タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
驚くべきことに、紫藤側は騙しおおせることができた。
紫藤母は想定外の臨時収入の見込みに驚いたようだが、紫藤に対してはくれぐれも気を付けなさいと注意はしたものの、思わぬ収入に喜んでいた、というよりほっとしていたようだ。疲れ切っていた様子だったらしいしな。紫藤の勧めに応じて完全休日をとるようにしたようだ。
紫藤父も反対はしなかったそうだ。まあカエルに娘を売るような奴だし、金が入ればどうでもいいのかもしれない。だが、せっかく紫藤が稼いだお金をこいつがかすめ取るみたいなことにならないといいが。
でもよく考えると、カエルの金も返さず持ってるはずなんだよな。紫藤父にはむかついてきた。こいつに、みなりか紫藤母を受取人にして保険かけてやろうか。まさに未来知識を使ったチート。詐欺ですらない。でもまあ確実に紫藤にはドン引きされるよな。僕が殺したと疑われそうだ。まあいいけど。
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そして今日は連休初日。
午前中は僕は卓球部の自主練に顔を出す。だが、午後はフリー。
紫藤はアルバイトという名目で平日と同じように家を出て、バスターミナルのある駅のトイレで制服に着替え、高校に行って文芸部の自主練(笑)ないし図書館での自習(進学校だけあって、こんな連休の中なのに図書館の自習室スペースは開いているらしい。もっとも開架式書庫には入れないし、自習のみ利用可だ)をすることになっている。
お昼に練習を上がった僕と落ち合い、一緒に昼食をとる。そのあとは制服JKお散歩だな。いや、僕も一応私服は持って行くので、普通のお散歩でもいいんだけどね。
卓球部はそれなりに楽しい。卓球という競技は、もちろん練習は大事なのだが、ある種の器用さというか、センスみたいなのが結構ある気がする。ほかの球技とは違った、共通しない器用さだ。
ほかの球技は結構ユニバーサルに強い人は、卓球も下手ではないのだが、ほかの球技ほどはその共通性が高くないように思う(もっともテニスの強い人は、卓球も強かったな)。そしてほかの球技はからきしだめでも、卓球だけは強い人がいる。
僕は1回目を引き継いだので2回目も卓球部を続けている。結構これはこれで楽しい。1回目よりも、テクニックというか細かい技量は向上している気がする。地味に2回目を始めてから続けている体力作りもプラスなのかもしれない。
相手のスマッシュに応じて台から距離を取り、シェークハンドのラケットで、高く上がった黄色いボールを打ち返す。卓球のボールは軽いので、減速も早い。スマッシュの初速はすさまじいものがあるが、間を取ると結構打ち返せるのだ。もっとも、その後も打ち合いになるわけなのだが。
相手はなおもスマッシュをかけてくるが、微妙にカットを入れて返す。この回は、数度目でネットにボールがかかり、僕のポイントとなった。
サービス。1回目はこれが苦手だった。2回目は僕とタイプの似た、上手い人の技術を盗んで、ただそれだけをひたすら練習することにした。本当は1つの方法にだけ固執するのは、相手が有効な対処法を学んで対処してきてしまったときのリスクが大きいのかもしれない。だが今回は対外試合、初見殺しに徹する。こっちとしては、ネットにならない、そしていきなり打ち込まれないサーブができればいい。
サービスは堅実でいい。ラリーに持ち込むといい勝負ができる。シーソーゲームで、最後は地力に勝る相手に押し込められたが、いい勝負だ。後輩が2、3名、邪魔にならない場所でラリーを見てる。
練習試合が終わると、相手をしてくれていた3年生の先輩がぱんぱんと肩をたたいてきた。
「志野、強くなってるじゃん。」
「先輩のおかげです。ありがとうございます。」
「期待してるよ。」
無口な先輩だが、この人にはずいぶん練習相手になってもらった。先輩は次に僕と同学年の選手と試合だな。さて、1回あぶれの僕は休憩してもいいのだが、台と壁があいてるな、次は壁打ちしようか。こういう地味な練習は、僕、好きなんだよね。
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卓球部はホワイトだ。強くないともいう。
午前中で僕が上がっても文句は言われない。またな、と言われる。次、連休中でいつ参加できそうか、というのは聞かれる。正直に答える。ちょっと少ないが、同学年でもっと少ないやつもいる。それ以外も、もし空いたら来ます、そんで練習出来たらします、と答えておく。
ロッカーで着替える。弱小部なので部室がないが、卓球部用のロッカーはある。もちろん悪用してエ○本入れてるやつもいるのを知ってる。うん、読みたいというより、規則を破るスリルがいいんだろうな。
卓球部には煙草を吸う子はいないが、結構な強豪部で吸ってるやつを知ってる。あと後から知ったが、男女で部内で付き合ってて、学校でやってたやつもいるよな。同級生として接するとなんか興奮するというか変な感じだ。何気ない腰つきに、そういう関係を感じてしまったりして。
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休日中はチャイムは鳴らない。まず、求学館(付属図書室)を覗きに行く。紫藤の姿はない。おそらく部室だな。
文芸部は図書館と同じ建物、旧本部棟の上層階にある。
旧本部棟はちょっとお城みたいな、不思議な構造をしている。西洋の建物と日本のお城を混合したような、奇妙な意匠だが不思議にしっくりしている。
下の階層は普通の古い西洋建築、そして最上層階は、寺社みたいな銅瓦で拭いてあるのだ。中庭のあるコの字型の構造なのだが、四隅に尖塔のように5階相当の小さな階がある。
紫藤の文芸部はその尖塔の一つにある。正確には尖塔とその一つ下の部屋の両方で、いわゆる文芸創作や詩歌創作などを行う文芸部門と、イラスト部門、そして百人一首部門がある。百人一首もまじめに活動しているが、カードゲーム部も兼ねているというカオスぶり。要は人があまり集まらない文化部門をまとめてしまって傘下に置いているので、ほかの学校と違って、かなりの大規模文化部(?)なのだ、統一感はまるでないけど。
図書館の階から1階あがり、4階に足を踏み入れる。しんとしていて、誰も人がいる気配がない。紫藤は果たして。
文芸部の場所は知ってる、しかし部門ごとの配置は知らない。そっと、4階の文芸部の部屋を覗く。ドアを開けると、ドアの空いた側からは遠い側で人が動く気配。お邪魔します、とちょっと大きめの声をかけてから、中に入る。
中は通常教室の二倍くらいの部屋。図書館のような書棚があり、書棚で3つに区切られている。どうも僕が入った、階段から近いスペースはカードゲーム部門か。手品の道具らしいものまである。
真ん中のスペースはおそらくイラスト部門か。ファンタジー系のアートポスターがべたべたと。
最後のスペースに行く前に、顔が最後のスペースから覗いた。紫藤だ。
「志野くん!」
「紫藤さん、お待たせ。」
尋常に挨拶する。
飛びつきそうな勢いで紫藤は近づいてきたーー白い子犬を一瞬幻視したーーが、飛びつくわけにいかずちょっとそわそわとしている。うん、かわいい。
「行こうか?」
「え、どこに?」
「お昼。」
「あ、志野くん。外で食べる?それとも、もしかすると、お弁当とか持ってきた?」
「いや、持ってきてない。持ってきたらよかったかな?」
「もし、志野くんが良かったらだけど。志野くんの分も作ってきたんだ、箱は一つなんだけど二人分のつもり。二人だと少ないかもしれないけど。部室か外かで一緒に食べようよ。」
「ありがとう。いいの?」
「すごく粗末なので、みたらがっかりするかもーー。ごめんね。」
「大丈夫だって。」
奥のスペースに招じ入れられる。長い会議室机が数個、一つ、これは古いものだが場違いに良い調度のようだ、黒い木材でできた、華麗な装飾が脚や縁に施された大机。
「こっちで食べようよ。」
大机に促される。
椅子も古くて少しスプリングがへたっているが、ほかの木製の教室机とは違い、クッション付きの重厚なものだ。
「汚さないようにしないとね。」
「大丈夫だよ、もう汚れてるし。」
きゃらきゃらと笑った。いつもよりハイテンションだ、頬に赤みがさしていて元気そうだ。
紫藤は僕の向かいでなく、隣の辺の椅子に座る。にこにこしている。バッグからお弁当の包みを取り出した。
「たいしたものじゃないんだけど、ーーあ、これが箸だよ。」
受け取る。
ありがとう、と言って、思い出して二人で手を洗いに行く。水道は出て少し行ったところにある。青緑タイルの床にゴム底の上履きの音がキュッキュッと響く。並んで手を洗う。中庭の一番高い針葉樹が、目の前で枝を風に揺らしている。遠くで野球部だろうか、守備特有の掛け声が聞こえている。
どうやってきたの?バスで。待たなかった?図書館に途中までいたんだよ。とかいう会話を続けながら、部屋に戻る。
お弁当への感謝を再度言って、開く。
確かにあまり大きなものではないが、ちょうど半分くらいずつにご飯とおかずがしっかりと詰められている。十分だろう。足りなくなったら食べたしてもいいし。
自分で全部作ったの?と聞く。どうやら紫藤母もかなり疲れているらしく、基本、お弁当は紫藤が作っているそうで、今日も母と弟と自分たちの分を作ったそうだ。
紫藤父は昨日飲んだくれていて遅く起きると思う、多分出かけるんじゃないかな、と。弟さんは紫藤父とはあまり折り合いが良くないらしく、姉がアルバイトと聞くと、自分も公立図書館に行くと言って、お弁当を請求していたらしい。
うん、ということは今日は公立図書館にはいかない方がいいな。バレるとまずいし。
紫藤父も要注意だ。自宅にいるかもしれず、外出するとしても行先は不明だが、まずいかないであろう場所にしないといけない。
紫藤母は所在が分かるらしく、そちらは教えてもらった。
あと同級生の目も避けたいところだ。同級生母の耳から紫藤母に伝わるとはあまり思えないが、用心するに越したことはない。
あれ?ということはあまり行ける場所多くないな。同級生の目くらいは仕方ないか。こうやって学校に来てる時点で今更だしな。
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部活の話とかを聞きながら、お弁当を食べる。味付けは関西風というのか、薄めだが悪くない。卵巻きは甘い派と甘くない派があるが、甘くない派のようだ。
お弁当箱は塗りの結構大きいもので、二人分にも十分そうだ。お互いに譲り合ったりもしたが、無事食べ終える。
ありがとう、ごちそうさまでした、と言って、せっかく無人なので軽く洗ってくることにする。僕の手からお弁当箱を取り上げようとして、紫藤は高く上げた手に持ったお弁当箱をぴょんぴょんと飛び跳ねて取ろうとする。スカートのはためきに、つい目を奪われて油断し、腕ごと引きずり降ろされてお弁当箱が奪われた。
結局二人で水道で並んで洗うことにする。食器用洗剤もある。結構多いらしい、平日にここでお弁当を食べて洗ったりというのも。
部室に戻ると、紫藤が電気ポットでお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。二人で玄米茶の香りを楽しむ。無言になったが紫藤の顔を見るとにこにこしている。
お茶を飲み終わる。次どうしようか、と思っていると。
「志野くん。その、」
紫藤が言う。耳が赤い。
「耳かき、ーーする?」
早速!?向こうから言ってきたよ。紫藤も耳かきの意味するところを解ってるのだろうか、もじもじしている。
場所が問題だ。机の上で?いやそれはないだろう。椅子を並べて?なんかスペース不足だ。
紫藤がいう。5階にあたる尖塔部分の部屋は、和室なんだそうだ。百人一首とかを練習したり、句会をしたりするときに使うらしい。昔は連歌をしていたらしいとか。すごいな。
5階に上がる階段は、他と違ってスチールで後から作り付けた、傾斜が急なものだ。紫藤が鍵束を持ち、先に立って先導する。
階段を見上げると、紫藤の脚が腿の半ば以上まで見える。膝の裏のHの形の線を、そして半ばまで靴下に隠されたふくらはぎをじっと見つめてしまう。紫藤は楽しそうにこの場所が秘密基地っぽくていいんだよねー、とかのんきなことを言いながら先に上がっていく。白い肌の下、腿に力が籠められ、膝裏の筋がわずかに浮く。脱毛クリームは使っていないのか、ごく柔らかそうな、気を付けてみないとわからない産毛がある。
入口のカギを開けると、中に踏み込む。
1畳くらいの下足脱ぎ場、そしてワンクッションあって障子を開けるとその向こうが和室になっている。三方に窓、もう一方も小さめの窓がある。
驚くべきことに冷蔵庫があり、古いテレビがあり、ちゃぶ台もあり、片隅に積み上げられた座布団がある。古びた旅館の一室にも見える。
紫藤は座布団を一つ、二つと置く。4つくらい置いたところで止めた。紫藤は一番端の座布団に正座すると、少しだけ膝を崩し、恥ずかしそうにしつつも、ぽんぽんと腿を軽くたたいてみせた。
「紫藤さん、いいの?」
「うん、いいよ。」
お言葉に甘えて。
だが僕はヘタレだ。最初っからお腹側に顔が向けられない。
あと、どうしようもなく興奮して、その、勃ってしまった。気づかれまいという気持ちと同時に、もう気づいてほしい、という気持ちがないまぜになり、僕は無口のままに、そっと横になり、紫藤の腿に頭を乗せた。
うう、恥ずかしいよ、といいながら、紫藤は持ってきたらしい耳かきセットをポケットから取り出した。
ポケットティッシュから一枚を用意し、僕の髪を撫でる。
2回目の僕はそれほど髪は長くない、髪をさばいて耳を出す必要はない。これはきっと、それ以外の意味。それ以外の意味って。
動かないでね、と言って紫藤が上半身を曲げ、のぞき込む。うん、耳かきってこんなものなのか。全神経が顔に接触する腿(もっとも、スカートに守られている。だけど、その体温がわかるのだ)、控えめだが確かに存在する胸、そして何も香水をつけていなくても薫る、女の子の、あの本当にかすかな甘い香り。
興奮に気づいているのかいないのか。紫藤はじっと無言のままに、真剣な瞳で耳をきれいにしていく。最後に、白いほわほわした羽毛様のものでで耳の中の小さな耳垢を絡めとって。
「じゃあ、反対側ね。」
紫藤も何かを意識している。僕はそう確信した。紫藤の声があやうく裏返りそうになっていた、緊張すると紫藤は声がそうなりやすいんだ。実際に裏返ることはあまりないんだけど。
紫藤のお腹の方に顔が向く。さっきまでごくごくかすかだった香りが、もっと濃厚になっている。目を開けていてもいいのだろうか。
そっと見上げる。真剣な顔の手前、白いブラウスの隙間から、肌とブラが見えた。白いブラに包まれつつも、包まれきれていない控えめな珠の膨らみ、そして胸の間の柔らかそうな肌。
思わず目を一度閉じる。衣擦れの音。こりこりと、決して傷つけないようにという意思のこもった、軽い力での耳かきが続く。
もう一度目を開けた。
ギクッとする。さっきよりずっと紫藤が僕に覆いかぶさっているような気がしたからだ。気のせいだろうが、顔を僕の耳に近づけて、近い距離から見ているのだろう。そしてさっきより、さらに強く甘い香りが漂う気がした。
頭がおかしくなりそうなくらいに、紫藤が欲しい。
フィニッシュでまたほわほわしたもので耳の中を掃除している。ふうっと息を吹きかけられて、終わったよ、と紫藤がいう。起き上がる。紫藤が恥ずかしそうな、でも何らかの達成感を含んで満足そうに、えへんと言わんばかりに顔に笑みを浮かべる。
うん、僕は紫藤に恋をしている。
一見地味だけど、心の優しい、僕にとっては特別な、そう世界で一番大好きな女の子だ。
いろんな意味で不運な、残酷な運命を抱えているけど。
僕は救うだろう。でももしも、この先救うことができなかったら。
一緒にその不運に、世界の不条理に最後までつきあおう。一緒に死ねるのなら、それでもいいや。
それで彼女が、永遠に僕のものになるというのなら。
しばらく見つめあっていたのだろう。紫藤から、ちょっと不安げに、気持ちよくなかった?と聞かれて、僕は慌てて返事を返す。うん、すごく気持ちよかった。眠り込んでしまいそうだった(嘘)。もう、すごく元気が出たよ。ありがとう。ーーまたお願いしても、いいかな?
紫藤はまた真っ赤になりながら、こくんとうなづいた。いとおしさにどうにかなりそうだ。
先に立ち上がる。そして紫藤が立ち上がるときに、思わず手を差し伸べる、そして紫藤も全く意識してなかったのか、気軽に手を出して。
手がつながった。
紫藤の手を持って優しく、引き上げる。そしてまた、見つめ合った。
紫藤の顔も赤い、そして多分僕も。
そっと手を引き寄せた。紫藤は抵抗しなかった。いや、むしろ軽くぶつかるように僕に抱き着く。
気づくと、強く抱きしめていた。
世界で一番幸せだと思った。
ちょっと体を離した。紫藤が、赤くなって何かを言おうとしている。
「志野くん。わたしは。志野くんが好きです。大好きです。」
小さいが、はっきりとした声で紫藤が言った。
思わず抱き上げ直していた。紫藤の膝裏に片手を入れ、もう片手を背中に回し、体全体を抱き上げた。
はっ、と小さく息をのむのがわかった。しかし紫藤も僕の首に腕を回し、強く抱き着いた。目がまた合った。紫藤が目を閉じた。
すぐそこにある顔。キスしていい?と聞こうとして、やめた。
いいと言われてもいやだと言われてもキスしたい。そして、人の心のわからない僕にも、今はわかった。今の紫藤は、決していやと言わない、それを望んでいる。
でも、軽く額に唇を当てた。
意外だったのか、目を閉じていた紫藤が、目を開ける。そっと紫藤を下ろして、立ってもらった、そしてもう一度強くぎゅっと抱きしめた。そして少し腕を緩めて、片腕で腰を抱いたまま、手を紫藤の首の後ろにあて、そっと優しく上を向かせた。
紫藤も察してか、目を閉じて、上半身を柔らかく反らして、上を向いた。体の力を抜いて。僕が片方の腕で背中を支えなければ、そのまま後ろに倒れそうなほどに。
紫藤との初めてのキス。唇は少し荒れていたが、柔らかく、甘い香りがした。しばらくは、離せなかった。
五月晴れで、閉じたままの窓からは白いカーテン越しにも明るい日差しが差し込んでいた。
僕も目を閉じた。
静かだった。さっきまで聞こえていた遠くの野球部の声は、いつの間にか止んでいた。
柔らかい紫藤の体を支えながら、僕はこの子を絶対に幸せにする、何があっても離さない、と何度も何度も何度も何度も心の中で繰り返していた。
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目を開けて、一度体が離れる。お互いに気まずい、わけではないが。何を言ったらいいかよくわからないような沈黙。
紫藤は幸せそうに、でも恥ずかしそうにしていて。少しだけ、何も言わずに涙を流した。
白いハンカチをポケットから出して目元に当てる。そしてまた、嬉しそうに少し充血した目でほほ笑んだ。
大好きだよ、と僕も言った。わたしも、と紫藤がちょっと裏返りそうな細い声で言った。そして、わたしは幸せだよ、と続けた。僕も、と答えた。
僕は幸せだ。幸せという言葉の意味を知った。僕は何にも知らなかった。
この短くもない、三十数年の人生の中で、幸せについて。
とんだ無知な愚か者だった。
広い世界の小さな片隅で、でもとても大きな人生の奇跡を知った。
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その後。
あろうことか僕と紫藤はその場で、出した座布団を枕に寝てしまった。
いや、寝たといってもそっちじゃなくて、つまり期待してた、より性的にお近づきになる方向ではなくて。
なんか疲れ切った僕たちは、昼寝してしまった。
僕は彼女に腕枕した。
最初は軽く抱き合ったような体勢だったと思う。寝たかな?と思って目を開けると、紫藤もこっちを見てて、目があって、くすくす笑った。
二人とも天井を向いてみたり、背中をくっつけあって押し合ってみたりした。
最後に、紫藤が僕に背中を向けて、僕が背中側から紫藤を抱くようにした。
大きなスプーンと小さなスプーンを重ねるような感じだ。
うん、後背位の体勢でもある。どきどきしながら後ろから抱き着いた。
紫藤の髪から、多分使っているのだろうシャンプーの少し甘い、清潔そうな匂いがごくごくわずかに漂った。
僕はそれを吸い込んで、2つにわたる人生の中でもっとも幸せな午睡を眠った。