秘密結社〈虎の爪〉は、花火職人藤吉の時限発火花火で江戸を炎に包もうとする。
太一郎の同門である山上善三郎は、太一郎への劣等感に苛まれ、〈虎の爪〉の誘いに乗って美樹とその弟・正之助を拉致してしまう。
間一髪で美樹と正之助を救い出した太一郎は、善三郎の生命をも助けようとするが、善三郎は男の意地を賭けて太一郎に挑み、落命する。
恐怖から救い出された美樹は、法悦の中で夫への愛を深め、魂さえも一つになったと感じたのだった。
Aパート
ぎい、ぎい、と、縄が鳴る音がする。
赤い長襦袢に包まれた、腐った何かが、ぎい、ぎい、と、揺れている。
首吊りをする時に勢いをつけると、首関節が脱臼して、一瞬にして心の臓が停止、息絶えてしまう。苦痛はない。絶息により意識を絶たれるからだ。
とは言え、その事は見た目では分からない──舌が飛び出しよだれが流れ、眼球が裏返り白眼となっているから、彼女の苦しみは強く印象付けられた。
暦の上では秋になった。だが、朝顔の花は今を盛りとばかりに咲いているし、日差しの強さも一向に衰えそうにはない。そんな暑さだから、長屋で首を吊った死体の発見はすぐだった。
「
南町の渡辺という同心が言った。
「旦那、この、おれいさんは何をして食ってたんで?」
「役者だよ。日本橋の芝居小屋で演っていたそうだ。まあ、身体も売っていたようだが」
「へえ……まあ、美人ですがねえ」
仏の娘は真っ青な顔で、目は大きく見開かれ、鼻の穴からは泡状のあぶくが出ており、口の端には白い泡が溜まっていた。
「太助、お前、女好きも大概にしときなさい。相手は仏さんだよ」
「へい」
太助と呼ばれた若い遊び人風の男は、ちぇっという顔をした。
「ところで旦那、仏さんの父親はどうしているんで? 母親は異人芸者か何かだとしても、父親はこの国のもんでしょう」
「さあな。どう見ても自殺だ、町名主の方に引き渡すつもりだが……。太助、お前さん、また何だってそんな事を訊くんだい? 異人芸者と縁なんかありゃすまい」
「いえね……ちょっと、知り合いの娘と似たところがありましてね。弔いをする者はいねえのかと思うとね……」
そう言って、太助──変装した出楠太一郎は、畳の上に降ろされた女の、
一刻(約二時間)ほど後、何者かから町名主に香典と称した一両小判が届けられ、アレイダの弔いに充てられる運びとなった。
◆大江戸捜査網
ハーレム・サムライ◆
第五回 ジェニーの秘薬
「あふっ……あぁ……あぁ……♡」
永代橋の西、大川端町、夜明け前の診療所に、澄み上がった、しかし性欲に塗れた声が響く。ジェニファーはまだ横浜で、女中は主が江戸にいる時だけの通いだから、お英は遠慮なく声を上げていた。
この夜、お英は〈女ねずみ〉として増上寺から近い松山藩上屋敷で千両箱を頂戴した後、あちらこちらの貧民窟を回って、金を配った。とは言え、最近は北町のしつこい同心が怪我で臥せっているので、
「おおっっ♡ たいちろー♡ おいら、いく、いっぢゃうよぉっ♡」
(ああ、俺も……出るぞ……! お英ちゃん……!)
女ねずみとして盗みと施しをした日は、昂ぶりがなかなか収まらない。日課の自慰行為が、いつもより激しいのはそのためであった。
お英は腰を高く突き出し、背中を仰け反らせた。その瞬間、妄想の『太一郎』がお英の膣内で果てる。お英は絶頂に達した。
「ああっ……! あは……あはぁ♡……ふぅーっ♡……すぅーっ♡……んん……たいちろー……♡……ふぅーっ……すぅーっ」
お英は深呼吸を繰り返しながら、自慰の余韻にひたる。
妄想の中では、『ジェニファー』と『お雪』が抱きしめて愛を囁いてくれている。
(お英ちゃん、とっても気持ちよくなっちゃったわね。私もよ。私も、タイチロウの極太ペニスで突きまくられるのが、たまらなくて仕方がないのよ。私とお英、二人でおペニス姉妹になれれば良いのにね)
(お英、顔がぐちゃぐちゃだな。あたしが拭いてやるから、じっとしなよ。まったく、可愛い顔が台無しじゃないか。まあ、兄貴のお珍宝様に突きまくられたら無理もないない。あたしとお英、二人でお珍宝姉妹になろうな)
「あは……ジェニー、お雪、ありがと……。えれぇ……おいら、嬉しいよぅ……♡」
お英は、濡れた指を口に含みながら、夢見心地で言う。性器と肛門の間にある会陰部をぐりぐりと刺激して、絶頂の坂を緩やかにさせている。
「お雪、おいら、お腹の奥がキュンっなって、いっぱいイッちゃった……♡」
(あたしもだよ。お英、一緒に兄貴に気持ちよくしてもらおうな……)
いつからか、お英の妄想にはお雪が現れるようになった。お英自身は忘却しているが、それは延命寺の事件が原因になっている。お雪は、おりんの暗示に対抗するために、お英を抱いた。太一郎に成り代わって、何度も何度も絶頂させた。その記憶がこびりついているのだ。
「うん、おいら、お雪と一緒にイク……♡」
お英は、右手の中指と薬指を二本まとめて口に含んだ。そして左手は乳房を揉み始めた。妄想の『お雪』はお英の耳元に唇を寄せてささやく。
(いいかい? このお雪様が指使いを教えてあげるよ。真似をしてごらん。まずは乳首を摘まんでコリコリするんだ。それから、お豆も優しく擦ってごらん)
「うん……こうかな……? はあん……これ、きもちいぃ……!」
お英は『お雪』の声に従い、濡らした右手で肉芽を弄る。『お雪』はお英の背後に回り、お英の肩に顎を乗せて、乳房と股間の様子を眺めている。
「お雪、これ、すごい……!」
お英が叫ぶ。『お雪』は、その綺麗な顔を歪めて笑った。
(これが、男に抱かれるってことさ。お前はもう、男に抱かれて善がる牝豚なんだ。その証拠に、お前のここは大洪水になってるよ。見てみなよ、お英。お前のここ、真っ赤に充血して、まるでさくらんぼみたいだぜ)
「やだ、そんな恥ずかしい事言わないで……」
妄想の『お雪』は、本物に比べるとかなり意地が悪い。お英の心をぐずぐずに溶かすような言葉ばかりを投げかける。
(そう言う割には、腰を振っちまってるじゃねえか)
「ち、違うよう」
(何が違うんだよ)
「これはぁ……ああ……♡」
再び腰を動かし始めるお英を見て、『お雪』はくつくつと笑う。
(まあ、何でも構いやしないけどね。今は、指の動きに集中しな。覚えたら、いつでもどこでも一人で出来るようになるからね)
「うん……」
そう言いながらも、『お雪』の手がお英の肉芽を責め立てる。お英は快感に声を上げる。
「あぁっ……! お雪、お豆ちゃん、だめぇっ♡」
(駄目じゃないだろう? 気持ちが良いはずだよ)
「うんっ♡ すっごく、いいっ♡」
(どこがどんな風に良いのさ)
「お豆ちゃん、クリクリされるの、すごくいいの♡」
(どうしてクリクリされると気持ちが良くなるの?)
割り込んできたのは、妄想の『ジェニファー』だ。太一郎と口を吸いあいながら、お英を見下ろしている。
「あのね、おいらのお豆ちゃんがね、ぷっくりと膨らむの。そしたらね、あそこが熱くなってね、おいらの子宮がね、ぎゅんって降りてきて、それでね、指で触るとね、凄く感じるの」
(へえ、そうなんだ。それなら、私もやってみるわね)
妄想の『ジェニファー』は、太一郎の陰茎をしゃぶっていた口を離すと、お英の前に屈み込んだ。そして、お英の肉芽を人差し指でピンッと弾いた。途端に、お英は身体を跳ね上げさせ、大きな声で叫んだ。
『ジェニファー』は微笑みながら言った。
(どう? 気持ち良かったでしょう? こんなに感じてくれるなんて、嬉しいわ。でも、まだ足りないのよね。もっとして欲しいのよね。だったら、私にお強請りしなさい。私の指でお豆ちゃんを苛めてくださいって)
「はい……はい! おいらのお豆ちゃんを、いじめて欲しいです。……お願い! ジェニー、お願い!」
(素直な子は大好きよ。だけど、お強請りの仕方がなっていないんじゃない?)
「うう……♡ おいら、悪い子だから……あぁ……♡ お仕置きしてくださぁい……♡」
(良いわよ。お望み通り、お仕置きしてあげる。ほら、お尻を出しなさい。四つん這いになるの)
「はぁい……♡」
お英は、妄想の『ジェニファー』の言葉に逆らうことなく、言われるままの姿勢をとった。枕に顔を埋め、腰を高く突き上げる。
『ジェニファー』は、お英の腰を掴んだ。そして、ゆっくりと手に力を入れていく。
「あぁ……♡ あぁっ……♡」
(お英ちゃんのお尻、柔らかくて気持ちが良いわ。それに、とても良い匂いがするのね。お腹が空いてきたわ。早く食べたいのよ。分かるかしら。私は、あなたのここに噛み付きたくて仕方がないの。今すぐ、あなたを食べてしまいたいわ)
「ああっっ♡ ジェニー♡食べて、全部♡ ジェニーに食べられるの、おいらも嬉しいのぉっ♡」
お英は、嬉々として答えた。自分の手で硬い尻肉を鷲掴みにして、爪を立てる。
「ああっっ♡ 痛いっ♡ 気持ち良いっ♡」
そのようにして、妄想の『ジェニファー』と『お雪』に散々なぶってもらった後、いよいよ『太一郎』が動き出す。
『お英ちゃん、今からお前をお母ちゃんにしてやるぞ!』
「うん、たいちろー、おいら、たいちろーの子種で孕みたい!」
お英は叫び、指を三本、割れ目に突っ込んだ。そして激しく抜き挿しを始める。
「んふぅ……たいちろーの赤ちゃん欲しい……たいちろーの精子、おいらの中にいっぱい出して……!」
お英は目を閉じ、妄想の『太一郎』の顔を思い浮かべる。『太一郎』は、慈しむようにお英の頭を撫でた。
『お英ちゃん、愛しているよ』
「うん、おいらもたいちろーのこと、だいすき! ジェニーも大好きだよ。お雪も大好き。みんな大好き……! だからね……たいちろーの精液、おいらの一番奥に沢山注いでほしいの……!」
お英は、自分で自分の言葉に興奮していた。だが……
(お英、お前は本当に可愛い奴だね。お前が望むのなら、いくらだって種付けしてやるよ。お英、お前はもう
「う……う? お、お雪? あっ! だめ! だめなの!」
いつの間にか、『太一郎』は『お雪』になっていた。全ては少女の妄想だが、それだけにお英は混乱を極めながら、性感の中に墜ちていく。
「ああ! 今たいちろーだったのに! お雪の馬鹿! ああ……! 気持ちいい……♡ たいちろー、お雪、どっち!? ああ、どっちも! どっちも同じくらい好きなの! たいちろーと、お雪と、どっちが好きか分からないのっ!」
お英は、快楽に溺れながら泣き叫ぶ。
「ああ……♡ たいちろー、たいちろー、たいちろー!! あああ……♡ お雪、お雪ぃ!!」
その瞬間、お英の中から現実が消えた。お雪に犯されているという錯覚がお英の中で肥大化し、それは女体を絶頂へと導いた。
お英は絶叫しながら、達した。意識が飛んだ。
「あ…………………………いっ、いっ、いっ、イったっ……イッちゃった……お雪ぃ……たいちろ………………♡」
◆◆◆
朝の光が、診療所の朝顔を照らし出す。診療所に住み始めて少しした頃、お英が蒔いた種が、ようやく赤紫の花を開かせたのだ。
「…………ふあ~あ……」
お英は、ぼんやりとした寝ぼけ眼のまま、朝顔に水をやった。水滴が朝日を反射させて眩しい。お英は目を細めた。昨夜はついつい派手に発散して、疲労困ぱいとなってしまい、泥のように眠ってしまったようだ。おかげで目が覚めるまで時間がかかった。
「うー……冷たいお水、気持ちいい……」
井戸水で顔を洗うと、幾分すっきりした。朝食の準備を始めたお英は、釜から上がる湯気を見ながら、お雪のことを考えていた。
どうしてか、妄想の『お雪』は時々『太一郎』と入れ替わって、お英を好き放題にしてくれる。そのたびにお英は乱れに乱れてしまうのだが、不思議と不快ではなかった。むしろ、お英の身体にとってはご褒美だ。
(でも……時々自分が怖くなる。まさか……そんなはずないじゃないか、って思うけど……)
お英は、ごくりと唾を飲み込んだ。
(おいら、本当は……お雪のことが、好きだったりしないかな……)
腹の虫が鳴った。若く身体を動かすだけに、お英は良く食べる。表を歩いていた納豆売りを目ざとく見つけると、「おじさん、 四本ちょうだい」とお代を渡した。
「毎度あり! エイミーちゃん、今日もきれいな髪をしているねぇ」
「ふふふ……ありがと」
最近はお英も〈ヴィンケルマン先生とこの看護婦エイミー〉と知られるようになって、
受け取った納豆と、具なしの味噌汁、あとは胡瓜の浅漬けが今日の朝食だ。納豆を箸でかき混ぜるうちに、食欲が湧いてくる。醤油をかけ、炊きたての白米に載せて口に運ぶと、ねばついた糸を引く食感と共に甘じょっぱい味が口の中一杯に広がった。
「んん……美味しい」
お英は満足そうに呟くと、また一本、もう一本と豆をご飯と共に掻き込んでいく。
〈あぁっ……! お雪、お豆ちゃん、だめぇっ♡ うんっ♡ すっごく、いいっ♡ お豆ちゃん、クリクリされるの、すごくいいの♡〉
……自分の艶声を思い出して、思わず赤面する。お英は、恥ずかしさに悶えながら、味噌汁をすすった。
(お雪のことは好きだけど……友達で、同じ人を好きになった同士で……それ以上じゃないはず)
お英は自分に言い聞かせる。
自分が太一郎を好きだと、お雪はいつの間にか感づいていた。そして、あの竹を割ったような性格だから、あっけらかんと言ったのだ。
『あたしも太一郎兄貴が好きだったみたいだ。その内、向こうからも好きって言わせるつもり。お前はどうなんだよ? ……あ、やっぱそうなのかい。じゃあさ、二人で協力しようぜ。あたしら皆が、幸せになれるようにさ』
その時のお雪の笑顔が忘れられない。あの美しい形をした目が、まっすぐに自分を見つめていた。
「……お雪ぃ……♡…………はっ!」
慌てて、湯呑を盆に戻す。危うくお茶をこぼしそうになる。危ないところだった。
「………………うう、おいら頭がおかしくなってきてるのかも……」
お英は頭を抱えた。
◆◆◆
涙雨、という言葉がある。
夏の穏やかな雨は、大地や植物に潤いを与えることから喜雨とも言われるが、葬儀に降る雨は悲しく辛いものとしか見えない。
喪服代わりの白い着流し姿で、太一郎はアレイダの葬列を見送った。
「……なんだって、首なんか括っちまったのかね。腹に子ができて、男に捨てられたのかね……」
異人の悲しい境遇は、他人事ではない。太一郎は、その足で
大きな通りだが、人通りはまばらだ。この当時は傘や他の雨具が高価なので、雨ならいっそ出歩かないという庶民が多数派なのである。
傘を差した太一郎は、雨音に紛れる程度の声で歌いながら、物思いに耽る。
♪ 雨が降って 風が吹いて 月が出て 日が出たら まあた出て 空に雲 山に霧 野に獣 馬に牛 みんなそこにはいなくなり
やがて前方に、大川(隅田川)が見えてきた。幅二十間(約37m)ほどの大きな流れで、行き交う船は、雨を弾き飛ばしながら力強く進んでいた。太一郎は橋を渡り、土手の上を歩く。
「あれ、たいちろー?」
「おっと、お英ちゃんか」
もう少しで診療所というところで、太一郎はお英に出くわした。ふわりと微笑みかけられて、太一郎もなんとなく笑みを返す。お英は番傘を差し、町娘風の小袖姿で歩いている。そういった姿でいると、お英は年相応の美しい娘に見えた。
「よう、こんな所で何やってんだ?」
「お使いだよ。これから木挽町の長屋に行って、薬を届けるところ」
「ふーん、あいつは?」
「ジェニーのこと? まだ横浜にいるよ」
太一郎は、なに? と驚いた顔になった。
「横浜で大きな手術が入ってね。それで、しばらくこっちに来れないんだってさ」
太一郎は、あちゃあ、と頭を掻いた。
「そっか……まあ、仕方ねえな」
「うん。……診療所に来る? おいら、お茶くらい出せるよ」
「いや、あいつが来ないなら通いの女中も休みなんだろ。女ひとりの所に上がりこむわけにゃいかねぇや」
太一郎は気を使って断ったのだが、お英は何故かむっとした顔をした。
「ジェニーが一人だったら上がってく癖に……」
「そりゃあ、ジェニファーとお英ちゃんは違うさ」
「同じだと思うけど。じゃあね、たいちろー。せいぜい気をつけて帰ってよ」
そして、お英は
(せいぜいとは、随分きついな。なんか悪いこと言ったかね。 …………!?)
首を傾げて見送る太一郎だったが、すぐに顔色を変えた。お英の大声が聞こえたからだ。太一郎は、無言のまま走り出した。
◆◆◆
「離せ! この野郎!」
「暴れるんじゃねえ!」
お英は、通りで数人の男に両腕を掴まれて、強引にどこかへ引っ張られようとしていた。男たちは、いずれも浪人者だ。通りには少ないとは言え通行人もいたが、みな見てみぬふりをして逃げていく。
全員の腕に「
(あいつら、
ままよ、と太一郎は飛び出した。こうなったら速さが命、得意の
「うぎっ!?」
男は、たまらず手を放して横転する。その隙に、お英はもう一人を振りほどいた。残るは三人。太一郎は低く構えると、一気に踏み込んだ。
「ごふぁ!」
正面の男が、太一郎の左フックを受けて倒れた。左右から二人が刀を抜いて斬りかかってくる。だが、それは計算の内だ。お英が投じた石つぶてが、二人の額に当たった。
「いでぇ!」
「なにしやが……ぎゃうっ!!」
右ストレートが、一人の顎に炸裂した。これで、残り一人。
「畜生、舐めるなよ異人の犬がッ!」
最後の一人が、太一郎の背中に斬りかかった。が、その刃が太一郎に達することはなかった。
「え、あ……? え?」
いつの間にか、太一郎の身体が深く沈み込んでいたのだ。そして、その勢いのまま、強烈なアッパーカットが相手の腹に突き刺さった。
「ごふぅあ!?」
胃液が逆流するような衝撃を受け、相手は悶絶した。太一郎は、お英に向き直って言った。
「おい、逃げるぞ!」
「うん!」
お英の手を引いて、太一郎は駆け出す。
「待て、異人の犬がァ──ッ!!!」
背後から怒声が追いかけてきたが、ふたりは振り向かなかった。
◆◆◆
「なんで斬らなかったの、たいちろー。たいちろーなら、あんな奴ら簡単に倒せたんじゃないの」
お英は、不思議そうに聞いた。追手を撒いた二人は、大川端の診療所にたどり着いたところだった。
「いくら侍でもな、町中で下手に刀を抜いたらお咎めがあるんだよ。そうなったらお役目に差し支える」
太一郎は、苦笑しながら答えた。お英が出してくれた手ぬぐいで濡れた髪を拭く。
「お英ちゃんだって、逃げりゃ良かっただろうに」
「この格好で屋根に跳んだりしたら目立つもん」
「まあな……」
ジェニファーの伝手で許可を取ったとは言え、お英の髪色は人目を惹きすぎる。目立ちたくないのは当然だろう。
「それに、たいちろーが助けてくれると思ってたし」
「…………」
「たいちろーも照れることあるんだね。おいら初めて見た」
「うるせえやい」
太一郎は、頭を掻いてそっぽを向いた。
「でも、あいつら何者なの? なんか全員変な入れ墨してたけど」
「ああ……あいつらは〈黒卍党〉って言ってな。過激な攘夷思想を掲げてる連中だ」
「じょうい?」
「外つ国は敵だから、異人を追い出すべきだっていう考えだよ」
「………………異人を追い出す」
お英は、そっと自分の髪に触れた。
「つまり、おいらみたいなののことか」
「……そんなに気にするな。お江戸じゃ、あいつらは鼻つまみ者だ。まともな人は誰も真に受けたりはしねえさ」
太一郎はお英が傷ついているかと思い、慰めるように言った。しかし、お英は首を振って言った。
「おいら、気にしてないよ」
「……本当か?」
「お父ちゃんは、こんな髪のおいらを助けて娘にしてくれた。お雪みたいな友達もいる。今はそれだけで十分だよ」
「……」
「そんなに心配しないでいいよ、たいちろー。おいら、黒卍党なんか怖くない。だって、たいちろーが守ってくれるもん。ジェニーもきっとそう言うよ」
お英は、緑の目で太一郎をまっすぐに見つめながら、力強く断言した。その言葉に嘘はないと、太一郎にはわかった。
◆◆◆
「おい姉さん、さっきここで殴り合いの喧嘩が有ったらしいじゃねえか、何か知らないかい?」
「おや太助さん。ああ、お侍様が異人の娘さんを助けてたねえ。すごい騒ぎだったよ」
「へえ! 異人の娘さんとは驚きだ。もしかして黒卍党の奴らに絡まれていたのかね」
「そうそう、そうなんだよ。ここだけの話なんだけどさあ、黒卍の奴ら、最近妙に気合入ってるみたいでね」
「ほう、そりゃどういうこったい」
「異人を目の敵にしているには変わりないれど、そうだねえ……羽振りが良くなったというか、〈黒卍の考えをみんなに教えてやろう〉みたいな? そういう感じ」
「ふむ」
「自分らで瓦版を刷ってばら撒いてるんだよ。『来たれ攘夷志士』とか、『異人は悪しき賊である』、『天誅を加えるべし』なんてことをね。あたしゃ嫌なものを見ちまったと思ったけど、あれじゃあねえ……」
「ほおう。他にはどんなことが書いてあるんだい?」
「まあ色々だけど……中でもひどいのはアレだねえ。異人を断種しようっての」
「だんしゅ?」
「子供が生めないようにするのさ。腹ン中に薬を入れて、無理やり産めなくしちゃうの」
「…………そうかい。薬で産めなくするのかい」
「やだよ太助さん、怖い顔しないでおくれよ」
「ああ、すまねえ」
「異人と交わっちゃいけないって言うならまだ分かるけど、そうじゃないんだよ。最近はお江戸にも異人さんが増えてきたのに、なんてこと考えるのかしら。ほんと、信じらんない!」
「なるほど。ありがとよ、おかみさん」
「どういたしまして」
◆◆◆
横浜に、「クスノキ御殿」と呼ばれる洋館がある。この屋敷の主は、名をジェニファー・ヴィンケルマン。ゲルマンの血を持つ女性医学者だ。
「お願いよ、忠介さん。この手紙、なんとしてもタイチロウに届けて欲しいの」
「承知しました。必ずや届けます」
ジェニファーは、窓から庭のクスノキを眺めつつ、悲しげに呟いた。忠助と呼ばれたのは、浅黒い肌の、見上げるような大男であった。ジェニファーの横顔を、忠介はじっと見守る。
「私は、黒卍党が恐ろしい。あの人たちの狂気が、とても恐ろしく思えるの。私がそれに手を貸してしまったかと思うと、いても立ってもいられないのよ」
庭のクスノキは、彼女が初めて男を知った五年前、想いの証として植えたものだった。以来、毎年小さな花を咲かせ、実をつけ、葉を落とし、また春になると花をつける。
”クス”には、楠という漢字を当てるのが一般的である。
その「クスノキ御殿」は、いま、黒卍党によって占拠されていた。
(続く)