あたしは隠密同心、十文字お雪。同じく隠密同心の母から生まれ、三つの歳から修練を重ねた、生まれついての隠密同心。
あたしが太一郎兄貴と出会ったのは、初めてお江戸に連れられて来た時のことだ。歳が十になって、初めて里から外に出ることを許されてな。
お師匠様に連れられて品川の
日本橋に着いたのは、もう日が暮れかけた頃だった。あたしとお師匠様は大川端の小さな旅籠に入った。そこの主人夫婦は優しい人たちだったけれど、あたしのことを見ると露骨に嫌そうな顔をしたものだ。
理由は単純明快。あたしは山出しの田舎モンで、着物は垢染みて薄汚かった。それに、目つきが鋭すぎるってんで、おっかないと思われたのだろう。だけどお師匠様はそんな視線を気にもせず、堂々としていた。だからあたしも負けていられないと思ったんだ。
あたしたちは部屋に通されると、すぐに湯屋に行った。いや、あん時ゃあ感動したね。何しろ湯が新しい熱い多いの三拍子でさ。後で聞いたら、お江戸には水道が通ってて、井戸でいくらでも水を汲めるんだってな。まったく知らなかったぜ。実際、今まで入った風呂の中でも一番だったね。お師匠様も気持ち良さそうに長々と浸かってたな。
おっと、お師匠様は女だぜ。一見は尼さんだが、おっかねえ人だったよ。とにかく容赦ってもんを知らなくて、手が早いったらありゃしなかった。あの細腕からは想像もつかないような力で、どんな大男でもぶん投げちまうんだから、たまげるよなあ。
それで旅籠に戻ったら、主人夫婦は手のひらを返したように親切にしてくれたっけな。湯に入るだけで、こんなに待遇が変わるのかと思ったね。思えば変装術を磨いたのも、その経験があったからかも知れねえな。
あたしらは遠慮なく食事をもらい、酒を飲ませてもらった。や、あたしは勿論茶だよ。それでまた、食い物が美味えのなんの。白米に魚に煮物に漬物……どれもこれもほっぺたが落ちそうなくらい美味いんだもの。特に驚いたのは、鰤の
その夜、お師匠様と布団に入って、色々な話をした。故郷のことや、家族のこと、好きな食べ物、嫌いな食べもの、得意な剣術や体術、苦手な算術や読み書き、色んなことを話した。お師匠様は聞き上手だったから、ついつい話し込んじまったよ。
お師匠様が「お前にとって何が幸せか」って聞いたから、「悪党を斬ることが一番の幸せだ」と答えたら、「それでは人斬り包丁と同じではないか」なんて言われちまった。なるほど確かにその通りだと思って笑ったもんだ。今から思えば、物騒な弟子の面倒をよく見てくれたもんだなって思うけど、あの人はそんなこと気にしてなかったんだろうな。
次の日は町に出た。お江戸の町は華やかで、活気に満ち溢れていた。人が多くて道が入り組んでいて、恥ずかしながら迷子になっちまった。そんな時に、あたしに声をかけてくる奴がいた。
「もし、そこの娘御。道に迷っておられるようですが、如何かな」
「ああん? なんだ、てめえは」
それが太一郎兄貴との出会いだった。
「これは失礼。拙者、出楠と申します」
「出楠ぅ? なんだよ気取った喋り方しやがって。似合わねぇんだよ、バカ野郎! 出楠ってのは名字だろう? 下の名前を教えろよ、名前を!」
拙者、出楠と申します、ときたもんだ。まあ今の兄貴を知ってりゃあ驚くだろうな。
その頃は兄貴も十四、武者修行からお江戸に帰ってきたばっかりの時だった。なんつうか、あの頃の兄貴は妙に取り繕ってて、正直言って気味悪かった。今から思えば、好きな殺しができなくて悶々としてたんだろうがな。
「……ふっ……ふふふふっ……」
「なに笑ってやがる? おいこら、てめぇ!」
その兄貴がいきなり笑い出したんだから、当時のあたしは相当イラッとした。そりゃそうだろ、初対面なのに馬鹿にされてる気がしたからよ。そしたら兄貴はますます可笑しくなったみたいで、腹を抱えて笑っていた。
「……くっ……くくっ……すまぬ……まさか俺の相棒になるのが、お前のような小娘だとは思わなくてな……つい笑ってしまった」
「はあ!? 何言ってんだ、このすっとこどっこい! 相棒だァ!?」
「そうだ。俺とお前はこれから共に行動する。俺がお前を鍛えてやる。その代わり、お前も俺を強くしろ」
「ふざけんな、誰がてめえなんぞと組むかよ! だいたい、なんで俺がおめえみたいな青瓢箪と……!」
いや、当時の兄貴は本当にいけ好かない奴だったよ。気取り屋で、目だけはギラギラしてて、口先だけ達者で……今思い出してもムカッ腹が立つね。ま、あたしの方も糞餓鬼だったからな、人のことは言えねえんだが。
そんなことがあって、兄貴と組むようになった。本多の殿様に引き合わされて、少しして御役目が入ってだ。当然二人で行くことになるわけだが、そこで初めて知ったわけだ。兄貴の腕前をな。それまで馬鹿にしてたけど、一緒に鉄火場に出てわかったんだ。こいつは何でも知ってる、何だってできちまう奴だとね。
それに比べ、あたしはただのガキだった。当時のあたしときたら槍の腕こそ確かだったが、まだ子供だった。自慢じゃないが、あたしは十で既に師匠より強かった。だから一人前として認められたんだ、だからお江戸に来たのだと思っていたのだが、それは大きな間違いだった。まだまだ未熟で、荒削りもいいとこで、自分の腕を過信しちまってた。
だからこそ、その任務で失敗した時は落ち込んだね。いけ好かない相棒の足を引っ張ってしまったと思ったからだ。だけど兄貴はこう言ったんだ。
「お前の槍は大したもんだ。だけど一人でできることには限界がある。俺もそうだし、誰だってそうさ。だから互いに補い合っていけばいい。俺たちは一蓮托生だ。お前が失敗すれば、その分俺が頑張ればいいだけのことだ」
そん時の気持ちは忘れねえよ。顔から火が出るほど恥ずかしくて、でも嬉しかったね。そんな風に言ってくれる人は誰もいなかったからさ。強くなれ、仕損じれば罪のない人が死ぬ、そう言われて育ったんだ。だから余計に、その言葉に救われたんだ。
それからは必死だったな。兄貴はあたしの目標になった。とにかく強くなるために努力した。兄貴にも色々教えてもらったし、実戦で試したり、書物を読んだりして、少しでも上を目指した。
そしていつしか、あたしは兄貴を……だけど、そう思い始めたのは多分、兄貴がお内儀さんと祝言を挙げた頃からかな。何だか、急に余裕が出てきやがったんだ。
姉さん女房は金の草鞋を履いて探せって言うだろ? ありゃあ本当だなって思ったぜ。洒落た着物を着るようになったし、あたしの事も妹分として大事にするようになった。やたらに惚気けるようにもなったか。それを聞かされるあたしの身にもなりやがれってんだよな。
……あの頃は訳も分からず鬱陶しいと思うだけだったけど、今思えば嫉妬してたんだな。兄貴を変えたお内儀さんが妬ましかったんだ。
まあ、色々あって、兄貴とはその……心がさ? 通じ合ったっていうかさ……? そうさな、うん、男と女の関係になろうって言われたんだ。ああ、そうだよ、あたしは嬉しかったぜ。
だって、あたしは一人だもの。
三つでお
だから、あたしは本当に嬉しかったんだ。やっとできた、初めてできた背中を預けられる仲間だったんだからよ。しかもそいつが優しくて強くて、おまけにとびきりのいい男だったんだ。惚れないわけがねえじゃねえか。
……なんでこんな話してるかって? そりゃあ、他にする事が無いからだよ。あたしは〈黒いデウス〉にとっ捕まって牢屋に入れられてるんだからな。しかも暗示にかけられて、奴らの手下として働かされてる。おかげで長崎中を走り回って、悪どいキリシタンどもを斬って回る毎日さ。
でも、それももうすぐ終わりだ。鬼一とか名乗ってた、浪人の八郎太。奴が奪った船に載せられて、どこかに運ばれてる。きっと見つかったんだ。兄貴とお英が。この船には忠太郎も乗ってるしな。決着の時は近いぜ。その時のために、少しでも体を休めておかなくちゃな。
じゃあ、またな。次に夢で会った時は、もっとたくさん話してやるさ、お母。
◆◆◆
船倉に据えられた簡易な牢に、隠密同心の小娘が鎖で繋がれている。名はお雪というらしい。
「おりん……」
「はい、あなた」
「あれは……なぜ裸にしてあるのだ?」
お雪は長い黒髪の美しい娘だった。歳はまだ十代半ばといったところだろうか。しかし、今の彼女の装いといえば、下穿きすらも身につけていない状態だった。どこか幼さを残した肢体には無数の傷跡があるが、若さゆえか瑞々しい張りを保っている。乳房の膨らみも年の割には大きい方で、それが余計に淫靡な雰囲気を醸していた。
そんな娘が両手を鎖で拘束されているのだから、むくつけき船員どもが欲情してしまっても無理はないのではないか。
「あら、そんなことですか。危険だからに決まっています」
「危険? 裸の方が危ないではないか」
「ふふ、そうですねえ……」
おりんはクスクスと笑うと、足をタタンと踏み鳴らした。
途端、船倉の角に立っていた船員がびくりと震える。その瞳からは意思の光が失われている。元より、おりんの操り人形なのだ。
「お前、あの娘を襲いなさい。ただし、決して殺してはいけませんよ」
「はい……」
短く答えると、船員は牢の鍵を開けて中に入った。そのままお雪の身体に手を伸ばすと、無遠慮にも胸を掴んだ。いや、掴もうとした。
「──
それは一瞬であった。お雪の右足が目にも留まらぬ速さで動いたかと思うと、次の瞬間には男の首が背中にまで回っていた。ゴキリ、という鈍い音が響き渡る。男は泡を吹きながら絶命し、崩れ落ちた。
「……これは驚いたな、確かに危険だ」
「ええ、そうでしょうとも。例えあなたでも、あの娘が布一枚でも手にしていれば命の危険があります」
おりんは船員に命じて死体を片付けさせると、改めて八郎太に向き直った。先ほどの出来事などなかったかのように涼しい顔をしている。
「あれは怪物です。邪まな気を起こした黒坊主は一人目が腰骨をへし折られ、二人目が喉を潰されました。いずれも即死でした。三人目から五人目に至っては、三人同時に首だけにされましたわ」
彼女は淡々と語るが、その内容は決して穏やかなものではなかった。そもそも黒坊主たちは〈黒いデウス〉の中でも荒事の得意な者たちなのだ。その彼らが、暗示で操られた一人の少女になす術なく殺されるのだから恐ろしい話である。
「……どうやって操っているのだ? 本人も暗示使いと言っていたではないか」
お雪という隠密同心は、一度はおりんを再起不能に追い込んだほどの手練れである。その彼女を無力化出来るとなると、八郎太も知らぬ強力な暗示なのか、あるいは薬物を使っているのだろうか。
いずれにせよ、警戒するに越したことはない。
「正確には、操ってはおりません。言わば、めくらの術ですね」
「めくらの術……?」
「漢の言葉では認識阻害とでも申しましょうか。馬の顔に覆いをするように、彼女に必要なもの、わたくしが見られては困るものを見えないようにしているのです」
「そうか、例えば牢から出る方法であるとか……」
「はい、後はわたくし達〈黒いデウス〉が敵であるということもね。乱暴しようとすれば先程の通り、敵と見なされて首を折られます」
なるほど、それなら合点がいく。お雪という娘が如何に強くとも、見えない敵と戦うことなど出来ようはずもない。敢えて支配せず、方向性だけを捻じ曲げて都合のいい行動をさせているのだ。
「鼻先に人参をぶら下げられた馬のようなものか。よく考えたものだな」
「ええ、苦労しました。下手な暗示をかけようとすれば、逆にこちらがやられかねません。悪人を殺させる分には、全く問題なく働くのですが」
「難儀なものだな」
「それでも、出楠太一郎を殺させるには十分です。何しろ、あの男は快楽のために人殺しをするのでしょう? あなたと同じにね」
そこまで言って、おりんはにこりと笑った。つられて苦笑する。
そう、八郎太は殺しに悦楽を覚える人間だ。そして、出楠太一郎もまた、そうした人殺しの鬼であった。
「ああ。横浜の沖で奴の殺しを見た時、俺は痺れたよ。奴は殺しながら笑っていたんだ! 心底楽しそうに、笑いながら刀を振るっていたんだよ! あれほど面白い見世物はなかったぜ!」
興奮のあまり口調が乱れていたことに気づき、八郎太は慌てて口を噤む。おりんは相変わらず微笑んだままだ。
「うむ……すまん。つい昂ぶってしまったな」
「いいえ、構いませんよ。それでこそ貴方なのですから」
二人はしばし見つめ合ったまま、くすくすと笑った。同じ種類の人間同士が惹かれ合うのは当然だ。ただお互いを認め合い、笑い合っているだけで得られる幸せもある。
人を人とも思わぬ八郎太とおりん。
人を殺して悦楽を感じる八郎太と太一郎。
それはある種の同族意識でもあった。
しかし八郎太は、人の尊厳を踏みにじることを屁とも思わぬ。忠太郎にやったようにだ。人を守る立場の太一郎とは対極に位置する人間だ。それゆえに、彼らは出会うべくして出会ったのかもしれない。
「さて、そろそろ本題に入るとしようか」
笑い終えた後、おもむろに八郎太は言った。おりんとの話に興じるのも悪くはないが、今はそれよりも大事なことがある。
「例の、南蛮渡来の終末兵器とやらのことだが……どこにある?」
(続く)