タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。 作:Marchhatter
誤字(文字抜け)のご指摘、ありがとうございました!
(前回のあらすじ)
有明りなは、志野から会う約束を取り付けた後、昨日(多賀島到着)から今日のことを思い返す。
多賀島に到着した翌日(今日)、昼中は葉良元議員たちも出払ってしまい、有明りなは一人、葉良邸に残される。彼女は、葉良邸の内外を探索することにする。ミッションのため捜索した葉良の書斎では、怪しげな書類をみつける。
その合間に、彼女は昔の子役時代のことを思い出す。多忙な子役として楽しい約束を無視され、望んだことを裏切られていく苦い経験と孤独感。夜のお勤めを果たした深夜、彼女が志野に電話をかけて会うのを強請ったのは、古い家に取り残された彼女の、そうした寂しさが嵩じたためだった。
(有明りな視点)
昨日道案内をしてくれた縁で知り合った素朴な青年にねだって、会う約束をとりつけてしまった彼女であるが。
きっと彼は来ないだろう、と彼女は予測している。
ただ彼女は、彼が来ないのを知っていても山道を降りる所存である。それは約束だし。
嘘をつかれたり約束を破られたりして、灰をつかむ苦い悲しみが、幼い彼女は大嫌いだった。
だからせめて自分だけは、できるだけそんなことをする人にはならないようにしよう。そう、彼女は思った。
相手が誰でも、つまり子供でも、小さな約束だって、約束はできるだけ守ろう。──どうしても守れなかったら、せめて忘れたふりはせず、埋め合わせをしよう。
それが彼女の思う、誠実さ。
しかしその姿勢が正しかったのかどうか。今となっては彼女は疑っている。
多分、「無意味な潔癖さ」なのだろう。彼女の観察では、普通の人はそこまで気にしないみたいだ。
だって空約束する人たちでも、特に何の支障もなく、みんなの人気者になり、テレビに出る有名人にもなり、人々を動かす政治家や実業家にもなっている。
他方で約束にこだわる彼女は、約束をやぶった(と彼女が思った)人たちに抗議してわがままと評されるようになり。やがて疎まれてテレビから追われ、都落ちして政治家や実業家のソレを口に含まされている。
でも、今でも彼女は。
厳寒期、休み時間ごとに教室からいちばん遠い水道で冷たい流水に手を浸す、ひとりぼっちの子のように。
つまり、ほとんど強迫神経症的な愚直さで。
幼い自分が自分に課した誓約を守ろうと努力していた。
(できるかどうかは、ともかく。
たとえば彼女自身、多賀島に来るとき葉良元議員との約束の時間に遅刻したりしている。)
台所のすりガラスの窓をすこし開け、彼女は外をのぞきみる。
生まれ育った東京ではまずないような、森の暗闇が目に入った。
彼は来ない。昼の間ですら彼女には最後まで行けなかった紆余曲折のあの山道を、初見で、しかもこんな真夜中に。無理だ。
──でも、私は約束を守ろう。そろそろ行かなきゃ。足を滑らせたら大けがしそうな場所もあったし、時間がかかるだろうしね。
まてよ。
足を滑らせたら、大けが?
ふと、とある可能性に気づいて彼女の顔から血の気が引く。
彼が結局来ないのは、しかたない。最初から諦めてたことだ。
だから彼女としては、無駄足にはなると思うが自分は山道を降りて、家に帰って、また翌日、そのことをネタに会おうとねだる電話でもしよう、と思っていた。
でも彼が来ようとして、自分の意志によらず来れなくなったら。──それも永遠に。
セリヌンティウスに会えずに、道半ばにメロスが盗賊に殺される可能性は高かったのだ。お話だからそうならなかっただけで。
自分は、わがまま勝手に彼に要求して、もしかすると命にかかわる危険にさらしてしまった。
頭の中に、闇の中で崖道を滑り落ち、血に染まる彼の姿が浮かぶ。
──あのきっぱりと結んだ口の端から、血があふれ。
怜悧な光を宿す目は、古いガラス玉のように濁り。
素朴な白いシャツの背中は、赤黒く染まって。
下町では大股に軽々と荷物を運んでくれた、すごく頼もしかったあの腕も冷えて動かない。
そんな最悪の未来図が、頭に浮かぶ。
彼は来ない。きっと来れない。
そう考えた彼女の結論自体は正しいかもしれない。山道は険しいし、来れなくても責められるものでもない。
だけどもし彼が、彼女と同じくらい愚直で誠実で。
約束をどうしても果たそうとして、──事故にあったら?
彼女の把握しているかぎりの、彼の
馬鹿な旅行客をなんの見返りも求めず、小一時間かけて案内してくれて。
彼女のことが心配で、葉良先生たちの味見が終わる1時間ほどをずっとホテルの外で待っててくれた(と彼女は思っている)。
非常識な時間に電話をかけるイカレ女でも、相手して約束してくれるくらい。
要は、ある意味、彼女以上の世間知らずというか、お人好しだ。
そんな彼だと。無理にでも来ようとしてがんばってくれてるかもしれない。そして、──
だめだ、来させちゃいけない。
彼女は、自分のわがままで彼に不可能な約束をさせてしまったのだ。
来なくていい、来させちゃいけない。そう、強く言わなきゃ。
思い悩んで、電話をおそるおそるかけてみる。まだ電話を切ってそんなに経ってない。間に合うかな?
数コールだけして、止める。彼が在宅なら、とっただろう。彼は出かけてしまったのだ。
──彼女のせいだ。
こうなったら彼女は、できるだけ早くあの暗い山道を降りないといけない。彼より早く、神社に着かないといけない。
覚悟と装備を、固めよう。
夜の山道だ。下りなら、きっと登りより早い。昼間に、途中までだけど予習もしてる。
手に、懐中電灯。山道には正直頼りないけど、足にはスニーカー。パジャマじゃもちろんダメだ、シャツとチノを身につけよう。
手早く着替え、扉の開閉音に気を付けつつも。
彼女は恐怖に焦った足取りで、勝手口から家を出て夜の森に走る。
──────
そして、今。
夜の山道は、彼女が思うよりはるかに怖いものだった。
フクロウだろうか、ほうほう、という鳴き声。
がさがさがさっ、と、落ち葉をかき分ける音。人間だったら、いや人間でなくても怖い。
そして耳元を突然、ぶうん、と飛びすぎる何かの虫。
懐中電灯のあかりは、いかにも頼りない。
音が聞こえるたびに、悲鳴をこらえながら懐中電灯を向けて追い払おうとする。
そんな醜態をさらしながらも、彼女は前に進む。
ときには湿った落ち葉に足をすべらせ、ずるずるずるっと傾斜をすべり落ちたりする。べっとり、と服が泥で汚れる。
あー、もう戻れないかもしれない。この斜面、登れる自信ない。
でもいい。後ですごく怒られてもいいから、彼に山道を来させないようにしないと。
今日の午前中は、彼女は葉良先生や砂土原さんとは、朝のあいさつ以外、ほとんど顔を合わせなかった。
もし帰り道がわからなくて、明日、朝帰りになってしまったとしても。
うまくすれば、あの朝当番の小母さんに伝えて、ごまかせると思う。
しかし、これはどうしたことだろうか。
ようやく恐怖の森を抜けた彼女の前に、崖がある。
土留めの、コンクリートブロックでのり面を舗装した、数段の擁壁。
眼下には、市街地の明かり。左の方にひときわ明るく、街の中心部の明かりもみえる。
心に余裕があれば、絶景と言っていい光景なのだろう。
しかし、半月のまだくらい月の光の下では、この崖の詳細がわからない。
彼女は追い詰められたねずみのように、うろうろと崖の左右を懐中電灯で照らす。
抜け道や階段が、どこかにあるはずだが、──
しばし茫然としていた、そのとき。
彼女は、何かがこの崖の上の縁を、左手(街のある側)からすごい速さでやってくるのに気がついた。
──しーくん?
いや、あれは違う。人間じゃ、ない。
人間くらいの大きさの生き物にみえるけど、四つ足。動きもすばやい。
すこし近視気味の彼女は、目を凝らす。
(え、ええっ?)
ほとんど音もなく、恐るべき速さ。大きい。鹿や狸とかではない、上下動の多い走り方。
彼女から10メートルほどの距離で、それはいったん止まり、直立した。
彼女が向けた懐中電灯に、浮かんだのは。
大きな猿。
怯えた小柄な彼女には、それは実際よりも一層大きく、ゴリラ位にも大きく見えた。
光の中に浮かびあがる、瞋恚に燃えているようにみえる暗い眼。
黒っぽい毛の下にもりあがる、凶暴な力を秘めた筋肉。
(昔出演したクイズ番組で、人間の十倍近くも握力があると聞いた覚えがある。
ちょっと握られただけで、彼女の細い手などあっさり潰されるだろう。)
猿が、わざとらしく口を開ける。黄色い牙。彼女にはなぜかその行動が、彼女を嘲笑しているようにみえた。
「あっ、あっ、」
わざとらしい鷹揚さで、ゆっくり猿が直立したまま進んでくる。
震える彼女の手の懐中電灯が、ぶれる。
その乱れる光の中、断片的に照らされて映る猿の姿。頭にある、妙な形の数筋の冠毛、あるいは角のようなものが彼女の目に焼きつく。
あきらかに猿は近づいてきている。嘲笑を浮かべるように、牙を誇示しながら。
もう彼女は、正視できない。目から涙がこぼれて、よく見えない。もう、3メートルもない。
そのとき。
猿が、いきなり何かに気付いたように、がけ下を一瞬見やり。
そして、慌てたように四つ足に戻り、逃げ去っていった。
崖上の斜面に伸び放題に生えたススキにまぎれ。ススキ原を乱す猿の軌跡は、遠ざかっていく。
そして。
あっけにとられ、事態の急変がまだ呑み込めていない彼女の横に。
ぬうっ、とがけ下から黒い頭が出てきて、こんどこそ彼女は悲鳴をあげそうになった。
「有明か?遅くなった。すまない。」
「あっ、あっ」
「どうした?」
長身の相手が、怪訝そうに彼女に近寄る。
失禁しなかった自分の強靭な膀胱に、彼女は感謝した。
「し、しーくん?」
それは彼女が無理矢理呼んでしまった、純朴な田舎の好青年。
来て、くれたんだ。
彼女は、──こんな崖上でやるべきことではないと、後からこっぴどく怒られたのだが。
奇跡的にそこに現れ、彼女の様子に困惑している様子の、彼の胸に飛びこんだ。
──────
──────
(志野視点)
僕が苦労して崖を登りきると、有明が泣いてた。そして抱き着いてきた。
もう少しで、一生懸命上がってきた数段にもわたる崖を落ちそうになったよ。ハハハ、こやつめ(怒)。
女の子が抱き着いてきたことなんかより、崖の端っこでバランス崩しそうになったことで、僕はばくばくと心臓をどきつかせる。──大学で習った心理学の先生には悪いけど、吊り橋効果?ないです(怒)。
でも彼女が泣いてるのは、きっと僕のせいもあるんだよな。
彼女のトラウマをえぐるような無神経な発言。それに暗い道で、きっと怖かったんだろう。
「しーくん、なにか、なにかいたの、──」
よくわからないことを口走りえぐえぐと泣く彼女を、なだめすかし。
崖上から離れるように、誘導する。
ちょっと行くと、さすがは元天才子役。
月明りにもわかる腫れた目ではあるが、洟をすすりながらも話せる状態になる。
非常に面倒くさいながらも、彼女を褒めてはげまし、道を聞き出して斜面を登る。
「来てくれるなんて思わなかったけど、もし来てくれたら。
しーくんが、怪我すると思ったの。
暗いし、すべりやすい道だし、──」
たしかに彼女の履くチノには、夜目にもべっとりと泥のついた痕。自分こそ、すべっとるやん。
暗い雑木林の中の道を、僕らは葉良邸に向かっている。彼女の足取りが遅いのが気になる。
本当は彼女が求めてるのは共感かもしれないが、僕としては早く彼女を落ち着かせて、家に送り届けたい。
(落ち着かせるには、下に降りてコンビニとかで暖かいものでも飲ませるべきか?とも思ったんだけど。
こんな崖や崖下の迷路は、ちょっと彼女には無理だと思ったんだ。ましてや、今はこんな状態だし。)
「ああ、僕も有明が待っててくれるとは思わなかったよ。」
「そうだよね、ごめんね、こんなとこまで、──」
また足が止まる。仕方ないので、手をつかんで引いていくことにした。
身長的にも、紫藤と大差なくて、子供みたいだし。
「家まで、あるいは家のそばまで送るよ。」
「ごめんね。
──しーくん。今、『すごく面倒な女』って思ってるでしょ」
ようやく調子が少し戻ってきたのか、自虐的ながらも有明は笑みを浮かべてこっちをみる。
洟をぬぐうのに貸したハンカチ、今日は戻ってこなさそうだな。なんてことを僕は考えながら。
「そんなことないよ。」
そう答える。
ほかに、どう答えりゃいいっていうんだ。
本心のことを言うと、「うん、面倒な女だね」なんだけどな。
でも、こんなときに言っちゃいけないことぐらいわかる。僕だって。
──────
ようやく、急斜面の踏み分け道を上がりきった。
途中に洞窟やお墓があったりしたが、ふもと付近は夏ミカンの木があったりして平和だ。
(ちなみにお墓の前で、このお墓がすごく怖かったの、と有明が言って体を寄せて腕を組んできた。
正直ちょっと邪魔だしお墓の中の人(霊?)にも失礼なんじゃないかと思ったけど、震えてるのが分かってつき放せなかった。)
「もう、みんな寝てる。──ねえ、だからお願い。ちょっとだけ上がって?
麦茶、出すから。」
「いや、いいよ。」
彼女はもう安全、泣き止んでて笑いを浮かべる余裕もある。
泣かしたのは僕のへまだけど、そろそろノルマ終了じゃないかな。
僕も彼女も、明日があるだろうし。
早く帰って寝るべきだ、と思ったんだ。しかし、彼女は許そうとしない。
「だめ?」
「──あー、その、有明。今は、夜12時すぎ。
家の人に黙って男を入れるなんて、さ。下手すると不良どころか泥棒扱いだぞ?」
「見つかったら、全部私が責任取る。」
結局のところ、僕も少し、いやかなり疲れていて。
時ならぬハイキングとクライミングで、喉もからからだったんだ。
そしてもう、どうにでもなれ、って気持ちもあった。
僕は彼女の口車に乗って、勧められるままに裏口に靴を脱ぎ、そっと家に入った。
──────
上がったそこは、台所だった。流しのナツメ球だけが点いていて、ぼんやりした黄色の光を投げている。
その台所のすぐ横、ハシゴみたいに透け透けの階段を上ったところに有明の部屋があり。
僕はその屋根裏部屋みたいな部屋に、招じ入れられた。
──落ち着かない。
いまにも、誰か家人がやってきて、すごい勢いで怒鳴りつけられたりしそうな気がする。
もっとも山道で彼女が力説していたところによると。
この部屋はこの家の他の人たちの寝室とは離れてて、まず気づかれない、大丈夫だという。
葉良先生と第二秘書、そして家政婦さんは、別棟の洋風住宅に寝室があるらしい。
『若社長』と有明が呼ぶ葉良先生の息子も同様、別棟のコンクリート建ての建物にいるそうだ。
有明は、僕を先導して自室に入ると。
わずかな月明りと、下の台所からの常夜灯の照り返しだけしかない、相当に暗いままで。
(僕は超感覚があるけど、彼女にはほとんど何も見えてないんじゃないだろうか?)
居所なく、落ち着かない気分でたたずむ僕に向き直るや。
ぺたぺた、べたべたと僕の肩や腕、背中を触ってきた。なんなんだ。
(どうした?)
極力、声が響かないように小声で聞く。
彼女はくふふ、と息を吐いて、一度、体を離し。
しゃがみこんで、足元にあった、古ぼけたデスクランプをつけた。
(部屋の天井にはこれまた古そうなペンダントライトがあったが、点けなかった。
たぶん壊れてるか、あまり明るくして気づかれたくないってことだと思う。)
しゃがんだままで僕を見上げた有明の目は、まだ少し腫れぼったいように思えたが、顔には笑みが浮かんでいた。
(しーくんがいるのが信じられなくて。確かめたの)
有明は立ち上がってすすっと距離を詰め、背伸びして、僕をみあげてそうささやき返す。
いや、来いと言うたの自分やんけ、と僕は思うが、なぜか不快には感じなかった。
デスクランプの黄色い灯りで、近い距離で向かい合う僕たちの陰が部屋の反対側の壁に映っている。
気をとりなおしたように、彼女は距離をあけ。
麦茶取ってくるね、と彼女は言い。
ちょっと眩しい、嬉しそうな笑顔をちらっと僕に向け、思い出したように既に敷いてあった布団の横に合ったパジャマの下を持って、階下に消えていく。わずかな階段の軋み。
僕は、なぜか緊張していた体を緩め、ほうっとため息を吐き。
とりあえず、暗めのデスクランプに照らされた部屋を見回してみた。
殺風景な、4畳半の和室だ。かろうじてエアコンはついてる。でも窓は小さく、閉塞感がある。
ところどころ、場違いな服やファンシーな小物(ポーチとか)があるのが目につく。彼女の私物だろう。
床には、いかにも古い布団が敷いてある。服が何セットか押し入れのふすまにかかるように、長押からハンガーでかけてある。有明のものらしいスーツケースが、部屋の片隅にある。
電球色の赤っぽいライトに浮かぶ調度は、相当に昭和的。
(ほら、これ。)
わずかなきしみ音。有明がはしごに近い例のスケスケの階段を慎重に上がってきた。
泥のついた服を着替え、赤のギンガムチェック地のパジャマ姿になっている。
捧げ持つお盆の上には、グラス2つ、そしてガラスの水差しに一杯に作った麦茶。
お盆は、たたみの床に置かれた。僕もつられて座って、日焼けしたたたみに胡坐をかいた。
彼女も、僕の向かいに、正座をくずして両ふくらはぎを外に出した姿勢で座る。
(かんぱーい)(乾杯)
冷たい麦茶を、一気に干す。汗をかいてからからだった喉に、心地よく冷えてほろ苦い麦茶が沁みていく。
(そろそろ、僕帰るよ。)
(なんで!)
彼女が、まさしくΣ(゚д゚lll)みたいな顔をしたので、ちょっと笑いたくなった。
(いや、もう会えただろ。それに、結構な時間だし)
部屋に時計はないが、階下の時計ではもう真夜中の0時(12時)すぎだったと思う。
まだ12時半には、すこし間があるか。
(ほら、いい子は眠らないとだめなんだ)
(私、不良娘。だからいいでしょ)
(僕は、いい子なの)
(しーくんも、不良になろうよ)
(嫌だよ)
(ケチ。じゃあ、もうちょっとだけ)
(半までなら)
(お代官様、殺生な!)
(じゃあ、40分まで)
(いよっ、もう一声!)
(──まあいいよ。45分)
(ありがとう)
ぐいっと麦茶を干すと、またお代わりを注いでくれる。
そしてあろうことか、彼女はすりすりと畳の上を膝立ちで僕に近づくと。
ころっと畳に横に寝て、僕の腿に自分の頭を乗せてきた。
僕の方に顔を向け、腕を胴に回し。
そして顔を横に、つまり上(僕の顔)に向けて見上げて、彼女がぽつぽつとしゃべる。
(ねえ、しーくん。
すごく怖かった。)
(山が?お墓が?)
(ちがう。いや、山もお墓も怖かったけど、もっと怖いのがいたの。猿)
(猿?)
彼女によると、あの崖の上に、猿がいたのだという。巨大な猿。
僕は集中力を壁のぼりに向けてたから、そっちは「なんかいるな」程度だった。
(キングコングみたいな、強そうな、怖い猿。
頭に、角みたいなのが生えてた。あれは、鬼なのかも。)
(角が生えてる猿?。見間違いじゃなくて?)
(うん。こんな形。カマみたいに途中で下に折れてるのもあった)
角のある猿なんて、日本はもちろん世界にもいない。
でも有明りなの言葉を聞いた僕の頭には、脈略もなく。
あの怪老人にも、頭に「角」みたいな変な突起があったよな?ということが思い浮んだ。
もちろん、無関係だろうけど。
(見間違いじゃ、ない!
こっちをみて、笑ったの。まるで人間みたいに!)
猿は直立して、彼女に近づいてきた。にやにやと笑いながら。
でも、僕に気付くと、逃げて行ってしまったらしい。すごい勢いで。
確かに、壁登りに集中していたからあまり崖上には注意を向けていなかったけど。
僕も上に、人間(有明りな)のほかに別の気配はあったのには気づいた。
だからそこに猿がいたのは、事実だろう。
でも夜の山に恐怖を覚えてたであろう彼女の話は、多少割り引く必要がある。
猿がやってきて、座り立ちした。そして威嚇して牙を向けた。
その猿、何かの加減で角みたいに草木の枝(オナモミの茎とか?)を頭にくっつけてた、ってとこじゃないだろうか。
(私、あのままだったら食い殺されてたかも。
しーくんが来て、逃げて行った。しーくんは、ヒーローみたいにかっこよかった。)
(何もしてない。)
(でもしーくんは、約束守ってくれた。
私、お礼がしたい)
(お礼なんて)
(でも、お礼は大事。昨日、しーくんも教えてくれた。
心からお礼を言え、って)
ふうん?そんなこと言ったっけ。
あー、親戚にちゃんと遅刻のことを謝って、そしてお礼を言えって言ったか。
(でも、いいよ。僕もうれしかった)
(それじゃ、ダメ。
お金のことも、心配させてごめんね。今なら、たくさんある!
前金もらったし、昨日、蛙さんからももらった)
前金いうな。風俗かよ。
あ、でもこの子、そういや微妙な立場にあるんだよな。顔を潰すことになるから、言わないけど。
姪(推測)である彼女にセクハラを働くエロ爺と便乗する馬鹿蛙のことを思い出して、僕は渋面になった。
(あー、ごめんね。蛙さんなんて、興味ないよね!
私、ここにいてもお金は使えないから。しーくんに、あげる)
どうも有明は、どうしても僕に何かを与えたいらしい。
(いや、いいよ。まあ、そのうち、な)
(そのうち?
今でも、いいのに)
有明の手が、すっと僕の胸元に伸びてきた。