翌朝、起き出した太一郎は、身支度を整えて庭へ出た。
朝飯前に鍛錬だけは欠かすことができない。上半身裸になり、剣術の型を一通りこなしてから、さらに武術の鍛錬を行う。
「シッ……シッ……」
頭に浮かべた的を拳で繰り返し打ち抜きながら、汗を流す。
右拳を素早く突き出す。左拳も鋭く突き出す。踏み込み、左を打ち込む。
この鍛錬は、シャドーと言う。
太一郎の肉体は、武芸者として見れば細い方だ。これは剣術と別にエゲレス武術(ボクシング)を学んだからである。
エゲレス武術では拳による打撃を主とするが、拳を活かすために重要なのが下半身であり、徹底して足腰の強さを鍛える必要があった。
その結果として太一郎の上半身は細く締まり、無駄なものが一切ついていない。
不要な威圧感のない、隠密向きの肉体でもある。
朝の鍛錬を終えれば井戸水を浴び、朝食をとる。
「おはようございます、太一郎様」
「うむ」
母屋では美樹が支度を整えて待っていた。昨夜の疲労を毛ほども感じさせない涼しい顔で微笑んでいる。
だが快感の余韻が残っているのか、組み合わされた指先には微かに震えがあった。
そんな時でも、決して笑顔を絶やさぬところがいじらしい。
二人で膳を挟んで向かい合い、箸を取る。
朝餉は毎日変わらぬ豆腐の味噌汁に、香の物、納豆。それと白米である。質素ではあるが、血と肉を作るには十分なものだ。
昆布を使わない鰹だけの江戸前出汁は濃い味わいながらも後味はさっぱりとしてい、美樹が塩を多めに仕込んだ味噌の風味と相まって飯がすすむ。
「頼む」
「はい」
言葉少なに四杯目を要求すれば、すぐに山盛りで返ってくる。
食事中はお互いに無言であるが、気まずさはない。三年過ぎた夫婦の自然体というものだ。
食べ終わる頃を見計らって、美樹は茶を出してくれた。
「どうぞ」
「ああ」
湯呑みを手にすると、じんわりと温かさが伝わってくる。
ふと、美樹が物憂げな顔になった。
「実家の父が、近頃、風邪を引きましたとか」
美樹の父親は、太一郎が仕える主の側近である。太一郎は、かすかに顔をしかめた。
「義父上はお悪いのか? 風邪をこじらせたとか」
「いえ、女中があまりよろしくないと知らせてくれましたの。それが心配で」
「心配はいらんさ。大方、あのやかましい女中だろう。少し割り引いて考えろ」
「はい……」
美樹は素直にうなずいたが、まだ少し心配そうである。
太一郎はちょっと考えて、こう言った。
「ちょうど今日は、横浜に住んでいる異人の医者と
◆◆◆
太一郎の主である本多
屋敷へ入ると、太一郎はすぐに奥書院にいる主の前に呼ばれた。
「
「おお、太一郎か」
と、主は気軽に太一郎の名を呼んだ。
名を
これは米を練り上げた生地で黒砂糖の
「お前も一つ食うか?」
「はい、いただきましょう」
と、太一郎も遠慮がない。
「結構なお味でございますな」
「そうだろう、そうだろう。もち米の食感が口の中を騒がせてくれる」
満足そうに笑い、忠興はもう一つ餅を口に運んだ。
五千石取りの大身旗本、下々から「お殿様」と呼ばれる身分である。それにしては気取りのない仕草に、質素な身なり。それは、本人の性格によるところが大きい。
「太一郎、美樹殿は息災か? あやつが風邪を引いてしまったので、心配しておらぬかとな」
「はい、美樹はお
「なに、大したことはない。季節の変わり目ゆえ、少々疲れが出ただけであろうよ」
「それはそれは」
「あやつのことでもお主のことでも、美樹殿には心配を掛ける。あやつも年を取った。あと十年ほどは頑張ってもらいたいが……」
忠興は、ふっと表情をあらためると本題を切り出した。先ほどまでの笑顔とは打って変わった顔つきだった。
「それでな、太一郎。また一人斬ってもらいたい者がいる」
太一郎は、ちらと文机を見た。そこには、例のごとく血判状が広げてあった。
内容は標的の名前と、そして報酬の額、決して他言せぬことなどが書かれているはずだ。
つまり、これから太一郎が忠興の命で、その標的を斬るということだ。
忠興は無役の旗本であるが、戦国より続く本多家の当主として、徳川家のために陰の仕事を請け負っている。
大名たちの間で起こる様々な問題を処理したり、あるいは、奉行所では手に負えぬ政治がらみの事件を解決する。
時によっては、政敵となる者の抹殺を行うこともある。
太一郎の主は、まだ三十代になったばかりだ。若いだけに、こうした陰の仕事に心を悩ますことが多いようだ。
忠興はいつも考えているらしい。後ろ暗い仕事は 〈何のためにあるのか〉と。質素な生活をしているのも暗殺で身を肥やしたくないからではないか。
しかし、決して愚痴をこぼすようなことはしない。血判状を見つめる顔から、その心情が読み取れそうな気がした。
それだから太一郎は、平伏して静かに言った。
「お任せください。どちら様でも、この出楠太一郎が三途の川にお送りいたします」
◆◆◆
その御役目は思いの外早く片付いた。標的は東本願寺の坊主で、商人と結託してご禁制の品を密輸し、私腹を肥やしていた。
あちこちに賄賂を欠かさぬ男で手が出せぬと言うので、幕閣のある要人より忠興に持ち込まれたものだ。
今頃は、物言わぬ骸となって
「ふーっ……♥」
湯屋に立ち寄って身を清めた太一郎は、
異人と言っても、清国(中国)の人間ではない。
この当時、異人とはオランダ人やポルトガル人、エゲレス人といった西洋人を指す。
原則、異人たちは幕府の許可なくして江戸へは入れないことになっている。従って、異人たちの住む場所は、ほとんどが長崎、大坂そして横浜であったが、江戸の町にも許可を得た異人たちはいる。
その医師も江戸で開業する許可を貰って滞在しており、横浜に居を構えながら月に数度は江戸にやって来て診療を行っている。
女だ。名を、ジェニファー・ヴィンケルマンといった。
診療所は廃寺を改装したもので、中々に広い。女中に取り次ぎを頼んだところ、白衣を着たジェニファーが慌ただしい様子で現れた。
「タイチロウ! 呼び出してごめんなさい。急の患者があって、まだ診察が終わっていないの。待っていてくれる?」
「ああ、構わないよ。ここの茶は旨いしな」
「ありがとう。助かるわ」
ジェニファーは、茶菓子を出すよう異国
女中の
茶菓子は
ジェニファーの母国で、冬によく作られるものだという。
素朴な香りだが、一口
〈これは旨いな〉と思いつつ、太一郎は紅茶を傾けた。
茶代だと言って女中に少しばかり金を握らせ、太一郎は最近のジェニファーの様子を訊いた。
どうにも様子がおかしいというのだ。
ここ最近、ジェニファーは妙に浮き足立っていることが多いらしい。
いつもなら、どんなに忙しくとも客と世間話をするような余裕を持つ彼女が、それすら怠ってひたすら仕事をしているのだという。
しばらくして、ジェニファーがやって来た。
茶を一息に
はだけた胸元からは、豊かな谷間が覗いている。
「ふーっ……ごめんねタイチロウ。お待たせしちゃったわ。今日もいいキモノね」
太一郎が着ているのは、上等の絹地を使った着物で、袖口には金糸の刺繍が入っている。
「ああ、これか。「洒落者の出楠太一郎」なら、これくらいの小道具はな」
そう言って太一郎は、羽織っていた小紋を脱いで畳む。
そして、懐から手拭いを取り出し、着物に付いた砂埃を払っていく。
その間にも、ジェニファーは太一郎を舐めるように見つめていた。
「タイチロウの肌、焼けているのに綺麗よね……触ってもいいかしら?」
太一郎が返事をする間もなく、ジェニファーの手が伸びてきて、彼の頬に触れた。
細く長い指が首筋まで這う。
(こいつはいつ見ても凄まじいな)
ジェニファーというのは、一言で言えば派手な女だ。
黒髪黒目であるのは、江戸で開業を許されているのと無関係ではあるまいが、異国の血を引く彼女は、日本女性とは異なる美しさを持っている。
釣り鐘のように豊満な乳房、艶めかしい尻、肉感的な太腿。
白磁のような白い柔肌の上には、彫刻像の如く整った容貌が乗っている。
医者として昼も夜もなく働くからか、髪は長めの
鼻は高く唇も薄く、まるで作り物めいていて現実味がない。
西洋人形のような美しさなのに、どこか淫靡さを感じる。
黒く輝く瞳は吸い込まれそうなほど深い闇をたたえており、熱を帯びた視線を太一郎に注いでいた。
「タイチロウ、あなた、また痩せたんじゃない? ちゃんとお腹いっぱい食べてる?」
「あぁ、食ってるよ」
「嘘つき」
ジェニファーは、太一郎の顎を撫でながら
太一郎は、元服前に横浜でエゲレス人から武術を学んだことがあった。
生傷だらけの太一郎に、その当時見習いだったジェニファーが手当てをしたのがきっかけで、二人は親しくなったのである。
以来五年間、ジェニファーが江戸を訪れる度、太一郎が世話を焼くような関係が続いている。
「痩せてるかどうか、私が診てあげようか……」
指先が着物に入り込みそうになったところで、太一郎は咳払いをして彼女の手を払った。
「ジェニファー、そろそろ本題に入ろうぜ。おれを呼び出した用件は何なんだ」
「あら、そうね。ごめんなさい、徹夜明けでムラムラしてたの」
ジェニファーは、悪びれた様子もなく答えた。
「タイチロウ、ちょっと私では解決できない問題が起きていて……あなたを呼んだのも、それを相談したかったからなの」
「そうか。何でも言ってみてくれ、おれとお前の仲だ」
「ありがとう。実は、最近奇妙な患者が来るようになったの。一日に何人も……。しかも、症状はみんな同じ。アヘン中毒なの」
「アヘン……?」
太一郎は、興味深そうな表情を浮かべる。
「アヘンと言えば、医者が麻酔に使うものだと聞いたが。危険な薬なのか」
「中毒というのは、使い方の問題よ。アヘンも適量を守って使えばとても良い効果があるわ。痛み止めや精神安定剤にはうってつけだし、眠らせるのにも使えるわ」
ジェニファーは、煙管を取り出して火をつけた。
深く吸い込んで、吐きだす。紫煙が揺れる。
「ただ、依存性があるのも事実よ。医者の処方なしに手を出したら最後、寝ても覚めてもアヘンのことばかり考えて、止められなくなる。眠れなくなり、食べられなくなり、やせ細って死ぬまでね」
「……恐ろしい話だが、なるほど。中毒者を増やしたい連中が、市中に流出させているというわけか」
太一郎は、合点がいった様子で言う。
「しかし、何の意味がある? アヘンは大坂で作っていると聞くが、とてつもなく高価だとも聞いている。いくら中毒者を増やしたところで、売るものが無ければ意味が無いだろう」
ジェニファーが、壁に貼られた地図を指差す。
「そこが重要な点なの。アヘンの生産量自体はそれほど多くない。でも、海の向こうには、もっと安価で大量に作れる国がいくつかあるわ。特に、
「……つまり、異人との共謀か。確かに奉行所より、おれの出番だ。すぐに御前に報告しよう」
「待って、タイチロウ」
立ち上がる太一郎を、ジェニファーが呼び止めた。
「これ、お殿様に差し上げて」
◆◆◆
「それで、〈かすていら〉を土産にか」
忠興は、カステラを口に運びながら言った。
ジェニファーも如才が無くなった、と思いつつ、太一郎もカステラを頬張る。
「はい。お口に合いますでしょうか」
「ん、悪くないぞ。何しろ久方ぶりだからな」
忠興は甘党で、やれ浅草の菓子屋がどうの、やれ大坂のきんつばがどうのと、手当り次第買い集めていた。
「それで、その女医者、大川端に診療所があると言ったか」
「はい。船着き場から近い場所でございます」
太一郎の言葉を聞いて、忠興は眉根を寄せた。
そして、カステラの最後のひとくちを飲み込むと、ため息をつく。
「異人絡みなら、町方には手に負えまい。太一郎、かなり骨を折ってもらうことになろう。すまぬが、頼んだぞ」
「はっ、お任せください」
忠興は、満足げに微笑むと、手を叩いて小姓に地図を出させた。
「大川端の船着き場で診る患者と言えば、どのような者が多い?」
「そうですな……」
太一郎は、しばらく考え込んだ後に、言葉を選びながら答えていく。
「まず、船乗りや荷揚げ人足。次に、旅芸人。それから、遊女……でしょうか」
「ふむ……? となれば、売り買いは岡場所を介してのことか」
岡場所とは、幕府公認の遊廓である吉原に対して、それ以外の、非公認の私娼屋が集まった遊郭街のことである。
「はい。それに、あの辺りの人足が遊ぶとなれば、まず深川でしょう。異人に渡りをつけられる
忠興は少し思案すると、口を開いた。
「よし、太一郎。お雪を使って、その大店の主人を調べ上げろ」
「……お雪でございますか」
「うむ。なんじゃ、不服か」
太一郎は、我知らず眉間にしわを寄せる。
「アレはお前を兄と慕っておるではないか。お前も妹のように可愛がってきたであろう」
「はい、それは……いえ、御前のお指図通りに致します」
「ならば、よい。この〈かすていら〉も持っていって、うまい具合に伝えてやってくれ」
忠興は再び笑みを浮かべると、手ずから茶を注ぎ始めた。
◆◆◆
忠興の前を辞した太一郎は、その足で日本橋にある蕎麦屋「竹むら」へと向かった。
暖簾の下からは白い煙が立ち上り、店内には蕎麦を求めてきた客の喧騒が広がっている。
女中に心付けを渡して、太一郎は二階に上がった。
狭い部屋だが、ここは太一郎の拠点の一つであった。
窓の外には、江戸の町並みが見える。
遠くに見える山々には残雪が残っているが、その山々にもすぐ春が訪れるだろう。
太一郎は、腰の刀を外すと、壁に立てかけた。
座り込んで煙草に火を点けると、間もなく熱い蕎麦が二つ運ばれてきた。
「太一郎の兄貴、
「ああ、ありがたい」
この娘、名をお雪という。
まだ十四歳であるが、整った顔立ちの美しい少女であった。
さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。
「悪いな、忙しい時分なのに」
「客もはけてきたから良いんだよ」
カラカラと笑うお雪。
特に魅力的なのは目で、一流の木彫り職人が丹精込めて彫り上げたような美しい形である。
きりっとした眉の下で
しばらく、二人は蕎麦をすするのに専念していた。
ここの南蛮そばは、いつもうまかった。
葱の香ばしさを出すのに胡麻の油が使われていて、それがいい風味になっているのだ。
肌寒い日の一杯には、もってこいだった。
蕎麦を食べ終えると、お雪がお茶を持ってきてくれた。
太一郎も、忠興から預かった〈かすていら〉を懐紙で包んで差し出す。
「これは?」
「南蛮菓子の〈かすていら〉だそうだ」
「へぇ……南蛮のお菓子かい」
包みを開くと、南蛮菓子特有の甘い香りが広がる。
「あっ、こいつぁうめえや! こんな上等なもん食ったのは初めてだよ!」
お雪は、目を丸くして驚いた。
「異人さんたちも、たまには粋なことをするじゃないか」
「まあ、異人が作っているわけじゃないがな」
太一郎は、湯飲みを手に取ると、ふぅと息を吹きかけて冷ましながら、お雪に目線をやる。
この娘は表向き蕎麦屋の看板娘として働いているが、その実、忠興の隠密であった。
太一郎と組んで三年以上になるが、天与の才と言うのか、一度も仕事を仕損じたことはない。
最も、最近は難しい年頃になったせいか、太一郎は〈どうも、扱いにくい〉と感じることが多い。
「兄貴、あたしの顔に何か付いてるのかい」
「ああ、目が二つに鼻が一つ」
「そりゃあ、ついてるよ」と、お雪が笑う。
「それで、何の話だい? 本多の殿様の使いで来たんだろ?」
「ああ、そうだ。実はな……」
異人がアヘンを売りさばいているという太一郎の話を聞いて、お雪は怒り心頭に発した。
「冗談じゃねえや! 異人のクスリなんぞのために、なんだってあたしらのお江戸が汚されなきゃならねぇんだ!」
太一郎はお雪を宥めながら、〈これだから隠密に向いてねえんだ〉と嘆息していた。
隠密とは、幕府の役儀を遂行するために影となり、密かに動く存在。
ゆえに、隠密には情に流されてはならないという
お雪は腕こそ立つが、過酷な法に泣く弱者や、極悪非道の犯罪を前にすると、〈見過ごせねえ、勘弁ならねえ〉と飛び込んでしまう
そういうところも、忠興に気に入られている一因ではあるが……。
その悪癖は成長と共に段々顕著になってきて、太一郎は〈お雪の美点がお雪を殺す〉のではないかと、内心気が気ではなかった。
「いいかい、お雪ちゃん。お前は確かに強えし頼りになるけどな、隠密ってのは、常に冷静でなきゃあいけねぇんだよ」
「わかってるよ!」
太一郎が諭すと、お雪は頬を膨らませた。
眉間にシワを寄せて不機嫌そうな表情を浮かべるので、可愛い顔が台無しである。
「……兄貴はどう思ってるの。何も知らねえ人たちがクスリで壊されて、腹は立たねぇのかい。悪党どもをぶっ殺してやりたくねぇのかい」
「あのなあ、お雪ちゃん」
太一郎は、快楽殺人鬼である。
堂々と殺していい悪党どもがわんさと現れて、内心は喜びに打ち震えていた。
しかし、それとこれとは別の話だ。
「殺したいから殺すんじゃあ、ただの獣だろうが。おれたちは御役目で悪党を殺すんだ。それを弁えられねえってんなら、お雪ちゃんでも容赦はしないぜ」
太一郎の言葉を受けて、お雪は目に涙をためて唇を噛んだ。
「……ごめんよ、兄貴。ついカッとなっただけなんだ」
「分かればいいさ」
太一郎は満足げにうなずいた。
「それでよし。終わったら鰻飯でも食いに行くか」
「やった!」
途端に笑顔になってはしゃぐお雪を見て、太一郎は苦笑した。
お雪は、太一郎にとって妹のような存在である。
この娘が自分のような外道にならぬよう、しっかり教育しなければならない。
鰻くらいは安いものだ。
「異人と繋がりのありそうな大店は、片手で数えられるくらいだ。お雪ちゃんの変装術で潜り込めれば、なんとかなると思うが……」
「任せておきなって。兄貴は安心して待っててくれ」
お雪は胸を張った。
隠密として動く時、お雪は変装する。
普段の彼女の姿とは似ても似つかない姿になるのだが、それは例えば、遊女のような妖艶な美女だったり、武家の娘のような凛々しい少女の姿であったり、あるいは、若い女中のような素朴な娘であったりした。
時によっては、男装もこなす。
今回は、商家の若奥様といった風情の女性に化けることにしたようだ。
太一郎は、お雪の姿を眺めて感嘆の声を上げた。
「大した美人さんだ。こいつぁ、惚れちまいそうだぜ。お雪ちゃんの素顔を見たって、誰も気づけやすまい」
「そ、そうかい?」
お雪は照れ臭そうに頭を掻くと、言葉まで若奥様らしくなった。
「コホン……あら、ありがとうございます。あなた様好みの、上玉の女だと自負しておりますわ」
「こいつは驚いたな。お雪ちゃんも役者だねえ」
太一郎が重ねて褒めてやると、お雪は悪戯っぽく微笑んだ。
「ふっふーん。まあねえ」
◆◆◆
後をお雪に任せ、太一郎は一人、ジェニファーの診療所に足を運んだ。
途中、ジェニファーの好物である
診療所に到着しようかというところで、太一郎は異変に気づいた。
診療所の門が開け放たれているのだ。
しかもジェニファーの女中が、うずくまって泣いているではないか。
太一郎が女中を助け起こすと、彼女は
どうやら、乱暴な客が訪ねてきて、女中を追い出しジェニファーを脅しているのだという。
それを聞いて、太一郎は〈アヘン商人の一味か〉と思った。
ジェニファーが中毒者を治療しようとしていることは、既に界隈に知れ渡っている。
だから、その邪魔をしようと目論む輩が出てきたらしい。
太一郎は女中に〈家に帰れ〉と言い含め、自分は裏から侵入することにした。
勝手口の前には、見張りの
太一郎は身を伏せて密かに近づくと、背後から忍び寄り、その首を締め上げた。
「……! …………!?」
悲鳴を上げようとした男の口を塞ぎながら絞め上げ続けると、男は泡を吹き始めた。
太一郎が手を離すと、男は地面に倒れ伏し動かなくなった。
気絶した男を抱えて物陰に隠れ、男が目を覚まして騒ぎ出す前に素早く拘束した。
生命を奪わないのは、情報を聞き出すためである。
勝手口から診療所に踏み込むと、中は静まり返っていた。
患者も、ジェニファーも見当たらない。
息を止め感覚を研ぎ澄ませる。
太一郎の鋭敏な耳が、三つの気配を捉える。
ジェニファー。小柄な男。そして、大柄な男──これは、アヘン商人の手下だろう。
気配を殺しつつ診療室に入ると、案の定、三人がいた。
見上げるような大男がジェニファーに突きつけている得物を見て、太一郎は目を見張った。
(南蛮渡来のぴすとろ!)
ぴすとろとは、つまり
この時代はまだ中折式の単発銃が主流であった。
ジェニファーと小柄な男は、エゲレスの言葉で何か言い争っている。
"
"
" That's true, though. But we still need the money. I hope you understand that."
"No, I refuse. Besides, I am not a
"Oh, I beg your pardon. You are so beautiful, I thought you were a princess. Well, we'll send you back to your country with
"I'm sorry to hear that. I have no more regrets about that country. I'm going to stay here and live with the man of
"I see, I see. If you' re a cheap woman who is misled by a
"Don't take me so cheaply. I've been a sucker for
ライミーとは、エゲレス人に対する差別語である。
これはいかんと、太一郎は懐から取り出した鈴を室内に投げ込んだ。
チリンチリンと涼やかな音が響き渡る。
"What's the hell! "
男達が鈴に振り向いた隙に、太一郎は刀を抜き放って疾駆した。
白刃が
「グワァアアアアッ!!」
返す刀で、両膝を切り裂いて動きを封じる。
これは太一郎が得意の太刀筋で、これを受けて戦意を喪失せずにいられる者は、まずいない。
音を立てて大男が倒れ込むと、小柄な白人が泡をくって拳銃を拾おうとした。
その指を斬り飛ばし、太一郎は叫んだ。
「ドーン・ムーブ! ネックスト、アイヴィル・カット・ユア・ヘッド!」
「オォ……! オユルーシー……オユルシクダサーイ……オサムライサマ!」
ひしと、ジェニファーが抱き着いてきた。
「タイチロウ……!」
「よせよジェニファー、返り血で汚れちまう」
「私は医者よ、血なんか気にしないわ」
ジェニファーが唇を寄せてくる。
太一郎は軽く唇を合わせるだけで応えた。
(続く)