お英と忠介を乗せた五大力船は、波を蹴立てて進む。波が、朝の光を照り返している。江戸はあっという間に遠ざかり小さくなっていった。
「旦那様……どうか、お早く」
忠介は、江戸が見えなくなっても、しばらく未練がましく振り返っていた。
「大丈夫だよ、忠介さん。一度風に乗ったら、追いつかれることはないと思う」
忠介は首を振った。
「いえ……私の心配をしているのではありません。奥様がご無事かどうか、気がかりで……」
「ああ、うん……忠介さんは忠義者だね」
お英は、忠介の浅黒い肌を盗み見た。日焼けとは思えないほど、忠介の黒さはムラがない。
「ん? ……ああ、気になりますか、エイミーさん」
「ごめんなさい。ジロジロ見ちゃって……」
「いいんですよ。生まれつきですから」
「……」
お英は、自分の白い手足を見下ろして黙ってしまった。
「忠介さんは、その……」
「そう言えば、話したことはありませんでしたね。私も異人です。エイミーさんと違って、黒んぼとの合いの子ですが。父は、
忠介は風に目を細め、少し寂しそうに笑った。
「母は私を産んで亡くなり、父もベンジャミン・パナイスというエゲレス人の奴隷として、命を削りながら私を育ててくれました。その後のことは、エイミーさんが奥様から聞いての通りです」
「……アヘン漬けにされて、拳銃でジェニーを脅して……たいちろーに手を切り落とされたんだよね」
忠介は右手を掲げた。よく見れば、手首の辺りに縫合痕がある。
「そうです。まあ、旦那様の目つきの恐ろしいことと言ったら……奥様がいなければ死んでいましたよ」
「そんなに?」
「はい。それはもう、鬼のような目で、私を殺そうかどうしようかと迷っていらっしゃるようでした。あんなに恐ろしい目は、生まれて初めて見ましたよ」
「……まあ、うん。あの人は人殺しの専門家だから」
もっと言うと、忠介を殺したくて
「ははは……どちらにせよ、奥様が治療してくださらなければ血を失って死んでいたでしょう。本当に、私は運が良かった」
「それと、その大きな体もね。あなたのお父ちゃんとお母ちゃんが助けてくれたんだよ」
「……そうですね。この体は、両親からの贈り物なのでしょう。エイミーさんのご両親は、どんな方で? やはり、亜米利加の方ですか」
「さあ、
忠介は、そうですか、と目を伏せた。
船は沖に出て、根岸湾へと向かっていた。お英は甲板から陸地の方を眺めた。
(ジェニーは今頃どうしてるかな……。黒卍党の奴らに酷いことされていないといいけど……)
◆◆◆
かつての横浜は、藩領、天領、旗本領、寺社領など支配が入り組んだ土地柄だった。それが時の老中・稲葉越前守によって支配の統一が進められ、港湾都市としての道を歩み始めた。
「クスノキ御殿」は、そんな横浜の発展を象徴するかのような、西洋風の豪華な屋敷が立ち並ぶ一角にあった。
お英と忠介は「クスノキ御殿」を遠眼鏡で観察していた。
「……異人だらけの所に入り込めるんだから、黒卍党が人気あるっていうのも嘘じゃないらしいね」
「この横浜にも、食い詰めた異人の集落はいくつかあります。黒卍党はそうした連中から富裕層の異人を守っているようですね」
「金をもらって? 神奈川奉行所は?」
「異人同士の争いには及び腰です。異国船の来航が増えてきたことで、港の整備や警備が最優先事項になっていますから」
お英は腕を組んだ。
「下手に黒卍党と事を構えたら、逃げ場を失くすかもしれないね。宿に入って
「そうかもしれません。しかし、このまま放っておいても、奥様に危害が及ぶ恐れが……」
「そうだよね……ジェニーが危ない。忠介さん、船の準備をお願い。一旦海に出て、たいちろー達の助けを待った方がいいかも」
「それは構いませんが……お英さん一人で大丈夫なのですか。私も行ったほうが……」
お英は笑って、盗みの装備を取り出した。
「忠介さんの背丈じゃあ、忍び込むなんて事にならないでしょ。鼠小僧次郎吉、直伝の技が火を噴くぜ……なんちゃって」
◆◆◆
(……あの楠の木は、たいちろーへの恋文代わりかな。ジェニーも夢見る乙女みたいな頃があったんだね)
クスノキ御殿を囲う塀は、お英の背丈よりも高かった。広すぎて気配を探りきれないが、黒卍の数は二十を下らないようだった。お英はしばらく、クスノキ御殿の周囲をぐるりと回った。
(あれがジェニーの部屋か……)
周辺とは道路で隔てられていて、屋根伝いに忍び込むわけにはいかない。お英は近くの建物に飛び移ると、屋根の上に登ってみた。
そこからなら、遠眼鏡で部屋の様子がよく見える。 お英は、ジェニファーが監禁されているという部屋の窓を見た。カーテンが閉まっている。
(たぶん、まだ寝てるんだろうな……でも、見張りがいるはず……なら、窓だ)
お英は助走をつけると、屋根から全力で跳躍した。
「────────────だアッ!」
その体は、五間、十間、さらに二十間(約36メートル)と落下せずに空中を前進していく。北町の同心を毎度悩ませる、鼠小僧の
お英は、クスノキ御殿の屋根に着地すると、音もなく走り出し、屋根から壁へ、窓から室内へと忍びこんだ。
「ジェニー、起きて……!」
お英は、ジェニファーの肩を揺すった。
「ん……んん……」
ジェニファーは眠たげな声を出しながら寝返りを打った。小山のような二つの乳房がむにゅっと形を変える。
「……お英ちゃん? ……ああ、おはよう。…………え……!?」
ジェニファーは飛び起きた。
「ど、どうしてここに……!」
「しーっ……」
お英は、唇の前に指を立てた。扉の外から声が聞こえる。黒卍党の見張りだろう。
「ヴィンケルマン先生、起きられたのですか。ご朝食を用意致しますので、少々お待ちください」
ジェニファーは慌てて返事をした。
「……あら、お世話様ね。そのまま出ていってくれれば嬉しいんだけど」
「そうは参りません。先生の薬は大切な資金源ですから」
「私を金蔓にする気満々じゃない」
「はい。ですので、うまい朝飯を腹一杯食わせて差し上げますよ」
「はあ……まあいいわ。着替えますから、しばらく戸を開けないでちょうだい」
「はい」
ジェニファーはお英を振り返った。
「お英ちゃん、どうして来たの! 忠介さんに持たせた手紙には、タイチロウに江戸での実験を止めてと書いたはずよ。あなたが横浜まで来るなんて!」
「ジェニーさあ……江戸がどうの、異人がこうのなんて、たいちろーの殿様が考えることだよ。おいらはジェニーを助けたいだけ」
「私なんか……黒卍党は、あの薬で異人の娘を玩具に作り変えて、売り捌こうとしているのよ。私の薬で……私は、あの人に幸せになって欲しいだけなのに……!」
ジェニファーは顔を覆った。
「ジェニー……もう少し、たいちろーの気持ちを考えてあげてよ。あの人、薬の事を知って、見たこともないくらい落ち込んでたんだよ」
「
お英はちょっと目をそらした。
「まあ、それはいいから。それより、早く逃げよう。見張りが戻ってくる前にさ」
「……後で詳しく聞かせてもらうわ。逃げると言ったって、私はあなたみたいに走れないわよ。どうやって逃げるつもり?」
「それはね……」
お英はジェニファーをひょいと背負い、縄でしっかりと固定した。
「ジェニー、重いね……背はそんなじゃないのに。おっぱいのせいかな」
「あら、羨ましい? タイチロウも大好きなのよ、私の胸」
「うん、知ってる。でも、ジェニーほど大きいと大変だよね」
「そうね……重くて困ることはあるけど、それでもやっぱり、自分の体が嫌いだと思ったことはないわ」
「おいらも好きだよ。この手とか足とか、髪も目も、体全部。お父ちゃんが育ててくれたものだから」
「……そう。私は親がいないから、羨ましいわ」
お英は、ジェニファーを背負って、窓から飛び出した。屋根から屋根へと跳び移りながら進み、懐から爆竹を取り出して、屋敷の庭に投げ込んでいく。次々と破裂音が響き渡った。黒卍党の面々が、何事かと集まってくる。
「囮? ずいぶん派手にやるのねえ」
「思い切りが大切だよ、こういう時は。ほら、跳ぶよ。舌を噛まないで!」
跳躍。
「え、ちょっ……ふぎゃッ!」
着地の衝撃がジェニファーの大きな尻に伝わり、変な悲鳴を上げさせた。
ジェニファーが文句を言い出さないうちに、お英は次の跳躍に入っていた。
「もう、お英ちゃん、もっと優しくして頂戴!」
「だって、急いでるんだもん」
お英はまた跳躍した。
「だからって、これはあんまりよ!」
「うーん、ごめんね。ほら、これが最後!」
「きゃんっ!」
二人は見事、塀の外に着地を決めた。
「お尻が割れるかと思った……」
「大丈夫、ジェニーのお尻は最初から二つに割れてるよ」
「そういう意味じゃないんだけど」
「おっと、急がなくちゃ」
お英は人気のない道を選び、ジェニファーを背負い直して駆け出した。
「お英ちゃん、どこに行くの」
「とりあえず、海に出る」
「でも、それじゃあ……」
「大丈夫。たいちろーが助けに来てくれるから」
「タイチロウが……そう」
ジェニファーの声に喜びの色が混じった。
「助けて欲しかったなら、なんでそう書かなかったの」
「男と女には、色々あるの。お英ちゃんにはまだ分からないでしょうけど」
お英は頬を膨らませた。
「これから、わかるよ。おいら、お侍の女房になるんだから」
「そうなの? それは素敵ね。……ごめんなさい、今なんて?」
その時、建物の影から黒卍党の一人が姿を現した。
「ヴィンケルマン!? おい、ヴィンケルマンが逃げたぞ!」
「ちっ。ジェニー、急ぐよ!」
お英は舌打ちをして、走る速度を上げた。
「は、はや……!」
ひと一人背負っているのに、お英の速度は並の人間を遥かに上回っていた。黒卍党達を引き離すと、港に向かって疾走する。
「お英ちゃん、そっちは逆!」
「早く言ってよ!」
だが、不案内な土地だ。徐々に黒卍党が迫って来る。
やっ、と突き出された槍をかわして、お英は路地に飛び込んだ。
背後で、先ほどの男が叫んだ。
「いたぞ! こっちだ!」
その声に反応するように、さらに二人の追手が姿を見せる。
お英は、その二人に目もくれず、ただひたすらに走った。
(くそ……このままだと追いつかれる……)
前方から、別の黒卍党の集団が近づいてくるのが見える。挟み撃ちにされる恐れがあった。
(仕方ない……)
お英は覚悟を決めると、進路を右に変えた。その先には、細い裏道が続いている。
背中のジェニファーに負担がかかるのを承知で、狭い道をジグザグに走り抜けていく。
「うう……!」
ジェニファーのうめき声が聞こえた。
「ジェニー、大丈夫!?」
「平気……! でも、ちょっと休ませてくれない!? 無理!?」
「無理! ごめん、あと少しだから、我慢して!」
「うぅ~……」
お英は、ジェニファーを背負ったまま、暗い裏道を走り続けた。
前方に明かりが見えてくる。港の船着き場で、忠介が提灯を掲げていた。
「奥様! ご無事で!」
「忠介さん……」
お英は船に飛び込むと、ジェニファーを降ろして自分も乗り込んだ。
「奥様、よくぞご無事で……お英さん、ありがとうございます」
「いいんだよ。ジェニーはおいらの家族みたいなもんだから」
「お英ちゃんたら、本当に優しい子ね」
ジェニファーは、汗まみれの顔で微笑んで見せた。その笑顔が、なぜかとても悲しいものに見えた。
「忠介さん、急ぎましょう。沖へ」
忠介はうなずくと、船の櫓を握った。
「奥様、申し訳ありませんが、もう少しだけ辛抱を」
「ええ、分かっています」
お英は、岸壁を見た。横浜の黒卍党には漁師崩れも混じっているようで、追撃のために船を出そうとしているところだった。
「あいつら、すぐに追いかけてきそうだよ」
「はい。では……」
忠介が櫓を漕ぐと、船はゆっくりと動き出し、桟橋を離れていく。
ここからは、持久戦だ。いつ来るかも分からない太一郎たちの船を、追手を躱しながら待たなくてはならない。
「たいちろー、早く来て……ジェニーを助けてあげて……」
呟くお英の横顔を、ジェニファーがじっと見つめていた。
◆◆◆
深川奉行所の水門が、ギイイィィ……と音を立てて開く。
「深川奉行様、面白い人だったねえ。〈ならぬならぬ! 黒卍党と事を構えるなどならぬ! まして当奉行所の鯨舟を使い、黒卍党と裏で繋がって異人を売り捌こうとする神奈川奉行所筆頭与力、藤尾七蔵を成敗しようなど以ての外である!〉 ときたもんだ」
「ああ……」
「あれ、御老中の稲葉越前守様の物真似らしいよ。似てるのかな?」
「ああ……」
「太一郎兄貴、聞いてる? さっきから生返事ばっかりだけど」
「ああ……」
(アレイダも、犠牲者だった……ジェニファーやお英ちゃんを、あんな目には合わせられねえ。あんな、一人ぼっちの惨い死に方は……)
「もう……ほら、やるよ。隠密同心、心得之条!」
「……我が命、我が物と思わず」
「武門之儀、飽くまで陰にて?」
「己の器量を伏し、御下命、如何にても果す可し……」
「尚、死して屍拾う者無し。ほら、兄貴も」
「……死して屍拾う者無し」
「心得之条、終わり! さあ、悪党どもをぶっ殺して、ジェニファー先生を取り返すよ!」
「ジェニファー……お前は、俺が絶対に守るからな……!」
(続く)