果たして、女の色っぽい声が聞こえてきた。
「……んっ♡」
善三郎は、耳を塞ぎたかった。しかし、体が動かない。
「……ちゅっ、ちゅう……れろ……じゅぱっ……旦那様……もっと……ああ……気持ちいい……太一郎様……好き……大好き……」
「……んむ……ぷは……おれもだ……おれも、愛しているぞ……美樹……」
善三郎は股間に血が集まるのを感じた。男ならば、誰でも分かる感覚だ。
「はあ……はあ……太一郎様、身体に触らないで下さいましね……触られたら、美樹は、美樹は我慢ができなくなりますから……」
「分かっている、分かっているとも。おれはお前を傷つけるような事はしない。だから、せめておれに愛を囁いてくれないか。な、な……」
善三郎は興奮と罪悪感を同時に感じていた。自分が盗人に墜ちたような気がしたのだ。
(いや、俺は今まさに人妻の色香を盗んでおるのだ……だが悪いのは俺ではなく、この色香なのだ……)
善三郎は、必死に自分を正当化しようとする。だが、その努力は無駄であった。
「太一郎様……好き、美樹は太一郎様が大好きです。だから、だからどうか無事に帰ってきてくださいまし。美樹はもう、一人ぼっちは嫌です……」
「大丈夫だよ、美樹。必ず帰ってくる。そして二人で幸せになろう」
「はい……美樹はいつまでもお待ちしております」
善三郎の股間は、痛いほど張り詰めている。惨めさと情けなさで涙が出そうになるが、同時に強い劣等感を覚える。
出楠太一郎の妻ならば、あの美樹という女は正之助の姉なのか。姉は色香で、弟は学問で俺を惨めにさせるのか。
自分はどう頑張っても、あれほどの解法も、あそこまでの女も手に入れることはできない。そう思うと、身勝手な嫉妬心がこみ上げてくる。
(畜生! 出楠どのまで、俺を馬鹿にするのか!!)
善三郎は叫び出したい衝動を抑えた。ここで叫んでしまえば全てが終わるような気がしたからである。
踵を返して、自宅に向かって走り出す。
「はあ……はあ……」
走って、走って、走り続けて、気がつけば善三郎は自宅に戻っていた。
そして玄関の戸を開けるなり、「ただいま戻りました」と叫んだ。出迎えはない。いつも世話をしてくれる老婢も、台所に控えている下男も姿を見せない。
善三郎は自室に戻ると、そのまま床に倒れ込んだ。
「はあっ、はぁっ……はぁっ……」
息が荒い。汗もかいている。善三郎は寝間着の裾を割って、呻きながら股間をまさぐった。
美樹という女、思い返せば確かに正之助に似ていた。いや、正之助のどこか女めいた面差しが美樹に似ているのだ。善三郎は、二人の顔を思い浮かべながら手を動かした。
「しょ、正之助君……!」
いつしか源三郎の頭の中は、美樹ではなく正之助が相手になっていた。正之助が自分を慕ってくれる様子を想像しながら、手を動かす。正之助は、いつも自分について来てくれる可愛い後輩なのだ。人妻の色香を盗むよりは、ずっとマシではないか。
そう言い訳しながら、善三郎は果てた。果ててすぐ、悪態をついた。
(畜生……!)
善三郎は自分の行動の浅ましさが恥ずかしくてたまらなかった。だが一方で、善三郎は自分の身体の反応に驚きを覚えていた。まさか、自分が男色の気があるとは思わなかったのである。
この時代、少年愛は珍しいものではなく、陰間茶屋という男娼専門の売春宿もある。学問所からそう離れていない湯島天神の門前町にも十軒以上の陰間茶屋があり、少年たちが客の相手をする光景が見られる。
ふらりと立ち上がると、懐紙と井戸水で手を洗った。それから部屋に戻り、布団に横になった。全身に倦怠感を感じる。
「俺は何をやっているんだろう……侍として、身を立てねばならぬと言うに……」
劣等感は拭えず、むしろ肥大していくばかりであった。
足音がする。いつの間にか廊下から、兄嫁が善三郎を見下ろしていた。
「善三郎殿、昼間からお盛んなことですね」
「あ……いえ、これは……違うのです」
「何が『違う』のですか? お酒の匂いがしますが」
兄嫁の視線が冷たい。善三郎は、慌てて嘘をつく。
「実は、学問所の友人と酒を飲んでおりまして」
「ほう、それは良いご身分で」
兄嫁が吐き捨てるように言った。
「御父上にお知らせしましょうか? きっとお喜びになりますよ」
「そんな……それだけは勘弁して下さい」
「それでは、学問所に戻られてはいかがですか。山上家の子息に、昼間から酒を飲んでいる者などいるはずがない。そういう事に致しましょう」
「そ、それは……」
「さあさ、早く出て行って下さいな」
「わ、分かりました」
善三郎はすごすごと退散した。
ここは善三郎の生家だ。庭の木に兄たちと登って父に叱られたこともある。あんな女に指図されるいわれはない。腹が立って仕方がなかった。ただ長男の妻だと言うだけで、何故ああも威張れるのだろう。
善三郎は、怒りに任せて門を開けた。
◆◆◆
学問所に戻った善三郎は、食堂の壁に背を預けて座り込んでいた。酒の匂いをさせて講堂に入れるわけもない。
喉の乾きを覚えて、湯をもらいに行こうとした時だ。
「やあ、山上様」
「泉どの……」
声をかけて来たのは、御家人の泉政右衛門だった。頭は切れるが、慇懃無礼で気に入らない男だ。
「今日は随分と荒れたご様子で……何かあったのかな?」
「ふん、貴様に話すことなどない」
「そう言わずに、私に話してくれないか。悩みがあるなら相談に乗るよ」
「余計なお世話だ。そこを退け。俺は湯が欲しいんだ」
善三郎は冷たく言い放った。すると、政右衛門はわざとらしくため息をつく。
「ふう……まったく、御手前はつれないね。せっかく人が親切に言っているというのに」
「俺は別に頼んでいない」
「まあいいよ。貧乏旗本の三男坊だものな。家族は冷たい、女日照り、金が無い。悩みなんていくらでもあるよね。うん、分かる、分かるとも。だけどね、私は思うんだよ。まともでは、その悩みは解決できないってね」
泉の眼鏡が光る。善三郎は不快げに眉をひそめた。
「見透かしたような口をきくな……!」
「見透かすも何も、全部事実じゃないか」
「うるさい!! 御家人風情が、旗本に向かって無礼ではないか!」
胸倉を掴んで揺すぶる。しかし、泉は涼しい顔をしている。
「虚しくないかい。御手前を苦しめているのは、旗本の三男坊という身分そのものだ。旗本だ、御家人だという仕組みそのものじゃないか」
「……な、何?」
思わず辺りを見回すが、人の目はない。善三郎は声を絞って訪ねた。
「……貴様、何を言っているのか分かっているのか。御政道の批判をしているようにしか聞こえん」
「そうだとも。私は御公儀を……いや、徳川家と幕府を批判しているのさ」
「なっ……!!」
善三郎は絶句するしかなかった。目の前にいる男は狂人ではないのかと思った。
だが、泉の瞳には理知的な光が宿っていた。
「御手前だって、分かっているはずだ。この国はおかしいと。武士は食わねど高楊枝? 冗談じゃない。こんな時代だから、皆が苦しんでいる。どうして御上は我ら武士を顧みないのだろうね」
「う、ううう──」
「分かっているだろう。この学問所で法や農を学んだ君なら、徳川幕府の矛盾が理解できるはずだ」
「うぐぐぐぐ……」
「どうだい、山上様。いや、神明一刀流にその人ありと謳われた山上善三郎殿。潰れかけの旗本の養子になったとして、それで満足かい。君の剣術で欲しいものを手に入れたいと思わないかい」
「ぐぐぐ……」
「私は違う。私は、私の力で世の中を変えたい。それができると信じている。君はどう思う」
善三郎は、答えられなかった。
剣の腕には、自信があった。剣客として身を立てんとした事もあったが、家がそれを許さなかった。
(俺は、出楠どの──
そう思ってはみても、今の自分はただの
(剣が……剣で、何かを手にできるのなら……)
頭の中に、先程脳内で辱めた美樹と正之助の顔がちらつく。そして、自分に抱かれる姿も浮かんできた。途端、善三郎の身体は熱くなった。股間に血が集まるのを感じた。
善三郎は、自分という人間の真の姿が見えた気がした。
「泉……貴様の話を聞こう。だが、条件があるぞ……」
◆◆◆
肌に蚊が止まっている。追い払いたいが、目立つ真似はできない。夜明け前、暁の中、青木源造はじいっと息を潜めていた。
目的は一つ。〈虎の爪〉の内偵である。人足たちの中に紛れ込んだ源造は、密かに情報を集めようと聞き耳を立てていた。
「おい源さん、ちょっと来てくれ!」
先輩人足の呼び声がする。源造は、慌てて返事をした。
「へい、今行きます!」
源造は素早く立ち上がり、人足たちが集まっている場所へと急いだ。
〈虎の爪〉は花火を悪用しようとしている。そのために必要なものは、実は火薬以外にもある。麻糸、綿紙といった導火線の材料だ。源造は、深川奉行・速水右門守の協力を仰ぎ、抜け荷の疑いのある商人たちを探った。その結果、益田屋という松阪商人の尻尾を掴んだのである。
(あの頭巾の男、身なりからして旗本……それも、貧乏が染み付いてやがる)
頭巾の男は、体型からして中年、仕立てはいいが古ぼけた着物を着ていた。
(妙に身のこなしに隙がねえ。それに、あれは……)
男の目つきが尋常ではなかった。まるで飢えた獣のような、あるいは、鬼神の如き眼光である。
(こいつは……当たりかもしれねぇな。さて、どうやって取り入るか……)
源造は思案しながら、人足の仕事をこなしていく。
「どうでえ源さん、ちっときついか? ここはよう、お手当がいいから気に入ってるんだが」
「へい、大したことはありませんが、蚊が多いのは勘弁ですな」
「ああ、全くだ。蚊遣り火を焚いて欲しいところだが、目立っちゃ困るんだとよ」
仕事を終えた人足たちは、一つの小屋に集められた。
「源さん、さっきはああ言ったが……そろそろ別の場所に移った方がいいかも知れねえな」
「へえ、そりゃまた、どうしてです?」
「いやな、お役人さまたちがな、俺たちの事を嗅ぎ回ってるらしいんだ」
「そりゃあ……大変じゃあござんせんか」
「ああ、俺らはただの雇われだ。別に何にも悪いことはしちゃあいない。だけど、このままここに居たら、何だかまずいことになりそうな気がする」
「なるほど……分かりました。そうしますよ」
その時、四人の浪人者が小屋に入って来た。
「そろそろ別の場所に移った方がいい、と申したのはお前か」
「あ、いえ……それは……」
源造は矢場い、と思った。同心の直感だが、浪人者の目付きは明らかに普通ではない。
「旦那、そりゃあ、あっしの言ったことで……こちらの兄さんには、何の科もございません」
源造は人足たちを庇おうと必死に弁明した。しかし、浪人者が刀に手をかける。
「旦那! そりゃあ、いくら何でも……!」
「案ずるな。
「うお!?」
抜きざまに斬りかかってきた浪人者を、源造は辛うじて避けた。
小屋の中で次々と悲鳴があがる。
「お、お助けを──ぎゃあああ!」
浪人者たちは次々に人足を斬っていく。
「ひ、ひぃ!」
「や、やめてくだせぇ……」
逃げ惑う人足たちに、容赦なく刃が振り下ろされる。
「て、テメエら……! 人の命をなんだと思ってやがる!」
源造は叫びながら、十手代わりの小刀を抜いた。
「ほう、やるつもりか」
「やらいでか!!」
源造も御上より十手を預かる北町同心、十手術は達者である。相手が四人だろうと、負けるつもりはない。
「おらぁっ!」
「ぎゃっ!」
源造の小刀が一人目の指を飛ばす。しかし、相手は怯まない。
「ふんっ!」
二人目の脇差が横薙ぎに迫る。
「ちぃっ」
源造は後ろに飛び退いた。間髪入れず三人目と四人目が襲いかかってくるが。
「甘いぜ!!」
源造は飛び上がり、二人の頭を蹴って宙返りする。
「なにっ」
「ねずみの真似は業腹だが、この際仕方ねえ!」
着地と同時に小刀を構え、四人目と切り結ぶ。
「おい、みんな逃げろ! 逃げろ逃げろ!」
うめき声を上げる人足たちに向かって叫ぶ。
「くそぉ、覚えていやがれ!」
「ちくしょう、畜生!」
人足たちが逃げ出すと、残ったのは源造と浪人者だけになった。
「貴様、只の人足ではなさそうだが」
「ま、そんなところだ」
「名は?」
「名乗るとでも?」
そう言い返す源造だったが、状況は如何にもまずい。まだ物証を掴んではいないのだ。源造自身が、何としても生還しなければならない。
声が一つ割り込んできた。源造が目を付けていた頭巾の男だ。
「貴様、もしやあの時の北町同心か」
「そう言うテメエは、藤吉を拐かした〈虎の爪〉だな」
確かに、その声は聞き覚えがあった。だが、今は悠長な問答をしている場合ではない。
頭巾の男が刀を構えて切りつけてくる。四人の浪人者も次々と向かってきて、源造は防戦一方にならざるを得なかった。
しかし、やがて形勢は逆転する。狭い室内での戦いだ。一人、二人と傷を負い、三人目が倒れ伏す。
(よし!)
源造は心の中で快哉を上げた。残るは頭巾の男と浪人の一人だけだ。
「御用だ、〈虎の爪〉! 神妙に縛に付けい」
「ふ、馬鹿め。不浄役人風情がつけ上がるな」
「ぬかせ! その汚え面を江戸市中に晒してやらあ!」
源造は男に躍りかかった。──そして、床に倒れ伏した。
「……な……んだ……今のは……」
源造は起き上がろうとしたが身体が動かない。手足は痺れ、身体中の感覚が失われていく。
「お、おのれ……」
声を出すのがやっとだった。
「ご無事ですか、安倍様」
新手が二人。どちらも虎縞の覆面をしていて顔は分からないが、大柄な方が抜く手も見せずに源造を切りつけたのだった。
(く、くそったれ……引き際を誤ったか……!)
源蔵は歯噛みするが、どうしようもない。もう声も出せないが、むざむざと悪党の手にかかるなど、源造の矜持が許さなかった。
(し、死んで……たまるか……!)
源造は最後の力を振り絞って這いずる。すると、頭巾の男は見下したように言った。
「この期に及んで、見苦しい。武士らしく潔く死ぬがいい」
「ぐ、ぐうぅ……」
「おい、こいつに止めをさせ」
頭巾の男は浪人者に指示を出した。
「承知しました」
浪人者は脇差しを振りかざし、源造の背中に突き立てんとした。
源造の命運は尽きた……そう思われた時だった。びゅう、と音を立てて飛来した何かが、脇差しを弾いた。
続いて投げ込まれた何かが、猛烈な白い煙を撒き散らす。
「うわ、なんだこりゃ!」
「ゲホ、ゴホッ……! 何事か!」
源造は、誰かに抱え上げられた。意識が薄れる中、かすかに見えたのは、黒い盗み装束を着た女の姿であった。
「ね……ず……」
「青木様、死にたくないなら喋らないで」
女の澄み上がった声を聞きながら、源造は気を失った。
◆◆◆
源造の視界がゆっくりと戻ってくる。
(ここは……どこだい)
薄暗い部屋の中に源造は寝かされていた。胴体にはさらしが巻かれていて、誰かの手当を受けたようだった。手足を動かそうとするが、血が流れすぎたのか、思うように力が入らない。
「ここは……?」
集中してみると、体が揺れているのが分かる。どうやら、どこかの川に浮かんだ屋形船の中らしい。
「もう気付いたの? 流石は青木様だね。本当、しつこいくらいしぶとい」
目の前に居るのは、黒い盗み装束を着た女。源造の宿敵、女ねずみだった。源造は咄嵯に跳ね起きた。
「ごよ……うぉ……」
起きたつもりが、ふらふらと布団に逆戻りしてしまう。
「無理しないほうがいいよ。酷い怪我だから」
女ねずみは素っ気なく言った。
「あ……あ……ねずみ……お前がどうして……?」
「助けたんだよ」
「助けた……? 俺を、か……?」
「うん。とも……じゃない、仲間に頼まれてね。青木様を見張ってたの」
「見張り……だと……?」
「そう。花火職人の藤吉をよく知っていて、煮え湯を飲まされた北町の同心なら、あるいは〈虎の爪〉を嗅ぎつけるかもしれない。そこを押さえて欲しいってね」
そこで、女ねずみは少し声を落とした。
「でも、まさか人足たちを皆殺しにしようとするとは思わなかった。逃がすのに時間がかかって、そっちを助けるのが遅れたけど、まあ、青木様だからね。死にはしないと思ってたんだけど」
「やかましいや……くそっ、体さえ動けば今すぐお縄にしてくれるものを」
「それは勘弁。おいら、今日は〈女ねずみ〉はお休みなんで」
馬鹿らしくなって、源造は全身から力が抜けてしまった。
なんとなく女ねずみの方を見る。体にぴったりと張り付くような盗み装束で、大きな尻や形の良い乳房の形が見て取れる。独り身の源造には、目の毒だ。
「悪いけど、懸想しないで欲しいな。おいら、心に決めた人がいるから」
「な、何を言ってやがる。誰がするか! ……うう、頭がくらくらしやがる……」
慌てて目を逸らす。
「……おい、ねずみ」
「何?」
「奉行所に伝言頼めねえか」
「町方の同心が盗人に頼み事? 変なの。
「できるかそんな事!」
「強情だなあ……」
そう言うと、女ねずみは畳んであった源造の着物を漁り出した。
「じゃあ、この一朱銀一枚でいいや」
「同心からくすねるとは、いい度胸じゃねえか」
女ねずみは肩をすくめた。
「それで、益田屋の事を伝えればいいの。材木問屋なんでしょ、あれは」
「ああ、益田屋の企みは火付けの後に再建の御用を独占すること。金の出どころも益田屋、〈虎の爪〉の大物に安倍という旗本がいること。それともう一つ」
源造より先に女ねずみが言った。
「藤吉のことかな」
「聡い野郎だ」
「む す め」
「……聡い娘だ。そうだよ、藤吉の発明した仕掛け花火に用いる導火線、確かに〈虎の爪〉の手中にあり、だ」
「仕掛け花火……」
源造は手を動かしてみた。まだ自由に動かない。
「ああ、藤吉はただの花火職人じゃなかった。自分で学問をやって、清国や南蛮の書物を読んでいた。あいつの花火は、導火線に特別の工夫があってな。巻いたものの切る場所を変えることで、点火から打ち上げまでの時間を自由に操ることができた。しかも、煙が出ねえ工夫がしてある」
「じゃあ、半年前の事故は……」
「藤吉は妬まれてた。あいつの作った花火を、誰かが勝手に持ち出したらしい。結局、藤吉の管理不行き届きってことになったが」
「ひどいね」
「ひどかねえ。法は法だ。どうぞ火付けに使って下さいと書いてあるような恐ろしい花火を生み出した、あいつの咎だ」
源造と女ねずみは、しばし睨み合った。先に視線を外したのは女ねずみだった。
「まあ、分かったよ。先においらの仲間に伝えるけど、お奉行所にも伝えておくよ」
立ち上がった女ねずみに、源造は尋ねた。
「ねずみよ、お前はどう思うんだよ。〈虎の爪〉が世の中に不満を持っていたとして、それを理由に法を犯していいと思うか。お前の
「言いくるめようとしても無駄。あいつらは弱いものの家に火を点けようとしている。同じとは思わない」
「ちっ。……それとな、奴らの中にとんでもない使い手がいる。大柄な一刀流の使い手で、恐ろしく踏み込みが速い。何を盗むか知らねえが、仲間に伝えておきな」
「心配してくれなくてもいいよ。仲間のほうが、ずっと強いから」
女ねずみは立ち去っていった。
「……ああ、くそ。このままじゃあ小便も垂れ流しじゃねえか。お〜い、誰かいねえか! お〜い!」
◆◆◆
「山上様、私の姉の美樹です。姉上、こちらが山上善三郎様です」
夕刻。出楠太一郎の自宅で、正之助は
(もう、後には退けぬ)
切ってみれば、何という事もなかった。益田屋の抜け荷現場において、潜入していた北町の同心に切りつけたのは、善三郎だった。
何しろ、町奉行所の同心に切りつけ、そして恐らくは死なせたのである。善三郎一人の切腹で済めばまだ温情と言えるくらいで、十中八九は御家お取り潰し、両親も、兄たちも、あの兄嫁も、漏れなく連座だろう。
構うものか、と善三郎は思った。今からやる事を思えば、むしろ股ぐらがいきり立つというものだ。
「お初にお目にかかります。出楠太一郎の妻、美樹と申します」
善三郎の目前で、赤毛の美女が手のひらをしっかりと畳につけ、深々と頭を下げた。
「おお……これは、ご丁寧な挨拶痛み入りまする」
善三郎も軽く頭を下げるが、その目は美樹の白いうなじから離れない。
「……あの、山上様? 何か?」
「あ、いえ、何でもござらぬ!」
慌てて取り繕うが、視線は美樹の襟元にじっと注いだままだ。
「姉上、山上様は学問吟味について私に指導を授けてくださっているのです。義兄上とも昔は机を並べた仲だとか」
「まあ、そうなのですか。これまでご挨拶もせず、大変失礼を致しました。どうぞ、よろしくお願いします」
「あ、はあ。いや、拙者こそ、出楠殿の細君に会えて光栄至極に存じまする」
善三郎は頭を掻いた。
「山上様、あいにく夫は留守にしておりまして……」
「いや、出楠どのには、またいずれお会いできましょう。今日は、美樹殿にお話があり参った次第でございます」
「まあ、わたくしに? それはどのような」
「実は、その……」
善三郎は、正之助と美樹の顔を見た。どちらも、不思議そうに首を傾げている。
「私事ですが、妻を迎えようと決心しまして。しかし、どのようにしたら良いものか分からず困っておりました。そこで、お二人にご相談をと思い、こうして伺わせていただいた次第にござる」
「はあ……わたくし達に、山上様の奥様についてのご相談を?」
美樹はますます当惑した顔になった。つい今しがた初対面の挨拶をしたばかりなのだから、当然の反応であろう。
「左様にござります。美樹殿は、出楠どのと夫婦になられて何年になりますか」
「は、はあ……四年目に入りますが、それが何か……」
「それで子宝に恵まれぬのは、誠に残念なこと」
「……!」
美樹が何か言う前に、正之助が怒声を上げた。
「や、山上様、何をおっしゃいます! あなたは、姉と義兄を侮辱するためにわざわざここまで来られたのですか!」
正之助はまだ声変わりもしていない。どこか少女めいた顔に怒りを浮かべても、善三郎には、〈可愛らしい〉と映った。
「フ、フフフ……勇気があるなあ……」
善三郎は笑いを漏らし、正之助の顎に手をかけた。
「お主が弟とは、まこと羨ましいものよ。そうだ、出楠太一郎が羨ましい限りだ」
「な、何をなさるのです! やめて下さい!」
美樹が声を上げるが、善三郎の耳には届かない。
「さて、では本題に入ろうか。まず、美樹殿には子を産んで頂かねばならぬ。俺の子をな」
正之助が手を振り払い、腰の小太刀に手をかける。
「山上様、あなたは……!」
「黙れ」
立ち上がって逃げようとした美樹の手を、善三郎は掴んだ。
「ああっ」
「俺に抱かれれば、すぐに分かることだ。生き残りたければ、大人しく従え」
「は、離して……」
「姉上を離せ!」
善三郎は、正之助の腹を蹴り上げた。
「ぐっ……」
「正之助君、教えてやろう。お主が修めてきた学問は、無用の長物と化す。明日、江戸中が火の海と化すからだ。我ら〈虎の爪〉の大花火によってな……ハハハ……ハッハハハ!!」
狂ったように笑う善三郎を見て、正之助と美樹は青ざめた。
「……お前、まさか」
「そうだ、俺は〈虎の爪〉の一味になった。この世の仕組みを変えるためにな」
善三郎は懐から手拭いを出し、美樹の口に噛ませた。
「んーっ!?」
「姉上! ……あうっ!」
「一緒に来てもらうぞ。お主らだけは俺が命を助けてやろう。……ハハハ……ハ……ッ」
(続く)