「はぁ、はぁ……必ず帰って来るよ、美樹」
「はい……太一郎様のお帰りをお待ちしていますね……」
その後、ふたりは身体を寄せ合いながら眠りについた。心音が一つに溶け合って行くようで、太一郎は美樹の、美樹は太一郎の夢を見た。
◆◆◆
翌朝、太一郎が起き出すと、味噌汁のいい匂いが漂ってきた。腹の虫が鳴る。美樹は既に起きていて、朝飯の支度をしているらしい。太一郎も急いで身づくろいをすませ、台所へ顔を出した。
「おはようございます、太一郎様」
振り返った美樹は、昨夜の乱れようからは想像もつかないほど清楚な笑顔だった。その様子には、一片の陰りもない。
「ん、おはよう。今朝の味噌汁は何だ?」
「今日はみょうがと、ちょうど豆腐売りが来ておりましたから、良い木綿を使いました」
「ほう、そりゃあいいな」
「はい♪」
美樹は鼻歌を歌いながら、切った漬け物を器に移し替えている。彼女の細い指先が動くたびに、白磁の小鉢の中で美しい切り口が整然と並んでいく。
太一郎は日課の鍛錬をこなし、味噌汁と胡瓜の糠漬けで飯を四杯平らげ、それから羽織を身につけた。
「太一郎様、今日は地味なお召し物ですのね」
美樹は不思議そうに言う。洒落者の太一郎には珍しい、紺色無地の簡素な着物だったからだ。
「学問所だからな。派手ではいかんだろう」
「わたくしは地味なお着物の太一郎様も好きですよ」
美樹はうっとりとした目つきで言った。
◆◆◆
昌平坂学問所は、林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。現在では幕府が直轄する公的な教育機関となっていて、身元の確かな武家の子息であれば家格や年齢を問わずに受け入れている。
太一郎は目立たぬように講堂の隅に座って、それとなく周囲を観察していた。
(皆さん、目がぎらついていらっしゃる)
講義を受けている
「あんた、出楠どのか」
隣から話しかけられて、太一郎はそちらを見やった。大柄な若侍で、太一郎より年かさだ。
「あ、もしや、山上様ではございませんか」
「いかにも
快活に笑う青年を見て、太一郎は記憶を刺激された。
「それがしが学問所を出て以来ですから、もう六、七年になりますか」
「懐かしいなあ。あの時は俺が十六で、そっちはまだ十二ぐらいだったんじゃないか」
「ええ。確かそうでした」
太一郎は微笑んで応じた。
「出楠どの、武者修行の旅に出るとか言ってなかったか」
「はい。江戸を出て紀州、大和、堺、豊前、対馬、横浜と渡り歩いておりました」
「そうかい。俺はな、相変わらず貧乏旗本の三男坊で兄貴の厄介だ。それでも学問所で名を売れば養子の口もあり得るって言われて、ここに出戻ってきたわけだ」
そう言って頭を掻く善三郎だが、その目はギラついている。武家は家督制だから、三男坊は職に就く見込みがない。苦しい立場なのだろう。
「まあ俺の話はいいんだ。それより、出楠どのはどうしてここに? 仕官の口でも探しに来たのか」
「いえ、それがしは運良く本多左門守様の配下となったのですが、まあ下っ端の下っ端です。それで出世の足がかりになればと思いまして」
「ふうん。なんだよ、俺たち似たもの同士じゃないか」
善三郎は笑って、それから真面目な顔になった。
「お互い頑張ろうぜ。侍も剣術より算術の時代だからな」
「左様でございますな」
太一郎は苦笑して答えた。
◆◆◆
昼過ぎになると、講義を終えた武士たちが続々と出て行った。太一郎も立ち上がって、書物などを片付ける。
「義兄上! お待ち下さい!」
振り返えると、正之助がこちらに向かって走って来るところだった。
「正之助殿。昨日ぶりだな」
「はい。昨日はありがとうございました。義兄上は、やはり?」
「うむ。出世の足がかりに、学問吟味に挑みたくなってな」
「なるほど。学問吟味に挑みたくなったのですね」
これはつまり、太一郎と正之助の口裏合わせである。学問吟味とは能力主義による人材登用のための試験だが、登用の対象者は旗本の跡継ぎのみだ。しかし太一郎のような御家人でも合格すれば名前に箔が付き、出世の足がかりになるのは間違いない。表向きの動機として説得力はある。
「まあ、まずは腹ごしらえをしよう。正之助殿は弁当か?」
「ええ。義兄上は?」
「美樹が持たせてくれたよ。あいつは料理上手だからな」
「知っています。姉上に料理を仕込んだのは私の母上ですから」
そんな会話をしながら、二人は食堂に向かった。食堂と言っても、要するに弁当を使うための大部屋である。湯はもらえるが茶葉はなく、金に余裕のある者は近くの神田明神下や神田川沿いの湯島横丁に足を伸ばす。
太一郎が弁当を広げると、正之助は少し驚いたような顔をした。
「姉上の料理、母上のものとは違うようです。義兄上の好みですか?」
正之助の弁当は半分以上が玄米で、副菜は厚揚げと獅子唐の煮付けだけだ。
一方、太一郎の弁当は、小振りの握り飯の他は副菜が中心で、炒り卵に穴子の煮付けや紅白の蒲鉾などがぎっしりと詰め込まれている。
「玄米もうまいのですが、何しろ顎が疲れます。私も蒲鉾をいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ。構わないぞ」
太一郎が答えるや否や、正之助は素早く箸を伸ばして、蒲鉾を口に放り込んだ。
「……美味い。これは鯛の蒲鉾ですね」
「ああ、この頃流行りの蒸し蒲鉾さ。美樹が作ったのは格別だよ。この梅干しはどうだ?」
「いただきましょう。……おや、これは母上と同じ味だ。姉上は実家の味を忘れたわけではなさそうです」
太一郎は満足げに微笑んで言った。
「だろう? 美樹はいい嫁だよ。おれには勿体ない」
手放しで姉を褒められた正之助は、素直に嬉しそうな顔を見せた。
「はい。姉上はとても素晴らしい方です。怒ると怖いですが」
「よく知ってる」
太一郎は笑いながら言った。
がらりと戸が開いて、山上善三郎が入って来た。太一郎の隣に座って、自分の弁当を広げだす。
「出楠殿、せっかくだから一緒に食べようや」
「山上様。ええ、構いませんとも」
太一郎は笑顔で答えたが、正之助は居心地悪そうである。善三郎は気にせず話しかけた。
「そっちの少年は弟かい? 兄上とか言ってたが」
「いえ、私は小野寺正之助と申します。私の姉が、出楠様に嫁いでおりまして。お見知りおきを」
「へぇ。出楠殿、
太一郎の弁当に目をやった善三郎は、む、と眉をしかめた。
「豪勢だな」
そう言う善三郎の弁当は、山盛りの握り飯に沢庵だけだ。
「……ま、こちとら貧乏旗本の三男坊だからな。兄貴の世話になって、ようやく食っていけてる。贅沢は敵ですよ」
そう言って握り飯をかぶり始める善三郎に、正之助は声をかけた。
「あの、山上様も学問吟味に挑まれるのですか?」
「ん? ああ、そうだな。俺みたいなのでも、学問吟味でいい結果を残せば婿養子の口があるかもしれないからなあ」
善三郎はそう言いつつ、視線を正之助に向ける。正之助は真っ直ぐに善三郎を見ていた。
「もしかして、正之助君も学問吟味に興味があるのか? だが難関だぜ。四十を過ぎても及第できない奴が沢山いるんだ」
「はい。私は学問の道を志しているのです。いずれ学問吟味を突破できれば、父上に認めていただけるかと」
「ふうん……」
善三郎は握り飯を食うのを止めて、何事か考え込んでいた。
「……なあ、正之助君が良ければ俺と組まないか」
「組む、ですか?」
「ああ。俺は今年で二十三だ。一日も早く及第者になりたいんだ。よく言うだろう、人に教えれば自分はその三倍学べると。だから俺は、優秀な稽古人を集めて、俺自身の学問の研鑽に努めるつもりなんだ」
「それはまた……ずいぶんと熱心なことですな」
善三郎の熱意に感心したように、太一郎は言った。
「そりゃあ熱心にもなるさ。俺はいつまでも兄貴の厄介でいる気はないからな。どこかの家を継ぎ、武士として身を立てられるようにならなきゃならない」
じっと見つめてくる善三郎に正之助は心を動かされたようで、太一郎に向き直って言った。
「義兄上、私は山上様のお話を聞いてみたいと思います」
太一郎は面白げに正之助を見た。
「正之助殿、乗り気なんだな」
「はい、義兄上はどう思われますか」
「いいお話だと思う。正之助殿がやりたいなら、おれも応援するよ」
正之助は善三郎に頭を下げた。
「山上様、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「おう、任せろ!」
善三郎は満足そうな顔で、再び握り飯を口に運び始めた。
◆◆◆
六年前と、大して変わらない。それが、学問所に対する太一郎の感想だった。学問所の空気は変わらない。誰もが学問に励んでいる。
ように見える。
太一郎も成長した。武芸を磨き、女を知り、隠密となり、妻も得た。
今の太一郎には、学問所の影が、ほのかに見え始めていた。例えば、講義中にいる者ではなく、いない者。また、昼どきを過ぎたというのに腹の虫を鳴らしている者。教本をめくる手が進まぬ者……。そういった落伍者たちが、確実に存在している。
彼ら同士のつながりは一見何もないように見える。しかし、互いに互いを牽制し合い、監視し合う、陰湿な秩序が、そこにはあった。
「義兄上!」
「このっ!」
殴りかかってきた男の腕を、太一郎は軽く締め上げた。
「は、離せ!」
言われた通りに突き飛ばせば、男は尻餅をついた。
「もう行け。二度とこのような真似をするなよ」
「くそぉ……覚えていろ」
男は立ち上がり、よろめきながらも去っていった。
「義兄上、ありがとうございました」
正之助が礼を言う。
「いや、大したことではない」
「大したことです。義兄上が助けてくれなければ、私が殴られていました」
「そうかな」
「そうですとも」
「そうかもな」
太一郎は苦笑した。
「ああいう輩は多いのかい、正之助殿」
「まあ……それに私は、ここでは年少者ですから。狙われやすいようです」
正之助は少し恥ずかしげに言った。
「しかし、あの程度の方を懲らしめに来られた訳ではないですよね」
「まあな。おれが追うのはあっちさ」
太一郎はそれとなく目線で正之助に示す。たかり行為をそれとなく見張っていた者たちだ。
「なるほど、猫の尻尾を踏んで声が上がったところを探すのですね」
「そういうこった。ほれ、正之助殿は勉学に励むといい。山上様には、昔おれも色々とお世話になったんだ」
「義兄上もたかられたのですか?」
「いや。今思い返すと、おれは結構怖がられていたみたいでな……初日に何人か殴り倒したのが原因かもしれん」
正之助は頷いた。
「ああ……それで取成しを頼まれたのですか」
「ま、そんな感じだ。剣の同門だったんでな」
「では、義兄上の武勇伝も教わって参りましょう。それでは失礼いたします」
「ああ」
太一郎は正之助を見送りながら呟いた。
「虎じゃなく猫とは、あいつも上手いことを言うな」
◆◆◆
「それで、〈虎の爪〉とかいう連中の尻尾は掴めたのかい?」
いつもの「竹むら」の二階。太一郎の隣に座っているお雪が、いつもの調子で言った。鼻息が太一郎をくすぐる。
「ああ……確証はないが、安倍久右衛門という男がいる」
「ふうん、そいつがどうなの」
「旗本だが、一度も御役に付いていない。学問所には出世の足がかりを探しに来たらしいが、上手くいっていない。それで落ちこぼれや金のないものを集めては、私塾みたいなものを開いているようだ」
「なるほどねェ。学問所の中で、良からぬ考えを広めているってわけか」
「ああ。やつは、自分たちを足蹴にした今の御公儀を倒したいと思っているみてえだ」
「倒す? 倒してその後どうするのさ。紀州様とか、尾張様を新しい公方様にでもしようってのかね」
「いや、それがなあ」
太一郎は頭を掻く。
「安倍の下に泉政右衛門という若い御家人がいて、ややこしい事を考えているのはこいつだ。こいつが言うには、公方様も御大名も全部ぶっ潰して、民百姓が治める国を作るつもりだと」
「何それ。頭おかしいのかな」
「だろう? おれもそう思うよ」
太一郎は大きくため息をついた。
「まァでも本気でそう思ってるのは確からしい。この国の未来なんて誰にも分かりゃしねぇが、少なくともこの男は実現できると信じてる。お雪ちゃん、そういう話に興味あるか?」
「全然。〈虎の爪〉は花火でお江戸に火を点けるかも知れないんだろう? 早いとこぶった斬ってやりてえよ」
「そう言うと思ったよ」
お雪の美しい目が爛々と輝いているのを見て、太一郎は何度目になるか分からないため息をつく。ここの所、昼も夜もなく学問所を張っているので、疲れが溜まっているのである。
「でも、その政右衛門とかいう奴、なんでそんな事言い出したんだろう」
「どうも、外つ国から渡ってきた思想に感化されたらしい。異人が持ち込んだ書物を読んで、自分たちにもできると思ったらしいな」
「……馬鹿じゃないの?」
「まったくだ。だが、絶対に不可能というわけでもない」
太一郎は腕を組む。
「今や、米より銭の時代だからな。銭さえあれば、何でも買える。銭がなければ、何も買えない。なら、銭の中心である江戸を焼き払っちまえば、天下は吹っ飛ぶ」
「あー、そういう話かぁ。そりゃあ、民百姓がどんなに苦しんでも構わねえなら、民百姓が治める国も作れるかも知れねえけどさあ」
お雪は何じゃそりゃ、と呆れたように首を横に振った。お雪の髪が太一郎の首元をくすぐる。湯屋に行っていたのか、着物越しの体温と、甘い匂いが太一郎に伝わってくる。
「ああ……まあ、そうなんだ」
「? どうしたの兄貴、歯切れが悪りィじゃないの」
「……やつらが〈虎の爪〉だったとしてだ、江戸を燃やし尽くすために藤吉をさらったとして、どうやって火を点けると思う?」
「うン? そりゃあ火薬に火を点けて……ああ、金の出どころか。どこからどうやって火薬を仕入れるんだって話も出てくるねェ」
お雪は眉間にシワを寄せて考え込む。しばらくすると口を開いた。
「藤吉ってのに手引をさせて、火薬を盗み出すとか?」
「事故を起こして死罪になるはずだった奴が、果たして手引できるもんだろうかね」
太一郎は首を傾げる。
「じゃあ、鉄砲を手に入れてその火薬を使うとか」
「安倍は旗本だ。鉄砲箪笥奉行か、大坂鉄砲奉行あたりと繋がっていれば、鉄砲や火薬を手に入れることも不可能ではないだろうな。無いとは言えねえが……尚の事、藤吉をさらう理由が分からなくなるな」
「藤吉っていうの、火薬で事故を起こしたんでしょ? もし自分らの火薬で事故を起こされたらって思わないのかな。そいつをわざわざ拐かすってのは、最初から理屈に合ってない気がするんだけど」
「確かにな……藤吉について調べてみる必要がありそうだ」
太一郎は顎に手を当てた。動機は割れたが、確証がなければ実力行使はできない。
「まあ、兄貴がそんなに悩むことないよ。あたしが変装して、安倍や泉の追跡をすれば済む。金の出どころも押さえてみせるよ。任せときなって」
「ああ、犬を使って火薬の臭いを追わせるのも手だが……」
太一郎は腕組みをして、目を閉じた。
「? まだ何か気になるのかい、兄貴」
「…………あのな、お雪ちゃん」
「なにさ」
「お前、ちょっと……近くないか?」
太一郎は目を開き、横を見る。すると、すぐ隣にいるお雪と目が合った。
お雪は、太一郎の肩に自分の肩を触れ合わせるように寄り添っていた。太一郎が少し身じろぎをすると、お雪はその動きに合わせて身体を密着させてくる。
「近くないよ。今までと一緒だよ」
太一郎は首を傾げる。
「いや、近いよ。近すぎる」
「えぇ~、そんな事ないよォ。普通だってば。こんなもん」
「いや、違う。絶対、前よりもくっついている」
「そうかなァ。全然変わってないように思えるんだけど」
太一郎はたまらず立ち上がった。
「悪い。おれはもう出る」
「えぇっ!? どうしてさ、もう少しゆっくりして行こうよ。おやじさんが蕎麦がき団子こさえてくれてるんだよ。一緒に食おうよ。ほら、座って、兄貴」
「いや、今思い出したが、今日は大事な用がある」
「ええー。忘れるような用事なら別にいいじゃないか」
「良かあねえよ。……全く、いつまで経っても子供なんだから……」
太一郎はため息をつく。
お雪は、まるで拗ねているかのように唇を尖らせていた。
◆◆◆
「ちょいと露骨すぎたかね。でも、あたしの気持ちが伝わらなきゃ意味がない。女は度胸だ」
「そうかなあ……相手に引かれたら本末転倒じゃない?」
「……難しい言葉覚えたね、お前」
「ふふん」
◆◆◆
学問所の夏は、暑さとの戦いでもある。暑いとどうしても集中力が続かない。
だが、今感じている痛みはそれと関係がない。善三郎は、胃の腑のあたりを押さえる。
「山上様、大丈夫ですか」
傍らにいた正之助が声をかける。
「あ、ああ……済まない、正之助君。いや、十一歳でこの問いを解くとは、正之助君は大したものだと思うぞ」
「恐れ入ります」
善三郎は、正之助の手元にある紙に視線をやった。
それは正之助が一刻(約二時間)で解いてみせた算術の問いである。そして、善三郎が解くのに三日かかった難問でもあった。
善三郎は、また胃の腑のあたりを押さえる。嫉妬。それが正之助に対する、この感情の名前である。
「どうかされましたか、山上様」
正之助の声に我に返ると、彼は心配そうにこちらを見上げていた。
「あ、ああ……いやすまんな。今日はこれで終いだ。また明日頼む」
「はい。ありがとうございました、山上様。失礼いたします」
「うむ」
善三郎は、正之助が去っていくのを見送った。
「……何が『人に教えれば自分はその三倍学べる』だ! 俺ときたら、偉そうに!」
吐き捨てるように言って、部屋に戻る。
机の上には、先ほど正之助が解いた問題と、その解答がある。善三郎は目が離せなかった。
(なんて美しい解法だ……俺にはとても思いつかない)
胃の腑がむかむかする。一回りも年下の少年に何を、と思うが、嫉妬心を抑えきれない。自分に嫌気が差してしまう。
「……酒でも飲みに行くか」
善三郎が向かったのは、神田川沿いの湯島横丁であった。
「いらっしゃいまし」
「酒をくれ」
善三郎は店の奥の席に座り、店主に声をかけた。
屋号を〈一鶴〉という鰻屋だ。初めてきた店だが、店先には鰻が焼ける香ばしい匂いが漂っている。
「はい、どうも」
店主は愛想良く答えて、徳利と猪口を差し出した。
「何になさいます? いい胡瓜が入っておりますから、〈うざく〉などいかがでしょう」
「うざく? 聞いたことがないな」
「蒲焼きを短冊にしたものと、ざくざく切った胡瓜を合わせ酢で和えたもので。
「じゃあそれを貰おうか」
「へいっ、少々お待ちくださいませ」
しばらくして、うざくが出てきた。なるほど、なかなか美味い。さっぱりした胡瓜の和え物を、鰻の脂の旨味が引き立ててくれるのだ。
「うまいな……特に薬味のみょうがが、いい。いいな、これ」
「はい、ありがとうございます」
「おやじ、酒をもう一本と、鰻飯も頼む。それから山椒味噌も」
「はいはい、毎度ありっ」
しばらくすると鰻飯も出てきたので、善三郎は夢中で食べた。
「はぁ……美味かった……しかし……俺は何をしているんだろうな……」
酔いが回ってきたのか頭がぼうっとする中、善三郎は独り言ちる。
「こんなところで昼間っから酒を飲んでいて良い身分ではないのだが……」
今更悔いても仕方がないのだが、こんな体たらくで侍として身を立てられるのか。ただ漠然とした不安だけが胸中に渦巻いている。
その時、店の戸が開いた。
「こんにちは」
入ってきたのは、二十歳を越えたくらいの女だった。武家の人妻だろうか。華美ではないが仕立ての良い、洒落た着物を身につけている。赤毛を結い上げた髪には銀のかんざし、化粧にも隙がない。
「これは御新造様、いらっしゃいまし。いつもご贔屓をいただきまして」
「あら、ご贔屓なのはわたくしの旦那様ですわ」
女はコロコロと笑う。ちょっと目を細めた笑い方で、何とも言えぬ色っぽさがある。
善三郎は口をぽかんと開け、見惚れてしまった。
「では、頂いていきます」
「はい、まいど。旦那様にもよろしくお伝え下さい」
鰻の包みを受け取った女が店を出ていくと、善三郎は店主に聞いた。
「おい、おやじ。今の美人は何者だい?」
「へえ、妻恋坂の近くに住んでおられる御家人の御新造様ですよ。気前がよろしいんで、うちも重宝してるんです」
「そうなのか……御家人にしては、金回りが良さそうだな。旦那は御役目に付いているのか。それとも、商売でもやっているのか」
「さあ……そう言えば聞いたことがありませんなあ……まあ、詮索するようなことでもありますめぇ」
「それもそうか……」
勘定を払って外に出ると、夏の夜風が流れてきた。涼しげな虫の音も聞こえてくる。
「いい女だったな……耳元で囁かれたら腰が砕けてしまいそうな声だった……」
ふと、そんな言葉が漏れ出た。歩きながら、つい口にしてしまったのだろう。善三郎は、慌てて周囲を見回す。幸い、誰にも聞かれていなかったようだ。
(だが、本当にいい女だったなあ。胸元や腰回りもふくよかで……)
善三郎の脳裏に浮かぶのは、先ほどの女性の裸体である。
(あの女を抱けるなら……死んでもいいかもしれない)
善三郎は、頭を振った。巾着の中身は、鰻屋に入っただけで大分軽くなっていた。金がない善三郎は否応なしに女日照りだ。岡場所の女郎ですら抱けないのだから、自分のような貧乏武士ではあんな美女と交わることなど夢のまた夢である。
「ああ畜生! 世の中は不公平だ!」
思わず叫んでしまった。通行人が驚いてこちらを振り返る。
「あ、いや……済まない」
善三郎は小走りにその場を離れた。
「畜生……せめて、もう一度会いたいものだ……」
その視界の端に、ちらと写ったものがある。
先程、善三郎が懸想していたあの女が、人気のない路地に消えていったのである。
善三郎は、ふらりとそちらに足を向けた。別に、後をつけるつもりではない。ただ武士として、美人が危ないところに行くのを止めたいだけ……。
善三郎はそう自分に言い聞かせてみたが、正直なところ自分の行為に自信を持てなかった。
そっと路地に近づくと、女の声が聴こえてくる。
「太一郎様、今日のお弁当でございます。それと、〈一鶴〉の鰻も買って参りましたの。短冊に切ってもらいましたから、お召し上がりになって下さいね」
「弁当に鰻か、豪勢だな」
「太一郎様はお身体が大きいのですもの。たくさん食べていただかないと」
(で、出楠どの……)
善三郎は、物陰に隠れたまま動けなくなってしまった。男は、学問所で再会した出楠太一郎だったのだ。
「早くお前のいる家に帰りたいよ。目と鼻の先にいるのに会えないと、逆に寂しくてたまらない」
「まあ……嬉しいことを仰いますのね」
「おれはお前の旦那様だからな」
「ふふ……はい」
善三郎は、その場を離れたくなった。このまま立ち聞きしていても良いことはないと、直感的に悟ってしまったからだ。
果たして、女の色っぽい声が聞こえてきた。
(続く)