隠密同心 心得之条
我が命我が物と思わず
武門之儀 飽くまで陰にて
己の器量を伏し
御下命 如何にても果す可し
尚、死して屍拾う者無し
死して屍拾う者無し
死して屍、拾う者無し
「……潮風で、髪が痛むわね」
そう言って、ジェニファーは黒髪をかき上げた。彼女の髪はつややかに輝きながらも、指通りが驚くほど滑らかで、まるで絹糸のようであった。
太陽がじりじりと照りつける中、お英とジェニファーは全長六十尺(約18m)の船内にうずくまっていた。
忠介は手回しが良く、船内には水に握り飯、塩分補給用の味噌まで積んでいた。
お英と忠介は、それらを口にして体力を回復させながら、交代で見張りをしていた。
「ねえ、ジェニー。おいら思うんだけど」
お英が、傍らのジェニファーに声をかけた。彼女は、穏やかな表情を浮かべたまま目を閉じている。
「なにかしら。タイチロウのこと?」
「ううん。ジェニーのこと。今までたくさんお世話になったけど、ジェニーって何にも話してくれなかったよね」
「そうね……私、自分のことを話すのは苦手かも。聞いてもつまらないと思うけれど」
「そんなの関係ないよ。おいらはジェニーの話、聞きたいよ」
ジェニファーは少し考えた後、口を開いた。
「お英ちゃんは、プロイセンという国を知っている?」
お英は首を横に振った。
「つまらない国よ。如何なる民族、宗教、思想でも受け入れる文化は持っている……と言えば聞こえはいいけど、それは結局、自分達の文明がいかに遅れているか、他国の文化を受け入れることでしか進歩できないかを認めるようなものね。食べ物もじゃがいもと豚肉ばかりだし」
「ごめん、おいらには難しいかな……」
ジェニファーは少し寂しげな笑みを見せた。
「ごめん、ごめん。じゃあ、この国に来た理由を話しましょうか」
「そうしてくれると嬉しいな」
「私、親がいなくてね。プロイセンは軍事……武士しかいないような国だから、偉い人は学問を発展させたがっていたの。だから必死に勉強して……今のお英ちゃんぐらいの歳に、もっと大きな船に乗って、この国に来て……それで、タイチロウに出会ったの」
お英は居住まいを正した。
「やっぱり、たいちろーの話になったね」
「…………そうね、なんだか恥ずかしい」
ジェニファーは頬を赤らめた。しかし、彼女の舌は止まらなかった。
「ふふっ。それにしても、私が日本に来て最初にしたことは、タイチロウの傷の手当だったなんて……変でしょう? あの人、私が桟橋に降りた瞬間に、いきなり血だらけで建物の窓から落ちてきて……」
「どういう状況なの、それ」
「さあ? でも、その時の私は、言葉も通じなかったから、どうすることもできなかった。でも、放っといたら死んじゃうかと思って、なんとかしようと思って……そしたらタイチロウ、自分で治療しようとして私の荷物を漁り始めたの。だから私、思いっきり引っぱたいた」
「唐突だね」
「だって気持ち悪いじゃない。突然現れて、人の鞄の中を覗き込む男だもの」
「そりゃそうだ」
「……あの頃は楽しかったな。片言のエゲレス語で話しながら、二人で岡っ引きの真似事したり、お侍の格好で町を歩いてみたり」
ジェニファーは懐かしげに微笑んだ。
「でも、タイチロウは、周りの子供達とはちょっと違ったの。いつも悲しそうな目をして、何かを諦めてしまったみたいに生きていた。そのくせ、たまに子供の顔に戻って、夢中で遊び回ったりしたのよ」
「それはね、一番やりたいことを我慢してたからじゃないかな。たいちろー、真面目だから」
「あら、分ったようなことを言うじゃない」
「分るよ。本人から聞いたもの。ジェニーにも教えていない秘密なんだって」
お英は、ちらりと見張り中の忠介を見てから、じっとジェニファーの黒曜石のような瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ジェニーは今、幸せ? 自分にとって一番やりたいことを我慢して、その癖おいら達には家族とか奥様とか呼ばせてさ。本当にそれが幸せなの?」
「…………分ったようなことを言うじゃない」
ジェニファーは同じ言葉を繰り返して、じっとお英を見つめ返した。
「ええ、そうね。本当は辛いわよ。でも、仕方ないのよ。これが最善の選択なの。私が我慢すれば、少なくとも誰も不幸にならないで済むんだもの。タイチロウは武士として、立派で優しい生き方ができる。あの人も、あの人のお嫁さんも、きっと幸せになれる」
「でも、それじゃあジェニーはどうするの。このまま一生、たいちろーの気まぐれに縋って生きて行くつもり?」
お英の言葉を聞いた途端、ジェニファーの顔がくしゃくしゃになった。大きな目にみるみると涙が溜まってゆく。唇を噛み締める。それでも堪えきれずに、ぽろりとひと粒こぼれ落ちた。
「馬鹿にしないで……! どうしてそんなことが言えるの!? 私のことなんて何も知らないくせに!!」
叫んだ瞬間、堰き止めていた感情が爆発したかのように泣き出した。両手で顔を覆い、肩を大きく震わせている。
「私は……ただ、あの人を幸せにしたいだけなのに……。なんでこんなに苦しいの……」
ジェニファーは子供のようにわんわん泣いた。お英はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「ジェニー、おいら、たいちろーが好き。おいら、たいちろーのこと大好きなんだ。たいちろーが笑ってくれると嬉しくなって、一緒にいると楽しい。おいら、たいちろーが喜んでくれるなら何でもできる。おいらの全部をあげてもいいって思えるくらい好きなんだよ」
ジェニファーは嗚咽を止め、お英を見た。
「いや! 私もそう思っているのに。タイチロウのこと、心の底から愛しているのに。何で私と同じ異人なんかに……! いやよ。どうして、こんなに苦しくなるの」
お英は、ジェニファーの頬に伝う涙を拭ってやった。
「怖がらなくていいんだよ、ジェニー。家族になろう? 家族になろうよ。真似事じゃない、本当の家族」
お英は意識して声を優しくした。まるで小さな子に言い聞かせるような、あるいは神話のイヴを誘惑する
「ジェニー、おいらとたいちろーの子供を取り上げてよ。ジェニーとたいちろーの子供は、おいらが取り上げてあげるから。きっと幸せだよ。おいら、たいちろーが喜ぶ顔が見たいんだ」
「な、なにを……」
お英はジェニファーの身体を抱き寄せた。
「おいらも協力する。生まれた国なんか関係ない。一つになろうよ。おいら達は、同じ女なんだから。一つの卵を分け合った姉妹みたいに、たいちろーの子供を産もうよ」
ジェニファーは、お英の腕の中で小さく震えた。
「……タイチロウが、他の女の人を抱くところを見るの?」
「おいらは平気だよ。ううん、見たい。ねえジェニー、好きな男の人が、他の女を組み伏せているところって、とっても魅力的だよ。胸がどきどきして、頭がおかしくなりそうになるの。想像しただけで濡れちゃうくらい」
お英は、耳元に熱い吐息を吹きかけた。
「ねえ、ジェニーは? タイチロウが、あのお嫁さんを組み伏せて、言うことを聞かせるところを想像しただけで、興奮しない? 御新造様だなんて偉そうにしている人が、たいちろーの前では女郎みたいな媚びた声を出すの。ジェニーと同じだよ。同じ女なんだから。だから、ね? 一つになろう? おいらと一緒にたいちろーの赤ちゃんを生んで、たいちろーを喜ばせよう?」
ジェニファーは、お英の胸に顔を埋めたまま、首を横に振った。
「いやよ……そんなのいや……」
「どうして?」
「……タイチロウは……私のことだけを見ていればいいんだから……。私の……タイチロウ……。誰にも渡さない……。タイチロウは……私の……!」
ジェニファーはお英を突き飛ばすようにして立ち上がった。そのままよろめきながら歩き出す。しかし揺れる船上では踏ん張りがきかず、足を踏み外して転びそうになったところを、お英に支えられた。
忠介は海を睨んでいて、二人の様子には気づいていない。
「……お英ちゃん、私はあなたが恐ろしいわ。胃の腑がひっくり返って、中身をぶち撒けてしまいそう。足がすくむ。目眩がする。今すぐ逃げ出したいのに、体が動かないの。なのに、あなたの言葉が頭に染み込んで、全身に広がっていく。私は、自分が怖い。あなたの言葉を聞いているうちに、どんどん自分が自分でないものに変わってしまう気がして恐くてたまらない。お願い、私を一人にして。お願い……」
お英はジェニファーを抱きしめた。現代で言う吊り橋効果により、彼女の心臓は激しく高鳴っていた。だが、お英が体温を分かち合うように身を寄せると、ジェニファーの心拍数は徐々に下がっていく。
「大丈夫だよ、ジェニー。怖がらなくていいんだよ。家族になろう? おいら達が、たいちろーの家族になってあげれば、たいちろーは幸せになれるよ」
「……駄目なの。無理なのよ。タイチロウは武士としてしか生きられない。身分を捨てたら、きっと不幸になる。私、そんなの耐えられない……!」
ジェニファーは、まるで駄々っ子のようにかぶりを振った。お英は彼女の顔を捕らえると、鼻が触れそうな距離で瞳を覗き込んだ。
「知ってたんだね。それか、何となく気づいたのかな。偉いね、ジェニー。さすがは、たいちろーの初めての人。ジェニーは賢くて、優しいね」
お英の言葉に、ジェニファーの身体は徐々に弛緩していく。お英に自覚はなかったが、それはお雪が彼女にした事と同じだった。
「安心して……安心して……おいらは味方だから……何も心配しなくていいから……ジェニーは何も悪くないから……悪いのは全部たいちろーだからね……あの人を困らせて、子供を産んで……幸せにするのはジェニーなんだから……」
ジェニファーは、その言葉を聞くと、糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。
「……あの人を困らせて、子供を産んで……幸せにするのは、私……ジェニファー・ヴィンケルマンが、デクス・タイチロウを、幸せにする……」
その目は虚ろで、焦点は定まっていない。お英は、自分の身体が火照っていくのを感じた。ジェニファーの甘い香りが、汗の匂いが、脳髄の奥まで染み込んでくる。
「今はゆっくり休んで……ジェニー……大丈夫だよ、たいちろーは必ず来る……おいら達を救ってくれるのは、たいちろーしかいないんだから……」
お英はジェニファーを優しく抱き寄せると、そっと髪を撫でた。
「たいちろーが来てくれるって信じていれば、きっと大丈夫だから……」
ジェニファーはこくりと肯くと、静かに目を閉じた。
お英はすっくと立ち、彼女を見下ろす。鍛えられた足腰は、船上にあっても微動だにしなかった。
◆◆◆
太陽が赤く燃えていた。海原は真っ赤に染まっている。
神奈川奉行所、筆頭与力の藤尾七蔵は、焦燥を極めていた。もうすぐ、日が落ちる。万一、ヴィンケルマンが江戸まで逃げおおせたら全てが御破算だ。
「おのれえ!! 何度でも探さんか!」
怒り狂う七蔵の前に、一羽の海鳥が立ちふさがり、悠然と空へ舞い上がった。そして、はるか彼方へと飛び去っていく。
(畜生め! 異人娘の胎を潰して、幕閣や御大名に売りつける計画であったものを!!)
七蔵は、唇を強く噛みしめた。八隻もの船でヴィンケルマンが乗る船を捜索したが、ついに発見できぬまま今を迎えたのだ。
「ヴィンケルマンさえ始末できれば……まだ……」
七蔵の目つきが妖しく歪んだ。
ヴィンケルマンの薬は、既に量産されている。ヴィンケルマンを始末すれば発展改良は望めなくなるが、身の破滅を防ぐことはできるはずだ。
それにしても、この暑さはどうだろう……。七蔵は汗まみれになっていた。額から頬にかけて流れる汗をぬぐいもせず、ただ前だけを見つめている。
そのとき、ふと風を感じた。
背後からの微かな風に振り返ると、そこには一人の男が立っていた。浪人のような身なりだが、只者ではないことは一目で分かる。
男は、般若の面の向こう側から、くぐもった声で話しかけてきた。
「藤尾殿。〈黒いデウス〉にお捧げする金子、確かに用意できるのでしょうな。
男の声を聞いたとき、なぜか七蔵は背筋が震えた。
(こいつは危険だ……)
本能的にそう感じたが、それをおくびにも出さず平然と答えた。
「ああ、もちろんだとも。なに、薬は既に完成しておるのだ。あとは売り買いを行うだけよ」
それを聞いて、般若面の男は笑ったようだった。笑い声がくぐもって聞こえる。
(こいつ……)
「ハハハ…………いや、失礼…………〈黒いデウス〉のため、其許は尽力しておられる。笑うべきではありませんでしたな。……………………ククク…………」
男の喉の奥から漏れてくるような含み笑いが不気味である。
「ちっ…………全ては、〈黒いデウス〉のために」
「ク、クク……全ては、〈黒いデウス〉のために」
般若面の男は、小舟に飛び移り、漕ぎ始めた。
(なんだ……あの男……)
「では、またいずれ、会いましょうぞ。必ずや、我らの願いをお聞き届けくだされますように……」
「分かっており申す」
「それは重畳。だが、くれぐれも隠密同心には気取られぬよう、ご用心召されい」
「心得ておりまする」
そして、その男は姿を消した。それからしばらくして、七蔵は我に返った。
「ふん、気狂いどもが!」
七蔵は懐紙を取り出し、口元と手を拭いた。いつの間にか、手の甲にまで汗をかいていたようだ。
「藤尾様! ヴィンケルマンの船ですぞ! あれに違いない!」
声を上げたのは、七蔵が連れてきた黒卍党の構成員であった。確かに、ヴィンケルマンが乗っていると思われる船が、包囲されつつある。
僥倖だ。七蔵は、ほくそ笑んだ。
だが、船内からパン…………と、花火が打ち上げられた。
「ん? おい、まずいぞ! あれは助けを呼んでおるのではないか!?」
七蔵は慌てて船を見た。すると、船上に人影が現れた。
「なんだ?」
目を凝らす。黒づくめの盗み装束を身に着けた誰かが、船の揺れをものともせず、すっくと仁王立ちしている。
「ええい…………貴様ら、何をしている! 相手は一人だ! 早く捕らえろぉ!!」
叫ぶと、黒卍党は一斉に船に乗り込もうとする。
だが、飛び出した黒づくめが、空中で黒卍の一人を蹴り、海に叩き落とした。
「ぎゃああっ!?」
黒卍党は、一瞬ひるむ。だが、すぐに体勢を整えて刀を抜き、黒づくめに襲いかかった。
黒卍党は全部で三十人。対して黒づくめは一人だ。勝負にならないだろう。
事実、刀の一振りを跳んで躱した黒づくめは、そのまま海に落ちていく。
──七蔵はそう思ったが、次の瞬間、信じられないことが起こった。
黒づくめは、蹴り落した男の頭を波間で踏みつぶし、足場にして跳躍したのである。
「く、九郎判官の八艘跳びかぁ?!」
思わず叫んだのは、七蔵であった。
別の船に着地した黒づくめは、次々と黒卍党の構成員たちを蹴散らしていく。まるで、天狗が戯れに人を襲っているかのように、黒づくめは強かった。
「そうか、足腰の差か……!」
七蔵が見るに、強さの秘密は船の揺れをものともしない、あの足腰にあった。刀であれ槍であれ、威力をもって繰り出すには踏み込みが重要。自由自在に飛び、素手で戦う黒づくめに、船上では圧倒的不利なのである。
やがて、黒づくめは七蔵の船に着地し、七蔵と対峙した。
「その体格、女か…………? ええい、お前は何者!」
七蔵は叫びながら抜刀した。
「鼠小僧次郎吉の娘、女ねずみ。悪魔の薬を、外道の手から盗み出しにきたよ」
女ねずみの名乗りを聞いて、七蔵は顔をしかめた。
「なんだと? 鼠小僧? ……笑わせるな、小娘が!」
「その目でしかと見ただろう? 鼠小僧の力を。とっとと
「ほざけ、賊ごときが! 神奈川奉行所、筆頭与力の藤尾七蔵を舐めるなよ!」
「む…………!」
七蔵が取り出したのは、短筒だった。短く切り詰めた、馬上で用いる火縄銃である。
「くらえぃ!」
七蔵は右手で引き金を引いた。女ねずみは横っ飛びに跳ぶ。弾丸は身体に命中しなかったが、ヴィンケルマンの船をかすめ、海面に着弾して水柱を立てた。
「おっと──貴様が躱したから、ヴィンケルマンの船に当たりそうになったな。どうする、女ねずみ。短筒はこれ一本ではないぞ。お前が当たるか、ヴィンケルマンに当たるか、好きなほうを選べ」
「くっ……卑怯な!」
「なにを言うか。戦場に卑怯もラッキョウもあるものかね! さあさあ、選べ! どちらが死ぬことになるか、選びたまえ! ハハハッ!」
「くぅうう────────────────────────なんちゃって」
──その時である。
「うわあああっ!?」
七蔵が悲鳴を上げる。七蔵の右手に刺さっていたのは、一輪の黒い薔薇だった。
「な、なぜだ! どうして、こんなところに花が……!」
狼惑する七蔵に、女ねずみが言った。
「薔薇の枝を鋭く尖らせた、即席の手裏剣──ってところかな。花をそのまま残すなんて、やる事が気障なんだよね、あの人」
黒い薔薇には、このような花言葉がある。
「永遠の愛」「貴方はあくまで私のもの」「決して滅びることのない愛」──
「何が…………うおっ?!」
ガツン、と船を衝撃が襲った。見れば、横っ腹に小型の鯨船が突っ込んでいた。正確には、快速を追及して小型化された、捕鯨船を基にした戦船である。
「な、なにごとだ!?」
七蔵は声を荒げた。
鯨船から二つの影が飛び出した。船上を猿のように駆け、七蔵の前に一人、ヴィンケルマンの船に一人。
「よう、神奈川奉行所、筆頭与力の藤尾七蔵さんよ。アンタが断種計画の黒幕ってことは、既に調べがついてるぜ」
七蔵の前に立ったのは、一人の美しい娘だった。さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。装束は巫女のそれにも似た赤い袴姿であるが、裾や袖口には豪奢な金糸が入っている。だが、彼女の美しさを最も際立たせているのは、その瞳であろう。鳶色の澄んだ目は獲物を狙う猛禽類のように鋭く、そして明確な殺意を湛えている。
「じゅ、十文字槍…………?!」
七蔵が肝を潰したのは、少女の獲物だった。戦国武者かと思わせる長さの、十文字槍である。
(ま、まさか、この娘が例の隠密同心……!)
とっさに七蔵は後退しようとしたが、それよりも早く、娘の槍が伸びてきた。一振りで短筒を断ち切られてしまう。
「往生際が悪いんだよ。罪もない異人娘を薬で潰して、玩具に変えて! てめえらの悪事、例え世間が見逃しても、この十文字槍が黙っちゃいねえ!」
十文字の穂先が翻った。七蔵はそれをかろうじて刀で受け流す。
「ちっ!」
「舐めるなよ、小娘どもが! この藤尾 七蔵、無外流の免許皆伝! 貴様らのような半端者に遅れを取ると思うのか!!」
言うなり、七蔵の体が飛んだ。敵の手足の動きを読んで攻撃をかわしつつ、強烈な一撃を叩き込む。それが彼の得意とする戦法であった。
しかし、槍の娘もまた尋常ではない腕の持ち主だ。彼女は怯むことなく突っ込んでくると、神速の一突きを放ってきた。
それはまさしく雷光のごとく閃いた。
咄嗟に七蔵はその攻撃をかわしたが、刀を握る手に強い衝撃を感じた。見れば柄の一部が砕け散っている。
七蔵は歯噛みしつつ後退した。
(十文字槍だと? あんなものをまともに食らえば骨ごと粉砕されるぞ!)
そこへ再び必殺の刺突が繰り出される。今度は紙一重の差で避けることができた。
だが、敵は休む暇を与えず連続で襲ってくる。七蔵は次第に追い詰められていった。
「うっ────ま、待て! ヴィンケルマンがどうなっても構わんというのか!?」
「笑わせんなよ。それだけの腕がありながら、人を売り物にし、今度は人質とはな。反吐がでるぜ」
娘はぺっ、と唾を吐き出した。
「どうなっても? へそが茶を沸かすぜ。向こうに行った仲間は、このあたしより怒り心頭だ。待ってやるから、見てみなよ」
七蔵は慌てて船のへりへと駆け寄った。ヴィンケルマンの船を包囲していた手勢の船は、既に火だるまになっている。
「ばかな……そんな馬鹿なことが!」
「言っとくけど、
娘は静かに言った。
「こっちは今から、この船の全員、海に叩き落としてやる。でもって、二度と浮かんでこれないようにしてやるさ。もちろん、一人残らずね。覚悟おし」
「うう────ううぅぅぅ──畜生! 畜生、畜生 畜生 畜生 畜生! きさま、隠密同心だろう! 名を名乗れ!」
娘は、にやりと笑って名乗りを上げた。
「隠密同心、十文字お雪!」
「くそぉおおおッ!」
七蔵は、甲板の板を踏み割らんばかりの勢いで突進した。
「十文字お雪ぃいいい!!!」
娘は身を屈めた。槍が凄まじい速度で突き出された。だが切っ先は、跳躍した七蔵の眼下を駆け抜ける。
「もらった! 死────あ?」
七蔵の頭上に、女ねずみが跳んでいた。振り下ろされた踵が、後頭部に突き刺さる。
「ぶげっ!」
「お雪!」
甲板に叩き落された七蔵を、今度こそ槍の穂先が串刺しにした。
「あたしの友達を、甘く見てっからだよ」
「……ぐ、ふ…………ねず……み……」
ひょいっと、箸で豆をつまむように、七蔵は宙づりにされる。そのまま、海に投げ込まれた。
「与力ってのは、懐具合がいいんだろう。鮫に餌でもやってきな」
槍の娘が言い放ち、冷たい水が七蔵の体を包んだ。
こうして、秘薬事件は終わりを告げた。
◆◆◆
日差しが弱まり始めたころ、太一郎はジェニファーを連れて、浅草の観音様に詣でた。
いかにも洒落者という、仕立ての良い、紋付の羽織袴姿である。出楠家の家紋は、山茶花であった。
「いいの、タイチロウ。あなた、誰が見ても立派なお侍よ。もし誰かに見られたら…………」
何度も同じことを繰り返しながら、ジェニファーはいじらしく太一郎の後をついて歩いた。
「構うもんか。誰が見ても、他人じゃねえんだ」
ジェニファーは和装である。それも、異人には珍しい、振袖姿だった。着物は紺地に桜模様のもので、帯は赤と白の縞。その色合いが、彼女の黒髪と白い肌によく似合っている。
仲見世でジェニファーに
ジェニファーは山茶花の飾りが付いた簪を確かめながら、放心したように鳩を眺めている。
「女房になれよ」
太一郎は、形の良い耳に囁いた。ジェニファーはびくりと震える。
「本当は、もっと早く言うべきだった。だけど、おれには自信がなかった。おれたちは、身分が違うから」
「タイチロウ──」
「だけど、もう迷わねぇ。こんな時代だ。いつ何時、お互いが死ぬかも知れねえ。だから、自分のしたい事をする。お前のしたい事を、全部叶えてみせる」
「タイチロウ──」
「なあ、そうしようぜ。ずっと一緒にいようぜ」
「タイチロウ──ああ──嬉しいわ、とても──」
ジェニファーの目尻から涙が流れる。それを指先で拭ってやると、太一郎は彼女の顎に手を当てて引き寄せた。
◆◆◆
秋を告げる風が、夕暮れの江戸を吹き抜けた。
二人の手は、しっかりと結ばれていた。
(第五回 ジェニーの秘薬 了)