タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
第三者(国領ハルカ、調布智美、その他)視点です。
午後は、気持ちよく晴れた。
蝉の声が間断なく降ってくる学校の前の並木道を、国領ハルカと調布智美の二人は歩く。
結局は、このふたりでお昼ごはんを食べにいくことになったのだ。
「それでさ、さとみん。
練習、見てくれて、──どうだった?」
期待7割、不安3割で国領ハルカは友人に聞く。
もちろん、けちょんけちょんにけなされるわけはない。そう、わかってはいるが。
「見たわよ、すっごかったじゃない!
あんな技できる子なんて、あたしテレビ以外でみたことないわよ。」
──よっぽど練習したんでしょう?それに周りの子たちも、結構やるじゃない。
大会あったら、応援しにいきたいものね。
そう、てらいもなく賞賛されて頬をえへへ、と緩めてしまう。うれしい。
むくむくと、心の中で幸福感がわきあがる。
今日の練習も、すごく楽しくて充実してた。
まだまだ、練習してたかったな。でも、体育館は午前中しかとれない、しょうがない。
ただ、ちょっとだけ。
これが竜神の力じゃないかと思うと、──後ろめたいんだ。
それはともかく、と国領ハルカは、長い髪をなびかせて彼女の横を歩く背の高い姿に目を向ける。
「さとみんの方は、どうだった?」
「あはは、あたしは、――昼寝しちゃったわ」
──変な夢、見ちゃった。夢じゃないかもしれないけど。
そう、この友人は笑いながら白状する。
それはしかたないんじゃないかな、と国領ハルカは思いながら、友人の横顔をうかがう。
たしかに元気を回復したようだが、まだ睡眠不足なのではないだろうか。
「お昼、どうしよっか?」
「そうね。──もう、学校には戻らないわよね?」
「うん、ボクは戻らなくてもいい。さとみんは?」
「あたしも。
だったら、亀屋百貨店、行ってみる?――それか中央駅あたり?」
──郷土のデパート、亀屋百貨店かー。
あの古い荘重な感じのたたずまいは好きだ。大正浪漫って感じ。
伯母さんと一緒にショッピングするときにはあそこのレストランにもいくけど、ややお高い。
あー、そうなると中央駅かなー。あまり外食できるところとか、知らないんだよね。
マ○クかロ○テリアぐらいかな。
そんな国領ハルカの逡巡をみてとったのか。
「あ。それとも。家からは逆方向でも、いいなら。
駅より近いし、駅北の袖振橋のあたりとか。どう?」
そういう提案が、あった。
「うん、さとみんの行きつけだったり、よさげなところだったらいいよ。」
「いきつけ、ってほどじゃないけど。ほどよくひなびた定食屋を知ってる。」
子供のころはよく行ってたの。でも、最近は全然行ってない。
まだあるかわからないけど、どうかしら。行ってみる?と誘われる。
もちろん、いいよ。
――――――
登良川の支流の一つにかかる江戸時代の石造の橋は、今でも現役だ。
その橋の手前側は、いくつかの私立の中高があり、また短大がほど遠からぬ場所にあって、ちょっとした学生街みたいな雰囲気だ。
国領ハルカ自身も中3で受験塾に通ったけれど、この近くの袖振橋校の所属だったので多少はなじみがある。
塾の先生たち、元気かな。あの何人かは、多賀島大の学生だった。
残されて遅くなって雨が降り出した日に、いつも無口な伯父さんが傘を持って迎えに来てくれてたことを思い出す。
「ハルカの思うような、お洒落なお店じゃ全然ないんだけど。いい?」
ちょっと小洒落たカフェみたいなところかな?高いかもなー、と覚悟していたら。
調布智美が案内してくれたのは、意外とがっつりと古いたたずまいの庶民的な定食屋だ。
2階が住居で、1階が店舗、というよくありがちなスタイル。
表のガラスのショーケースには、古びた印象のロウで出来た食品サンプル。
日に焼けてる感じの値札を、みてみると。
もちろん4桁行くのもあるけど、ワンコインちょっと程度のが多いし、学食並みのものも。国領ハルカのお財布にも優しい。
敷居も高い感じでなく、いかにも普通。常連がとぐろを巻いてる感じもしない。
「うん、いいよ!」
むしろいい。超庶民的じゃないか。
あまり外食をしない国領ハルカは、それでも少々気後れするものがあるが。
うんうん、と頷いてみせる。
調布智美は微笑み返し、「千平食堂」と染め抜かれた古いのれんを、軽く手で除けながら店に入っていく。
もう老境と思われる、丸眼鏡をかけた店主とその奥さんでやってるお店のようだ。
4人掛けのテーブルが3つほど、2人がけの小さいテーブルが2、そしてカウンター席。
古いレジで支払いをすませたサラリーマン風の3人組が出て行くと、店主の縁者っぽい中学生低学年くらいの、まだ稚げないがぐり頭の3人組がおしゃべりしながら夏休みの宿題をしている以外に、彼女ら以外のお客さんはいなくなった。
(ちなみにこの中学生たちが、国領ハルカとその友人の姿に目を奪われ、ぽかんとしていたのを国領ハルカは見逃さなかった。)
調布智美は、店主とその妻とおぼしきおばあさんの方に行って、しばし軽くあいさつしている。
大きくなったねー、と言われて苦笑いしている。中学生たちが、聞き耳たててる気配。
「どれにする?」
戻ってきた調布智美に、促されて、ほうほう、とお品書きを見る。
お品書きは紙ではなく、壁に名前と値段が貼ってあるスタイルだ。
うどん・そば(かけ・ざる)、カレーライス、カツカレー、ハムサラダポテト、ポークソテー、焼き魚定食、・・と、あまり統一感のない献立。
あ、かけうどんなんて学食並みの250円だ。まあ、あまり内容に期待はできないが。
「これと、これはお薦めかな?それで、――」
調布智美にも相談してちょっと奮発し、この中ではやや高めの値段のカツカレーに決め(がっつり食べたい気分だったのだ)、水を持ってきてくれた小母さんに注文を伝える。
調布智美は、ポークソテー定食にするらしい。
壁付けのテレビからは、野球中継。甲子園はまだ開幕してない。多賀島県予選だ。決勝だな。
樋木崎高と地元の工科大学附属の対戦。
彼らの母校は、とっくの昔に敗退してるし、彼女らはそこまで思い入れはない。
でも中学生たちは興味津々っぽい。
かいーん、と金属バットの音がするたびに、みんな「夏休みの友」を進める手を止めてテレビに見入っている。あと、そのたびに(バレてないと思ってるみたいだけど)彼女らを意識してか、視線がちらちら来るのがおかしい。
なんとなく調布智美と目を見交わして、笑ってしまう。
ほどなく出てきた食事を楽しみながら、国領ハルカは考えていることを調布智美に伝える。
部活、超たのしい、とか。
見てたテレビドラマの話、とか。
文芸部の部誌の原稿を書くんだ、とか。
そして。
アルバイトを増やしたい、という話とか。
たとえば、そういう、体を動かす系のものって、どう探せばいいんだろう、とか。
「あー、そういうの、ハルカならできそうよね。
ショーとかは、あればいいけど。
ハルカなら体操教室のインストラクターとか補助員も、できそうじゃない?」
ふんふんなるほど。そういう手もあったか、と国領ハルカは思わぬ視点に気づかされる。
あまり養親に負担をかけたくない彼女は、習い事は安く済む公民館系ですませてたから、気づかなかったのだ。
「それもありだね。
でもどうやって探せばいいか、分からないんだよ。」
「そうね、──」
その手のバイト求人ならやっぱり、新聞の日曜版かしら。あたし、インストラクターの募集広告見たことある。
そうそう、パートとかバイトとかは「〇日新聞」とかより、地元紙のが多いわよ?
あとは、バイト雑誌かしら。それと、直接、目当てのスポーツジムとかで張り紙やチラシも見てみた方がいいかもね。
よかったら、あたし行ってるとこ、みてみる?
そう、調布智美は親身に助言をくれる。
ほうほう、とそのいくつかを国領ハルカは頭にメモし、礼を言う。
「たださ、その手のバイト、入れたとして。
さすがに、ずっとつきあってもらうわけには、いかないよね?」
だからさ、ちょっと見直ししないと。さとみんも、身がもたないよ。
思い出して、ふたたび提言してみる。
「そういえばあたしたち、
ハルカはもう、あの情熱的な夜を忘れたのかしら。」
「だあっ!」
中学生たちの驚愕の視線が背中に突き刺さるのを感じて、思わず奇声をあげてしまう。
くすくすと笑いながら、冗談冗談、と軽く中学生に視線を投げ返して牽制した調布智美は。
腕組みをしながら(腕のうえに持ち上がった形のよい胸に、持たざる者の悲哀を国領ハルカは感じた)、考えぶかげに言う。
「志野は心配しすぎだと思うから、明後日あたり、あたし話してみる。
あー、でもね。あの絵のモデルのバイト。あれの行き帰りは、やっぱり気をつけた方がいいかも?」
「ほー?」
「あたしさ、昨日、ハルカを送った後の帰りに雨に降られたけど。──」
かくかくしかじか、と太極拳男子との遭遇について語る。
それって、と聞いている国領ハルカは思う。
「それってさー、ナンパ?」
「ハルカも、そう思う?まあ、下心ありそうよね。」
──引っかかる子も、いるのかしら。
相当かっこいい感じで、自分に自信ある雰囲気だったし、あんなのが好きな子もいるでしょうね。
まあ、威張ったところもなくて親切そうだったし。
ナンパとかじゃないのかも、しれなかったけれど。
そう、ため息交じりに調布智美はいう。
「ハルカ、そういうかっこいい男子に声かけられたら付き合う?」
「うーん、今はいいかな?」
いつかは男の子と付き合ったり、デートしたりするのかな。
基本、男子も含めて誰とでも話すけど、中学校は交換日記でのグループ交際(?)程度だったし。
だいたい彼女はどちらかというといわゆる高校デビューに近いし、しかも
かっこいい男の子は、抽象的にはいいなー、なんて思うけど。
具体的な候補としては、あまり現実味がない。だから生徒会の先輩に告白された時も、うなずくことができなかった。
ただ、最近。思い出すのだ。
寝る間際とか、めざめのとき。
そして、ぼんやりしてる、なにげないときにも。
自分を抱いた、しのりんのあの力づよい、熱い腕と、耳元への情熱的なささやきを、──。
「──ねえハルカ。雌の顔してる。」
「んわー!」
ニヤニヤといじってくる調布智美。
びくっとしてしまったけれど、おそるおそるのぞきみた
まともだと思った女の子でも、
ただ、すくなくとも今のさとみんはそういう感じじゃない。少し安心する。
ただ、顔に昇った血はなかなか去ってくれない。熱い。
「ほら、ぼけぼけしてる間に一点入れられたわよ。
今年は、ヒキ高かしら。強いわね。」
「そうみたいだね。」
二人は食事を終えて、しばし地方予選の決勝を中学生や店主とともに見て。
ひとくぎりついたところで、お会計をして、少し店主と世間話して、また来ます、と言って外に出た。
高い青い空には、流れる白い雲。
――――――
そのまま帰るには、ちょっともったいないな。
そう思ったふたりは、すぐそばにある砦山に足を進めることにした。
市街地に半ば突き出た格好のこの山の下は古くからの屋敷街、その向こう側には美術館や公立図書館などの公共施設が立ちならぶ。
二人はいくつかある遊歩道ルートのうち、谷川の横を登るルートを選んでみる。
(ふたりは知るべくもないが、昨日、吉祥寺美鷹の歩いた道とは違うルートだ。)
「なつかしー。ボク、この山に小学校の遠足できたよ。」
「あたしも。あたしたちは、写生大会だったかしら。引っ越す前は、秘密基地とか作ってたわよ?」
定番の遠足先だし、景勝地の一つなので、ふたりとも思い出がある。
そんな思い出を話しながら、ふたりは山を登っていく。
ちいさな谷川沿いに山に切り込むこのルートは、歴史を伺わせる磨り減った石段が続いていたりして。
結構な運動量で、額に汗がにじむ。
「ねえ、さとみん。その、ちょっと気になることがあってさ。
ほどよく人里を離れ、谷川の水のしたたりが涼しい山影。
ちょうどいい木陰の休憩地点で、ふたりはちいさな滝の横の柵にもたれて一息入れた。
おりしも近所の高校の部活だろう、とどろに掛け声をかけながら駆けあがっていくジャージ姿の男子高校生の集団とすれ違う。
暑いわねー、とブラウスをばさばさしてみせる調布智美。がさつなしぐさだが、不思議に下品な感じはしない。
それをうらやましく思いながらタオルハンカチで汗をぬぐい。
駆け登っていった部員たちの背中を見送りながら、国領ハルカは悩んでいたことを、この友人に打ち明けてみた。
「その。ボクさ、──」
──竜神の洞窟から帰還して以来、体調がいいんだ。
いや、ちょっといい、なんてもんじゃない。あきらかに、すっごく筋力が増してる。
さとみんも、今日の練習でみたよね?
あんなの、前はぜんっぜんできなかった。ほら、ボクやせっぽちだし、腕相撲なんてぜんぜんだったし。
でも、すごい体操に打ち込んできた人、あるいはそれ以上に、あんな技ができるようになってる。腕、そんなに太くなってもないのに。
うまい話すぎて、なんだかこわいんだ。
これは、もしかするとさ、──
ふんふん、と彼女の美しい友人はときどき眉をしかめながら彼女の懸念を聞く。
そうね、難しいわね。と言って、少し考える様子だったが。
とりあえず、上まで行きましょう、と促された。
気をとりなおして、国領ハルカも歩き出す。
山頂は、もうすぐだ。
それから数分後、ふたりは山頂付近の展望台から、はるかにひろがる市街地を見下ろしていた。
風が通っていて、涼しい。
ふたりの青いスカーフが、風に翻る。
下では、小さな人間たちの営み。キラキラ光る車が行き交う。
遠くには、茫漠と海も望める。
自分の悩みも、だんだんちっぽけに思えてくる──。
「ねえ、ハルカ。やっぱり心配?」
「うん?」
「自分が、──そうね、竜神のせいで普通の人間の範囲からはみ出しちゃったんじゃないか、って思ってるんでしょう?」
「うーん。自意識過剰だと思うよ。
でも、うん。ちょっぴり。そんな感じ。」
体力ついたのも、ズルしてるんじゃないかって、──
その代償に、ウロコとか生えてきちゃったらどうしよう?って。
「そう。
──ねえ、ハルカ。それじゃ、勝負しましょう。」
「え?」
「勝負よ。かけっこにする?」
「むむ?」
「ほら、あそこに広場があったわよね。
そうね、あのすべり台から、そっちの傾斜面まで。100メートルちょっとかしら?
その補助バッグ、あのベンチにでも置いときなさいよ。」
展望台から少し入ったところに、森に囲まれて、昔の砦の遺構だっただろう広場がある。
端にわずかな子供用の遊具があるが、基本は、なにもない直径100メートルほどの広場だ。
「勝負、って、──」
「ハルカと、あたしのかけっこでの勝負。
ただ、勝ったからってなにも要求しない。ただ、勝負するだけ。」
その竜神の力。それで、あたしに勝ってみなさいよ。
忖度や遠慮なしに、全力で走って。
そう、勝気な笑みを向けられる。
うん、そういうなら。
ふたりは荷物を置き(開放的な広場だし、小さな子連れの親子やおじいさんもいる。置いてても大丈夫だろう)、構える。
「いくよ、さとみん!」
「望むところよ!」
よーい、どん、で走り出す。
最初は、食らいついた。
体が軽い、力が湧き出す。
横目に、並走するさとみんが視野に入る。
あー、長いスカートのことなんてまるで考えてない豪快な走り方だな。わずかな観客たちの注目、集めちゃってるよ。
スカートの短いボクの方が、走りやすいはず。でも裾、乱れちゃってるかな。でもいいや、ボクも気にせず、全力で走る!
しかし、全力を尽くしたにもかかわらず。
やがて白いブラウスの背中が、ぐんぐんと前に出る。遠ざかる。
歯を食いしばって本気で走る。我ながら、こんなに早く走れたなんて、と感心するくらいだけど、
──でも、追いつけない!
ゴールに先にフィニッシュを決めた調布智美が、息を整えながら振り向く。
「ハルカ。大丈夫よ、貴女。残念ながら、まだまだ人間だわ。」
さとみんが、ちょっぴり意地悪な笑みをうかべてニヨニヨしてる気配。
”もう、普通の人間じゃないんだ──!”なんてさっきのシーン、アテレコしてる! ぐむう。
「はぁ、はぁ、はぁ、さとみん、こそ、人間じゃ、ないんじゃ、ないの?」
切れる息のすきまから、国領ハルカも切り返す。
「失敬ね!?」
そんなやりとりをしながら、ゴール地点近くの大樹によりかかった国領ハルカの胸には。
負けた悔しさより、何倍も大きな喜びが沸き上がっていた。
「はー、きつかった!でもさ、」
この友人が差し上げてきた片手に、ぽん、と手を打ち合わせてハイタッチを交わしながら。
今度こそ、国領ハルカは最近感じてた憂いが、空の雲のように吹き飛ばされていくのを感じていた。
「さとみんの言うとおりかも。ボクなんて、まだまだ人間。大丈夫!」
まあ、さとみんはちょっと例外だよね、体力ゴリラじゃん、と。
ちょっと失礼な考えも、思いうかぶが。
ありがとう、と心のなかでつぶやく。
たしかに竜神の一件以来、体力は上がったんだろう。竜神の影響かもしれない。
ただ、そこまで法外な、ズルといえるようなものでもないみたいだ。
あー、でも。そうなってみると。ないものねだりだけど。
やっぱり「自分だけの
国領ハルカは、そう、日常が戻ってきた喜びをかみしめていた。
──────
ふたりの高校生が、とつぜんすごい勢いでかけっこをして。
そして笑いあい、健闘をたがいに称えて背中を叩きあいながら、戻っていく。
なんとなく、「青春」というにふさわしいその光景を、物陰から驚愕しながら見守る影があった。
円谷隆徳。少し前に、還暦を迎えた。
かつて陸上短距離の名選手として鳴らし、オリンピック出場経験もあり。
その後指導者としてキャリアを積み重ねて大成し、教え子にはトップ選手が数多い。日本記録を更新した者もいる。
今はほぼ引退し、地元のジュニアクラブで半分ボランティアの手弁当で、小学生たちを指導したりしてるが、温厚ながら情熱的な指導ぶりで、今でも名伯楽として慕う声は多い。
その彼が多賀島を訪れたのは、教え子の一人で、この地の強豪校の監督をしている子の様子をみるとともに。
長年連れ添った妻の、たまには旅行にいきたいという要望に応えてのこと。
昨日は、その教え子の学校の選手たちの練習をみていくつか助言をした。
しかし、教え子の指導はしっかりしていて、彼がことさら付け加えるほどのこともないように思えたし。
またどの子も中々粒ぞろいで、特にリレーとかなら県大会優勝は十分に狙えそうだし、全国大会でも結構いい線、行くのではないだろうか。
そう褒めたけど、教え子の監督もその子たちも、いやいやまだまだ、と苦笑いしている。
不思議に思って、聞いてみると。
なんでも、ときどき練習に飛び入り参加を認めてる別の進学校の女子生徒が。
それはもう、ずば抜けて早いというのだ。あごを落とすくらい。ここにいる、どの子より。
男子トップと走らせても遜色ないくらい、──というのはさすがにフカシだろう、男子の記録と女子の記録は相当違うのだから、と、そこは彼は話半分に聞いていたのだが。
早いのは間違いないらしい。手元のストップウォッチでは当季の全国最高より上の記録だった、という。
(もっとも追い風とかそこらへんのことは、練習レベルでは測定しないのでわからないのだが。)
ただ、選手になったりする気はないらしく、教え子の監督は本気でその才を惜しんでいた様子だった。
周囲の選手たちもその娘をねたむような空気もない。どうやら、その圧倒的な実力で彼ら彼女らの憧れの存在であるらしい。
ふらっと練習に参加することがあるとのことで、昨日も彼がいる場で練習に出てくるのを教え子は期待していたらしいが、結局現れなかった。
彼もちょっと心残りではあった。彼はもともと、人材コレクターというか、隠れた才能を持つ子供たちを見出して、その才能をみがき鍛えて、一流選手に育て上げるのが好きな職人肌の
旅行2日目のきょう、日曜日を、彼と妻は観光に当てていた。
午前中に市内をみてまわり、お昼に地元特産の地鶏料理に妻とふたりで舌つづみを打ち。
腹ごなしに、市内を一望できる砦山とよばれる山に登ってみたのだ。
妻はしばしトイレに行っているようで、彼は日蔭のベンチにこしかけて、孫くらいの小さな子たちの遊ぶ様子などを目を細めて見ていた。
そこにやってきた、女子高生ふたり。
くっきりした顔立ちの、勝気そうな背の高い女の子。
色素が薄い感じの髪、すらりとした妖精めいた女の子。
何か話し合っていたが、そばのベンチに荷物を置き。
横一列に並んで、そして、用意、ドンで。
人ひとりいない広場を横断するように走り出す。
何ぃっ!
彼は、黒い丸眼鏡の下で瞠目する。
じゃまな制服のスカートに妨げられているのに、──彼女らのスピードは。
あの昨日指導した、陸上のトップ選手たちに劣らない!
一見線が細い、スリムな子のスタートダッシュ、相当なものだ。
筋力の問題から、あんなに爆発的な加速ができる選手は少ない。
しかしそれにまったく遜色なく並ぶ、粗削りな大きなストライドのフォーム。
中盤からは彼が見立てたとおり、大柄な子がぐんぐんと加速し、先行していくが。
芝生もところどころ剥げてて雑草もあり、コンディションはグラウンドと比べるべくもない。
履いている靴も、ごく普通の白い運動靴。
でも彼女らふたりのその速さは、昨日指導したトップ選手と同等か、それ以上。
そう、彼の豊富な経験が告げる。
これは、何かの間違いではないか。いや、すさまじい逸材なのか。だが。
──人間の域を、半ば超えているのではないか?
しかし、痛恨の極み。彼は驚愕の呆然自失のあまり、復帰するのが遅れてしまったのだ。
ふたりの女子校生らが走り切り、ハイタッチして陽気に肩を組んでスタート地点に戻り。
きゃらきゃら笑いあいながら、公園の水道で水を飲んだりしていたことまでは覚えているのだが。
気がついたときには、彼女らの姿は視界から消えてしまっていた。
あわてて立ち上がる。しまった、声をかけないと!
探せば、まだ見つかるはずだ。名刺、持ってきたか?
「あなた、何をあわててるの?」
そのとき、妻が戻ってきた。
「あ、ああ。その、な。すごい、逸材をみつけたんだ──」
「あらやだ。きょうはお仕事はお休み、そういうお約束でしょう?」
もとは女優の卵だった妻は、笑いながら。
もう若くはないが、なお美しい顔に、眉をひそめて責めるような表情をつくってみせる。
もちろん冗談で、口元には笑みがある。
ううむ。そうだった。そうだったんだが、さすがにあれは見逃せない──。
「女の子2人組でしたら、わたしも広場を出て行くところを見ましたよ。
それに。
年恰好から言って、あの、あなたが昨日おっしゃってた、その子たちなんじゃない?」
おお、そうだ。そうにちがいない。
あの教え子が言っていた幻の子の実像が、今、彼の脳内に焦点を結んだ。
年恰好、高身長で大きなストライド、爆発的な加速を可能とする、よく発達した筋肉、──
それに、だいたい。
あんな化け物、そんなにごろごろいてたまるものか。
よし。
これは、教え子に伝えておかねば。
お前の言ってた子、みつけたぞって。
それにな。
あの、大きな子には負けてたけど、あのすらっとした子。
あの子のことは、教え子も知らない感じだったな。
走り方は、陸上の心得があるようには見えない。膝がまだ十分上がってない、すり足っぽい走り方だし、ちゃんと鍛えればまだまだ伸びそうだ。
宿に帰ってからでいい。電話だな、電話。ふたりまとめてスカウトさせねば。あれらふたりは、きっと日本の宝になる。
そう、彼は妻につきあって風光明媚な観光地に赴こうとタクシーを拾いながら。
心にかたく、決心したのだった。