「ふーい…………」
お雪は天井を見上げて息をついた。汗ばむ肌の上を、熱い湯が流れていく。
(あ~、生きけえるぜ…………)
湯船に浸かる心地良さに目をつぶりながら、そんなことを思う。
日本橋の湯屋・桜湯である。江戸の町人は家に風呂を持てないので、こうやって銭湯に通うのだ。朝一番なので、客はお雪だけだ。桜湯は江戸では珍しく男女が分かれた銭湯である。このごろ、こういう場所が増えてきたという。
お雪は、さっきの行為の余韻でまだぼんやりしている頭を振って、思い出していた。
ついさっき、自分がしたこと──
〈うう……助……けてよぉ……太一郎兄貴ぃ……〉
その言葉が脳裏に浮かんでくる。
「ちくしょう! あんなこと言っちまうなんて……!」
お雪は、再び涙目になって、ぶくぶくとお湯の中に顔を沈めた。きつく目をつむる。そうすると、まぶたの裏に太一郎の姿がはっきりと映る。脳裏の太一郎は、隙のない洒落者の着物姿のまま、いつもの穏やかな笑顔で語りかけてくる。
〈しょうがねえなあ、お雪ちゃんは〉
「……太一郎兄貴ィ……はっ!」
いつの間にか、お雪は立ち上がっていた。お雪の裸身を、朝の光が照らし出す。白い光の中で、お雪は、自分の胸元にある二つのふくらみを、じっと見つめていた。その膨らみの下に、ぽっかりと穴が開いているような気がして、両手で隠すようにしてみた。しかし、手は空しく宙をさまようだけで、そこにあるはずの空洞を埋めることはできない。
「あたし、どうなっちゃってんの……?」
「何が?」
「!?」
突然の声に、お雪はびくんとして顔を上げる。手拭いを持って湯船に入ろうとしていたのは、ひと月前の事件で知り合ったお英だった。
「誰かと思えば、お英かよ……」
「らしくないよ、どうしたの? お雪、大丈夫?」
お英は、お雪の隣に腰を下ろして心配そうに声をかけてくる。
「別に、なんでもねえよ」
ぶっきらぼうに答えて顔を逸らすと、お雪はもう一度湯船に体を沈めた。
「ふう……」
気持ちいい。お雪の顔から険が取れて、とろんとした表情になる。お英も同じように目を細めている。二人はしばらく黙って湯に浸かっていた。
「……ねえ、お雪」
「あんだよ」
「おいらさっき、蒸し饅頭を買って食べたんだけど」
「朝から饅頭かよ、蕎麦食えよ蕎麦」
「そう言うと思ったけど、やっぱり饅頭が食べたいと思って買ったんだよね」
「へっ、食い意地張ってんなお前も」
「それで、その蒸し饅頭を食べながら、ふと考えたことがあるんだ」
「ほう?」
「お雪のおっぱいって、これくらいの大きさじゃないかって」
「げほっ! ごほごほごほっ!」
お英はお雪の胸元をじっと見て、正解! というように親指を立ててみせる。
「そんなわけあるか! てめぇの目ン玉、腐ってんじゃねえのか!」
お雪は思わず立ち上がり、お英に向かって怒鳴りつける。
「でも、当たってるでしょ?」
「ぜっ……全然違うわ!」
「そうかなぁ……。じゃあ、触らせてみてよ」
「やだよ! 恥ずかしいだろ!」
お英がずいっと身を寄せてきたので、お雪は慌てて湯船の中を後退した。
「そんな逃げなくても、取って喰ったりしないってば」
「そういう問題じゃねぇだろ! 大体、なんでお前が触る必要があるんだ! 自分で揉んでれば十分だろ!」
「う~ん、それもそうだね」
お英はそう言って、自分の乳房を持ち上げてみせる。お雪より二回りは大きい。
「ぐっ…………ちょっとデカいからって調子に乗りやがって……」
悔しげに歯噛みするお雪を見て、お英はくすりと笑った。
「気にしなくても、その内大きくなるよ。それに、上には上がいるし」
そういってお英が両手で示した乳房の大きさに、お雪は言葉を失った。
「えっ、なにそれ…………西瓜か何か? ……ていうか、どこから来たのその乳おばけ」
「ぷっ……その言い方、失礼だってば」
お英はそう言いながらも、どこか嬉しげだ。お雪はため息をついて、湯船の縁に腰掛けた。お英もお雪の隣に腰掛ける。二人並んで座ると、互いの肩が触れ合った。
「…………なあ、なんで朝イチから風呂に来たんだよ」
「今日は診療所に女中さんがいなくて。それに、こんな髪だからね」
言って、お英は自分の髪に触れた。
「気にすんなよ。生まれつきなんだから、仕方ないじゃん」
「おいらが気にしなくたって、周りが気にするの」
お英はそう言って、少し寂しげに微笑む。お雪は目を逸らした。
「……ねえ、お雪のお父ちゃんは、どんな人?」
「さあ…………覚えてねえな」
「そっか。おいらのお父ちゃんはね、よく言ってたよ。『困っている人がいたら助けてやるんだぞ』って」
「ふーん。まあ、鼠小僧だもんな」
「うん。おいらもいつか、あんなふうになりたいな」
お雪は、脚で湯をかき混ぜる。
「…………なあ、お前は隠密にはならないのか?」
「隠密? ああ、隠密同心のこと。うん、でっかい声で、人は殺さないって言っちゃったしね」
「そっか。でもさ…………隠密でも、困ってる人を助けられると思うぜ。そりゃ、悪代官とかには評判悪いかもしんねえけどさ……」
お雪は、また脚で湯をかき混ぜる。
お英は、そうだね、とだけ言った。
◆◆◆
湯から上がった二人は、二階で茶を飲んでいた。お雪は冷たい麦湯を飲みながら、お英の胸元を見る。
(やっぱり、こいつの方がデカイよなあ)
お雪の視線に気付いたお英は、呆れたように言う。
「さっきも言ったけど、お雪だってすぐに大きくなるよ」
「ホントかよ」
「本当だよ。ほら、ちょっと触ってみていいよ」
「……………………って触らねえよ!」
「あははっ」
お雪は、お英の胸に手を伸ばしかけたが、慌てて引っ込めてしまった。お英はそんな様子のお雪を見て笑う。
ため息をついたお雪は窓の外を見る。と、お雪の顔色が変わり、「やべえ!」と言って立ち上がる。
「どうしたの、お雪」
「あー、詳しくは言えねえけど、緊急の仕事が入ったんだ。わりい、もう行かねえと」
お雪はそう言い残して、駆け足で店を出て行った。
「一体なんだったのかなぁ」
残されたお英は、ぼんやりと外を眺める。窓から見えたお地蔵様に、赤い鉢巻きが巻かれていた。
◆◆◆
地蔵の赤い鉢巻きは、隠密同心集合の合図である。
芸者風に変装したお雪は、神田川の船宿〈弁天屋〉の座敷に入った。船宿とは宿泊する場所ではなく、渡し船の待合所がいつしか宴会場としての機能を備えたものだ。その性格上、誰が出入りしても怪しまれにくい。
「お殿様、お雪です」
「入れ」
忠興はお雪の芸者姿を見るや、目を細めた。
「これは、良い。実に似合っておる。お雪も成長しおるのう」
「そんなに褒めたって、なんにも出ませんぜ」
「何を言うか。わしとお雪の仲ではないか」
「お戯れを」
お雪は忠興の湯飲みに、新しい茶を注ぐ。忠興は甘党で、酒は喜ばない。盆には、お雪が見たことのない菓子が載っていた。
「食うか? 越前の銘菓、
羽二重とは、しなやかで手触りの良い上質な絹布のことである。
「えへへ、じゃあ頂きます。……うまっ……」
「そうであろう。口に含めばふわりととろけ、もち米の優しい甘さがほんのりと広がる。まさに羽二重の如き絶品だ」
忠興は屈託のなさそうな笑顔を浮かべて言った。お雪もつられて笑う。
「ごっほん。それでお雪、本題だがな」
忠興は咳払いをして、急に真面目な顔になった。
「赤坂に延命寺という禅寺があるのだが、そこに
「はい」
「実はな、さる大名家より密告があった。延命寺には怪しげな金の動きがある。各地の大名家や大身旗本から、寄進と称して多額の金を受け取っているようだ」
「それは、つまり……賄賂ですか?」
忠興は首を左右に振った。
「怪しげと言うのはそこだ。そこらの侍や名主なら、寺社に賄賂を出してもおかしくはない。しかし、大名ともなれば話は別だ。それも千両二千両となればな」
「に、二千両……それだけあれば大名行列でもできそうだ」
「そうだ。大名なら出せぬ金額ではないが、おいそれと捻出できる額でもない。しかも密告してきた大名家によれば、その捻出を誰が決したか、とんとわからぬらしい」
「それって、覚念はお大名に金を出させる何かを持ってるってことでしょうか」
「おそらくはな。そこで、お主には延命寺の坊主どもを調べてもらいたい。そして、覚念の正体を見極めよ」
はい、と言ったお雪は、そこで少し
「お殿様、太一郎兄貴……太一郎様はどこに?」
「あやつは密告してきた大名家の領地に潜らせた。早飛脚で報告を受けたのが今朝、戻りは早くとも三日後になるだろう」
忠興は、お雪の顔を覗き込むように見た。
「よいな、お雪。決して一人で深入りするでないぞ。太一郎は、いつもお前の身を案じておるのだから」
「はい、心得ております、お殿様」
お雪は胸を張り、きりっとした表情で答えた。
「よし。では、行け!」
◆◆◆
武家の人妻風に変装したお雪は、駕籠に乗って赤坂の延命寺へ向かった。赤坂と言うだけあって坂の多い土地で、駕籠かきは汗を流しながら、必死で登っている。
(この坂でそんなに苦しんでちゃ、江戸中に噂が広まるような活躍はできないよ)
お雪は内心で苦笑しながら、辺りを見た。
赤坂はいわゆる山の手で、江戸城から見て西側に広がっている。幕府の役所や諸大名の屋敷、大名の別邸や下屋敷などが建ち並ぶ閑静な場所だ。坂道が多いせいで、駕籠を使っての移動も一苦労である。しかし、その分だけ町の雰囲気は落ち着いており、どこか上品な雰囲気が漂っていた。
お雪は駕籠かきに十分な駄賃を渡してやった後、近くの茶屋に入った。
「お団子二つ下さい。あとお茶も」
店番をしていた若い娘に声をかけると、彼女は愛想よく返事をした。
「あ、はい、ありがとうございます」
娘はお雪の容姿を見て、一瞬見惚れたようだった。お雪は髪を武家風に結い上げ、上手に化粧をしている。
「お待たせしました。お代はこちらです」
娘はお雪の前にお盆を置き、茶を注いだ湯飲みを置いた。お雪はその茶をひと口飲んでから、口を開いた。
「ありがとう、おいしいお茶ですね。一つ教えていただきたいのですが」
「あっ、はい! 何でもお聞き下さい、奥様」
娘はお雪が多めに渡した代金に気をよくして、明るく応じた。
「あたくし、これから延命寺の覚念さまを拝みに行くんですけど、あの方の評判を教えていただけませんか?」
「はぁ、覚念さまですか」
娘は少し考えるふりをして言った。
「そうですね、とても穏やかな人柄だと聞いてます。それから……」
「それから?」
「信じられないくらいの美形なんです!」
娘は目を輝かせ、頬を紅潮させて語った。
「もう、ほんとに綺麗なんですよ。透き通るような白い肌で、まるで菩薩様みたいなお顔立ちなんです」
「まあ、そうなの。それでは、さぞかし覚念様目当ての参詣者も多いことでしょうね」
「えぇ、そりゃもう。毎日のように行列ができていますよ」
お雪は団子を食べ、娘の話を聞き終えてから店を後にした。
「ご馳走様。美味しかったわ」
「またご贔屓に」
◆◆◆
延命寺に到着したお雪は、門前で客待ちをする駕籠を避け、境内へと入った。広い境内には、多くの人間が出入りしている。
「女ばかり……噂は嘘じゃあないようだ」
お雪の周りを取り囲むように歩いているのは、いずれも人妻風の女性たちだ。彼女達は一様に、覚念の噂話で盛り上がっている。
「ねぇ、あなたはどう思う? 覚念様のこと。あんな仏様みたいな方に好かれたら、どんなに幸せでしょうねぇ」
「でもお坊様よぉ、あたしらがこんなこと言ったら怒られちゃうんじゃないかしら」
「あら、大丈夫よ。だって覚念様って、女性には優しいって評判なんだもの」
おしゃべりに夢中になっている女性達の間を抜けながら、お雪は覚念の姿を探した。
(あれか。……おー、確かに女みたいな美形だね、ありゃ)
覚念は本堂の縁側をゆっくりと歩き、庭を見下ろしているところだった。女たちの黄色い声が聞こえるのか、時折笑顔を見せて手を振っている。
「きゃっ! 覚念様に手を振り返してもらえた!」
「私も!」
覚念は、次々と駆け寄ってくる女性たちに優しく微笑み、本堂に入っていった。
(しっかし、なよっとした美形のどこがいいんだかね。あたしゃ顔より……ん?)
お雪が注目したのは、寺のあちこちに立っている僧侶たちだった。
(なにか、変だ。妙に目つきが鋭い……それにあいつら、それぞれが死角を補い合うような配置になってるぞ。まるで、何かを警戒してるみてぇだが……何が起きてんだい、ここは)
お雪は延命寺を後にする。
(こいつは与し難し、だ。忍び込む手筈を整えて、今夜あたり乗り込んでみるか……)
◆◆◆
境内にいた一人の尼が、お雪の後ろ姿を見てこう言った。
「あら、蕎麦屋の……ふふ」
◆◆◆
草木も眠る丑三つ時、お雪は忍び装束に身を包み、闇夜に乗じて延命寺の塀に接近した。
「行くぞ」
「うん」
お雪は、相棒の肩を踏み台にして、塀の上まで飛び上がった。寺の中には見回りがいるが、距離は離れている。今のところ見つかる心配はあるまい。
お雪が合図すると、相棒は塀の真ん中あたりに飛びついた。どうするのかと見ていたら、何とそのまま壁を蹴って
「お待たせ」
音もなく塀の上に着地した相棒を見て、お雪は驚き半分、呆れ半分で言った。
「お前、つくづく人間離れしてるなあ。いや、流石は鼠小僧次郎吉の娘だね」
「まぁ、これくらいは」
お英は涼しい顔をして言う。
「それより、こんなお寺にホントにあるの? 何千両の大判小判」
「あるさ。後ろ暗い金なら、手形に替えたりはしない。大方、どこかに隠し金庫があるんだろう」
「そう。報酬は五十両、ちゃんと貰うからね」
二人は暗闇の中、足音を忍ばせて移動を開始する。番僧たちの警備は厳重だったが、お英が的確な経路を選択してお雪を先導する。
(こいつ、なんでしゃがんだまま走れるんだ?)
時には大胆に、時には慎重に、二人は侵入を悟られることなく、やがて本堂の屋根裏へと辿り着くことができた。
「なあ、どこにあると思う? 大名が金を出したくなるような、出さなきゃいけないような何かって」
「坊さんが一人でやったことなら、そいつの寝所。集団での犯行だとしたら、それこそ床下とかじゃない?」
「じゃ、まずは寝所から行くか。坊主がいたら、そのまま吐かせてもいい」
お雪とお英は、天井板の隙間を押し開け、内部を覗き込んだ。
「うわ……」
「げっ……」
二人が見たのは、男と女の宴だった。覚念らしき全裸の男と、どう見ても武家の女房にしか見えない年増女が絡み合っている。
お英がひそひそと話しかけてくる。
「ねえ、お坊さんって女としちゃ駄目なんじゃなかったっけ」
「あ、あたしに訊くなよ」
よく見れば、覚念と絡み合う女の他に、もう一人の年増女が布団に転がっている。その女は全身を痙攣させ、口から泡を吹きながら白目を剥いていた。
「………………なあ、あれ死んでないか」
「ううん、あれは気持ち良すぎて意識が飛んでるだけ。その内目を覚ますよ」
「何で分かるんだよ」
「それよりもさ、ほら、見て」
お英は、二人の情事を指差す。
「あの男、何か変だよ。よく見たら、さっきから何もしていない。ただ、自分のものを女の人に押し付けてるだけ」
お雪は目を凝らしてみる。たしかに、覚念は指一本動かさず、胡座をかいておっ勃たせているだけだ。それなのに、女は狂ったように悶え続けている。
「覚念様! どうか私にもお慈悲を! この卑しい雌豚めをお使い下さいませ! ああっ! ああ! いやあ! 逝ってしまう! おおっ! おおっ! おおゥ!」
「奥方様、拙僧は疲れてまいりました。お休みになって頂いて結構ですぞ」
「嫌ァアアッ!! 許してぇ!! 挿れてぇ!!」
(あんまり長いこと見てたら、目が腐りそうだ。雌豚ってより、どっちも豚そのものだよ、ありゃあ)
「ああ……そうだな。でも、それがどうかしたのか」
「どうかしたのかって、男が女を善がらせるには
「だから何で分かるんだよ」
二人は天井板をもとに戻し、目を合わせてため息をついた。
「ふーっ……どうやってかはともかく、あの罰当たりが何をやっているかまでは分かったね」
「まあ、一応な。ああやって武家の女を虜にして、それをネタに強請ってるんだろう」
「薬かな。アヘンとか」
お雪は、覚念の寝所の惨状を思い出す。
「うーん……兄貴が言ってたけど、アヘンを吸うと男も女もイカかタコみたいになるらしいぜ。あんな風にはならねえと思うけど」
小声で話しながら、二人は屋根裏を探索する。
「ん……?」
「どうした、お英」
「見て、これ」
お英が示した柱には、絡繰り仕掛けが施されていた。
「何に使うんだ、こんなもの……」
「これ、扉を開けるからくりだよ」
「ふうん……なら、この下に隠し部屋があるな。お前の予想が当たったわけだ」
「うん。行ってみよう」
お雪たちは、本堂の中に降り立った。そこは通路の突き当りで、周囲には小さな仏像が置かれている。
「お雪、こっち来て。扉を見つけた」
お雪は、仏像の一つを退かしてみた。壁の穴に、操作棒が差し込まれている。
「きっとあの絡繰りだよ」
「よし、動かすか」
お雪とお英は、一緒に棒を動かす。すると、ゴトンという音と共に、仏像の後ろが開き、地下への階段が現れた。
階段を下り、二人は地下室に到着した。
「うわぁ」
「すご……」
壁の松明が、その地下室の内部を照らし出す。そこには、大名家からの寄進と思われる千両箱や、高そうな壺などが無造作に置いてある。
「ここ、宝物庫だ!」
「こりゃ、大したもんだ」
さらに地下室の奥には、観音開きの大きな鉄の扉があった。お雪は、その大きな扉を押し開ける。
その先にあった物を見て、お雪は首を傾げた。二十畳ほどの空間には、小さな舞台と、祭壇のようなものがある。祭壇の後ろには、十字形の柱に何かが磔にされていた。
「……なんだこりゃ。獣の頭をした人間の像、か?」
「お雪、あったよ。お大名の泣きどころ」
お英が見つけたのは、いくつもの文箱だった。お雪は中にあった文を読み上げてみる。
「『愛しき覚念様、わたくしを哀れと思し召すならば、この身をお使いくださいませ』……?」
「恋文かな」
「それにしちゃあ、書いてあることが物騒だぜ。『この身が朽ち果てるまで、あなたの端女になります』だってさ」
お英は、ふうんと言ってお雪から手紙を受け取る。
「……あれ? お前、字読めるのかい」
「田舎者だからって馬鹿にしないで欲しいな。書くのはともかく読むだけならできるさ」
「へえ。じゃあ、これも読んでくれよ」
そう言って、お雪は文箱から別の紙を取り出してお英に渡す。
「『……我が藩の財政は火の車、とても千両ものご寄進は叶いません。この上は、あなた様にご慈悲を賜りたいと存じます。どうか、私めと共に御仏の国へ参りましょう』」
「……心中の誘いか。こんなもんがあるなら、そりゃいくらでも〈ご寄進〉は強請り取れるだろうな」
「そんなものかな。お武家様も大変なんだろうけど、あんな罰当たりに払うくらいなら貧乏人に施せばいいのにね」
2人は、祭壇に掲げられた人身獣面のはりつけ像を見上げた。像はよく磨きこまれていて、誰かが大切に手入れしているのだろうと思われた。金と欲にまみれたこの地下室には、あまりに不似合いだ。
「……あの像はなんなんだろな。どう見ても仏様にゃあ見えねえが」
「さあ。おいらにもわからないや。横浜で見た〈でうす様〉とは大分違うけど」
あらぬ方から声が聞こえてきた。
「──あなた、〈でうす様〉をご存知?」
「誰だ!?」
振り返ると、いつの間にかそこにはひとりの尼がいた。上品な老女で、白装束がよく似合っている。いずれにせよ、この地下室に突然現れたからには只者ではあるまい。
〈気をしっかり持て〉〈そうではない〉〈忘れるな〉〈騙されるな〉
「ぐっ!?」
お雪の頭が、激しく痛みだす。お雪は顔から血が引くのを感じた。今の今まで、この女の顔を忘れていたのか。
(ち……違う、そうじゃあない……)
「お雪! どうしたのお雪!」
お英が揺さぶってくるが、お雪はそれどころではなかった。
「お前……昨日「竹むら」に現れた女……!」
「あら、大したものですね。昨日の今日でもう思い出すなんて」
老女は、穏やかな微笑を浮かべた。
「私は〈おりん〉と申します。先ほどは失礼いたしました。少しばかり、お話をよろしいでしょうか」
「何の話だ」
お英が警戒して言う。
「お雪に何をしたんだ。返答次第じゃ、ただじゃ済まさないぞ」
「今は何も。お雪さんの頭が痛むのは、私が昨日かけた暗示を外そうとしているからです」
「あんじ? あんじってなんだ」
「ふふ、とてもイイものです。大丈夫、無理矢理に記憶を呼び起こそうとしなければ、すぐに元に戻ります」
お雪の頭痛はますます激しくなっていた。頭の中で何かが暴れているような感覚がある。だがお雪は、〈苦痛を恐れてはならない〉と直感的に考えた。でなければ、この場を切り抜けられないと思えたのだ。
──決して、この女の〇〇を○てはならない。
「私はね、お雪さん。貴方を助けに来たんです」
「助け…………だあ…………?」
「ええ、そうなんですよ。実は私には、貴方にとってのお兄様と同じくらい大切な方がいるのです。その方は大変なお力を持っていますし、その方を敵に回すのはとても恐いことなのです」
おりんは、ひょう、と跳んだ。老女と見えたおりんが、一跳びでお雪たちを飛び越え、地下室の舞台に着地した。まるで重さを感じさせない軽業だった。
「あの方の抱擁を受け入れることこそ、救い。そのようにお考えください」
言いながら、おりんは小さく足を踏み鳴らし始めた。
「ま、ず…………お……えい、に……げ……」
「何が救いだ! まずはお雪を元に戻せ!」
お英は、お雪を背にかばい、決然と言い返した。お雪は、頭痛と必死に戦いながら、何とか立ち上がろうとする。
(早く、早く立ち上がって、お英を逃がさないと!)
香り……バラのような匂いが、おりんから漂ってきた。足の動きも、一定のリズムで続いている。それがおりんの攻撃なんだと、お雪の記憶が訴えかけている。
「あんた、覚念っていう罰当たりの仲間だろう。これ以上お雪を苦しめてみろ、いくらおいらでも許さないぞ!」
「ふふっ。私はただ、これから舞いを見せるだけ」
──
「あなたに、ね」
「……お英ッ! その女の舞いを見るなァーっ!」
お雪の声は間に合わなかった。舞い始めたおりんを、お英はまともに見てしまった。
「私の名は、おりん。またの名を、〈
お雪の目の前で、お英は金縛りに遭ったかのように硬直した。そのままの姿勢で、ゆっくりと膝を突く。そして、お雪の方へ倒れ込んできた。
「お英……お英!?」
お雪は、お英を抱き止める。お英の顔は青ざめていた。うつろな目で、ぴくぴく痙攣しながら、お雪を見上げてくる。
「お雪さん、心配はいりませんよ。お英さんは、これから極楽に堕ちるのです。覚念和尚によってね」
おりんの言葉を聞いて、お雪の頭に血が昇った。お英を、あの年増女たちのような豚に変えようと言うのか。怒りが、覚悟を決めさせた。
懐から護身用の短刀を引き抜く。お雪はそれを逆手に握り締めると、自分の左腕に突き立てた。
「あら」
「うっ……ぐぅぅゥ……!!」
鋭い痛みとともに鮮血が噴き出す。だが、お雪は悲鳴を上げなかった。怒りと痛みが、彼女を苛む頭痛を吹き飛ばしていく。
「いいですね。その気高さは、とても尊いものです」
おりんは、愉快そうに拍手をしてみせる。挑発だ。お雪はそちらを見ずに、お英を抱き上げた。
「戻って来るぜ、〈絢爛お燐〉!」
お雪は、お英を抱えたまま駆け出した。全速力で階段を駆け上がる。隠し扉の前には、既に三人の番僧がいた。お雪に武器はない。背中にはお英を担いでいる。圧倒的に不利だ。
「どきゃあがれ、雑魚どもが!」
だがそれでも、お雪の方が強い。お雪の膝が一人の顔面を打ち、倒れざまの踵がもう一人の顎を砕いた。最後の一人が匕首を構えたが、それよりも速くお雪が体当たりをする。よろめいたところに肘打ちを叩き込むと、敵は壁に叩きつけられた。
お雪は匕首を奪い、障子をぶち破って庭に着地し、裏門目指して走る。おりんの姿はなかった。
「よし、今のうちに逃げるぞ!」
お雪の頭からは、もはやおりんのことは完全に消え去っていた。今はただ、この場を逃れることだけを考える。
「お英、しっかりしろよ! すぐに医者に連れて行ってやるからな!」
返事がない。お雪は焦っていた。早くしないと、お英の命に関わるかもしれないのだ。
「ちくしょう、どこへ行きやがった!」
ちょうどいい所に、番僧がいた。いや、匕首を使ったことから考えるに、金で雇われた偽僧侶かもしれない。お雪は匕首を突き付けて脅し、裏門を開かせた。
「ありがとよ!」
番僧を殴りつけて気絶させると、脱兎のごとく駆け出す。お雪は走った。走り続けた。追手の声は徐々に遠くなっていく。周辺は既に、田畑と林ばかりになっていた。
「ふー……ここは、新宿か? ここまで来れば……くっそ、痛え」
もう大丈夫だろう。左腕は痛むが、上手く刺したので手当すれば動かせるはずだ。立ち止まり、お英の体を揺すってみる。
「おい、お英、お英」
反応がない。
「お英!?」
慌てて、呼吸を確認した。息はしている。
お雪は近くの廃屋に飛び込んだ。埃っぽい畳にお英を寝かせてやる。
「お英! お英! 目を開けろ!」
必死になって呼びかける。お英の胸は微かに上下していた。どうやら生きているらしい。
涙は堪えた。ここで自分が泣いてしまえば、自分をかばってくれたお英に申し訳が立たないと思ったからだ。
「ごめんな、ごめんな。お英」
すると、お英の瞼が小さく震え始めた。
「う……ん……」
お雪は顔を近づけ、お英の耳元でささやく。
「お英? お英?」
「う…………うあ…………あああ…………!」
カッと目を見開いたお英が、自分の体をかきむしる。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!! ほし…………欲しい…………! 欲しいよぉ…………!」
「お英? お英!? 落ち着け!」
お英は口の端からよだれを流し、焦点の定まらない瞳を宙空にさまよわせ、何かにすがりつこうとしているかのように、両手を伸ばして彷徨わせている。
「お願い……助けて……たいちろー……ジェニ……! おいら欲しい、たいちろーのチンポコが欲しいよう……!」
〈お英さんは、これから極楽に堕ちるのです〉
お雪は全身の血が凍り付く音を聞いた。
夜明けは、まだ遠い。
(続く)