タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
迷いがある箇所があり、後で少々書き直すかもしれません。
(第三者(国領ハルカ)視点)
「うわ、わたっ!とっ!さとみんっ!タンマっ!」
悲鳴をあげながら、国領ハルカは急傾斜地を駆けおりた。
崖下に落ちたナイフのことが気になって、崖下をすかし見て、発見した人影。
落としたナイフで怪我をしたのではないか?と恐れた調布智美と国領ハルカの二人は。
崖をそのまま降りるわけにいかないので、通常ルートの遊歩道を途中まで駆け下り。
なんとかここからいけそう、というところから遊歩道をそれて、山の斜面を駆けおりることにしたのだ。
もっとも、崖ほどではないが相当の急傾斜。まともな頭の人は、こんなところを走ろうなんて思わない。
──でもなんとか行けるでしょう。ほらバッグ、こっち寄こして。いいからいいから!
そんなさとみんの甘言にうまうまと騙された国領ハルカは。
さっきから、地面を踏むのはせいぜい半分くらい。
急傾斜地だが樹木は生えてる。その木肌を蹴って、飛び降りて先行していく大柄な姿。映画のNINJAの世界だ。その後を、必死に追う。
息つく間もなく、目の前に現れる木々と枝、ときには大きな地面の亀裂。
かなり急傾斜の斜面だから、ではあるが。
友人かファンタジー映画のように横ざまに木の幹を蹴りつけて、次の木に飛び(落ち?)移っていくのをみて、最初は息が止まるほど驚いたが。
自分もやってみたらなんとかできたので、今は同じように木肌や岩などを飛び伝い、木々がまばらなところは走り落ちながら、ついて行っている。
ときどき、避けきれない枝が横ざまに進路を阻む。太い枝で腰くらいより低い場合は、上に飛び乗って大跳躍するし、それより高い場合は、雲梯のようにその枝にぶら下がって勢いをつけて次に行くこともある。まさに
こうして飛び移っていると、──いや、半泣きで始めたのだけれど、楽しいかも。ゲームみたい。
一番邪魔なのが中途半端な太さの枝だ。体重を支えられず、かといって無視もできない。
彼女の先を行く友人は、どうやら枝葉の薄いところを強引に折り破りながら進んでいるが、──
──細い枝なら、遠慮なくバキッと折りすすんでるよね、さとみん。
後から行くボクはおかげで楽できてるけど、さとみんの制服、葉っぱとかの汁とかついてないかな。大丈夫かな?
一度枯れ枝の強度の目測を誤って踏み折ってしまって落下しかけたけど、強引に片手で別の枝にぶらさがって持ち直したよね。やっぱりゴリラじゃん。絶対、後で文句言ってやるんだ。
そう思いながら、やむなく調布智美の後を追って木の幹や枝、突き出た大岩、ときどき枯葉におおわれて滑りやすい地面を飛び移っていく国領ハルカも。
客観的には相当に人外の域に達しているのだが、比較対象がアレなので本人にはその自覚は芽生えなかった。
さっきの友人との競走で、そっちの思考が潰されてしまったからでもあるが。
「ふう、さとみん、恨むよー。戻れるかなー?」
「大丈夫大丈夫。ほら、ここからは普通にいけるわよ。」
ようやく普通に歩ける程度の緩斜面になった。人間のつけたものではないと思うが、軽いけもの道がある。
目的地はもうすぐだ。
「ねえ、下にいた人。叫び声とか、助けを求める声とか、しなかったわよね。
変なところに、刺さってないといいけど、──っ!」
ひゅいん、と空気を切り裂く音。 二人の位置からはある程度離れているが、進行方向にあたる木の幹に、カツッ、という小気味よい音を立てて何かが突き立った。
視線の先で、びぃぃん、と震えている。
持ち手が黒い、大型のマイナスドライバー。
あ、あれだ。あの不良の持ってたやつじゃないかな、と、国領ハルカは推測する。
刺さった位置は、かなり低い位置。投げた場所も、ふたりに当たるような場所ではない。
だから、これはおそらく単なる威嚇、というか意趣返しをこめた挨拶みたいなものだろう。
想像するに、落としたナイフとドライバーは、この先にいる人には刺さらなかったが、さすがに危ないじゃないか、と不快感を持たれてしまっている、というところか?
だが、いまさら行かないで引き返すということもできまい。
「投げないで!そっちに出て行くから。」
調布智美が、呼びかけると。
「──ええ、どうぞ」
澄んだ、通る声で
斜面の林から出て、崖下のわずかな平地に出る。
不定形の20メートル四方くらいの広けた場所になっている。何かの動物が行き来しているのか、ところどころに灌木があるが、あまり丈のない、せいぜい膝くらいの高さの雑草が茂る原っぱになっている。
特に、土塁に挟まれた谷間にあたる部分には、なぜか雑草すらまばらにしか生えていない(数日前の雨で崖から土砂が流れて、堆積したばかりだからかもしれない)。
そしてその中心部に、たたずむ姿。
「あれ、さとみん、あの
国領ハルカはそっと頼れる友人のななめ後方から、ひそひそと耳打ちする。
「ええ、思いがけない人、登場よね。」
まるでこの山中には場違いに思える優美なワンピース。
つばが長めの麦わら帽子*1の下には、こちらを責めるようにみつめる、罪のように美しい目。
彼女らが知るところでの、あの英語劇の”ジュリエット”が、そこにいた。
「どうしたの?」
まるで学校の廊下で行き会ったような、自然な問いかけ。それがかえって不自然だ。
「あのドライバー、今、先輩が投げたのですか?」
調布智美は、ドライバーが刺さっている木のあたりを振り向かずに手で示しながら。
丁寧ながらもすこし硬質な声で問う。視線は、相手からはずさない。
問いを受けて、何でもないように”ジュリエット”は微笑む。
ただ、その笑みは。
きれいだけど、なんだか怖い、と調布智美の斜め後ろにいた国領ハルカは思った。
彼女の前に立つ友人の背も、緊張しているようだ。
「ええ。必要なら、お返ししようと思って?
そうそう、あのドライバーと、このナイフ。
この近くに刺さったけど、──これは、貴女たちが?」
ほらこれ、と、”ジュリエット”は。
一度たたまれたバタフライナイフを、左手のひとさし指と親指だけで持ち。
シュキッと振って出し、くるり、と滑らせて手に持ってみせる。
なんというか、流麗な手つきに。
「手練の技」を国領ハルカは感じた。使い慣れてる?
彼女を護るように立つ調布智美も、そう思ったのか。ごくり、と唾をのむ気配。
「──それはあたしたちのものでは、ありません。
ただ、こちらに飛ばしたのは、あたしです。
お怪我など、大丈夫だったでしょうか。」
「ええ、大丈夫。
──そう、あなたが。」
あなたが。そうしたのね。
そう、つぶやく彼女のアーモンド形の瞳に、どこか昏い光が宿り。
この、目の前の美少女から発される冷気が増した気がして、国領ハルカは、固唾を飲む。
「ええ、驚いた。それに、少しやり方は危険だったかも。
──でも、あなたがそうしてくれたのは、助けるために他にとれる手段がなかったから。
そうだったんでしょう?」
「はい。でも、思慮不足でした。
ご迷惑をおかけしたとしたら、申し訳ありません。」
なんだか国領ハルカは、このふたりのやりとりを聞いていて、お互いがなにかを微妙に勘違いしている気がしてならなかった。
しかし、それが何なのかわからない。
このまま終わらせてしまうことは良くない、という焦燥感だけがつのるが、結局このときにはなにもいえなかった。
調布智美の謝罪の言葉を聞いた、”ジュリエット”からは。
さきほどまで発されていた、剃刀の刃のような冴え冴えとした冷気が収まった。
そして彼女は苦悩するかのように、その顔にわずかに眉を寄せるようにして、目を閉じ、大きなため息をついた。
刃を出したバタフライナイフを持つ、左手に。
だらり、と下げられていた右手が、いつのまにか添えられているのに、国領ハルカは気がついた。
心の整理がついたのか、目を開けると。
今度はふわり、と”ジュリエット”は微笑んだ。
春の陽の光のように暖かそうな笑みが、口許に浮かぶ。
「そうそう。あなた、私のこと知ってたみたいだけど?お名前は?」
「はい。調布智美です。先輩のことは、文化祭の英語劇でみました。」
「あー、恥ずかしー。あれ、観たんだね。
でも私もあなたのこと、知ってるよ。ロミオ君の彼女さんなんでしょう?」
「はい?──えー、その。
そうなのかもしれませんけど。
あいつには他に、ちゃんと本命がいます。
あたしはせいぜい、玩具っていうか、ーー」
さとみんが、テレテレして、すこし赤くなって横をむく。おそるべしジュリエット。
──彼って、みかけによらないなー。
こんな美人さんにあきたらず、あのちっちゃい、かわいい子を本命にしてるんだ?スゴいね。
そう、美少女がいたずらっぽい顔で弄る。調布智美が押されてる、珍しい事態。
なんだか、シリアスな空気が壊れた。そのことに、とりあえず国領ハルカはほっとする。
「──そっちの、かっこいいきみ。
きみ、たしか生徒会でしょう?お名前、教えて?」
振られた国領ハルカは、びくっと反応してしまう。
「国領ハルカです。生徒会書記です。」
「ハルカさんも、志野君の彼女のひとり?」
「ええっ!?ちがいますっ!」
「今は
美少女が屈託なく笑い、国領ハルカも頬が赤らむのを感じた。
「ふふふ、──かわいいな」
彼女は、笑い止めると。ふうっ、とまた息をつき。視線を外して。
ナイフを折りたたみ、これは預かっておくね、と言ってポケットにしまう。開いた時とは違って、どことなく、ぎこちない手つきで。
あの右手、痛めてるのか?と、国領ハルカは気づいた。
「ごめんね私、そろそろ、行かないと。
──またね。」
「はいっ」「失礼します」
左手を軽く振り、彼女は来た道らしく、彼女らに背を向けて去って行く。
その姿が消えると、ようやく残された調布智美と、国領ハルカは緊張を解き。
どちらともなく顔を見合わせて、ふう、と息をつく。顔に苦笑が浮かぶ。
──悪い人じゃないし。超かわいい外見だけど、なんだか疲れた。
そう思ってへなへなと、国領ハルカはしゃがみこみ、──そして、あるものに気づく。
踏み荒らされ、乱れた地面。踏みしだかれた、雑草の芽。
「さとみん。これって、」
「これは、──何してたのかしら。」
「それと、ジュリエットさんの背中。葉っぱが少しついてた。
木の葉じゃなくて、草の葉。」
濃紺の汚れが目立たないワンピースの背中に、草の葉と土がわずかについていたことに。
観察眼のするどい国領ハルカは、違和感を覚えていた。
「それとさ。
さっきは聞けなかったけど、ジュリエットさんって、何でこんなとこにいたのかな。」
二木馬場*2にでも行けそうな、お洒落で清楚さを引き立たせる服装。
わずかに短めな裾は、動きやすいだけじゃなくてうまく挑発的にも使えるだろうが。
どうみても、こんな藪の中をかいくぐってくるようなところに来る服装ではない。
そんな服装で、会う相手。
そして、乱れた地面。
邪魔されて、(おそらく)不快に思っていた様子。
「ねえ、さとみん。ジュリエットさんって、もしかすると、」
「そりゃ、恋人の一人やふたりはいるでしょうね。」
「だよねー」
あれだけ可愛いんだし、モテるんだろうな。
それにしても男ってやつは。外見ばっかりに惹かれやがって。
なんとなく、(自分も外見は相当いいのだが)国領ハルカはやさぐれた気持ちになる。
「あれ。でも、なんで男の方は身を隠したんだろう?」
もし、彼女らの想像が当たっているとしたら。
男の方は、ハルカたちが来るのを知って逃げた(ジュリエットが逃がした)ということになる。
どうしてだろうか。会っているのが、普通の相手じゃない、とか──?
「足跡、ある?」
「あの先輩のは、当然あるけど。──あら?」
調布智美は、踏みしだかれた地面の足跡を凝視する。
「大きい足跡だね。──あれ?これ、足跡?」
「形が変。奇形かしら?」
その足跡は、ジュリエットが横たわったと思われるあたりについている。
4つの揃った指から、かなり離れて1つの指。
「っていうかさ。これ、手の跡じゃないかな。」
はだしになった、というのも変だ。これは、手のひらだ。
形も大きさも、ちょっと巨大だが人間の手の跡にちかい。
サルの足跡?と頭をかすめたが、それにしては大きすぎる。
人間の手のひらとしても、やっぱり変なところはあるが──。
この指は太く短い。手のひらも大きい。
湿った地面とはいえ、こんなに土に痕が残るとなると、相当の体重だろう。
軽く手を当ててみながら、調布智美はプロファイリングを試みる。
「それなりに体重のある男。手のひらの跡がある、ってことは、手をついていた?
それだけじゃ、こんなにめり込まない。
逆立ちしたか、あるいは、」
──跪かせたその上に、別の人の体重がかかった?
ふたりは、顔を見合わせる。
今までに、あきらかになった事実。
①ジュリエットは、誰かと、会っていた。
②この誰かは、大きな手のひらの持ち主で、体重も重い。
③誰かは、手のひらが地面にめりこむ姿勢をとった。
④その前か後(おそらく後だろう、と土の乱れ具合をみてふたりは推測した)、ジュリエットは、この草原に横たわり、背中に草の葉をつけた。
⑤ジュリエットは、右手を痛めている。
彼女らの脳内スクリーンに、ぽわん、と再現映像が現れる。
①虫も殺さぬようなたおやかな風情で笑う、あの美少女ジュリエット。
②しかしその前に、毛むくじゃらの腕をした、外国人の大男が跪いている。
③ジュリエットは、彼の肩のあたりに腰かける。いつも、この奴隷に対するように。その体重で、男の手は柔らかい土にめりこんだ。
④そして、いろいろ。ジュリエットは、跪く奴隷を馬に見立て、お仕置きする。右手を痛めるくらいに。飛び散る汗。
⑤その、ご褒美。ジュリエットは、おもむろに草原に横たわり。誘うような目で男を見上げた。
もちろんごく一部は想像で補完されているが、まず大筋はまちがいないだろう、とふたりは思った。
「ねえさとみん。ジュリエットさん、って。──もしかして、ビッ」
「言わないで。そんなこと、あるわけないでしょう?
きっと、組体操の練習だったのよ。応援団に選ばれたか何かで。」
「さとみん、心にもないことを!
──でもさ、話はかわるけどさ、さとみん。
しのりんはさ、ジュリエットさんにこの前、デレデレしてたよね。
そしてしのりんって、ガードあまあまだよね。」
「ええ、これとは関係ないけど、あいつへの監視を強めなきゃね。これとは、まったく関係ないけど。」
二人はぴーちくぱーちくとさえずりながら、その場を離れ。
直截的な表現をさけながらも、見解を一致させた。
──もし、ジュリエットが、見ばえだけがいいビッチ淫乱女、なのであれば。
絶対に、志野を不用意に近づけて、奪われちゃならない。
彼女たちは対抗するためにも共同戦線を張り、それなりの関与を行うべきだ、と。
そう。あきらかにふたりは、間違った方向にその想像力と行動力をフル回転させようとしていた。
──────
(第三者(吉祥寺美鷹)視点)
自分のいないところで酷い風評被害が発生しようとしていることなど、夢にも知らず。
ジュリエットすなわち吉祥寺美鷹は、額の汗をぬぐいながら、小走りに来た道を帰っていた。
来た時は全く恐れなどなかったのに、帰る今は、いろんなものが怖く思える。
──神様、お願いします。家のお母さん、無事でいますように!
ああ、カサカサ音がする。野犬とかいたら、どうしよう。カラスとかもやだ。
というか、道はこれであってるよね。
もう少しで遊歩道に戻る、というところで、彼女は男たちの話し声を聞く。
裏人格モードだったなら平然と押し渡ったであろうが。
今の彼女は、善良で社交的だけど、ちょっとこわがりの女の子。
早くどっか行ってくれないかな、と思いながら物陰に隠れて、男たちのようすをうかがう。
煙草の臭い。何か軽く口論しているような声が、聞こえる。
「──だからよ。天神町。夕方、日が落ちるまで、なんやて。
うまくいけば、観てもらえるってよォ。」
「それが?そんなによく、当たるんか?」
「だってよ。怖いくらいに、良く当たるんやて。」
「馬鹿じゃねえの?そんなん信じんなや。
そんなによく当たりよるんなら、大繁盛で、とてもみてもらえまいが?」
「当たるとよ。気に入った客しか、観んと。」
「そんなん当たるんなら、占い師などしとらんやろが。
自分で勝ち馬券でも当てて、大儲けやろうが。」
「だから、商売じゃねえんよ。
最初にくじみたいなのを引かして、それであたりを出した奴だけ、観るんやと。」
「なんじゃ、そりゃあ。」
隠れている藪のすきまから、斜面の上の男たちを覗きみる。
どうやら、3人組の男。顔も声はまだ若い、彼女と同い年くらいかもしれない。
センスの悪い服をまとった、大柄な男。背は高いが、お尻が大きいというのか、三角形の体型。
次に、筋肉質の体で、それを売りにしてるのか、タンクトップを着た丸坊主の男。小柄だが敏捷そう。
最後に、もやしみたいにひょろっとした、気の弱そうな男の子。
そして3人からは、──煙草のいがらっぽい臭いだけじゃなくて、覚えのある腐った匂いがかすかにただよってくる。
臭いは、彼女の知っている悪人たちほどどぎついものではないが。
なんらかの形で、人の死に関与したこともあるのだろう。
あまり関わって、いい人たちではない。
「天神町のどこや。」
「あのアステロイドプラザの裏。カキ氷屋の2階。」
「金の無駄やん。まあ、気休めにいこか?観てもらえるかもわからんけど、がっちゃんとこに近いしな」
「がっちゃん家かー。なんか、暗くてしょんべん臭いんよなー、あいつん家」
男たちの姿が消える。去っていく気配。じりじりしながら、1分間待つ。
慎重に、遊歩道に上がる。
行く手のカーブを、まさに曲がろうとする3人の後ろ姿。
距離を詰めないように、あとに着いて山を下りた。
──────
遊歩道を降りきると、違う筋を走って不良たちをやりすごした。
通行人に好奇の目も向けられるが、構わない。
真夏の日射しに熱され、褪色して白ちゃけて見える路面を走る。走るごとに、一度は闖入者や不良たちに気が逸らされて小さくなっていた不安が、募っていく。
──お母さん。生きてて。
お願い。なんでもします。この命も、体も。お金も名誉も、素敵な恋愛も、もうなにもいらない。
もう自分の運命に文句は言わない。あの腐臭のする男に番わされても、誠心誠意仕える。
だから。
家に帰ったら、お母さんがきっとドアを開けてくれる。遅かったねって言って、ココアを作ってくれる。お父さんも、きっと趣味の碁会所から、無事に戻ってくる。そしてふたりとも、もちろん穏やかに白髪になるまで生きる。馬鹿な娘がたとえ、書置きを残していなくなって、一時は悲しんでも。
ドアにはカギが掛かっている。インターホンを押しても、すぐには応えはない。
サルは、カギなんて掛けないはず。もどかしく、カギを開ける。
母を求めて声を上げるが、家には母の姿はない。台所にも、ダイニングにも。
2階へ階段を駆け昇る。いない。
再度、1階へ。お風呂場にもトイレにも、いない。
絨緞に、ひざをつく。胸が絞られるような思い。涙も出ない、過呼吸気味に息をつく。
愚かな自分は、いったい母に何を最後に言っただろう。心配そうな顔しか、頭に浮かんでこない。いつだって見守ってくれた母。子供の頃、熱を出した真夜中に、そっと額のタオルを換えてくれた白い手。
仕事に疲れ切り、遅くに帰宅する父に、感謝を伝えきれていただろうか。そっけない態度で、最小限の接触しか最近はしていなかった。別に父は嫌いじゃない、好きだ。穏やかで怒ったところなんてみたことがない、世渡りが下手で好人物の父。今だって、家の庭でボール投げしてたあの小さかったころと同じように、大好きのまま。ただ、ちょっと放っておいてほしかっただけだった。強い言葉を使うつもりじゃなかったのに、きっと傷つけてしまって、そのままになってしまってた。
私は愚かな娘だ、罰を受けるのもあたりまえ。でも、彼らがひどい目に遭うのは、間違ってる。
悪いのは私だ。お願いだから、あの人たちじゃなくて、私を罰すればいいんだ。ひどく、むごく。だから、──。
1階の居間で、膝をつく彼女の背後の廊下から。
カギを開けたままの玄関ドアを、ぎいいっ、と引き開ける音がした。