
桜は、絶句する。
この美しい従姉は、頭もいいし運動もそこそこできるけれど、異常な能力は持たない。
おそらくごく身近な人々、彼女の父母、兄ですらそう思ってる。
ただ、桜だけはこの姉のような存在であり親友の美少女が、ときどき、奇妙に鋭い勘働きをさせることに気付いていた。
幼少時、まだ小学校にあがったばかりのころだっただろうか。
桜は、変質者に襲われそうになったところを美鷹に助けられたことがある。
あのときは、待ち合わせに先に来ていた桜を物陰に誘い込み、組み敷いた中年男の後頭部に。
後から来て桜たちを探し出した美鷹が、夏ミカンくらいの大きい石を全力で叩きつけ。
昏倒した男の下から桜を引きずり出し、必死に二人で逃げた。
家族にも結局は話さなかったし、二人だけの秘密になってる。
その後、その中年男がどうなったか、知らない。小学生の力だし、新聞記事にもならなかったから、死んではいないだろう、と思う程度。
今にして思うと、警察に通報すべきだったのだろうけれど。
なぜ自分たちを見つけられたのか、それに中年男が悪いことをしようとしてたのかがわかったのか、と桜に聞かれて、美鷹はそのとき言った。
「悪い人かどうかなんて、わからない。
でも、すごく嫌なにおいがしたんだよ、あの男の人のいる方向から。そして、さっちゃんにのしかかってる、背中から。
何かの食べ物、『しおから』とかが腐ったような匂い。」
ただ男に押し倒されて至近距離にいた桜には、そんな匂いは全くしなかった。煙草臭かったかな?という印象しかない。
その後も、ときどき従姉は「匂い」について言及することがあったけれど。
いい匂いがする、というときは問題ないが、悪い臭いがする、というときには、たいていその後でなんだか問題が発覚するなどの落ちがついた。
最近は、聞いてもごまかして教えてもらえないけれど。
おそらくこの従姉は、鋭い感覚や印象で感じ取ったものを、匂いに変換された形で認識しているのではないか、と桜は思っている。
音を色で感じ取れたりするような、一種の共感覚なのではないだろうか。
そして。
その感覚が正しいかどうかまではわからないが、少なくともこの美しい従姉は、その御曹司を嫌厭し、彼との結婚話を避けたいと思っている。