「あれ、忠太郎。大道芸はもう終わったの?」
長崎、大波止海岸。いくつもの小舟が停泊する中、ぼんやりと歩いていた忠太郎は、横からかけられた声にハッと我に返った。振り向くと、そこには美しい少女がいた。数日前に知り合ったお英である。
「あ、お、お英さん、今日は、良いお日和で、その……」
中々言葉が出てこない。大道芸のために鍛えた舌も、肝心な時に働いてくれないらしい。理由を問うのは野暮、というもの。そんな自分を情けなく思いながらも、忠太郎はなんとか会話を続けようと努力する。
お英もそれを察してくれたのか、忠太郎の横に並んで歩き始めた。
「うん、とってもいい天気だね。空も青くて綺麗」
お英はそう言って空を見上げた。陽光が、銀に近い薄い金色の髪を照らしている。その隙間から覗くうなじの美しさに、思わず見惚れてしまう。そして同時に、何か言わなければと思うものの、何も言えない自分に腹が立った。
ふと視線を落とすと、洋装に包まれた胸の膨らみが目に入った。母のように柔らかいのだろうか。どうしても目が吸い寄せられてしまう。
いけないと思い、慌てて目を逸らす。すると今度は、スカートの裾から伸びる筋肉質なふくらはぎが目に入ってきた。自分の足とは全く違う、しなやかな曲線を描いている。また胸が高鳴るのを感じた。
「ん? どうしたの、忠太郎」
不意に声をかけられて心臓が跳ねる。いつの間にか足が止まっていたようだ。なんでもないと言って歩き始めるが、鼓動は早くなる一方だった。
「もしかして、具合悪い? 大丈夫?」
心配そうな声とともに、額に手を当てられる。ひんやりとした感触に、ますます顔が熱くなるのが分かった。
「い、いいえ! 具合は悪くありませぬ! ただ貴方が天使のように見えると思っただけで! ……あっ」
しまった、と思ったがもう遅い。お英はキョトンとした表情でこちらを見ている。
恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔から火が出そうだった。穴があったら入りたい気分だ。だがお英は、なぜか嬉しそうに笑った。
「もう、変な子だね。でも嬉しいよ。ありがとう」
優しい微笑みだ。まるで聖母のような慈愛に満ちた表情だった。その笑顔を見ていると、頭がぼうっとしてくるのを感じる。やはり熱があるのかもしれない。だがお英と話していると不思議と元気が出てきた。今なら何でもできる気がする。
そう思った矢先、お英が足を止めた。辺りに人がいない事を確認して、小声で話しかけてくる。
「あのね、実はちょっと話があるんだ」
ドキリとする。まさか愛の告白だろうか。だがお英の表情を見るに、どうやら違うようだ。お英は真剣そのものといった様子で言った。
「忠太郎はさ……キリシタンなのかな?」
「あ……」
なるほど、それは確かに聞きにくいし、答えることが憚られる質問だ。だが、お英が相手なら信頼して話してもよいだろう。忠太郎も小声で応じる。
「すみません、軽々しく天使などと口にしてしまって……そうです、私はイエズス様の教えを信じる者です」
やはりそうだったのかという顔で頷くお英だったが、次の瞬間には顔を曇らせた。
「やっぱりそうなんだね……ごめんね、変なこと聞いちゃって」
申し訳なさそうに言うお英。
キリシタンは死罪。これが御法である。
最も、実際にはその前に踏み絵を踏まされ、拒否すれば棄教を迫られ、受け入れなければ拷問、それでも屈しなければ獄死、というのが通例だ。
この長崎はかつてイエズス会の領地だったという。当時は人口の殆どがキリシタンだったらしく、今の長崎では正月の行事に踏み絵が組み込まれているほどである。
「あ、謝らないでください。私は、母がそうでしたから、自然と」
母サマンサは、
「むしろ貴方はどうなのですか? 信仰をお持ちなのですか?」
お英は見るからに西洋の生まれだ。忠太郎が問うと、彼女は寂しそうに首を振った。
「ううん、おいらは南無阿弥陀仏だよ。こんな髪だけど、拾いっ子だから」
そう言って、髪を一房手に取る。そうだったのか、と忠太郎は申し訳なく思った。
「でもね、最近になって思うようになったんだ。神様って本当にいるのかなって」
神の存在を疑うなどとんでもない事だと忠太郎は思うが、彼女は真剣なようだったので黙っていた。心の中で密かに十字を切る。
「ねえ忠太郎、聞きたいことがあるんだ」
そう言ったきり黙り込むお英。やがて顔を上げると、思い切ったように口を開いた。
「忠太郎はさ、復讐を捨てる気はないの」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
復讐? 誰が? 自分が? 誰に対して?
いや、そうだ。自分は、出楠太一郎を仇と付け狙っていたのだ。ただ、それが復讐だということに気づかなかっただけで……
「イエ……忠太郎が信じる神様は、復讐を許してくれるの。どうなんだろうって思って」
お英は心配そうにこちらを伺っている。しかしその表情の中に、どこか期待するような色があったことに忠太郎は気づいた。
密かに、今度は自分の手で十字を切る。小さな声で、しかしはっきりと、いいえと答えた。
「『目には目を、歯には歯をと命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかしわたしはあなたがたに言う、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい』……と」
「え……?」
お英がきょとんとした顔でこちらを見る。当然だ、いきなり聖書の一説を読み上げたのだから。しかし構わず続ける。
「そう申されたのは他ならぬイエズス様ご自身です。つまり、たとえ仇であっても殺めてはならないと仰っしゃられる事でしょう」
「……じゃあどうして忠太郎は復讐しようとするの。神様は怒らないの」
お英の言うことは間違いだ。いと慈悲深きイエズス様は、復讐も仇討ちも決してお許しには────あれ?
頭痛。吐き気。動悸が止まらない。
あれ? あれ? あれ?
あれ? あれ?
あれ?
「忠太郎、どこに行くの? 忠太郎? ねえ、聞いてる?」
あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ? あれ?
忠太郎は走り出していた。お英は追ってこない。忠太郎の方と沖の方を交互に見ながら、何かを躊躇していたようだった。
忠太郎は走った。どこへ向かっているか自分でも分からないまま、とにかく走り続けた。頭の中に響く声が止まない。あの声は一体誰のものだったか。思い出せない。いや、思い出したくなかった。思い出してしまったら、きっと立ち直れないだろうから。
◆◆◆
ふと気づくと、辺りは一面の青だった。海の上だ。いつの間に船に乗ったのだろうか。
「気がついたか、忠太郎。全く世話が焼ける」
そう言ったのは、恩人である流水八郎太だ。櫂を漕ぎながら、呆れた顔でこちらを見ている。
「……ここは?」
「見ての通り海の上だ。其方が突然倒れたので、ここまで連れてきてやった」
そう言われてようやく思い出す。自分は確か、港にいたはずだ。そして、そこから逃げるように走り出したのだ。そして──そして、どうなったのだろう。覚えていない。
「覚えておらんのか……どうしたものかな、おりん」
「大したことはありません。信仰を尋ねられて、暗示が解けかかっただけでしょう。しばらくすれば元に戻ります」
船には、もう一人、乗っていた。八郎太を挟んだ反対側だ。
女だった。何も特徴がなく、記憶に残らない女だった。
「忠太郎さん、貴方の信仰を教えていただけますか」
答えたくない。だが答えないわけにもいかないだろう。恐る恐る口を開く。
「私は……」
「私は?」
『目■■■を、歯■■歯をと■■■れたのを、■■たがたは■■ている。■■■わた■■あな■■たに言う、悪■■■■■■■■■■■。だれ■が■■■の右■■■■■ら、■■■■■なさい』
女が促す。口が勝手に動くような感覚があった。自分の意思とは関係なく、言葉が紡ぎ出される。
「私は……〈黒いデウス〉の信徒です……」
言ってしまってから愕然とする。なぜ、こんなことを言ってしまったんだろう。私はイエズス様に帰依した者ではなかったのか? 〈黒いデウス〉とは一体何なんだ? 何とふざけた名前を付けるのか。
だが、その思考もすぐに霧散してしまう。
〈黒いデウス〉は素晴らしい。〈黒いデウス〉は偉大だ。〈黒いデウス〉こそ我が救いなり! 頭の中に声が響く。ああ、なんて心地良い声なのだろう。天から響くようなその声は、私に語りかけてくる。
「貴方は、何の為に生きているのですか?」
「はい、私の生きる意味は、〈黒いデウス〉の御心のまま、出楠太一郎に復讐を遂げる為です!」
ああ、なんと甘美なる響きであろうか! この声は私の声ではない! 私の意志ではない! 私の魂の叫びだ! 私の望みだ! 私が私でなくなる感覚! これこそが幸福なのだ!
もはや忠太郎に迷いはなかった。彼は心の底から確信し、高らかに宣言した。
「私の生きる意味は、〈黒いデウス〉の御心のまま、出楠太一郎に復讐を遂げる為です!」
「ク、クク…………………………ククク…………ハハハ…………見事だ、おりん」
「いえ、これも全てあなたが刷り込みを行っていたからですわ。上達しましたのね」
忠太郎の豹変を見て、八郎太は笑っていた。はっきりと嘲笑されていた。何がおかしいというのか、忠太郎には分からなかったが。
おりんと八郎太が舌を絡ませている。
「んっ、はぁ……♡あなた……♡」
「ふ……おりん……」
二人の口の間に糸がかかる。やがて切れてしまうと、二人は互いに抱きしめ合った。
忠太郎は初めて気づいた。おりんという女には、両腕の手首から先が無かった。
◆◆◆
空に真っ赤な雲の色。
夕日は既に沈みかけ、真紅と言っていいほどの赤みを地上に落としていた。
まるで血のように赤い夕焼け空。それはこれから起こる戦いの苛烈さを予感させるようでもあった。
「準備はいいかい、兄貴」
「ああ。お雪ちゃんこそ大丈夫かい?」
長崎、大波止海岸。
沖に停泊する、三本マストの巨大な帆船。黒卍等の一派と〈黒いデウス〉の一味が乗り込んでいるはずだ。
太一郎たちはここでお英の合図を待ち、船に乗り込んで悪党どもを壊滅させる。その後、クリストファー率いる黒卍党の精鋭部隊が拐われた娘たちを救い出す手筈である。
太一郎は長崎で調達した浅葱色の着流し。家紋はないが、この際仕方ない。
お雪はいつもの赤い袴姿だ。珍しく髪は後ろでまとめ上げ、かんざしを刺している。髪の隙間から見える首筋が艶めかしかった。
「あたしは十文字お雪だよ? 天下御免の隠密同心さ。大丈夫に決まってるよ」
「そうは言うがな、今日は〈十文字〉じゃねえだろう。くれぐれも無理はするんじゃねえぞ」
太一郎は優しく言う。お雪の象徴でもある十文字槍は、江戸からの持ち出しが許されていない。お雪の獲物は簡素な手槍であった。持ち運びに良いように、柄が細く短めに作られたものだ。
「うーん、『手槍のお雪!』だと名乗りも締まらないしねえ。じゃあ、『手裏剣使いのお雪』ってのはどうだい?」
「なんでもいいが、あまり無茶をするんじゃねえぜ」
他愛もない会話。これでも油断しているわけではない。戦いに向けて気をほぐすためのものである。
だが、後から考えれば。この夜の太一郎は、浮ついていたと言われても仕方なかったろう。
太一郎は小舟に乗り込むと、大小を外してそのまま横になってしまった。見上げた空には、宵の明星が見える。お雪に向かって手を伸ばした。
「一番星が見えるぜ。一緒にどうだ」
「あたしはいいよ。月も出てないしね」
乗り込んできたお雪はそう言ったきり黙ってしまったが、構わずにその手を掴んで引き寄せた。
「いいから付き合えよ」
「もう、なんだよ。今日はずいぶん強引じゃないか……」
お雪は渋々といった様子で太一郎の横に寝そべると、空を見上げた。
「綺麗だろ?」
「うん……」
お雪は素直に頷いた。最初は怖怖と、徐々に大胆になって太一郎に身を寄せてくる。幼い慕情が少しずつ育っていく様を肌で感じることができた。
「こうやって寝転がって見る星空っていうのは格別なんだ。特にこんな晩にはな」
そう言っている間にも、一つまた一つと星が輝き始める。そしてやがては満天の星空となった。二人はしばらくの間黙ってそれを眺めていた。
「隠密なんかやってると、人間の汚え面ばかりを見ることになるからな。たまには上を向いて、こういう綺麗なもん見てないとやってらんねえよ」
「……だけど、綺麗なもんばっかり見てたら、汚れは溜まっていく一方だ。だからあたしが掃除する。みんなのために」
ぽつりと呟くお雪。太一郎は苦笑を漏らした。
「お雪ちゃんならそう言うと思ってたよ」
「じゃあ、兄貴はもうやらないのかい?」
少し不安げな表情でそう問うてくるお雪の頭を軽く叩きながら、太一郎は答えた。
「やるさ。父上からいただいた大事な御役目だ。俺が、武士として立派に生きていくための……」
太一郎の手が伸びて、お雪の髪に触れた。ゆっくりと撫でていく。
「……どしたんだい?」
不思議そうに聞くお雪にお構いなく頭を撫で続ける。そうして一頻り撫でた後、髪に指を挿し入れて梳くようにして離した。
「やっぱり綺麗だな、お雪ちゃんの髪は」
太一郎は満足げに言うが、当のお雪は恥ずかしそうに俯いた。
「なんだい、いきなり……」
その反応があまりに初々しいもので、太一郎は笑ってしまった。笑いながら手を伸ばしてお雪の手を取り、指と指を絡ませる。まるで愛撫するかのように優しく擦った後、手のひらをくすぐり始めた。
「ちょっとぉ」
お雪が小さく抗議すると、太一郎は彼女の耳に顔を近づけて囁いた。
「俺はな、この手が好きなんだ。誰かのために槍をふるってきた手が」
そう言って、今度は唇を触れさせる。ちゅっという軽い音がした。
「やめてったらぁ」
お雪は形ばかりの抵抗を見せるが、逃げようとはしない。太一郎の腕の中でされるがままになっている。時折身をよじってみせるのは抵抗ではなく催促なのだということを、太一郎は探り当てていた。
鉄火場で背中を預け、共に戦ってきたお雪。生娘ながら、精一杯の誘惑を繰り返してきたお雪。
彼女を愛しく思う気持ちが溢れてきて止まらない。太一郎はしっかりと手を握り、耳元に口を近づけて囁いた。
「お雪……」
「! う……」
呼び捨てられたことで刺激を受けたのか、小さく声を漏らすお雪。耳まで真っ赤になった顔がなんとも可愛らしい。
たまらず、頬ずりするように顔を寄せた。
唇で頬を撫でる。柔らかい感触が心地よい。次に額へ。眉の上に口づけを落とす。くすぐったいのか恥ずかしいのか、目をぎゅっと瞑っているのが愛おしい。
「お雪……江戸に帰ったら、その時は俺の女になれ」
言いながら瞼や頬にも口づけしてやる。そのたびにぴくりぴくりと震える様が愛おしい。
「ああもう……わかったよぅ……でもさ、今は御役目中だし……」
消え入りそうな声でそんなことを言うので、太一郎はもう一度顔を撫でてやった。お雪は困ったような顔でこちらを見上げている。太一郎は笑って言った。
「分かってるよ。何もかも、江戸に戻ってからの話だ。それとな?」
唇に指で触れる。お雪の身体がびくんと震えた。
「お英ちゃんも俺の女にする。クリストファーの野郎が父親だろうが赤の他人だろうが、お英ちゃんは誰にも渡さん。いいな」
「……うん。あたし達を、兄貴の女にして」
お雪は小さく呟いた後、自ら太一郎の唇に唇を重ねた。おっかなびっくりの、可愛らしい接吻だった。
「すきぃ……あにき、だいすきだよぅ……」
天知る、地知る、人の知る。
星空に見下ろされながら、二人はお互いの想いを深く確かめ合った。
長崎の空に、小さくか細い花火が上がる。お英の合図だった。
◆◆◆
海上に浮かぶ阿蘭陀商船、『オーレンライト号』は黒煙を上げつつ、燃え盛っていた。炎の周囲では水夫たちが右往左往している。
その中には当然、隠密装束に身を包んだ太一郎たちの姿もあった。
「でぇぇぇぇぇぃ!」
お雪の手元から、手槍が投じられる。それは見事に敵の急所に突き立った。黒卍党の浪人が血を吐いて倒れ伏す。
お雪の腕には環と鎖が巻かれており、その先に手槍の柄が繋がれていた。投擲武器に使えるように細工をしてあるのである。
たちまち手槍を引き戻し、次の敵に狙いを定めるお雪。
太一郎は刀を抜き放ち、迫りくる敵を次々に切り伏せる。血飛沫をものともせず、悪鬼の如き形相で敵中に躍り込む姿はまさしく隠密同心の名にふさわしいものだった。
「ハハハ……ハーハッハッハッハ! どんどん来い! 貴様ら全員地獄行きだ!!」
太一郎とお雪により、あっという間に半数が死傷していた。
だが黒卍党の者どもは怯むことなく、一人倒れるたびに仲間を踏み越えて襲い掛かってくる。
なかなかいい度胸だと太一郎は感心したが、望むところだ。殺しの高揚で、さっきから股間がはち切れんばかりであったのだ。
神明一刀流の構えで待ち受ける。刀を肩に担ぎ、着流しの裾を割るほどに両脚をどっしりと構える不動の構えだ。
正面、左前方から打ちかかって来る敵を、右切り上げ、袈裟懸け、逆風、逆袈裟の四段に分けて、一瀉千里の流れるように淀みない連撃で切り捨てる。
「うわぁああああ!」
右後方からの敵は、気配だけを頼りに振り返りざまの横薙ぎの一閃にて仕留めた。
そのまま流れるような動きで正面に向き直ると、正面から向かってきた敵が慌てて飛び退くところだった。だが遅い。太一郎の放った苦無が、その喉元に深々と突き刺さる。
「ぐえ……」
「はぁ──っ!!」
踏み込んで、薙ぎ払う。黒卍党の者が三人まとめて斬り伏せられる。まさに電光石火の早業だ。
「フウゥゥゥ……♥」
やはり、殺しはいい。身体の芯から熱くなっていくようだ。自然と笑みがこぼれてくる。
ふと横を見ると、お雪が疾風の速さで突進して行くのが見えた。その先には黒卍党ではなく、阿蘭陀人の水兵が八人。めいめいが既に拳銃を手にしていた。
「洒落くせえんだよ!」
お雪がくるりと回転し、遠心力を利用して手槍をしならせる。
一振り。
銃を構えた男の手首が、その銃ごと吹き飛んだ。
二振り。
残る七人の持つ拳銃が、ばらばらに砕け散る。
三振り。
さらに二人ほどが首や肩の骨を砕かれ、地面に突っ伏した。
「っでぇぇぇぇえええいいっ!!」
お雪はなおも攻撃の手を緩めない。手近な水兵の股間を槍でカチ上げると、思い切り弾き飛ばした。水兵の巨体が鞠か何かのように宙を舞い、そのまま海に落下する。海の中から大きな水音が上がった。
お雪は間髪を入れず別の水兵に飛びかかると、その喉笛目掛けて手槍を振り下ろした。穂先が気管を突き破り、大量の血が噴き出す。悲鳴も上げられぬまま男は倒れた。
「あいにく阿蘭陀語は知らねえが! 人買いどもが、地獄に堕ちな!!」
そう叫ぶと、最後の一人の眉間を狙って貫手を食らわせる。ぐしゃりと嫌な音を立てて、顔面の骨が砕けた。即死だろう。
お雪は息一つ乱さず、残りの阿蘭陀人に向き直る。
「Sterf, jij gele aap!!」
「む……」
水兵たちが船首楼から新たな得物を繰り出してきた。いくつもの銃身を束ねた鉄砲のようなものが、車輪付きの台座に据え付けられている。
「Schiet, schiet, schiet!」
水兵が取手を回しながら引き金を引くと、凄まじい勢いで弾丸が撃ち出された。
「音に聞く亜米利加の
太一郎は驚愕しつつも、冷静に砲身の向きを見切ってかわしていく。つい先程まで隠れていた木箱だの樽だのが、次々と粉砕されていく。破片が四方に飛び散り、飛び散った木片が頬を切った。
「……ちっ」
頬から垂れてきた血を袖で拭う。その間にも連射される弾幕によって逃げ場を失いつつあった。
「どうせ人売の金で買ったんだろうが! けどなあ、あたしの仲間を舐めるなよ!」
お雪の啖呵と同時、マストの上から何者かが飛び降りてきた。言わずと知れた女ねずみ、お英だ。黒ずくめの盗み装束を身に纏っている。
彼女は音もなく着地する。ガトリングガンの上に。
「Wat is dit voor een vrouw! Waar komt zij vandaan?!」
そしてあろうことか、倒立したまま回転しつつの蹴りを叩き込んだ。連発砲を動かしていた水兵たちが次々に海へ向けて吹き飛ばされ、水面下に没していく。
最後に残ったのは必死に舵を取っていた侍だけだ。彼は恐怖のあまり悲鳴を上げながら逃げ出そうとするが、お雪によって足首を掴まれてしまった。
「た……助けてくれっ! 見逃してくれ! 頼む! この通りだっ……!」
泣きながら懇願する侍に対し、お雪は言った。
「ずいぶん往生際が悪いんじゃないかい? 長崎奉行、水野忠則様?」
「……なっ」
絶句する男に構わず、お雪は続ける。
「あんたの罪状はいくつもあるが、とりあえず一つ目として、人身売買の黙認。のみならず、娘達を罠にはめて苦界に落とそうとするやくざ者共を積極的に支援してたってこと。二つ目に、アヘン密貿易への関与、そしてアヘンより恐ろしい薬、女悦丸の製造・販売」
言いながら男の足を掴む手に力を込める。男の顔が苦痛に歪んだ。
「最後三つ目は、長崎奉行の職にありながら、〈黒いデウス〉と結託し、キリシタン蜂起の資金集めをしてたってことだ」
「そ、そんな……! 違うんだ、〈黒いデウス〉はキリシタンなどでは……!」
「ああ、そうかい」
お雪は掴んだ足を引っこ抜くように持ち上げた。侍を犬猫であるかのように勢いよく宙に舞わせると、そのまま頭から甲板に叩きつけた。鈍い音がして、男が動かなくなる。
お雪が呟く。
「安心しな。新任の平松様と話はついてるんだ。あんたが地獄に堕ちても、長崎奉行所は安泰さ」
どうやら敵は一掃できたようだ。海面には、クリストファーの手勢が操る小舟が何艘も見える。囚われていた娘たちを無事救出したのだろう。
指揮を取っていたクリストファーがこちらを見やって、何事か叫んだ。
「兄貴、あれってエゲレス語かな」
「ああ、ご苦労様、作戦は成功だ、一騎当千、私の好きな言葉です、だと」
恐らく労いの言葉を掛けているつもりなのだろう。しかしすぐに顔を引き締めると、再び指揮に戻った。
駆け寄ってきたお英が、鋭い声でささやく。
「とんだ世迷い言だよ。たいちろー、油断しちゃだめ」
「なに?」
「〈黒いデウス〉の一味が出てきていない。なにか変だよ。元々〈黒いデウス〉を叩くための作戦じゃあ──」
全くお英の言う通りだった。太一郎は、この時の油断を何度も悔やむこととなる。
「! お英ちゃんッ!!」
強烈な剣閃。咄嗟に受け止めた刀から、激しく火花が散った。
(強い!)
と、相手の力量を認めつつも、太一郎は内心舌打ちをした。
相手は黒の道着に身を包んだ長身の男である。顔には、般若の面。
お雪が叫ぶ。
「兄貴、そいつは延命寺にいた〈黒いデウス〉だっ! 暗具に気をつけろッ!!」
「承知!」
太一郎はお英を背に庇いながら、素早く距離を取った。同時にお英も後退する。
「お英ちゃん、怪我はないか?」
「大丈夫、それより気をつけて!」
お英の言葉が終わる前に、男が再び踏み込んできた。上段からの打ち下ろしをなんとか受け流す。だが続けざまに放たれた横薙ぎの一閃を防ぎきれず、太一郎の手から刀が落ちた。
「しまった……!」
武器を失った太一郎に、男は容赦なく斬りかかる。その斬撃をかわしつつ、太一郎は懐に手を入れた。そこから取り出したものを、男に向けて投げつける。男はそれを難なく弾き飛ばし、そして飛び退いた。
「なに?!」
太一郎が放ったのは
だが、男の動きはそれを知っていたとしか思えぬものだった。
太一郎の背筋に冷たいものが走る。この男はただの剣客や暗具使いではない。
「貴様、対馬暗具の使い手か!」
「然り。そうさな、冥土の土産だ。『
そう言うと、鬼一と名乗った男はゆっくりと構え直した。異様なほど余裕のある態度だ。まるで、すでに勝利を手にしたかのように──。
一方、お英とお雪もまた追い詰められていた。鬼一と同じく般若の面を着けた小柄な男が攻撃を仕掛けてきたのだ。しかも、まともな攻撃ではない。
「お雪ちゃん、一発も受けるな! トリカブトの毒が塗ってあるっ!」
「くそぉっ!」
太一郎の忠告どおり、敵の放つ小刀は奇っ怪な液体で濡れていた。しかも甲板に突き立ったそれが、どういうわけか再び浮かび上がって宙を舞い、お雪とお英を襲うのだ。
「あたしの槍さえあれば……!」
お雪は唇を噛んだ。間に合せの得物では、このような曲芸じみた攻撃を捌くのは難しい。
その時、小柄な男が猛然と駆け出した。その先では、太一郎が鬼一と鍔迫り合いを始めている。
「──!!」
次の瞬間、男は驚くべき跳躍力で跳び上がった。空中で体を捻り、手にした短刀を振りかぶって太一郎の背中に襲いかかる。
「たいちろー!!」
お英の叫び声が響く中、鬼一は低く笑った。
「終わりだ、出楠太一郎」
「笑止千万ッ!!」
太一郎は、咄嗟に懐の煙玉を破裂させた。それは瞬く間に膨れ上がり、鬼一と小柄な男を覆い隠す。
代償に、鬼一の刃が着流しを切り裂いた。しかし、それだけだ。横っ飛びに飛んで、煙幕から脱出する。
「さあ、来やがれ! ……?!」
煙幕の中から、小柄な男が飛び出してくる。面を外したその顔を、太一郎は見てしまった。
「ちゅ、忠太郎殿……!?」
確かにそれは、太一郎を父の仇と狙う少年、忠太郎であった。
太一郎は一瞬硬直してしまう。忠太郎の父を斬った時、自分が確かに快楽を得ていたことを思い出して。
「待っ───」
忠太郎の短刀が、太一郎の胸を貫いた。傷口から鮮血が溢れ出す。そのまま仰向けに倒れこんだ。忠太郎がその体の上に馬乗りになり、金切り声で叫ぶ。
「私の生きる意味は、〈黒いデウス〉の御心のまま、出楠太一郎に復讐を遂げる為です!」
「太一郎兄貴ィーッ!!!」
お雪の絶叫が響き渡る。
鬼一が嘲笑う。
「いい言葉を教えてやろう、出楠太一郎。『鬼の念仏』! 冷酷残忍な者がうわべだけ慈悲深く見せかけても、必ずやいつか報いを受けるという意味だ! ははは……ははは!」
◆◆◆
江戸。妻恋坂にほど近い、太一郎の自宅にて。
秋風が、美樹の青白い顔を撫でていく。縁側に座り、美樹はぼんやりと空を眺めていた。
傍らには湯呑みがある。湯気を立てる白湯の中に浮かんだ梅干しを口に含み、美樹は顔を顰めた。酸っぱい味が口の中に広がり、吐き気を催したのだ。美樹は慌てて口を押さえ、どうにかそれを飲み込んだ。
ため息が漏れる。
「美樹さん、あまり冷たい風に当たっていてはいけないわ」
背後から声をかけられ、美樹はゆっくりと振り返った。そこには、心配そうな表情を浮かべたジェニファーの姿があった。弱々しく微笑む。
「……大丈夫です、ジェニーさん。わたくしは、とうとう、授かったのですから……なんのこれしき。なんてことありませんわ」
そう言ってお腹を撫でる美樹の表情は穏やかだった。その表情を見て、ようやくジェニファーの顔に安堵の色が浮かんだ。
彼女はそっと美樹の隣に腰を下ろす。その手にも、美樹と同じように白湯と梅干しを入れた湯呑が握られている。二人は並んで口をつけた。冷えた体が温まっていくようだ。
しばらく黙って空を見上げていた二人だったが、やがてジェニファーの方から口を開いた。
「男の子かしら、女の子かしら……」
「……わたくしが男の子で、ジェニーさんが女の子のような気が致します。うふふ」
「あら、それじゃあ私は逆に賭けるわ。私の子が男の子よ」
「まあひどい」
そんな他愛もない会話の後、また沈黙が訪れた。二人とも穏やかな表情で、ただ静かに寄り添っている。ふと、ジェニファーが言った。
「ねえ、美樹さん。タイチロウはきっと帰ってくるわよ。あの人は強い人だから、大丈夫よ」
「はい、勿論です。わたくしは太一郎様の妻。どうして、あの人を信じずにいられるでしょう?」
二人は、空を見上げた。流れ星が、一筋の光となっていくところだった。
(第7回 長崎の鬼 了)