※この作品はR-18です。

タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。   作:Marchhatter

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第三者(有明りな、一部本人主観)視点です。
少々、自傷行為などの鬱描写があります。苦手な方は飛ばしていいかもしれません。
(次回、簡単なあらすじを付けます。)



248 少し汚れて、でも染まらないまま(14)(有)

(有明りな視点) 

 

 受話器を、できるだけ静かに置く。かすかな、ちぃん、という音に、身をすくませる。

 ちょっと迷惑そうな声だったが、志野という青年は、来る(かもしれない)と約束してくれた。

 約束をしてくれたけれど。

 

 ──やっぱり、来ないよね。

 

 ここは24時間眠らない、電車やタク券でどこにでも行ける東京じゃない。

 多賀島の中心街に近い丘の上の大邸宅、といえば聞こえがいいが。

 要は公共交通機関もろくになく、険しい地形で開発に取り残された山の裏手なのだ。

 

 彼女は、カチコチと時を刻む古ぼけた柱時計の針をみる。台所の橙色の常夜灯に照らされた柱時計の針は、11時すぎを示していた。東京でさえ()()()高校生が出歩く時間じゃない。

 だから約束はしたけれど、来ないかもしれないと分かってる。いや、来ない、来れないと分かってて約束をしたのだ。彼が約束してくれた、そのときだけは彼は疎みながらも彼女のことを考えてくれていたはず。だから、それでいい。世界は全部、嘘っぱちなのだから。

 

 彼女は、ため息をつく。──いまの、この気持ちも嘘だ。本当は、欲しい。でも決して、手には入らない。神話のミダス王のように、彼女が手を伸ばした欲しいものはすべて、触れるとたちまち燃え尽きた灰の塊のようにつまらない嘘になってしまうから。手を伸べて変わらないものは、彼女がもともと欲しくもない、もとからの灰の塊だけ。外見は全く同じにみえるが、彼女の欲しいものとは違うのだ。

 だから彼女は、彼女が本当に欲しいものを、あらかじめ諦めておく。そして灰の塊を欲しがってみせる、そして灰の塊を得て、欲しがってたものが得られたように喜ぶふりをする。

 来れるかもしれない、と約束してくれた彼の不確かな誠実さ。本当は、彼のその誠実さが欲しい、会いに来ると言いきって欲しい。でもそれは嘘になる、だから彼女の望みは果たされない。だから彼女は、結局正しい。欲しいものは手に入らない。

 

 "いいわね、りなちゃんは。欲しいものが全部もらえて。"

 

 記憶のなかの、誰かの声。ママだっただろうか、先輩の女優さんだっただろうか。違う、そんなものが欲しかったんじゃない。でも、嬉しそうな演技をする。その言葉を本当にしたくて。本当は嘘なのに。

 左手首のテニス用サポーターが、少し蒸れてかゆい。ずらして掻くと、まだ新しい傷口から血がにじむ。

 彼女は、それを拭いもせず、ビー玉のように感情の欠けた目でその命の滴りが乾いていくのをみつめながら。

 多賀島に来てから、これまでのことを思い返す。

 

 ──────

 

 彼女、有明りなが多賀島を訪れたその日。

 さまざまな新しい体験で、彼女はもみくちゃにされた。

 慣れない、一人での電車旅行。

 多賀島では降りる駅を間違え、青年に案内を乞うて荒れた裏町を歩き。

 下品な議員先生と下品な蛙みたいな人(ガマガさん)に、品定めされ。

 怖そうな秘書さんに、車のトランクルームに押し込められ、議員先生の家に物のように送られ。

 そして議員先生とその息子、怖そうな秘書さんのアレを抜き。

 その夜の日付が変わろうとする時刻にたたき起こされ、地下バーにデリバリーされ、また蛙さんからも抜く。

 

 そんなハードな一日の後で、正直なところ、彼女はかなり疲労困憊していたのだが。

 彼女は少し無理をしてその翌日、早起きした。顔合わせというのは、最初が肝心だと思ったのだ。

 午前5時半くらいにやってきた、70歳手前くらいの小母さんに頭を低く下げてごあいさつし。

 しっかりした子ねー、と言われてうれしくなる(彼女はかなりチョロいし、褒められることが好きだ)。

 この小母さんは、夜の仕事などない、純然たるまかない担当の家政婦さんのようだ。

 かわいがってくれて、お手伝いすると飴玉までくれた。──彼女がすごく欲しいものではないけれど、喜んで受け取る。

 

 抜いたからなー、昨日は良く眠れたぞ!といってご機嫌で起きてきた元議員の葉良先生と、怖い秘書の砂土原さんにもご挨拶し。

 カマキリに似た若社長の桐雄さんに食事を届け、前日の食器を回収し。

 出かけようとする砂土原さんに聞いて、午前中には今のところ仕事はないと聞き。

 目の下にくまを浮かべていた彼女は安堵して、家政婦の小母さんを少しお手伝いした後、二度寝し。

 起きたときには、広い家には誰もいなくなっていた。

 愛人兼家政婦さんの千夜喜さんの書置きがあり、今日は実家に戻って母を病院に連れて行く、夕方に戻ってくると書いてある。

 つまり、この日の昼間、有明りなは一人ぼっちで家に残されたわけだ。

(いきなりの放し飼い状態に、無用心すぎないか?という気もしたが、そのときの彼女はあまり不審の念を抱かなかった。)

 

 最初は解放感があって、ちょっと楽しかった。

 昔話みたいな、大きな日本家屋。ロケで使ったことはあるが、住むのは初めて。

 廊下を巡るだけでも、小さな冒険だ。

 

 だが、そのうちなんだか怖くなってくる。

 誰もいないのに、きしむ家鳴り。

 ネズミか鳥なのだろうが、屋根裏でパタパタとする音。

 昼でもうすぐらいタイル張りの、つんとした臭いのするトイレの床に、じっと待ち構えている巨大なクモ(たしか『タカアシグモ』だっけ。最初、あまりの大きさにジョークグッズだと思って彼女が指でつついたら動き出し、小さくではあるが悲鳴を響かせてしまった)。

 いつも身近な自動車の走行音、クラクションも下界からかすかにしか聞こえない。世界は彼女を置いていってしまった。

 子供のころからだいたいマンション暮らしだった彼女には、だんだんこの家のことが恐ろしく、心細く思えてきてしまう。

 

 寂しい。

 十数本、ポケベルでメッセージをマネージャーの二間多(ふたまた)架毛琉(かける)にメッセージを送り、電話も試みたが。

 ことごとく無視されて、彼女はへこむ。

 

 それでも、意外に勤勉な彼女は気を取り直して部屋に戻り。

 教養のためという触れ込みでリトルウィッチに認めてもらって入手した、大検の参考書を広げ。

 台所のテーブルで、古い柱時計の音を聞きながら勉強した後。

 孤独感に堪えかねて、靴を履き、いったん庭に出てみた。

 

 暑いけどいい天気で、日なたにいると家のなかの怖いものは何でもない気がしてくる。

 遠くで太助さんが、黙々と枯れ枝を集めているのをみかけて。

 寄っていって挨拶するが、昨日同様、驚いたようにもごもご何か言う。居心地悪そうだ。

 情報を聞き出そうとしてみるが、ほとんど何も聞き出せず、逃げられてしまった。

 ただ、砂土原さんから聞いた、下の町への道のことは、多少補足して教えてくれた。

 それ以外、太助さんは、葉良先生のこともその周りの人のことも、あまり知らないようだ。正直、言葉もあまり通じてない気がする。

 太助さんは、母屋のことには関わろうとしない。母屋へ上がったり関わったりすることを禁止されている(もしかすると彼女含め、ほかの人たちをひどく怖がっている?)ようにすら思える。

 

 また家に戻り、彼女は決心を固める。組織に命じられた、ミッションにとりかかろう。

 彼女には、ミッションがある。

 この家のことを知り、特に葉良先生が周りの人たちに、リトルウィッチのことを漏らしたりしていないか確認することだと言われていた。

(このミッションの真の意図を、彼女は知らない。組織がそこまで秘密主義を徹底する理由も、彼女には想像がつかない。それはまだ彼女がリトルウィッチの本当の暗部を知らないからかもしれない。)

 

 彼女は、まずは無人の母屋を探索する。こわごわとふすまを開け、昼間でもうすぐらい部屋を覗き込む。

 母屋には、葉良先生の書斎を除き、あまり気になる、重要そうなものはみあたらない。

 もちろん、旧家っぽい立派な日本家屋ではある。

 太くて黒光りする大黒柱、立派な梁。ところどころに高そうな壺があったり、床の間に掛け軸があったり。

 かつては人が多かったのだろう、部屋数もあるし、ふすまを外せば数十人が入れそうな座敷もある。

(選挙があると、ここに支持者の人たちが集まって選対本部を置いたりしているのかな?と彼女は思った。)

 庭からは、趣ありげな日本庭園もみえる。

 タイル貼りのトイレや台所は北向きで昼間も暗い。座敷も、床の間のある座敷とは(ふすま)を隔てた続きの間や(有明りなの自室とは、別階段を上がった先の)2階の部屋などは、最近は使われていなさそうだ。

 かつては住み込みの書生みたいな人たちがいたらしいが、バブル崩壊の前後にいなくなってしまったと聞いた。

 

 この母屋とは別に、いくつかのの建物が敷地内に散在している。

 一つは、築の新しい洋風の家だ。機能的な、なんとかハイムとかなんとかホームとかの会社で建てた感じ。

 母屋ほど格式はないが、住むにはずっと快適だろう。母屋は、見てくれは立派だが居住性は悪いのだ。

 母屋とは近く、外気にふれないですむ、ほぼ完全に屋根と壁のある廊下でつながっている。

 

 この新しい方の家に、葉良先生や秘書の砂土原さんの寝室がある。

 千夜喜さん(葉良議員邸の、半分住み込みの家政婦さん兼愛人だ)も、かつては、有明りなに今はあてがわれている、母屋の部屋にいたらしいが。

 現在では、人も減って部屋があまったらしく、葉良先生と同じ建物に移ってしまっている。

 

 若社長は、彼らとはまた別の建物が生活の本拠だ。

 コンクリ造りの3階建て(地下もあるらしい)の、千夜喜さんの言う「変態ビル」だ。

 これはさっきの新しい家と、母屋をはさんで反対側にある。

 やはり廊下でつながっているが、この廊下は外廊下。壁がなく、屋根しかない。

 雨風が強いときは、食事を届けたりするのがちょっと大変かもしれない。

 

 これらと別に、ガレージや。

 太助さんの住む、母屋玄関近くの小屋(下男部屋)がある。

 ガレージは門に近い。大丈夫だとは思うが、記者さんが張り込んでいたら見られてしまう。

 このガレージの調査は後回しにしよう、と彼女は思う。どのみち、たいしたものはありそうにない。

 太助さんは、有明りな以外に唯一、この葉良邸に在所している人なので、この下男部屋には踏み込めない。

 もっともごく粗末なつくりで、ここも優先度は低いだろう。

 

 母屋で彼女の関心を惹くのは、葉良先生の書斎だ。

 この書斎は、新しい家につながる渡り廊下のそばにある。

 重厚そうな、黒檀の机や本がぎっしり入った書棚、黒電話や文書が入ったキャビネットが置かれている。

 鍵のかかった机の引き出しが、気になる。

 

「『(仮称)竜神沢ダムプロジェクトについて』?」

 

 基礎知識のない彼女には、図面や見積書などの文書がどのようなものかよくわからないが。

 ちょっと怪しげな文書が、鍵のかかった机の引き出しにしまわれているのを発見した。手書きの書類を、複写したものだ。

 鍵はあたりに見当たらなかったが、幸いにも彼女がリトルウィッチで仕込まれた解錠方法で開けることができた。

 

「『又座岐組から、資材発注名目で葉良建設資材に○千万円、倍土警備に○千万円、──』?

 なんだか『名目』ってのが、怪しい気がする。さっきの見積書の数字と一致してはいるけど」

 

 彼女は使い捨てカメラを自室に取りに戻り、書類を念のため撮影する。

 

(なんでだろう、この見積書・請求書と、文書に付いてる経費使用状況の内訳の違い。

 特に建設機械のレンタル料とか損料とかの見積もりと実際の支出との差額が、大きすぎる。

 機械を使わず、人力でなんとかしたってこと?)

 

 よくわからないが、この見積書や請求書とかともあわせて、撮影しておこう。

 ちょっとスパイになった気分で、楽しい。

 

(今更だけどこれが見つかったら私、やばいわね。気をつけないと。)

 

 彼女はそう思いながら、それ意外に何かの事件のもみ消しに関するものらしいものなど、気になった書類十数点をフィルムに収め。

 細心の注意を払って、文書をもとの位置に戻した。

 

 ──────

 

 葉良先生の新しい家の検分にすすんでみる。しかし、こちらからはあまり得るものがなかった。

 しいて言えば、いやらしい本やグッズが大量に葉良先生の部屋にあったことくらいだろうか。

 もうかなりのお歳なのにお盛んですね、と彼女は思う。この性欲が私にぶつけられるわけかー、と思うと少し気が重い。写真集とかグラビアからしても、胸が大きいメリハリのある体つきが先生の好みらしい。意外に変態的なものも多く、彼女は少し引く。

 もしかするとこれらはめくらましで、この下にすごく重要なものがあるのかもしれない。

 そう、彼女は思ってさぐってみたが、特にそういうこともなさそうだ。

 愛人兼家政婦の焼藻千夜喜さんの部屋も、申し訳ないと思いながらものぞきみる。特筆すべきものはない。

 時計を見る。だいたいカバーしたし、すこし危険な気がして、彼女は新しい部屋の探索を打ち切った。

 

 若社長の桐雄さんの変態ビルが、未探索のままだ。

 しかし、若社長が出勤中は扉に鍵が掛けられているようだ。彼女はまたこのビルに呼ばれるだろうし、また彼が定期的に出勤しているようなら、不在となる機会もみつけられるだろう。

 彼女が家探ししているところを捕まったら、大変なことになるのは彼女にでもわかる。臆病なくらい慎重に立ち回ろう。

 

 部屋に戻ると、また孤独がひしひしと感じられる。

 またポケベルでメッセージを送る。こんどは事務的な返答が1つだけあった。

 それでも喜んでメッセージを送るが、また放置プレイが始まる。

 しかたなく、「3341」と送ったあと、しばらく勉強して、休憩時間に自室のたたみに横たわる。

 まだ日のさしこまない西北向きの窓には、白い雲の浮かぶ青い空、東京ではまず聞かないくらいの蝉の声のシャワー。

 

(寂しい)

 

 彼女に家族はない。いなくなってしまった。

 昔は、ママは優しかった。わがままを言っても、ちゃんと叱ってくれた。

 パパはいつも忙しかったな、でも休みの日には公園に連れて行ってくれた。

 なんでもない近所の公園、それで楽しかった。

 いつからだろう、ダメになっちゃったのは。

 眠気をこらえながら、彼女は床に崩れた体勢で、射し込む日光のうつろいに目をやる。

 別に思い出したくないのに、いくつかの場面が彼女の脳裏にゆらめく。

 

 ──────

 ──────

 

 

 ──もうちょっと頑張ってよ、りなちゃん!このシーンが撮れたら終わり。

 

 ──終わったら、ママ迎えに来てくれる?

 

 ──来てくれる、来てくれる。大丈夫、ほら一本!

 

 ADの人になだめすかされて、深夜のスタジオでがんばって演技をして、OKが出た。

 泣く演技も、堂にいったものだと激賞される。

 終わったのはもう朝近く。4時をすぎてたと思う。こんなにがんばったのに。

 でも、ママは来なかったな。

 ADの人が嘘をついたんだと思った。泣きわめいて、当たり散らした。

 あのADさんが嘘をついたのか、ママが本当に用事がはいったのかわからないが。

 大人の世界では、子供との約束なんて破ってもいい嘘なんだ、ってわかった。きれいに見える、灰の塊なんだ。

 どうせ破られる約束でも、してくれただけうれしい、と思い込むことにした。

 

 

 ──終わったら、ディルニーランド行こうか。

 

 ──やったー!約束だよ!ママも、一緒ね?

 

 ──ええ、大丈夫よ。だから、眠いと思うけど頑張ってね。ケーキも用意するわよ。

  

 ──うん、がんばる!

 

 そんな約束もしてたな、あれは小2か小3の誕生日だっただろうか。

 終わりのないロケ、果たされることのない約束。ケーキも、きっと買ってくれてたんだと思う。

 でもやっと家に帰ったら、ごめんね、もう食べちゃったって言われた。

 ディルニーランドはまた今度ね、って言われたけど、結局、その「今度」は、なかった。

 泣いてごねたら、どういう立場かよくわからないお兄さん(いまでもよくわからない。ADさんだろうか)が付き添ってくれて、ディルニーランドに連れて行ってもらうことはできたけど。

 お兄さんはしょっちゅうポケベルで呼び出し受けてたし、私には優しかったけど迷惑がってるのはあきらかで。

 何より、──私が欲しかったのはディルニーランドなんかじゃなかったんだ。

 欲しかったのは、その少し前から、いつもけんかするようになった、パパとママが仲良くしてくれる機会。

 もっと小さかったころディルニーランドが楽しかったのは、パパとママが仲良くしてくれてたからなんだ。それがほしかった、だけなのに、──。

 でも私は楽しそうに振る舞い、頃合いをみて疲れたと主張して青年をごく自然に解放した。

 青年と駅で別れ、走って帰った家は無人。私は鍵のかかった扉の前で泣いた。青年は戻ればまだそのへんにいたかもしれないが、頼りたくなかった。自分のことが、すごくみじめだった。

 あのとき以来、私はディルニーランドに行きたいなんて、言わないことにした。でも本当に欲しいものを口にだせなかった。近くの公園で遊んでる小さい私を並んで見守ってるパパとママ。それをどう言えばいいか分からなかった。

 

 

 ──ほら、(Hey,)早く脱がないか!(Strip off now, you chick!)時間がないだろう(Don't waste my time)──。

 

 あ、これは。"KA○ASHI"とかいう映画に出た時だった。あのときは英語、すっごく勉強させられたな。付け焼刃だけど。

 外国人監督。世界的な名監督って言われてたけど、下品なジョークばっかり言ってて、気分次第で俳優さんたちを怒鳴りつける。私を見る薄い青い目が、ぎらぎらしててすごく怖かった。

 どういうことでああなったのか、そしてあのとき彼に何をされたか、私は覚えていない。言われて服を脱いだ、そして、たしかうつぶせにさせられて、首を手で絞めてきて、──

 セックスはしてないと思う。医師に確かめてもらったけど、まだ処女のままだと言われた、でもすごく汚された実感があった。体のあちこちに擦り傷があり、噛み跡の歯形があり、しばらく奇妙な酩酊感が残っていた。

 手首を切ったのは、あのときがはじめてだった。

 

 私に何かあったって気づいて、気づかってくれたのはグレースだけだった。他の人も気づいたのかもしれない、でも監督を恐れて知らないふりをしてた。

 グレースはあまり重要な役ではなかった。ぶっちゃけ、ちょい出のモブ。

 私より4、5歳くらい上だっただろうか、ちょっと不良がかったティーンエイジャーの女の子の役。なぜかハッカーでもあるって設定。

 なぜか私のことは、妹みたいにかわいがってくれた。彼女も、たしか監督になんかされそうになったって、言ってたような気がする。いじめられっ子弱虫コンビだったのかもしれない。

 作品は国際的な賞も取ったらしい、でもそれは私が欲しいものじゃなかった。グレースとの文通もいつしか途絶えたが、私は失望しなかった。期待してなかったから。

 

 ──────

 ──────

(第3者(有明りな)視点)

 

 わずかなまどろみ。びくっとして、いつの間にか寝ていた彼女は目をさます。

 少し腫れた目を、台所の鏡でみる。

 腫れをとるために、冷やす。──けど、なんのために?

 

 ──私がきれいにして、誰かみてくれるの?お金と体以外に、私を求めてくれる人って、──

 

 頭の中で、わんわんと蠅の群れがうずまく感覚。

 それを黙らせるために、彼女はむだ毛処理用の剃刀をそっと手首に当てた。

 

 ──────

 

 清冽な痛みが、彼女の精神につかのまの平穏をもたらす。

 お昼ごはんとして、朝番の家政婦のおばさんが、簡単だが魚の煮つけと野菜炒めを用意し、おにぎりを握ってくれていた。

 手を合わせて、ごはんを一人で食べる。

 寂しい。

 

 食後、彼女は日課の柔軟運動をした後で。

 記者さん(本当に見張られてるのか、わからないが)の視線の外であろうと思われる範囲で、葉良邸の周りをめぐり、この家の地理を知ろうとする。

 要領を得ない太助さんの言葉をヒントに、砦山の下に通じるという道も途中までたどってみた。

 

 葉良家の敷地は、家や建物、ガレージのあるあたり以外は、傾斜地なのだが。

 太助さんの努力で、段々畑が緩斜面につくられ、野菜が育てられていたり。

 日当たりのいいふもとのあたりに、みかんや実のなる果樹が植わった果樹園があったり。

 栗の木の林があって、秋には栗が拾えるようであったり。

 雑木林では、鳥が楽しげにさえずっていたり。

 牧歌的な光景が、ひろがっていた。

 

 ただ、山の下の町へ下るという谷筋の道をくだると、彼女にはちょっと怖いものもあらわれる。

 それはたとえば崖にある、高さ1メートル半くらいの手堀りの洞窟(防空壕というらしい)だったり。

 顔の表情すらわからないくらいにこけむした、赤いちゃんちゃんこを着せられたお地蔵さんだったり。

 雑木林のへりにいくつかならぶ、お墓だったりする。

 

 特に彼女は、このお墓が苦手で、そこから引き返してしまった。

 苔むした、ふるいお墓たちがいくつか。

 そして、その脇に。

 ちゃんとした墓標はないが、大きめの石を頂上においた、こんもり盛り上がった新しめの土の山があって、──。

 

 そして夕方になり。

 千夜喜さんが戻り、少しだけ家が活気づく。

 そして葉良先生と佐土原さんも帰ってきて、不愉快なこともされるけど、寂しくはなくなった。

 もちろん「仕事」は、今日もしっかり求められた。それが彼らにとっての、彼女の存在意義だから。

 今日もお風呂場に呼ばれ、葉良先生と砂土原に、口での「抜き」を強要される。

 砂土原さんが、イ○マのやり方を教えたる、と言って喉に突き入れてきて、窒息しそうになる。

 彼女が苦しむ姿を愉快そうに笑っている砂土原さんは、きっといじめっ子だったのだろう。

 

 一方、今日は、若社長からはお呼びがかからなかった。

 でも夕食を届けに行ったとき、彼女にやらせるための準備をしていると言って、どこか不吉な笑いを浮かべていた。エッチな衣装の発注とかだろうか?

 

 その後、葉良先生と砂土原さんは、明日が早い、と言って寝てしまった。

 なんでも寅子(とらこ)様とかいう、有力企業グループの社長から依頼が入った、とかいうようなことを言っていた。

 秘密めいたそぶりで、午前様にどうこうとコソコソ話してたのも気になる。彼女に何か関係するのだろう。午前様という言葉は、多分彼女が昨日、蛙男に呼び出されて午前様になったことを指しているのだろうから。

 「その寅子(とらこ)万智主(まちす)社長をもてなせ、たとえ午前様になっても」ということかな、と彼女は想像する。本番でないならそれは彼女の仕事のうちだ。ストレートに前もって言ってくれればいいのに。

 

 それはともかく、彼らが寝て。

 彼女は、また一人残された。

 ポケベルでマネージャーに「寂しくて死んじゃいそう」という趣旨のメッセージを送る。

 「チャレンジ!」という一言だけの雑な返事が来て、彼女は剃刀の誘惑に耐える。

 

 そういうわけで。

 ひっそりと広い古い母屋に、今夜、彼女はただひとり。

 トイレにいくのすら、懐中電灯をたずさえ、勇気を奮い起こさないといけない。

 

(今日は、さすがにガマガさんの呼び出しはないだろう。)

 

 あの後、どういうわけか少し仲良くなってしまった地下バーの黒服によれば。

 ガマガさんは、連日で来ることは決してないという。

 別の店に行ってるというわけではない。彼は本当は酒に弱い、あれだけ飲めば翌日は夜まで使い物にならない、という。

 

 ──逆に言えば、明日は呼び出しの可能性あり、ってことかな。

 

 また、ため息。

 でも、あんなに屈辱的な形ででも。

 今は、とにかく人に会いたい。そんな気すらしてしまっている。

 そして。

 

「もしもし、しーくん!

 なんで電話、してくれないの?

 ──あ、ごめんなさい。しーくん、いますか。有明です。夜分遅くに、すみません。」

 

 彼に電話番号を教えてもらってから、まだ、昨日の今日。

 別に今日このときまで、電話がなかったからといって、彼が自分のことをないがしろにして忘れていたりしているわけでもない。

 それなのに、教えてもらった電話番号にかけて、責めるような口ぶりで、志野と呼ばれる純朴な青年を呼び出してしまった。こんな夜中に。

 きっとこれも、灰の塊。灰でいいんだ。私も灰だから、──と彼女は思う。

 

 ──変わってない、何も変わってない。

 あのとき、泣いてごねてディルニーランドに行きたいって言ってたときの、私と。

 

 彼女は、唇を噛む。

 電話器のある台所の、黒い闇を映す窓ガラスに、見慣れた自分の顔が歪んで映っている。

 それがとても、醜く思えて。

 乾きかけた手首の傷口を握る。また甦る痛みが、彼女の頭の中の蠅を鎮めてくれることを期待して。

 

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