※この作品はR-18です。

タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。   作:Marchhatter

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間が空いてしまいました。
志野視点→第三者視点です。




307 鍍金された愛(6)(志)

(志野視点、多賀島中央高校、日曜午前中)

 

「やっぱり母校は、懐かしいなー。

 いや、ついこの前も来たんだけどね」

 

 僕の高校の駐車場から校舎へと続く、植え込みの間の小道をたどりながら。

 僕の横で目を細めている人は、例の記者さん(鷺沼さん)。

 そう、僕は記者さんを学校に呼びだし、ちょっと有明りな関係の用事を片付けることにしたんだ。

 

 ──────

 

 今日は朝起きて軽く二度寝して(ほら、昨日夜遅かったからね)。

 2度目の起床時には、ひさびさに日陰谷のナギさんの様子とか見に行っとくかなー、って思って外出の準備をしてたんだけど。

 あの黒縁眼鏡三つ編みスイ◯ップの中河原桜さんから電話がきて、午後の予定が埋まってしまった。

 なら学校関係でなんかあるかな、──って思いついたのが、有明りなと鷺沼さん関係のことだった。

 

 有明りなから預かったよくわからないカメラフィルムを、忘れないうちに渡しときたいし。

 取材駄目になった、ってことも伝えなきゃ。

 だから、せっかくの休みなのに悪いなー、って思ったけど。

 ほかの日よりましだろう、と僕は鷺沼さんの携帯に電話を掛けたという次第。

 

 鷺沼さんはすぐ電話に出てくれて。出先だとは言っていたけれど。

 有明りなのことを言ったら、すごい食いつき。

 高校で、って言ったら、それはもううれしそうにノリノリで来るって言ってきた。

 魂胆、わかってるよ僕。どうせさ、ほら、──

 

「おはよう、鷺沼くん、志野くん」

 

 高校の校舎の裏手にある来客用駐車場で落ち合うと(ちなみに僕は自転車で来た)。

 鷺沼さんは僕の感覚からするとすごく細長い、黒灰色の携帯電話でワンコールする。小声で、来ました、お願いします、としゃべって回線を切ってる。

 そして僕たちが管理棟の玄関にまさに着こうというとき、内側からガラスの大扉をひらく清楚な姿が目に入った。ほらね、やっぱり。

 

「おはようございます!」「おはようございます」

 

 あきらかにちょっと作った快活そうな皮を被った声で、鷺沼さんが挨拶する。僕も追随する。

 おはよう、暑いのに元気ね、と笑いを含んだ、澄んだ声。

 それにしてもこの人って、いっつも学校いるよなー、日曜日だよ今日なんて。

 きちんとした薄いブルーのブラウスにごく薄いサンドベージュの長めの麻スカート。──浦和美鈴先生だ。

 

「本当は、お休みなんですよ?

 鷺沼くんも、無理しちゃだめ」

 

「ほんとすみません、浦和先輩。

 埋め合わせしたいし、あのことも話したいので、その、──後でお昼、食事ご一緒しませんか?」

 

「ええ、もちろんいいわよ。どこかしら、ああ、仮部室ね?

 職員室にいるから、もし早く終わったら声かけて頂戴」

 

 鷺沼さんは、浦和先生のアポが取れて嬉しそうだ。

 浦和先生の後姿を、僕たちは鼻の下を伸ばしながら見送り。

 そして僕たちの仮部室で、少し話すことにした。

 

 ──────

 

 もう補習も終わったということもあって、学校はとても静かだ。

 熱心な体育会系の部活が若干だけ朝練とか入れてるけど、基本、部活も休みで自主トレ期間に入る。そりゃ、先生たちも休みたいからね。

 

 青と白の市松模様の、リノリウムの床。キュッ、キュッと僕の内履きシューズのゴムが音を立てる。鷺沼さんの、お客さん用のスリッパも、軽くパタパタと。

 カンカン照りの陽射しが斜めに廊下にさしこんでる。今日は暑くなりそうだな。

 

 仮部室に案内すると、へー、こんな部屋あったんだねー、と感に堪えたように鷺沼さんは言って。

 しばし窓から外を眺めて、彼の学生時代の思い出などを語っていたが。

 やがてこちらをむいて、顔を引き締めた。

 

「それで『有明りな』さん、やっぱ駄目だって?」

 

「あー、それなんですが、──」

 

 僕は事情を訥々と説明する。

 もちろん、僕が彼女の滞在する葉良邸を訪れて2時間くらいも体をからみあわせてた、なんて話はできない。

(これは調布たちにも秘密。だからそこはごまかす。鷺沼さんは何か感づいたのかもしれないけど、少なくとも僕に問いただしたりはしなかった。)

 

 大事なのは、彼女が取材は受けられないと言ったこと。

 そしてその代わりと言ってはなんだが、出所をぼかせばという条件つきで報道OKの資料をよこしてくれたこと。

 鷺沼さんは、ときどき質問をはさみながらも根気よく僕の拙い説明を聞いてくれた。

 

「志野君って、まじめそうな見かけによらずすごいねー。いやこれ、誉め言葉だから」

 

 何を、僕の説明から読み取ったのか。

 まじまじと僕の顔をみつめなおして軽くジャブを放った後。

 まず、僕が差し出したフィルムを大事そうに受け取った。

 

「さっそく、現像させてもらおうかな。

 それと、志野君。聞いていいかな。

 ──彼女、葉良先生のところにいるんだね?あの、砦山の上の豪邸だっけ?」

 

 僕は迷い、──誰にも言わないでください、と前置きして、そうですと認めた。

 

「分かった。取材源の秘匿は大事だからね、たとえ牢屋に放り込まれても言わない。

 それで彼女、どうして出られないって?

 実はね、知り合いの筋で、すぐでなくてもいいけど是非、っていう、仕事につながりそうな引き合いもあって」

 

 今は堕ちたとされてはいても、芸能界における彼女の名前は僕の想像以上に大きかったみたいだ。

 鷺沼さん自身が興味があって取材してみたい、というのもあるのだが。

 こっそり親しい間柄の知り合いに打診したところ、劇や広告、そして被写体として関心をもった向きから、もしその気があれば、──という照会があったらしい。

 

 僕は困った。彼女が取材を受けないと決めた理由は知らされてないんだ、僕も。

 

「あー、縁切りじゃないんですけど。いや、やっぱり縁きりなんですかね。

 もう、会わないって言われて」

 

「それって、フラれた?」

 

「──やっぱり、鷺沼さんもそう思います?」

 

 最近、別の子にもフラれたんですよ僕。と言ってみると。

 なになに、と鷺沼さんが目を輝かせて身を乗り出してきた。

 ようわからん高校生の知り合いの恋愛関係なんてどうでもいいと思うのだが、鷺沼さんというかこういう陽キャ人種って、ほんとマメって云うか「人」に対して感度が高いっていうか、関心を持ってるよね。

 ただ、ちょっと事実関係をぼかしながらその2つのフラれ体験について僕が述べると。

 彼は、茶化しもせずに何か考え込んでいた。

 

「その、部活の先輩とかいう子。ちゃんとした家の子なんだね?

 親は、特に経済的には困ってない?」

 

「と、思います。ほら、財閥系なんです。吉祥グループ」

 

「そうか。でも有明りなの場合は、困ってそうだった」

 

「はい。あー、僕が言ったって言わないでくださいね」

 

 わかってるよ、と鷺沼さんは頷いたが、なにかひっかかってるようだ。

 

「多賀島やこの近県、失踪者が多いって知ってるかな」

 

「はい」

 

 答えてから、これは以前、浦和先生や鷺沼さんたちの会話を盗み聞きしたからだ、と思い出して

知った経緯を、どう言い訳しようかと思ったけど。

 幸いにも、鷺沼さんは僕がどうやってそれを知ったか、という点については突っ込んでこなかった。

 

「樋木崎渓谷、知ってるよね。

 その山あいに、谷津崎グループの所有する別荘地がある」

 

 ヤツザキという名前を耳にして、僕はぎょっとして鷺沼さんに注意を向け直した。

 鷺沼さんは、ちょっともの思いにふけるように言葉を続ける。

 

「そこに、失踪した人たちの一部がいる」

 

 ──────

 

 鷺沼さんは、淡々と彼がこの件を調査して知った事実を述べる。

 どうやら、僕が盗み聞きした会話があったころから、調査をしていたみたいだ。

 

「多くは、借金をこしらえたり、身内に犯罪者が出て地元にいられなくなったり。

 そういった子たちだね」

 

 鷺沼さんは、その子女のかなりの部分が谷津崎グループや他の関連企業グループの創設した奨学財団で保護され、就学している、という。

 谷津崎老人への疑いを捨ててはいないが、その奨学財団を通じてちゃんと大学に進学したりした実績も確認できている。

 それを聞いて、怪老人──谷津崎老人はともかく、谷津崎グループ自体はまともなのかもな、と僕は思った。

 

「それで、多くのケースは嫌疑が晴れたんだが。

 ただこの件、情報管理が妙に堅い。

 そして奨学財団に拾われたはずなのに、その後が分からない子たちが、少数ながらいる──たまたま知ってた子がいて、引っかかってる」

 

 彼は考え込みながら、そう言って、目を細めた。

 

「その子、北高の子なんだ。有名ってほどじゃないが格闘家の子供で、中学校1年のときに○日本空手道大会の中学生女子の部で準優勝。

 期待の星現る、ってことでたまたま僕も取材したことがあってね」

 

 宙に目を据えたまま、彼は続ける。

 

「その子は高校進学後に奨学生に採用されたけど、所在不明になってるらしい。

 最初は樋木崎渓谷の奨学生の寮にいたのは裏が取れてる。でも、そこから移る、と聞いた人がいたとか。

 その後、学校は長期欠席。そんな状態で奨学生なんて続けられるとは思えないんだけどね、普通に授業料は今も支払われてる状態。近く転校予定、と学校側は聞いているらしい」

 

 そして僕に目を戻して、彼は言った。

 

「その子、吉祥奨学財団の特別奨学生という身分だったらしいんだが──」

 

 ずしっ、と。

 どこか不吉な、すごく重い鉛のかたまりみたいなのがお腹に入った気がした。

 たまたま僕は、紫藤がとある財団の特別奨学生になったのを知ってる。

 そう、あれは──吉祥グループの財団。谷津崎グループとも、つながりがある。

 ただ、その後に紫藤から聞いた情報で、僕は油断してしまっていた──。

 

「吉祥奨学財団って、吉祥グループ。そして吉祥グループは、もと谷津崎グループなんですよね。

 ──そこが仕切ってるんですか?」

 

「そう、もともと吉祥グループは谷津崎グループで、資本関係はほぼ解消。

 でも今も提携関係があって、奨学金の表の窓口は吉祥奨学財団だけど、谷津崎グループがそちらの奨学生もまとめて管理してる」

 

 僕は胃に、何か重苦しい感覚を覚えた。

 気になりだすと思い浮かぶ、どこか不吉な符合。

 

 ──谷津崎グループと吉祥奨学財団の関係。

 家計が苦しい子たちが奨学生となり、その一部が行方不明になっているという鷺沼さんの話。

 紫藤の家庭の状況。特別奨学生の採用のこと。住み込み。

 住み込みはじめてからの、紫藤のどことなく物が言いにくそうな様子。

 

 いなくなった子も、吉祥奨学財団の子だったというが。

 紫藤は、その子を知ってたりするのか?今までの話には、一度も出てこなかったけど──

 

 ──いや。

 阿呆の僕が、忘れてたんだ。出てきてたよ。出てきた。

 僕の脳裏に、裏返りそうに震える紫藤の声がよみがえる。

 

 ”──塔の中の女の子”

 

「志野君。どうかしたかい?」

 

「──鷺沼さん」

 

 僕の声は、すごく乾いていた。僕の声じゃない、別人の声みたいに。

 紫藤の発した言葉に、たしかにあった。

 

 ”北高、○○○○○○○、助けなきゃ”

 

 名前は思い出せないが、──

 

「いなくなったその子、北高なんですよね」

 

「そうだけど、──知ってる?」

 

 名前が、今は思い出せない。それに、全然見当違いかもしれない。

 だけど僕の心臓は、どきどきどきどきと重たく拍動していた。

 

「いえ。知りません」

 

「でも何か、思い当たることがあるのかい?」

 

 鷺沼さんは、僕の様子にちょっと驚いたようだが、何かわかりそうだ、と思ったのだろう。

 そう問い返してくる。

 

「いえ、まだわからないんですが。名前、わかります?」

 

「シノザキミズキ。『長篠の戦い』の『篠』、ザキは普通の『崎』、ミズキは、うーん、『瑞穂』とかの『瑞』」

 

 そうだ。

 

 ”北高、シノザキミズキ、助けなきゃ”

 

 まず間違いない。紫藤はシノザキミズキのことを言ってたんだ。

 

「もしかするとそのうち、前みたいにお力をお借りするかもしれません。有明のことも。

 その時は、お願いします」

 

「あ、ああ。できることがあれば、なんでも。

 もし何かわかったら、早めに相談してくれないかな。勘違い、空振りでも構わない。

 僕自身も動けるようにするし、警察にも検察にも知り合いはいる。

 僕も肚を据えたからね。──僕の会社のデスクもね」

 

 ──だから抱え込まずに、気軽に。取材源、絶対秘匿するから。

 その子の母親の方は、僕の親戚だったんだ。だから遠慮なく、これは仕事もあるけど、僕の為でもあるんだ。

 

 鷺沼さんは、そう言って笑ってくれた。

 

 ──────

 

 ちょうどそのあたりで、お昼時間になったのか三浦先生がやってきて。

 鷺沼さんは、三浦先生とお食事らしい。三浦先生もまんざらでもないのかな、ふたりで仲良く連れだって行ってしまった。

 まったくリア充ってやつは、──。

 

 僕はちょっと暑くなってきた(この時代の高校には、職員室や宿直室以外に冷暖房はない)仮部室で、思索をめぐらせる。

 

 ──紫藤は、何かを知ってた?でも、言えない状態?

 言いたいけど言えない、って言ってたっけ。だけど、何かの条件があれば言える?

 あの、未来の夢の話だと思ってたけど。あの中でも、言いたいけど言えないって言ってた。

 「持ち戻れる量」? 駄目だ、覚えてない。あのメモを見直さなきゃ。

 

 ──それより、紫藤は言ってたっけ。

 

 ”別の誰かも、新規入居見込み”

 

 紫藤は、北高のシノザキミズキが塔の中にいる、助けないと、って言ってた。

 「塔」というのがよくわからないが、まだ今なら助けられるってことだよな。

 その塔に、何人かいるのか?入居見込みってことは、塔に人が捕まえられる設備がある?

 

 わからんな、明日、紫藤に聞こう。

 そうだ、明日になったら、本人に聞く。──じっくりと。ねっとりと。

 

 聞くときのコツ、分かった気がする。

 そうそう、紫藤は、あそこが弱い。あそこを、ああやってこうやって──

 

 最初は、すごくまじめに思いをめぐらしてたのに。

 そんな好色なことを考えはじめた、けしからん僕は。

 いつしか軽くアレを勃たせながら、微睡みに落ちて行ってしまっていた。

 

 ──────

 

 ──本当に、不謹慎なことだと思います。

 ここは、貴方にとっては神聖なる学び舎なのでは、ないのですか?

 それなのに貴方は、貴方が性交したい女の子のことを考えて、言うもはばかるところを充血させているではありませんか。

 

 ──ごめん、ごめんってば。

 そういえばここ、君のテリトリーだったんだよね。

 

 僕は、やいのやいのと僕を責める、その子に謝る。

 あー、こういうことって、前もあった気がしたな。

 

「まあ、許してあげましょう。

 ええ、こんなに尽くしてあげるなんて、私くらいのものなのですよ」

 

 僕の頭はいつしか、この何者かの膝まくらの上に乗せられ。

 髪をさらさら、と撫でられている。

 暑いけど、このなにものかの繊細な手の動きや、ときおり吹き抜ける風で、非常にこころよい。

 

「それに、ここは私だけの領域というわけではないのですよ。

 非常に興味深い存在が、いくつかここには存在しているようなのです。

 正直、私とは波長が合わず、直接に存在を観測できるわけではないのですが」

 

 ──そういえば君、なんなんだっけ?僕の夢だと思ってたけど、──?

 

「貴方にとって私は『夢のような存在』なのですね?うふふ」

 

 含み笑い、僕の頬に伝わる振動。──確かに、彼女はここに存在している。夢ではない。

 僕は甘えるように、顔を彼女のお腹側にすりつけようとするが。

 彼女はくすぐったそうに、軽く身をねじって僕の鼻が彼女のお腹にめりこむのをうまく避けた。

 

「まあ私のことは良いのですよ。そのうち、また忘れられるわけですから。

 ところで、ご注文の品がそろそろ出来上がりそうなのです」

 

 ──すごい、すごいよ!

 それって、前言ったとおり、──

 

「はい。機能、最大限に盛り込みました。完全に再現。そしてお試しの最先端機能まで。

 試してみます?」

 

 ──あー、今はいいかなー。

 でも、ちょっと試した方がいいのかな?

 

「そうですね、副脳もない貴方がたがこれを使いこなせるか、保障の限りではありませんね」

 

 ──あれ。脳が爆発したりするんだっけ?もしキャパオーバーだと?

 

「ふふ、脳が焼き焦げるかもしれませんね。怖いですか?」

 

 ──怖いよ!やっぱり、──

 

「返品は受け付けません!」

 

 ふふふ、と笑っている。

 あーもう最低だよ、僕は紫藤と色々しないといけないのにさ、──。

 半分寝てるせいでそこまでではないけれど、やっぱり僕は怒っている。

 

「そのかわり、おまけで、ちょっぴりだけいいことをしてあげましょう。どれどれ」

 

「くしゅっ、ぐゎふっ!」

 

 ちゅうん、と何かなめらかな長いものが鼻から入ってきて、僕はむせそうになる。

 滑らかな長いくねくねしたものは、そのまま僕の鼻の奥に食い込み。

 瞬時、僕は脳の中心に熱さを感じる。──いきなり何するんだよ!鼻水、でるじゃないかっ!

 

「何って、──ほらもう終わりましたよ。いざというときにどうぞ」

 

 ──いざというときに?何をしたの?ねえ、気になるよ、──

 

「これだけやってあげたのですから。ちょっとだけお代として頂かないといけませんね。ふふふ」

 

 ──あれ、おまけなんじゃないの?何されるの僕?──うわっ。

 

 ちゅっ、と僕は頬に湿ったものを感じた。

 今の何?え、──もしかして?

 

「これ、これ。待つ間の、暇つぶしの楽しみが増えました。

 それでは、また」

 

 僕の頭は彼女の柔らかい太腿から降ろされたくないと思っているのに、無情にも。

 彼女は断固として僕の頭を降ろし、そして扉に向かっていく。

 頬に感じる、夏の風。目をひらけば、きっと白いカーテンがなびいている。青い空と雲。

 それで、君って結局誰なんだ。あーもう、体よ動け!

 

 カラカラカラ、と引き戸が開いて、そして閉まり。僕はようやく体の自由を回復する。

 引き戸はまだ閉まりかけ。僕は、寝ぼけてまだ十全に動かない体に鞭打って扉をあける。

 静まり返った廊下。窓の向こうからの蝉の音だけが響く。

 ()()は、行ってしまったのだ。

 

 ──────

 

 僕は息をととのえながら、今しがたのまどろみの中のやり取りを思い返す。

 

 あの夢を見ている間は、僕はまさしく夢の中の謎の論理で、いろいろと分かった気になっている。

 しかし夢から醒めてしまうと、いったい何が何なのかわけがわからない状態。

  

 気になっていることの、ひとつ。

 夢の中の僕は、何かを彼女(だよな?)に依頼したようなんだ。何かの、製作?

 ただいったい何を作ろうとしたのか、夢からさめた僕はまったく覚えていない。

 それに僕は何かの対価を支払うことを約束したみたいなんだが。

 ──いったい何を約束したんだろう。「胸の周りの肉一ポンド」とか「魂」とか?まさかね。

  

 気になることは、まだある。

 今日なんか、僕、──脳に何か注入された気がするんだけど。

 夢の中の僕はのんきにも、「鼻水出る」みたいなことを憤ってたけど。

 本当に脳になんかちゅるちゅる入れられてたりしたら、──ヤバすぎだよ!

 まあ、しょせん夢なんだろうけど──

 

 時計を見る。ちょっと時間早めだな。

 でも、そろそろ待ち合わせ場所に行ってみるか。

 お腹もすいたけど、彼女、食べてくるかな。どっかパンでも買った方がいい?

 仮部室を出て、階段を降りていくそのときの僕は。

 僕を好意的に、あるいは冷笑的に見守る謎の視線には、まだ気がついていなかった。

 

 ──────

 ──────

(中河原 桜視点)

 

「先生、来てたんですか」

 

「はは、もうあまり居られる時間もありませんからね」

 

 美術室は校舎の4階。登るのは結構面倒くさい。

 でも彼女は、この美術室を気に入っている。下手をすると、自分の家の自室より。

 

 もう先生たちもいないだろう、と思って中河原桜は美術室に登頂したが、みてみると先生が来ている。

(ちなみに鍵は、ものぐさな先生が入り口近くの消火栓のところに隠してくれてるので職員室に行かなくてもOKなのだ。)

 

 そこでほとほと、と美術準備室(先生の個室みたいになってる)の扉をたたき、先生に挨拶しておく。

 あまり人付き合いのよくない桜だが、この先生は優しいし、あまり踏み込んでこないので大丈夫。

 外見は「刑事コロンボ」みたいで、汚れたスモックを身にまとっている。すこし片目が良くないのだろうか、ちょっとすがめるような感じに片目をつぶって絵をかいてる。酒とたばこの臭いがすることもあって、模範的な先生とは言い難い。でも彼女はこの先生が好きだ。

 

「あー、もうすぐ描きあがるんですか」

 

「私が生きている間に、描けたらいいけどね」

 

 塔の絵だ。巨大な、塔。

 バベルの塔のように、荒野にそびえたつ塔の絵。

 150号、下手すると200号くらいの大作*1。どうやって運び込んだのだろうか、もしかすると自分で木枠を組んでキャンバスを張ったのかもしれない。

 

 塔の下に展開される、人々の生き生きとした表情と暮らし。

 描かれる人の生活、年老いた親を労り、子を慈しむ善き行い。

 見知らぬ者を襲い引き剥いだり、女を攫ったりする悪しき行い。

 人の業が、偏執的なまでに緻密に描き込まれている。

 

 塔の中も最初は人々の姿があるが、上層部に行くにつれ、人外めいたものの姿が増える。

 上層階に近い、テラスにしつらえられた木造のペントハウス(?)。鹿のような角を生やしたり、狗の頭をしたりした人々が群れ集い、思い思いに食事と酒を楽しみ、賭けごとに興じる姿。

 まだ骰子をふる姿は、描き込まれていない。まだそれ以外にも、いくつか空白がある。

 

「先生。夏になると、3年生が引退なんですよ。

 新しい部長さんって、調布さんですか?」

 

「それも、決めなければならないでしょうね。

 私としては、あなたもいい候補だと思っています」

 

「えー。無理ですよー」

 

「ほっほっほっ、こほっ」

 

 あの「スラムダ○ク」の安西先生みたいな笑い方をして、先生はちょっとせき込んだ。

 

「──まあ、ちょっと考えてみてください。そのうえで、お二人で話をして決めてもいいですね」

 

「はい」

 

 そう答えて、彼女は

 

 ──まあ調布さん、バイタリティあるし。

 頼めばきっと、大丈夫大丈夫。私が部長だとどんなことになるか、知ってるし。

 

 そう、桜はそのときは思っていた。

 

 ──────

 

 約束の時間近くになり、彼女は正門に向かう。

 背の高い姿が、木陰の下で時計を気にしている。志野氏だ。

 

「おはようございます。志野さん」

 

「あ、おはようございますっていうか──あー、中河原さん。涼しそうですね、そのジャージ」

 

「そうでしょうそうでしょう」

 

 意表を突かれたように、志野氏は彼女を上から下まで舐めるようにみている。

 ちょっと危険を覚えて胸のあたりを腕で隠すようにすると、彼は気まずそうに眼を逸らした。

 

 ──ジャージは楽だし、涼しいのにな。志野氏も着てくればいいのに。

 

 そう、思いながら。

 桜はちょっぴりこの自分とどこか同類臭を感じる志野氏とこれから半日過ごすことに。

 たとえ彼女の失踪中の親友の探索という、深刻な問題のためであるとはいえ。

 どこか、わくわくする思いを感じ始めていた。

*1
150号は縦の辺が2m超。大型絵画。

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