ひと月に渡る死との闘いから目覚めた太一郎。その体はやせ衰え、二度と戦うことはできないとさえ思われた。
献身的に太一郎を支えてきたお英は、その対価を払うため、父クリストファーに人生を委ねようとする。
だが、お英の愛が太一郎の魂に火を点けた。お英を奪取し、クリストファーの手から逃れる太一郎。月明かりの下で、二人は夫婦の契りを交わす。
一方、おりんに囚われたお雪は〈黒いデウス〉の正体を垣間見る。それは、過去にキリシタン
Aパート
暗黒都市、長崎。
異国貿易御許しの街では、夜の賑わいも一際であった。しかし、どのような賑わいの中にあっても、ぽっかりと穴の開いたように闇に沈む部分があった。闇の深き部分は、地獄である。この地獄には、夜毎、死者が出る。闇の中でひっそりと行われる殺人は、誰にも知られることがない。知られぬままに殺されてゆく。それが、暗黒都市の日常であった。
今夜もまたひとり、罪もない女が最後を迎えようとしている。男が女を襲っているのだ。男は顔が見えぬので年の頃がわからぬが、女の方はまだ少女と言ってもよい年齢であろう。
少女は男に組み敷かれながらも懸命に抗う。必死に足をばたつかせている。その足先が男の脇腹に当たったようだ。男は小さく舌打ちをした。そして少女の首筋に手をかけた。少女の顔が苦痛に歪む。
「騒ぐんじゃねえよ。静かにしてりゃあ、すぐに終わるんだ」
やがて男は右手を振り上げ、頬を打った。乾いた音が響き渡る。少女は抵抗をやめた。おとなしく目を閉じて顔を逸らす。男はその少女の様子を満足そうに見つめると、再び行為に集中し始めた。
下卑た笑みを浮かべ、男はこんもりとした乳丘へと手を伸ばす。指先で揉みしだき、乳房を掴み上げるようにしてそれを揉み潰す。白い肌の上に赤い跡が残る。
「いい具合だぜ、お嬢ちゃん」
「いやぁ……やめてくれん……」
弱々しく拒否の言葉を口にするが、少女の力ない言葉など無視されて当然だった。珍しくもない光景だ。力あるものが弱者を食い物にする。強ければ生き、弱ければ死ぬ。ただそれだけのことなのだ。少女は涙を流していた。恐怖の為ではなく、屈辱の為に。
男は左手を伸ばし、少女の太股に触れる。触感が心地よいのか、着物の上から撫で回すようにしながら、男は更に愛撫を続けた。その目は血走り、荒々しい息遣いからは興奮の度合いがわかる。荒い息遣いと共に褌から突き出る肉塊が上下に揺れ動いている。既に先端からは透明な液が溢れ出し、布を濡らしている。
少女は目をぎゅっと閉じ、顔を背けて耐え忍んでいた。間もなく純潔が失われ、そのまま儚く散ってしまうだろうことを予感しながらも、どうすることもできないのだった。
──いや、突如男の動きが止まった。何に驚いたのか、うっと呻いて動かなくなる。突然、その首がぐるりと真後ろに回った。
「なっ……!?」
少女は何が起こったのか理解できず、驚愕の声を上げた。だが、それも束の間のことであった。吹き出す鮮血。男の体がゆっくりと傾き始めると、その体は地面に倒れ伏した。
凍りついた少女の前で、首のない死体はただ転がっていた。まるで糸が切れた人形のように、無造作に転がる頭部は、虚ろな視線を虚空に向けていた。
そこに立っている人影がある。小柄な体躯を黒衣で包み込み、一見は若武者のような姿である。だがよく見れば、その首筋や胸元、腰つきなどは女性特有の曲線を描いていることがわかる。
驚くべきは、顔に被った夜叉の面だった。額から鼻筋までを隠す金色の面は、月光を受けて妖しく輝いている。夜に溶ける黒髪と相まって、さながら闇より出でた鬼神の如くであった。
血のような紅を引いた唇が開く。そこから、小さな呟きが漏れている。
「この男は悪党──この娘は善人──」
夜叉は踵を返すと、路地の入口へと向かって歩き出した。月明かりに照らされたその姿は、まさに異形の存在そのものに見えた。
残された少女は腰砕けになって座り込んでいたが、暫くするとのろのろと立ち上がった。乱れた衣服を整え、髪を手で梳くと、何を思ったか、夜叉が去った方に手を合わせ、合掌したのである。それから少女は、ふらふらとおぼつかない足取りで歩き始めた。
彼女の身に起きた出来事を、誰も信じはすまい。それはまさしく、夢幻の出来事のようだった。
──それからしばらくして、ある噂が流れるようになった。それは『闇夜に浮かぶ夜叉を見た』という噂であった。地獄の中で、人知れず悪を討ち果たす鬼神の姿を見たと言う者が後を絶たなかったのである。
◆◆◆
夜叉というのは、恐ろしげな顔貌をした、天竺の荒ぶる鬼神だという。残虐かつ暴力的で人を食べるが、森林を守護し時に人の味方にもなるという。
「そして、後には仏法に帰依し、その教えを守る善なる神、〈金剛夜叉明王〉となったとされております」
「左様でございますか」
どうでもよさそうに相づちを打ったのは、
世の中というものは本当に腐っている。ジョエルの向かいに座る男は、その思いを隠しつつ話を続けた。
「ま、善なる神と申しましても、悪人だけを喰らうようになったのだとか。〈敵や悪を喰らい尽くして善を護る、聖なる力の神〉という解釈から、このジャパンにおいても古くから、敵を打ち破る〈戦勝祈願の仏〉として広く武人たちから信仰されてきたものなのです」
ここは長崎で一、二を争う料亭、花菱楼だ。
夜叉の伝説を語るのは、長崎の豪商にして町年寄、杉屋良太郎という男であった。長崎の豪商には極めて珍しいまっとうな人間であり、篤志家としても名が高い。目元涼やかな伊達男で、若い時分には遊女からの引く手数多だったという話だ。還暦を迎えた今も、女好きという噂は絶えない。
そんな杉屋がなぜわざわざ悪徳宣教師に会いに来たのか。これは彼が、土着キリシタンたちと経済的なつながりを持っているからに他ならない。
土着キリシタンは父祖より受け継いだキリシタンの教えを信じつつ、異国の脅威に対しては鈍感であった。禁制下にあって信仰を保持し続けた彼らは異国の宣教師に対して崇敬にも似た感情を抱いている。彼奴らが腹の中に汚泥のような欲望を隠し持っていることを知りもせず、少ない蓄えから寄進さえする。そうした状況を利用し、宣教師たちは彼らの心を巧みに誘導し、堕落させ、金儲けの道具に変えていく。権威ある神父や牧師との交流に心を踊らせる土着キリシタンたちの姿は、いっそ哀れでさえあった。
杉屋はそんな土着キリシタンたちに心を痛め、ジョエルのような悪徳宣教師を牽制するために
「おや、そろそろお時間ですな。今宵は有意義な時間を過ごせましたぞ」
「いえいえ、私こそ有益なお話が聞けて満足しておりますよ」
二人はにこやかに握手を交わす。お互い腹の内を隠して笑いあう姿は喜劇的ですらあった。
その時だ。
「だんな様! 曲者です!」
奥の間から護衛の叫び声が聞こえたかと思うと、襖を突き破って一つの影が飛び込んだのだ。
杉屋は咄嗟に明かりを吹き消し、ジョエルを庇うようにして前に立った。これは最良の判断と言ってよく、影は逡巡したかのように動きを止めたのである。
「何者か!?」
暗闇に向かって誰何の声を投げかける。返答はない。ただ沈黙だけが返ってくるばかりだ。その静けさこそが、何よりも雄弁な答えでもあった。杉屋はジョエルを庇いながら一目散に駆け出した。
廊下を走り抜けると玄関口に出る。そこには既に数人の護衛たちが集まっていた。いずれも浪人者だが小奇麗な身なりをしている。杉屋の財力と心がけあってのことだ。いずれも剣の達人である。しかし──。
「む……?」
そこで異変に気づいた。誰一人として抜刀していないのだ。いや、それどころか構えすら取っていないではないか。まるでこれから遊びに行こうとするかのような、緊張感のない立ち姿である。
「貴様等、何のつもりだ?」
杉屋は声を荒らげた。だが、その問いに対する答えは、あまりにも簡潔なものだったのである。
「死ねぃ!!」
その言葉と共に、一人の護衛が刀を抜いてジョエルに斬りかかった。他の者はそれを止めようともしない。そもそも、その必要を感じていないようだった。
「!?」
鋭い刃先はジョエルの喉笛を裂く寸前に停止した。杉屋が左手で鞘を押さえ、右手で柄を握って刀を受け止めたからである。
この杉屋、若い時分には諸国を巡り歩き、その見聞は広く、また剣術にも精通しているのだった。
悲鳴を上げて中庭に飛び出るジョエル。
「おのれ、離せぇい!」
護衛は叫びながら渾身の力で押し切ろうとするが、杉屋の腕はびくともしなかった。むしろ、徐々に押し返しつつある。
「血迷ったか!? それとも……」
言い終わる間もなく、杉屋の姿が消えた。次の瞬間、護衛の体が宙に浮き、背中から地面に叩きつけられたのである。一瞬の出来事だった。受け身を取る暇もないほどの早業だったのだ。
「……正気を失ったのか?」
ならば、問答の意味もない。
杉屋は刀を奪い、ジョエルを追って中庭に躍り出る。常は芸者の三味の音や芸妓たちの笑い声で満たされているはずのそこは、今は静寂に支配されていた。
月明かりの下、何者かが腰を抜かしたジョエルの前に仁王立ちしている。小柄な体躯を黒衣で包み込み、一見は若武者のような姿である。だがよく見れば、その首筋や胸元、腰つきなどは女性特有の曲線を描いていることがわかる。驚くべきは、顔に被った夜叉の面だった。
杉屋は呻く。
「噂の金色夜叉か……まさか実在していたとは……!」
額から鼻筋までを隠す金色の面は、月光を受けて妖しく輝いている。夜に溶ける黒髪と相まって、さながら闇より出でた鬼神の如くであった。
金色の夜叉は無言のまま右手を高く掲げた。その手に握られているのは、驚くほどに長い槍だ。穂先まで全て黒く塗られており、月光の中にあってなお漆黒の輝きを放っているように見える。
黒塗りの
◆大江戸捜査網
ハーレム・サムライ◆
第九回 恋する隠密同心
そやつは、ゆっくりと足を踏み出した。一歩進むごとに周囲の空気が震え出すかのようだ。血のような紅を引いた唇が開く。
「亜米利加の宣教師、ジョエル・デプレ……神の教えを広める立場でありながら、私利私欲のために罪なき民を苦しめ、金を貪り食う外道め」
その声は、女のものだった。それもまだ若い女であるらしいことが想像できる。声量はそれほど大きくなく、むしろ囁くように紡がれたものであったが、不思議とよく通る声だった。
「な、何だと……! 私を侮辱するのか!?」
ジョエルは顔を真っ赤にしながら立ち上がった。齢五十を迎えようというのに、まるで子供のような反応だ。
杉屋は庇うように一歩踏み出た。
「待て待て待て! お前さん、見ればまだ娘っ子ではないか! それが何故、このような狼藉を働くのだ? まずは訳を聞かせてもらおうじゃあないか!」
背後から正気を失った護衛たちの気配が漂ってくるが、この夜叉に比べれば可愛いものだ。何しろ、彼らは武器を構えることさえせず、呆然と立ち尽くしていたのだから。恐らくは彼女の発する殺気に気圧され、身動き一つ取れずにいたのだろう。
金色の夜叉はというと、淡々と答えた。
「杉屋良太郎。お前はこの長崎にあって、なおその名を知られた篤志家。火事があれば駆けつけて人を助け、病に倒れた者がいれば治療を施し、困窮する者あれば施しを与える。例え世間が省みずとも、あたしと十文字槍は見逃しゃしねえ──」
言葉の中身は賛辞と言って良かったが、声音には抑揚もなく、どこまでも冷たい響きがあった。そして、その言葉が終わるや否や、黒い槍が唸りを上げた。
「──っ!?」
反射的に刀を構えた杉屋だったが、むしろ余計な守勢であったかも知れぬ。疾風のごとき槍の一撃は刀を容易く粉砕し、飛び散った破片が杉屋の頬を傷つけたからである。
「うがっ……!」
続けざまに槍の石突が繰り出され、鳩尾を打った。杉屋の肉体が、小石のように跳ね飛ばされる。
(馬鹿な……なんという力だ……!)
呼吸ができない。宙を舞った杉屋は、そのまま料亭の屋根に激突した。瓦屋根が崩れ、土煙が舞い上がる。
「うぐっ……」
呻きながら身を起こした時、金色の夜叉は既にジョエルを串刺しにしていた。喉元から背中にかけて、深々と突き刺さった槍の穂先からは、鮮血が滴っている。ジョエルは目を剥いて、声も上げられずに悶絶していた。
夜叉は槍を掲げ、ジョエルを
「な、なんて化け物だ……」
震える声で呟く杉屋。夜叉の強さは、およそ人間離れしたものであることは疑いようもない。それはもはや、人の領域にあるものではなかった。天魔か羅刹の如き存在だ──そうとしか思えなかった。
「体を労れ、杉屋。例え偽善と呼ばれても、信じる道を往けばいい」
そう言うと、金色の夜叉は踵を返して歩み去った。残されたのは、無惨な骸と化したジョエルの死体だけである。
翌日──。
杉屋は苦虫を噛み潰したような顔で、昨夜の出来事を語った。相手は新任長崎奉行、平松右衛門佐である。
「信じられんことですが、あの娘は槍のひと振りで人間を真っ二つにしてのけました」
奉行所内の評定の間でのことである。居並ぶ同心たちは一様に息を呑み、あるいは青ざめた顔で押し黙っていた。ジョエルの遺体を見て、あまりの惨状に吐き気を催した者もいたほどだ。
そんな中、平松だけは落ち着いた表情で腕を組んでいた。ふくよかな輪郭に似合わない
「実はな杉屋。お
指をパチンと鳴らし、平松は笑った。
その仕草だけを見れば、どこにでもいる気のいい親父といった風情である。だが、彼の本性を知る杉屋には、とてもではないが笑う気になどなれなかった。平松は、たった八百石の小身ながら長崎奉行に成り上がった男だ。賄賂を受け取って昼間から遊び呆けているように思わせ、裏では様々な策謀を巡らせる食わせ者である。
「お前ェが何を言いたいのか、わかるぜ。悪党を成敗してくれる、そんな奴は正義の味方に違いないってんだろ?」
杉屋は頷く。彼の目に、あの娘はそのように映っていたのだから。だが、続く言葉は意外なものだった。
「ところが、違うんだなこれが。あの夜叉が現れた現場では、必ず誰かが暗示で操られている。それも、事が終わったら喉を突いて死んじまうんだ」
「な、なんと……!」
杉屋はまだ知らぬことだったが、昨晩彼に襲いかかった護衛たちも、既にこの世の者ではなかった。
「むむむ……ですがお奉行、私めの目には、とてもあの娘がそのような真似をするようには!」
必死に訴える杉屋であったが、平松はうるさいと言いたげに手を振った。またパチンと指を鳴らして、杉屋を手招きする。
「は……」
訝しみながらも近づくと、不意に肩を掴まれた。驚いて顔を上げると、目の前にあったのは、先程までとは打って変わって険しい表情となった平松の顔だった。
「いいか? この絵図を見ろ。これは誰にも言うなよ……」
杉屋は目を見開く。平松が見せた絵図には、人身獣面のはりつけ像が描かれていた。
「お奉行、これは……」
「そうともよ。
◆◆◆
お英の朝は早い。
日の出前に起床し、身支度を整えて海に潜る。島原の海には多くの海女がいるが、お英と見れば快く魚や貝を譲ってくれる。特に蟹はいい値で売れ、貴重な現金収入となる。
海から上がったお英が髪をかき上げると、海水に濡れた
ここは肥前国島原、その南に位置する漁村である。この漁村にはかつて、天草四郎なる少年が隠れ住んでいたという言い伝えがある。最も同じ言い伝えは隣の村にも、そのまた隣の村にもあるらしい。
お英が小屋に戻ると、庭先で夫が朝の鍛錬に励んでいた。
「ただいま戻りました」
「おう、ご苦労」
夫は軽い足さばきで、両の拳を宙に打ち込み続ける。それをしばらく見つめてから、お英は縁側に座り込んだ。
(……今日も凄い……)
思わずため息が出そうになるのを抑えつつ、胸元を軽く撫でる。夫の総身から、燃え上がるような男の匂いが放たれている。しかしそれは決して不快ではない。むしろお英にとっては甘美ですらあった。
(……これが私の旦那様なんだ……)
そう思えば思うほど、下腹部が熱く潤んでくる。夫の視線が自分に向けられただけで、子宮の奥が甘く痺れてくるようだった。
「お英ちゃん、朝飯にしてくれ。湯は沸かしてある」
「あ、はい、わかりました」
はっと我に返り、慌てて立ち上がり竈に向かう。魚を捌いて芋の皮を剥き、貝をむき身にして雑煮を作る。煮る前に軽く火で炙り、香ばしさを引き出しておく。米や味噌は手に入りにくく、味付けは塩だけだ。だが魚の出汁と芋の甘みだけでも充分美味な一椀に仕上がる。
「いい匂いだ、もうできたのかい?」
振り向くと、汗を流しながら微笑む夫の姿があった。お英はどぎまぎしながらうなずく。
「わ、私も今できあがったところです、いつでも!」
「……いや、そっちの意味じゃない。腹が減ってるんだ、早く食わせてくれ」
「ご、ごめんなさい! たいちろーは座ってて、すぐ準備するから!」
慌てて土間に降りようとすると、ふと背後から抱きすくめられた。
「あ……」
夫の腕は、たらふく魚を食って太くなってきた。
それが腰に回され、ぎゅっと力強く抱きしめられる。熱い吐息が耳元をくすぐり、ぞくぞくとした甘い感触が背筋を走る。その腕の力強さとは裏腹に、優しい囁き声が耳に届いた。
「食ったら、夫婦の営みの時間だな」
「……うん……」
お英の顔が真っ赤に染まったのを見て、太一郎は満足気に微笑んでいた。尻に押し付けられた硬いものが、さらに熱を増していくのを感じる。
「たいちろー……♡」
二人がこの漁村に流れ着いてから、半月が経過していた。
◆◆◆
夫婦になって、お英は随分変わった。孤児故か、ふと見せる寂しさのようなものがなくなったし、何より表情豊かになった。まるで花のような笑顔を浮かべるようになったのだ。それは妻としてとても喜ばしい変化であり、同時に愛おしくてたまらなくなる瞬間でもあった。
「たいちろー、今日は何をしようか? 海に釣りに行く? それとも山菜採り? それとも……私?」
そう言って、少し恥ずかしげに視線を逸らす。頬はほんのりと赤く染まり、恥じらいながらも期待に満ちた眼差しをしていた。
分かりやすい変化は、自身を「おいら」ではなく「私」と呼ぶようになったことだ。立派な妻たらんとしているのか、少年じみた口調を改めようと努力しているらしかった。抑揚がどこかジェニファーを思い出させるのも面白いところだ。
そして、その可憐な美しさには磨きがかかったように思う。もともと器量よしだった彼女が、より美しくなったように見えた。質素な着物を身に着けていても隠しきれないほどの色気があるようにすら思える。太一郎はその艶姿を眺める度に、得も言われぬ昂ぶりを覚えるのだった。
「そうだな……とりあえず、ちょっと昼寝でもするか。昨日も遅くまで起きていただろう」
「え、でも……」
「いいから、ほら」
手を引いて、寝床へと連れていく。最初は遠慮していたお英だったが、やがて素直に従ってきた。そのまま布団に潜り込み、互いに横になる。するとおずおずと身を寄せてきたので、優しく抱きしめてやった。
「……暖かいね」
「ああ、そうだな」
互いの体温を感じつつ、しばし沈黙が流れる。
この半月というもの、太一郎は己の体力を取り戻すことに専念していた。一ヶ月に渡る闘病生活は、どれほど強い気力があったとしても軽く見てよいものではない。夜は魚や貝をたらふく喰って眠り、起きれば勘を取り戻す程度の鍛錬をこなし、また飯を喰らう。朝は芋を食すことを心がける。これは消化が良く、すぐに動けるようになるからだ。
動いて何をするかと言えば、無論お英を抱くのである。
太一郎の女房は朝は漁に出て一日の糧を集めた後、洗濯や夫婦の営みをして日の高いうちには出かける。それはキリシタンの共同体に入り込み、〈黒いデウス〉の、ひいては彼奴らに囚われたお雪の情報を収集するためだ。
「ん……ねえ、何もしないの……?」
「今はしないよ」
布団の中で抱き合い、手を握る程度でも自然と体が疼いてくるのか、お英が物欲しそうな顔を浮かべ始めた頃を見計らい体を離した。
不満げな表情を浮かべる彼女に微笑み掛け、寝かしつけるために背中をさすってやる。それで安心したのか、次第に目蓋が落ちてきて、ついには寝息をたてはじめた。
「ん……んん……たいちろ、好きぃ……」
寝顔もまた格別に愛らしいと思いながら見つめていると、こちらも眠気がやってきた。そうして自分も眠りに落ちるまでの僅かな間、ずっと彼女の寝顔を眺めていた。飽きなかったし、これから一生眺めていてもいいと思えるほどに愛おしかった。
お英のひたむきな愛情は、まさに至上のものと言ってよかった。万事において甲斐甲斐しく尽くし、自分への愛情を行動で示してくれている。彼女にそこまでさせてしまうほどに弱ってしまった自分を不甲斐なく感じたこともあったが、今では感謝の念しかない。
だからこそ、夫婦の営みに手は抜けない。何しろお英は若く、鍛え抜いた体力は底なしで、覚えたてのまぐわいに性欲は尽きることを知らないのだ。
『あっ♡ねえ、もう一回、ねえ、いいでしょ、たいちろー、だんな様ぁ、おねがい、私のだんな様ぁ、あんっ♡』
このように、何度も何度もせがんでくる。しかも気をやる度に膣壁の動きも複雑になり、こちらの肉棒を責め立ててくるのだから堪らない。
こちらがどれだけ射精しようとお構いなしだ。行為が終わったかと思えばすぐ胸にしなだれかかり、乳首を舌先で転がしながら甘えてくる。
ある晩には、それを五回も六回も繰り返した挙げ句、終いには気を失うまで交わり続けたのだ。そんな激しさを統制し、かつ愛情を伝えられるよう努めるのは並大抵のことではなかった。
それでも献身的な愛に応えたいと思う気持ちが、自然と太一郎の生命を燃え上がらせる。全盛期にはまだ遠いが、滋養と休養と鍛錬は太一郎の全身を満たしつつあった。今や肉体的・精神的に充実した日々を過ごしており、以前にも増して活力に満ち溢れている自覚があった。
◆◆◆
──その日、夢の中にお雪が現れた。敵に囚われたはずのお雪だったが、ますます正義の炎を燃え上がらせ、十文字槍を振りかざして次々と悪党を成敗していく。お雪が槍を振るえば血煙が上がり、賊が倒れ伏す。
夢の中でお雪は、いつもの調子で言った。
『この外道め。例え世間が見逃しても、この十文字槍が黙っちゃいねえ! 地獄の閻魔に変わって、このお雪様が手前ェらの悪事を全部引っ剥がしてやる!』
だがその体は傷だらけだった。肌は泥と煤にまみれ、ところどころ火傷の跡が残っている。破れた袴から覗く白い足にも無数の傷跡があり、その美しい顔には刀傷が残っていた。
彼女は決して諦めない。たとえ傷つき、倒れても立ち上がる。その精神力こそが、彼女を無敵の隠密同心にしているに違いない。
そう確信できたからこそ、太一郎は堪えきれない怒りを感じる。
どうして、誰も彼もこの娘を一人にするのだろう。
どうして、お雪の隣にいるのが自分のような人殺しの鬼だけなのだろう。
『……へへっ、兄貴。すまねぇ……』
お雪の足元には、一人の若者が倒れていた。既に息はないらしく、ぴくりとも動かない。お雪は彼の側に跪くと、涙をぽろぽろと零した。
『ごめんな……ごめんなぁ……悪党は、許しておけねぇんだ……例えそれが太一郎兄貴でも……楽しみのために人を殺すなんて許せねぇよ……だって、あたしは隠密同心だから……みんなを守らなきゃいけねぇから……』
泣きながら、お雪は若者を抱きしめる。それは紛れもなく太一郎自身だった。太一郎は、お雪に殺されていた。
──この愚図が、俺のくせに何をお雪ちゃんに殺されていやがるんだ、そんな事になったら、その娘がどうなっちまうのか、出楠太一郎が知らねえはずはねえだろうが……畜生ッ……!
お雪は泣き続ける。嗚咽を噛み殺し、ひたすら泣いていた。だが例え悲しみに打ちひしがれていても、再び立ち上がるだろう。自身の使命を全うし、果たすべき事を果たすため、何度でも何度でも、自分の全てを犠牲にして……
『隠密同心 心得之条……』
止めろ、言うな。
『我が命我が物と思わず 武門之儀 飽くまで陰にて 己の器量を伏し 御下命 如何にても果す可し 尚 死して……』
そんな事を、この娘に押し付けるな。
『……死して屍拾う者無し』
そう言って、お雪は再び立ち上がった。もう涙はなかった。そこに立つ姿はあまりにも凛々しく、そして儚く、美しかった。
『死して屍拾う者無し』
ああそうだ、これこそが隠密同心の生き様だ。太一郎のような紛い物ではない、本物の隠密同心。
『……死して屍拾う者無し』
明日を捨て、己を隠し、人生の裏道を歩まねばならぬ宿命を、自らに求めた者。
それが隠密同心。
それが十文字お雪。
星空の下、太一郎の腕の中で、いずれ男と女になろうと誓いを交わした、一人の少女。
──奇妙な話だが。太一郎は、その股ぐらが今まで感じたこともないほどに激しく
(続く)