太一郎とお雪、そしてお英の姿は、秋の長崎にあった。邪教団〈黒いデウス〉の足跡を追うためである。
一行が長崎で知り合ったのは、太一郎を仇と狙う少年忠太郎とその母サマンサ。そして、お英の父を名乗る黒卍党首領、クリストファー。一行は彼と手を組み、〈黒いデウス〉と黒卍党の一派、そして長崎奉行による奴隷貿易計画を粉砕する。
だが、〈黒いデウス〉の怪人・鬼一は万端の準備で太一郎の命を狙っていた。洗脳された忠太郎により、一瞬の隙を突かれる太一郎。毒の刃が、その胸に突き立った。
同じ頃、江戸では美樹とジェニファーが太一郎の身を案じていた。二人とも、その腹に新しい命を宿して。
Aパート
真っ暗闇の中に、
(俺は夢を見ているのだろうか。 それとも、)
太一郎には、それが初め赤い花に見えた。だがよく見れば、白い花弁に血が滲んで赤に見えていたのだ。
花は血の匂いを放ちながら、暗闇の中で咲き誇っている。いや、闇だと思っていたものは一面の花の群れなのだ。無数の赤々とした花びらが辺りを覆い尽くして、全ての光を遮っているのである。
むせ返るような血の匂いが鼻腔を刺激する。濃密な死の香りだ。だが、不快感はない。むしろ芳しいくらいだ。
(俺は死んだのだろうか。それとも、)
いや、どちらでもいいことだ。とにかく今はこの匂いに包まれていたい。血の香りは、恍惚の香りだ。太一郎を誘う甘美な芳香だ。
(そうだ、ずっとここにいよう──永遠に。俺のような鬼に、人の世は生きづらい──)
不意に、暗闇が晴れる。花と血の闇をかき分けて、何者かがまっすぐに、ただまっすぐに歩いてくるのだ。その姿には見覚えがあった。
整った顔立ちの美しい少女であった。さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。装束は巫女のそれにも似た赤い袴姿であるが、裾や袖口には豪奢な金糸が入っている。だが、彼女の美しさを最も際立たせているのは、その瞳であろう。鳶色の澄んだ目は獲物を狙う猛禽類のように鋭く、そして明確な殺意を湛えている。
得物は、太一郎もよく見慣れたものだ。戦国武者かと見紛う長さの、十文字槍である。
「お雪ちゃん」
ぽつり、と呟いた言葉は、どうやら相手に届いたらしい。少女はぴたりと足を止めた。
「お雪ちゃん」
もう一度呼びかけたが、返事はない。お雪はゆっくりとこちらに歩み寄ってきたかと思うと、突然十文字槍の切っ先を太一郎に向けた。穂先はびくりとも揺れていない。
「あたしが知ったが最後、悪の花は咲かさねえ。覚悟しな、この殺人鬼が」
何を言う暇もない。お雪が悪と断じた以上、誰であろうと逃げられはすまい。太一郎の首は、速やかに胴から切り離された。
◆◆◆
布団の上で、太一郎は荒い息を繰り返していた。額に浮かぶ汗を手ぬぐいで拭き取りながら、お英は懸命に太一郎に呼びかける。
「しっかりして、たいちろー。ほら、お水だよ」
吸い飲みで水を飲ませようとするが、弱った太一郎はうまく飲めずこぼしてしまう。それでも根気よく続けるうちに、なんとか一杯分の水を飲ませることができた。しかし、それで力尽きたのか、太一郎はぐったりと脱力してしまう。
お英は心配そうに、やつれた顔を見つめる。太一郎は今、感染症のために高熱に苦しんでいるのだ。クリストファーが手配した医者は優秀で、正しい判断を下した。つまりこうだ。
「こん病ば治す薬はなか。安静に寝かせて、水ば飲ませ、尿ば取り、後は本人の生きようとする力に期待するしかなかとですね」
医者の言葉は残酷ではあったが、真実でもあった。傷口から入り込んだ細菌が、太一郎の体内で暴れまわっている。そいつを
太一郎は、正しく死の間際にあったのだ。
「たいちろー……死なないで……」
祈るように手を組み、必死に呼びかけを続けるお英の耳に、その時声が聞こえた。
「……お……き……ちゃ……」
苦しげな息の下から、太一郎は確かにそう呟いていた。
「たいちろー、お雪が心配? 大丈夫、大丈夫だから。おいら
そう言って手を握ると、弱々しいながらも握り返してくる感触があった。ほっと息をつくお英だが、太一郎の両足がもぞもぞと動く。
「
お英はそう言って
「たいちろー、しーしー上手だね。こうやって、ちゃんと支えてあげるから。漏らしちゃ駄目だよ」
そう言いながら、お英は尿が一滴も零れないよう、しっかりと尿道口を上に向けてやった。太一郎は朦朧としながらも、どこか気持ちよさそうにしている。
そうして用を済ませると、お英は後始末を始める。太一郎の身体を清めながら、優しく語り掛ける。
「いいこ、いいこ……大丈夫だよ、すぐよくなるからね……」
それは母親のような慈愛に満ちた声だった。同時に、涙が零れてきた。涙はぽろぽろと頬を伝い落ちてゆく。それはまるで雨粒のようでもあった。
『オーレンライト号』での戦いから、既に一ヶ月が経過していた。
◆大江戸捜査網
ハーレム・サムライ◆
第八回 黒卍の憂鬱
時を遡り、ひと月前。炎上する『オーレンライト号』での戦いで。
「さあ、来やがれ! ……?! ちゅ、忠太郎殿……!? 待っ───」
忠太郎の持つ毒の短刀が、太一郎の胸元に深々と突き刺さった。傷口から鮮血が溢れ出す。
太一郎が想起したのは、〈江戸の仇を長崎で討つ〉 という言葉だった。意外な場所や、筋違いなことで恨みを果たすことを表した言葉だ。状況はその言葉通りだが、当たっているのは半分だけだろう。
なぜなら、これは正当な復讐だからだ。太一郎は、忠太郎の父を殺した仇。少年は、長い旅の果てに仇を討ったのだ。彼は武家の当主となり、最愛の母との明るい明日に向けて歩みだすのだろう。
太一郎の体から、急激に力が抜けていく。
そのまま仰向けに倒れこんだ。忠太郎が馬乗りになり、金切り声で何事かを叫ぶが、太一郎には聞きとれなかった。ただ、自分の人生が閉じようとしていることだけが分かった。
(ああ……だが、俺には相応しい終わりかもしれねえ)
忠太郎は、父のために来たのだ。父との愛を証明するため、太一郎を殺すのだ。
我が父の愛に縋って生きてきた太一郎には、これ以上なく胸に
だが、出楠太一郎の運命はここで終わりではない。そんな事は許されない。
「太一郎兄貴ィーッ!!!」
「たいちろおぉぉぉーっ!!!」
お雪とお英の声。自分を慕う二人の娘、抱きしめて手折りたくてたまらぬ、可憐で鮮やかな二本の花。
その刹那、太一郎の両腕が弾かれたように動いた。どこから湧いてきたかも分からぬ生命のほとばしりが、両の腕を眼前に組ませたのだ。
その形は十文字、またの名を
だが太一郎は死んでいない。出楠太一郎はまだ生きている!
「くぅああああーっっ!!!」
裂帛の気合とともに、忠太郎を跳ね飛ばす。未だ成長途上の忠太郎は軽く、簡単に吹き飛んでしまった。地面に叩きつけられたもののすぐに立ち上がり、虚ろな瞳で見上げてくる。太一郎は初めて、忠太郎が正気を奪われていた事を悟った。
鬼一が嘲笑う。
「なんという生き汚さ、なんという厚顔無恥! 武士たる矜持の欠片もないとは!」
その言葉を否定する術を、太一郎は持たない。人殺しの鬼であるのみならず、武士として真っ当に生きたがり、女達と子を
膝を折りそうになる太一郎を、その時、お雪とお英が左右から支えた。力強く、しっかりと抱き留めてくれたのだ。二人の手の温もりが、太一郎の生命を激しく
同時に湧き上がる焦燥感。毒が効力を表すのに、最早一刻の猶予もない。そして三人は未だ戰場にいるのだ。鬼一と忠太郎が、じわりじわりと迫ってくる。
「ここは退くぞっ、早くしろ時間がないんだッ──うぷっ」
こみ上げてきた吐き気に思わず口を押さえる。毒が回り始めた証拠だ。僅かな時をおいて歩行が困難になり、脈が乱れ、やがて心ノ臓が停止するだろう。
「ええい、仕方もねえ……!!」
太一郎の情けない姿を見てか、お雪が手槍を構え、鬼一たちの前に立ちふさがった。
「お英、兄貴を抱えて逃げろ! 早く!!」
「でも──」
「いいから行けッ!! この十文字お雪は〈黒いデウス〉なんぞに後れを取ったりしねえ。兄貴を死なせたら承知しねえからなッ」
お雪は振り向かなずに言う。声には鋼の剛さがあった。
躊躇していたお英だったが、意を決したように頷き返すと、太一郎を抱え上げた。
「死ぬなよ……お雪ちゃん……」
「そんな体たらくでよく言うよ。……生きて帰ったら、小舟での続きをして貰うからね?」
お英が走り出す。人一人抱えているとは信じられぬ速さだ。
「逃がすと思うか? それ、矢を馳走してやろう」
鬼一が半弓を手に取り、矢を放つ。風を切り裂き、一直線にお英の背に迫るそれを、横から飛び込んだお雪が弾き飛ばす。
「余所見はよしな、〈黒いデウス〉! あんたの相手はあたしだよ!」
その声に背中を押されるように、お英は船べりから飛んだ。
「────だあっ!」
海面までの高さはおよそ十丈(約30メートル)、叩きつけられればただでは済まない高さだ。
お英は背中の滑空翼を開いた。落下速度を殺す心算だろうが、何しろ重量が二人分だ。見る見る迫る海面には、クリストファーたちの小舟が何艘も見える。
「うおっ、おおっ……!?」
「たいちろー、黒卍の船に落ちるよ! おいらから離れないで!」
太一郎は必死にしがみつくだけだ。水面すれすれで減速したお英は、そのまま船上にどかんと着地した。
波飛沫が上がる。船に乗せられていた娘たちが、悲鳴を上げて船底に身を伏せる。
「エ、エイミー様……!! どうやって空からっ?」
「おいらのことなんかいいでしょ! それよりこの人を手当てしてあげてッ」
その小舟を指揮していたのは、クリストファーの護衛である源兵衛であった。お英の本名を呼んで、船の上をよたよたと駆け寄ってくる。太一郎はお英に支えられながら、どうしようもなく船底に仰向けになった。
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
太一郎の手傷は、胸と腕に突き立った二本の短刀、全身に回りつつあるトリカブトの毒。加えて、出血による体力の低下である。
「たいちろー、しっかりして……!」
「いっ、いいかあ、お英ちゃん、ようく聞くんだっ」
意識が朦朧とする中、太一郎は最後の力を振り絞ってお英に自分の知識を伝える。
「この毒はトリカブトだ、俺の心ノ臓はもうすぐ止まる……! そうなる前に、外から胸の骨を押して心ノ臓を動かすんだ。一昼夜だ! 手はそれしかねえ……」
「なに言ってるの?! 胸に短刀が刺さってるのに……!」
全くその通り、太一郎の指示は己を失血死させろと言わんばかりのものであった。
だが、それしか助かる道はない。トリカブトの毒は心ノ臓を麻痺させる。もし止まれば即死だ。だからその前に心ノ臓を無理やり動かし、毒が尿として排出されるまで血を巡らせ続けなければならないのである。
だが、そんなことは知る由もないお英にとっては、とてもではないが受け入れ難い指示だったろう。
「できるわけがないっ! たいちろー、そんなの無理だよ! 死んじゃうよ! そんなことできないっ!」
「お英ちゃんに殺されるなら本望だ。一か八か、やってくれ……いや、やるんだ!!」
「やだあぁぁ……たいちろーが死んだら、おいらどうすればいいのっ…………ひどいよっ……こんなのひどすぎるよぉ……!!」
「────そうだよエイミー。お前がそんな事をする必要はないんだ」
隣の小舟から、何者かが乗り移ってきた。よく整えられたプラチナブロンド、エゲレス風の紳士服。お英の父を名乗る、黒卍党の首領クリストファーだ。お英の瞳に、憎悪の炎が灯る。
「お前……!」
クリストファーは太一郎を一瞥する。お英とは対象的な、恐ろしく冷たい視線だった。クリストファーと太一郎は利用し合う関係にすぎないが、彼の視線にはそれ以上の、あるいはそれ以下の意味が込められていた。
「どう見ても助かりはしないんだ。お前が手を汚す必要は無いんだよ。さあ、その男から離れなさい。それとも、私が始末をつけてあげようか?」
クリストファーが懐に手を入れる。もしや拳銃かと、周囲の者達が身を強張らせる。
「く、う、う、うう……!」
お英は全身を震わせる。強い焦りに囚われているのか、目は忙しなく泳ぎ、盗装束の下から汗が噴き出ている。だが太一郎から離れようとはせず、むしろクリストファーからかばうように両手を広げた。
「……そうか」
クリストファーは嘆息すると、ゆっくりと懐から手を抜いた。
「なあエイミー。お父さんなら、その男を助けてあげられる。そう言ったらどうする?」
「……え……?」
思いがけない言葉に、お英がぽかんとする。太一郎も似たような心境だった。一体どういう意図があってそんなことを言い出すのか。そうは思っても、最早太一郎の体は言うことを聞かない。段々と脈が乱れ始めてくるのを感じていた。
「お父さんは、大きな船を持っているんだ。すぐに着く。そこには人間の血がたくさんあってね……ああ、誤解しないで。ちゃんとお金を払って、針で血を吸い取らせてもらうんだよ。お前は知らないだろうけど、西洋にはそういう技術があるんだ」
この時クリストファーが語ったのは、いわゆる輸血の技術である。この時から少し前の時代、エゲレスの産婦人科医が輸血により何人かの妊婦を救命したという。
「その血があれば、その男を助けられるよ。外から心臓を動かすんだろう? なら、外からも血を循環させればいいんだ。そうしたら、毒も外に出ていくはずだ」
最も、クリストファーは知った上で語らなかった。この時代、血液型も血液凝固剤も消毒法も何もかもが発見されておらず、救命の確率は限りなく低いという事を。
クリストファーの意図を理解したお英の顔に、ほのかな希望の光が差した。彼が目配せすると、源兵衛の指示で小舟が動き出す。
「でもね、エイミー。それはとてもお金がかかるものなんだ。お父さんも、『エイミー』の頼みなら聞いてあげるよ。『エイミー』のためなら、お父さんはなんでもする。『エイミー』のためなら、ね」
「き、きさ、ま────」
太一郎は叫ぼうとするも、既に声は掠れて出ない。
お英も裏社会の人間である。クリストファーの言外の要求を察したのだろう。太一郎を一瞥すると、そっと微笑んだ。
「待ってて、たいちろー。きっと、おいらが助けてあげる。絶対だよ」
それだけ言うと、お英は膝をついた。父を名乗る、クリストファー・アップルホワイトの前に。
「……お願いします、お父さん。どうか、エイミーにこの人を助けさせてください。お父さんの力を、エイミーに貸してください……」
そう言って頭を下げる。そして顔を上げて、もう一度微笑むと、クリストファーに向かって手を伸ばした。
「立ちなさい、エイミー。
クリストファーはお英の手を取って立ち上がらせると、そっと抱きしめた。
「私たちはこうするんだエイミー。私達
太一郎は見た。怒りで震えるお英の両手が、ゆっくりとクリストファーの背に回されていくのを。
「うん……わかったよ、お父さん……」
お英の表情は、太一郎からは見えない。ただ、肩が細かく震えているのがわかった。
───それからの事は、あまり覚えていない。いよいよ神経が麻痺し始めた肉体が伝えてくるのは苦痛だけ。それも痛みなのか熱さなのかもよくわからなくなりつつあった。ただお英が自分のために何かをしてくれる事だけが確かだった。
(続く)