※この作品はR-18です。

タイムリープで同級生の残酷な運命を変えようと頑張る話。   作:Marchhatter

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57 失敗は最悪のタイミングで起きる(4)(調)☆

 

 ーーまさか、自分がそんなことになるとは。

 罠に嵌った人は、みんなそう思うのだろう。

 私もまた。

 自分を特別な人と信じていた、私もまた。

 そう、陥穽に嵌ってしまった。

 

 しかし、そのことを今の私が悔やんでいるわけではない。

 「愛とは、決して後悔しないこと。」

 最初読んだときは笑いとばしたくなった、英語の副読本の台詞が頭をよぎる。

 そう、後悔しない。

 ーーその終わりが悲劇であろうと。

 

 鏡の中の、寝不足な顔を見る。

 鏡の中から、寝不足で目つきの悪い、憔悴した女が見返す。

 くっきりしてると言われる眉目、通った鼻筋、少し大きめの引き結んだ口。鋭角的で冷たそうで、あまり優しそうとはいえないし、ときどき意地悪そうと言われることもある顔立ち。

 7割の自信と3割の劣等感。

 女の子はだいたいそうだと聞いたことがある。

 自分のことを、まあまあいけてると思うこともある。だけど、いわゆる絶世の美女なんてものでは決してない。

 あいつは。どう思ってるのだろうか。

 

 ぱしっ、と片手で頬を叩く、

 調布智美、しっかりしなさい。

 そんな色惚けしたことを考えていては、いけない。

 私は今日、罪人として登校し、罪を償うのだから。

 親友を裏切った、大罪人として。

 

 私が罪人となった経緯。それを思い返す。

 それは昨日の学校帰りから始まった。

 

 ーーーーー

 

 その日、あいつを見つけた。

 いや、あいつに見つけられてしまった。

 

 彼、ーー私の元家庭教師で、私の処女を奪い、他の男たちと私を凌辱した鬼畜ーー、と私は、駅の近くの裏通りで対峙した。

 梅雨の晴れ間で暑い、天気の良い日。

 私は美術部に短時間だけ顔を出して、早めに帰宅しようとしていた。

 そして帰路にいたそいつ。鬼畜男、ーー私の元家庭教師ーー、に遭遇した。

 

 恐れながらも、待ち焦がれていたのかもしれない。

 もう一度再会したら、何を言ってやろう、と考えたこともあったけど。

 そんなものは何一つ、役に立たなかった。

 

 「話があるんだ。」

 

 鬼畜の細い体つきには不似合いかもしれない、深いバリトンの美声。

 かつては、このうえなく恋焦がれていた、その声。

 

 「そう。あたしにも、あるんだけれど。」

 

 虚勢を張って言い返す。

 あたしにはない、と言って逃げてしまってもよかったかもしれない。

 でも、どこかでこいつ、この記憶とは決別をつけなければいけないと思っていた。

 いつまでも前に進めない。

 いや、ある意味、こいつのかけた呪いは解けていた。

 予想外の人物。あの変人によって。

 ただ、まったく、わたしの力によってではない。

 こぶしを握る。がんばれ、調布智美。

 私はこいつを、打ち破らなければならない。

 だから私は、鬼畜の次に続く言葉を受け入れてしまった。

 

 「どこか、ちゃんとしたところで話そう。駅前なら、そっちが指定してくれたところでいい。」

 

 ついうっかりと、頷いて。

 浅はかにも。

 賢いようで愚かな小娘の私は、あっさりと鬼畜男の罠に陥ちた。

 

 ーーーーー

 

 フォーシング、というマジックの技術がある。

 マジシャンがトランプを一枚、相手に選ばせる。

 相手は自由に選んだと思っているが、実はマジシャンが相手に特定のカードを選ばせている。

 そんな技術だ。

 今にして思えば、それをされたのだろう。

 駅前には喫茶店などいくらでもある。そう見える。

 ただ、その多くは個室で内密の話ができるような場所ではないのだ。

 鬼畜は私が挙げた店で、個室の有無を聞く。

 ない。

 思えば、カラオケボックスで良かったのだ。ドアがガラス窓だし、監視もある。防音性も高い。

 でも、無意識に喫茶店を探してしまった。あまりカラオケは好きでなかったから。

 そして最初に個室がある喫茶店として引き当てたのが、そのカフェバーだったのだ。

 

 ”カフェバー 早泥須土”

 

 万葉仮名の店など行きたくはなかったが、駅前の店の中で最初に個室が空いてます、と答えがあったのはここだけだった。

 早くカタをつけたかった。糾弾して、告訴をちらつかせ、相手の心を折る。

 できれば鬼畜の手元にある私のビデオテープも回収したい。

 どのみち拡散され切っていて、意味はないだろうけど。

 マスターテープも、例の監督が持ってるに決まってる。

 ただ、鬼畜の手元に私のテープがあるのだけは、嫌だった。

 そう、あいつの性欲のはけ口に使われると思うと、本当に嫌だった。

 

 鬼畜には見えないように、茶髪の少し軽薄そうな店員さんにそっとメモを渡した。

 1時間したら、警察を呼んでくれるように、というメモ。

 1時間より早くカタを付ける。そうでなければ、もう退却する。そのつもりでいた。

 思い返せば、ひどく滑稽だった。嘲笑われたことだろう、私は。

 この茶髪の店員も、鬼畜とグルだったのだから。

 賢しらなことをしていながら、所詮は小娘の浅知恵だった。

 

 鬼畜は最初、尋常に詫びた。ただ、あの時はああするしかなかった、と主張した。

 私は一つ一つ論破していった。

 鬼畜はさりげなくお茶を飲むように仕向けたが、私は拒否した。水すらも口にしなかった。

 鬼畜が何か入れたそぶりはなかったが、私の気づかないところで何か仕込まれていることを警戒した。

 その警戒自体は、多分正しかった。

 しかし警戒心が、あの茶髪店員に向かなかったのは、我ながらどうかしていた。

 まったく初見で、自分で選んだつもりの店に、鬼畜の共犯者がいるなんて思いもしなかったのだ。

 

 55分経過して。

 私は今日は帰る、と言い捨てた。

 連絡先を要求した。鬼畜が私の家庭教師だったころの連絡先は、全く不通になっていたから。

 言い争いになったので気になった、という風情で、茶髪店員が来た。

 私は、もう帰るから請求はその人に、と言い捨てて、背中を元家庭教師には向けないように個室の出口に下がっていった。

 店員がいるところで、何か鬼畜がするとは思わなかったが、念のためと思って。

 鬼畜は何もしなかった。店員がやったのだ。

 バチッという音、突然の激しい衝撃。

 スタンガンを使われたのだ、とは最初まったくわからなかった。とにかく、激しい苦痛と同時に、体の自由が奪われた。

 耳は聞こえていた。ただ脳は、その理解を拒んでいた。

 馬鹿な小娘が、毒蜘蛛の巣にとらえられたという真実の理解を。

 

 「うひょー、超上玉じゃん!よくお前こんなんヤれたな?」

 

 「すげーだろ。でも、前より絶対、ずっとオイシくなってるって。みろよ、ほら。」

 

 鬼畜があの滑らかな、医師としての素質をうかがわせると私が思っていた流麗な手つきで、私のスカートをまくり上げる。

 少し太いのではないかと悩んでいた大腿まで。

 挙句、下着の中に手を入れて、あそこを手で愛撫された。

 体の自由はまだ戻らないが、嫌悪感に心が満たされる。

 引きちぎってやりたい、この指。

 

 「うっわ、すっげ。おい、今日は、」

 

 茶髪も興味津々で、胸を揉みしだいてきた。

 特に大きいとも思わないけど、男はたいてい関心を寄せる。

 最近、少しトップとアンダーの差が大きくなった気がする胸に。

 ただの脂肪の塊でしょうに。

 

 「ああ、用意しとくぜ!ちょっと先に味見しとくな。」

 

 彼は。私の元家庭教師は、そういってニヒルな笑みを浮かべた。

 私の家庭教師をしていたときは目をそらしていたけれど、やはりどこか冷ややかな、残酷なものをうかがわせる笑みで。

 

 茶髪店員が、カチャカチャと音をさせながらベルトのようなものを持ってきた。

 私は体を折りたたまれ、足首に革の足錠を嵌められた。

 腕を、ちょうど床に座るときに膝を深く抱えるような位置に配置され、専用と思われる革の拘束具で固定された。

 私は抵抗もできず、どこか諦念を覚えて他人事のようにそれを見ていた。

 馬鹿な女が、また背伸びしてその報いを受ける。

 こんどこそ、もう堕ちていく。堕ちきってしまうだろう。

 私への脅迫は再開するだろう。首輪をつけられた私は、どうなるのだろう。

 こんなことをするくらいだ。死か、死よりひどい運命か。

 

 口を開けと言われた。拒否すると、バチっと顔の近くでスタンガンを威嚇するように使われた。

 

 「その澄ましたお顔に、火ぶくれなんて作りたくないよねー。」

 

 「おいやめとけ。興ざめだ。」

 

 茶髪の店員の脅しに、鬼畜家庭教師が少しだけ怒った。

 でも、それは単に鬼畜が美しいものが好きだからだろう。

 私の家庭教師をしていたとき、外貌が不細工な人への強烈な嘲りを鬼畜男が一度見せたことがあったな。

 いい人ぶってた彼の印象と合わなかったから、違和感があったんだっけ。

 あのとき、この男の真相に気づけていたら。

 まあ、無理だっただろうな。

 鬼畜の外面はほとんど完璧だった。私の両親もやすやすとだまされていた。

 もちろん、紹介してくれた私の母の友人も。

 身元確認など、不要だと思ってしまうくらいに。

 私の顔の皮1枚は、鬼畜にとっては美しい方に入るらしい。たかがタンパク質の皮膜なのに。

 ああ、それももうどうでもいいことだ。

 お母さん、お父さん。ごめんなさい。私は馬鹿でした。

 みなり、あなたは私のオアシスだった。もう今までのようには、会えない、話せない。

 そして、あの変人、志野。

 志野の起こした数々の事件の後。志野を好きかもしれないと思った。

 そして、世界に色を取り戻してもらった。

 それらの感情すべて。

 灰色の日々が色づいて、生きる幸せをようやく感じ取れるようになった、今。

 すべてが、瓦解していく。砕け散っていく。

 私はうつむいた。怒鳴られて、顎を手で持ち上げられ、口に輪状の轡を嵌められた。

 そして、さらに。

 

 「おいおい、医学生ってのはマジヤバだなー。」

 

 「いいっしょ?見ててひらめいたんだ。」

 

 私の喉奥深くに、何かが挿管された。

 冷たい恐怖が、体を貫く。

 何、これ?

 

 「気管切開手術のときさぁ、カフ付きカニューレを使ってるの見てさ、」

 

 私の口元に鬼畜が顔を寄せる。キスされるのかと思ったが、違った。

 

 私の喉奥で、何かが膨らんでいく。強烈な違和感。

 少し体の自由を取り戻しつつあった私は、体をひねり、抵抗し、叫ぼうとする。

 何の声も、叫びも私の喉からは出なかった。

 荒くふうふうと空気が喉の管を通るだけだった。

 

 「ちょっと改造したんすよ。完っ璧に声が出ないようにできるっしょ、これ。」

 

 「普通のボールギャグとかだと、声、通っちゃうことあるしなー。」

 

 暴れようとする私の首もとで、スタンガンを示威的に動作させ。

 鬼畜が顔を近づける。酷薄な顔で告げる。

 

 「暴れるなよ、下手すると声帯をざっくりいって、一生何も言えなくなるぞ。」

 

 どれだけの一生が残されているというのだろう。

 それに、この鬼畜の軛の下での生など、生きるに値しない!

 涙など見せないつもりだったのに、涙が頬を伝う。

 

 「ぎゃははは、泣いてる、泣いてるっすよ!」

 

 「まだまだ今からなのにな。智美、お前今日という今日は、本当に一生分泣かしてやるよ。」

 

 「サンズイの『泣く』だけじゃなくて、クチヘンでも、な。」

 

 そして。

 店員が持ってきたもの。

 

 「これでいいだろ?いいセンスしてねぇ?大学オリジナル。ちょっと知的っしょ。」

 

 「ヤマイダレの痴だろ、それ。」

 

 一応は大型だろうか。いや、どうみても中型のスーツケース。

 何の目的で。いや、わかってる。

 私を詰め込むためだ。

 この、大女の私を。

 私には明らかに小さい、小さすぎるスーツケースに、詰め込もうというのだ。

 

 ーーーーー

 

 彼らは私を、物として扱った。そう、その時点では、私は彼らの玩具になることを運命づけられていた。

 平気で足蹴にして、スーツケースに収まるよう、上からぎゅうぎゅうと土足で踏みつけて押し込む。

 どうにか入ると、上に腰かけて、ファスナーを閉めていく。

 ほとんど隙間がない。それどころか、体重をかけて無理やりに押し込まれている状態で。

 空気は、大丈夫だろうか。

 窒息してしまうのではないか。

 

 「ここんとこがメッシュで、二重カバーを開けると通気できるようになってるからな。」

 

 心を読み取ったのか、そう鬼畜が言う。

 

 「おっと忘れるところだった。これ、嵌めとかなきゃな。

 ほら、目隠し。」

 

 一度私を押し込んだ彼らは、また気軽に、乱暴に私を引きずり出して。

 目かくしを私に付けた。

 もう、抵抗の気力はなくなっていた。

 世界が灰色に、いや、より暗いモノトーンの黒に、染まっていく。

 また乱暴に押し込む。茶髪だろう、私を押し込むためにヒャッホウと言いながらスーツケースの蓋の上で跳ねまでした。

 だが、もう私には何の感興もなかった。

 自己防衛本能だったのかもしれない。まったく他人事のように、無感動に体への衝撃を感じていた。

 

 ーーーーー

 

 スーツケースに詰め込まれ、ガタガタと店を出て。

 エレベータだろうか、急降下の感覚があり。

 そしておそらく車のトランクに入れられたのだろう。

 移動の感覚があった。

 どこへ行くのだろうか。

 山で立ち木に縛り付けられ、放置されるのだろうか。

 いや、そんな易々とは生から解放されないだろう。

 舌を噛もうにも、口の中のこのリング状の轡が許してくれない。

 叫ぶことすらもできない。

 私は、詰んでいた。

 

 幾度か、体に響くブレーキや右折、左折があって。

 目的地に着いたのか、自動車が止まった。

 トランクから出されたのだろう、乱暴に地面におろされる。

 背骨を、衝撃が突き抜ける。

 カラカラと引かれて、段差を超えて。

 

 ああ、ここはおそらくマンションか何かの建物だろう。

 下の地面はコンクリートやアスファルトでなく、絨毯のような柔らかい、衝撃を伝えにくいものになっている。

 エレベータ。

 エレベータを降りると、彼が語りかけてきた。

 メッシュ越しに、声や音は聞こえるのだ。

 

 「重いぜまったくーー。 

 しかしこれで苦労が報われるぜ。ひさしぶりだ、楽しみだなぁ?ハハッ、」

 

 そう。鬼畜は続きをやるつもりでいるのだろう。

 あの中学3年生の12月のときの。

 男たちに嬲られ、凌辱されつくされたときの続きを。

 私はただ、心を凍らせてそれを聞いていた。

 声を返すことは、喉に詰め込まれた何かの器具のためにできない。

 私はただ、暴君である、この鬼畜の意のままに弄ばれる玩具だった。

 その運命を、誰も変えることができるものはいない、はずだった。

 そう、あの運命を変(・)えることができる人(・)。変(・)人(・)の彼、志野を除いては。

 

 部屋に入ったのだろう、スーツケースが平置きにされた。

 そのときだった。

 

 「なんだ貴様は!」

 

 私の元家庭教師、鬼畜の、鋭い、叩きつける鞭のような声。

 

 「返してもらいに来た。」

 

 それに応じる、少し鬼畜家庭教師より低い声。

 聞き覚えがある。しかし、脳が理解を拒んだ。

 しかし、なぜか確信があった。ーーあいつだ。あいつしかいない。

 志野だ。

 志野が来てくれたんだ。ーーでも、どうして?どうやって?

 わからない。

 私の目隠しされ、完全にモノクロームに塗りつぶされかけていた、瞼の裏に写る心の世界が、不安定に揺らめく。

 ところどころで原色が舞う。

 心を凝らせて、やり取りに耳を傾ける。

 

 「返してもらいに来た、僕のものを!」

 

 心がびくんと動く。あなたのもの?

 瞼の裏に映ずる世界が、また色を取り戻すような錯覚。

 

 「なんだと!?」

 

 「返せと言っている。それはお前の玩具じゃない。それは、ーー僕の大事なものだ。」

 

 「なんだと!?つけられてたのか!?どこから!貴様、何者だ!」

 

 鬼畜が混乱している。ええ、私にもわからない。

 志野。あなた、本当はいったい何者なの?

 

 「お前が知る必要はない!ーー僕は、お前のことは知っている!」

 

 「貴様、女から聞いたのか?いや、まさか!」

 

 「聞いたとも!ーー人の大事な女に手を出しやがって!早く返せ!」

 

 これは彼の、志野のブラフだ。

 私は志野に、直接にはあのこと、元家庭教師に凌辱されたことを伝えていない。志野は既に知っていたから。

 でも、その続く言葉に体が熱くなって、もうそんなことどうでもよくなった。

 大事な女。

 彼は、志野は。

 みなりだけでなく私も、大事と思ってくれているのだろうか?

 

 「知られたからには、貴様はただでは返さない!

 わかってるのか?こんなヨゴレ、どうでもいいだろう!」

 

 続く鬼畜の言葉に、志野は堂々と言い放つ。

 

 「汚れがどうした!そんなのどうでもいい、大事なのは中身なんだ!」

 

 枯れたかと思っていた、私の目からまた熱い涙がこぼれる。

 今度は、喜びで。

 

 「へッ、どれだけ汚されてるかわかってて言ってるのか?」

 

 「知ったことか。僕がわかるのは、それが僕の大事なものだということだ。奪う奴は許さない!」

 

 志野はそう宣言する。

 そう、志野は。そういうやつだ。

 私にも言っていた。

 過去じゃない、大事なのは未来だ、と。

 陳腐だけど、私の心を打ちぬいた、その言葉を。

 志野は本当に信じているのだ。

 

 「それは、お前のものにはならないぞ!」

 

 鬼畜が言葉の剣で攻撃する。

 

 「わかってるさ!

 ーー僕のものにならなくてもいい!それは、しかたない。だけど僕は約束した!

 だから守るんだ、文句は言わせない!」

 

 ああ、志野。

 私なんかのために、こんなことまで。

 

 本当は、私はあの鬼畜、元家庭教師の言う通り、ひどいヨゴレだ。

 白状しよう、私はあなたで自慰していた。

 そして快感を得ていた。ーーあの灰色の時代、志野があの言葉で私の呪いを解いてくれるまでは、どんな行為をしても、まったく快感を得ることはできなかったのに。

 あなたのときには、軽くそこを指の腹で擦るだけでも、いや、ただそこの筋肉に力を入れるだけでも、脳の芯に響くほどの快感を覚えることができた。

 私は、みなりのものであるあなたに、そういう汚れた感情を持っている。持ってしまっている。

 

 それなのに。

 彼、志野は約束を守ってくれている。

 私は、彼の誠実さに報いるすべを持たない。

 せめて、私も。

 自分で自分に課した誓約を守ろう。

 彼をいつか守る。守り続けるという誓約を。

 

 はっきりとは聞こえないが、闘争の気配。

 そして、一方が一方を拉いだ気配。

 誰かが来る。

 私の鼓動が高まる。期待と恐怖とに押しつぶされそうだ。

 

 「無事か、調布!」

 

 志野、私は。

 どんな顔をしてあなたに会えばいいんだろうか、そんなひどくどうでもいいことしか頭に浮かばなかった。

 目隠しを外された私は、どんな顔をしていたんだろう。

 涙と鼻水、そして涎。ひどい顔だったことだろう。それだけは、確信がある。

 でも、志野は微笑んでいた。それを見た私は、感情が奔流となるのを感じた。

 いや、それに先立って。

 まだ目隠しを外されていなかった私を助け起こしてくれたときには、すでに。

 脇に差し込まれた志野の手との接触から、私は、ぞくぞくとして、体がこわばるほどの快感を覚えていた。

 

 その後志野は、私の涙を拭き。

 鮮やかな手順で、私の拘束を解き。

 少し手間取りはしたが、丁寧に喉に詰め込まれていた器具を取り除いた。

 血行が止まっていた手足を摩ってくれたときには。

 血行は回復したが、代わりに心臓が破れるかと思うほどの動悸を感じた。

 私は、もう我慢できなかった。

 抱きついた。力の限り志野に抱きついた。

 どうにかなりたかった。どうにでもしてほしかった。

 感謝?もちろんそれもある。それ以上に。

 汚れた心の感情の本流。

 あなたが欲しい。

 

 志野は私を慰め、細い体からは想像もつかない力で、軽々と私を抱き上げ、ソファに置いた。

 その後の、鬼畜家庭教師とのやり取りを聞いて。

 私は再び確信した。

 志野は知っている。私が汚された過去も、すべて。

 志野は、私を映したビデオ、鬼畜家庭教師が私の処女を奪ったとき、そしてその仲間たちとともに私を汚した時のビデオを要求していた。

 そしてどういう技術だろうか。鬼畜の反応から、あっさりとその置き場所を暴いた。

 鬼畜は、鬼畜が陥とした犠牲者たちのファイルを丁寧に作っていた。

 これは、処分しなければ。

 しかし、どのみちここにあるのは複製なのではないか。

 ネガ(原版)は、手に入らないだろう。

 そう思っていた。

 

 鬼畜もそう思ったのか、私を嘲笑う。

 

 「おい智美、過去を知られてて付き合ってんのかお前ら。おめでたいな。」

 

 心に悲しみがこみ上げる。思わず涙がこぼれそうになる。

 しかし、そのとき。

 

 「付き合ってるわけじゃない。僕と彼女は釣り合わないだろう?」

 

 私の過去を知っていて、志野は私を賛美した。聞いているこちらが、恥ずかしくなるくらいに。

 聞いていて、志野が嘘でなく、本当にそう思っている、そういうことが分かった。いや、わからされた。

 志野による私についての描写は、細部にまで及び。

 なんと私の体の細部。そう、胸の形、乳首の向きまで、見なければ絶対にわからないはずのことまで、志野は私を知りつくしていた。

 いつ、どういう方法で知ったのよ。いや、もう、どうでもいいけど。

 知っているなら、そして不快でないのなら、味わってほしい。

 あなたになら、どんなことをされてもいいのに。

 脳が、幸福感に酔っていた。

 束の間、志野への強い感情に、ほかのどんな感情、恐怖も悲しみも、入る余地がなかった。

 鬼畜の、私を傷つけようとする言葉も、もうどうでもよかった。

 私は志野に、志野の言葉に守られた。

 

 そして次に、その感情はさらに別の感情で塗りつぶされる。

 驚愕。

 志野はあっさりと鍵をみつけ、ネガがしまい込まれた引き出しを暴いた。

 そしてそれらすべてを回収。

 鬼畜家庭教師の愕然とした顔を見て、わかった。

 この男、鬼畜男にも予想外だったのだろう。そう、おそらくここにあるネガが切り札だったのだ。

 その切り札をすべて、志野が奪ったということが、はっきりと分かった。鬼畜家庭教師は整理好きで、すべて一覧できるように集める癖があったから。

 そうすると。

 確かに、私のビデオは流通してしまっているかもしれない。

 でも、それ以外の犠牲者は、もしかすると軛から解き放つことができるかもしれない、ーー。

 

 ーーーーー

 

 私の鞄の所在を志野は気にしていたが、もう些事としか思えなかった。

 鬼畜家庭教師を警察に突き出すかどうかも。

 ただ、心の底では、やはりそれを恐れていた。

 鬼畜を突き出す。罰する。それが本道だろう。

 しかし、鬼畜の醜状も知られてしまう。そう、私の過去も。

 父に、母に、みなりに、そして先生たち、クラスメイトたちに。

 そんな私の隠れた心を、志野は読み取ったのだろう。

 志野はなぜか、本職の医師のように、堂々と鬼畜家庭教師に医師の心構えを説き始めた。

 ーーいかなるときにも、人を傷つけるな。

 私は、そこに圧倒的な真理、時を経て磨かれた真理を見る思いがした。

 それは、鬼畜家庭教師にも、響いたようだった。

 あの鬼畜が、泣いていた。

 そう、泣いていた。思わず二度見した。

 そんなことが、あるのか?

 いや、志野だ。あの、志野だ。

 きっと志野には予定通りのことだったのかもしれない。

 説教を終わると、志野はすっきりした顔をしていた。

 やりとげた、というように。

 後で、「ドヤ顔」という語が人口に膾炙するようになったとき。

 志野の、このときの顔を思い出すことになった。

 

 志野はその後、おそらくは私のことを思って、法の裁きを選ばず、鬼畜を手駒にすることで救済を図った。

 そして抜かりなく情報があるかもしれないPC、そしてメディアを抑えた。

 連絡先すらも聞かず、彼は鬼畜家庭教師の部屋を後にする。

 そのくらいは当然抑えている、という示威でもあるのだろう。

 

 エレベータの中。

 私は、こみ上げる感情のままに。

 志野にまた抱きついた。抑えきれなかった。

 キスを強請った。それは果たされなかったけど。

 私は、一つの強い希いを抱いてしまっていた。

 志野。あなたのことが好き。

 だから、あなたがほしい。あなたにこの身を捧げたい、という願いを。

 私の大事な親友。みなりを傷つけてしまうだろう、その願いを。

 私が恋という陥穽に落ちてしまったと、明確に自覚したのは、その時だったのかもしれない。

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