※この作品はR-18です。

大江戸捜査網 ハーレム・サムライ   作:a-su

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Dパート

 日暮れ時から始まった雨は、今やすっかり本降りになっていた。雨音が障子越しに聞こえてくる。

 クリストファーは、お英のグラスに琥珀色の液体を注いだ。濃く淹れた紅茶を冷やして、レモンの代わりに柚子を絞ったものである。クリストファーが思いつく限り、最も美味く紅茶を飲む方法であった。

 ここは長崎にある黒卍党の拠点、その一つだ。元は長崎奉行所の役人の屋敷だったが、困窮のために金で貸し借りされていたところを黒卍党の連中が買い取ったのである。

 

「ありがとう、お父さん」

 

 礼を言って一口飲むとお英の表情は柔らかくなり、幾分か緊張が解けたように見えた。

 クリストファーもまた自分の紅茶にブランデーを注ぎ、一気に呷った。強いアルコールが喉を焼きながら胃に落ちていくのが分かる。思わず咳き込んだが、それでも彼は飲み続けた。

 

「体に良くないよ、そんな飲み方」

「良いんだよ、どうせ私が長生きしても誰も喜ばないさ」

 

 そう自嘲気味に言ってしまう。お前もそうだろう、とは流石に言えなかった。

 自暴自棄とは、クリストファーの苦手な言葉だった。酒精の力を借りなければ口に出せないような弱音など吐きたくなかったし、まして娘に聞かせるようなものではないと思っていた。

 しかしお英はその呟きを聞き逃さなかったらしい。彼女はグラスを置いて言った。

 

「そんなことないよ」

「そうかな」

「うん。少なくとも私は嬉しい」

 

 それを聞いて、クリストファーは苦笑した。自分をエイミーと呼んで偽るのは止めたのだな、と思いながらも、少しだけ気が楽になった気がした。娘はすっかり大人の女性になったようだ。何なら、男と駆け落ちするくらいには。

 

「ありがとう。エイミーがそう思ってくれるなら、私も救われるよ」

 

 お英が嬉しそうに微笑むのを見て、思わず顔を綻ばせる。既に神の御下に旅立った妻、マリアに生き写しの娘。異国で生まれたクリストファーの宝石。三歳で人買いにさらわれ、人生の全てを賭けて日本中を探させた愛しい我が子。それが目の前にいることが、とても嬉しかった。

 だからだろうか、ふと頭に浮かんだ疑問を口にしてしまったのは。

 

「ところで、エイミー……その……」

「うん? なあに、お父さん」

 

 言い淀んでいる間に、お英は二杯目の茶を飲み干してしまった。おかわりを注ぎながら、おずおずと尋ねる。

 

「出楠太一郎と、その……寝たのか」

「ぶっ」

 

 お英は口に含んでいた茶を全て吹き出した。げほごほと咳き込みながらも、呆れたように父親を見る。

 

「気になるにしたって、言い方があるでしょ。もうちょっとこう、遠回しな言い方がさあ」

「う、うん、すまない。でも、お父さんも家族とこういう話をするのは初めてだから……」

「ずるい言い方するなあ」

 

 出楠太一郎と一緒になると言って逃亡したお英は、半月ほどでひょっこりと戻ってきた。それもつい先日のことである。腹立たしいのは、出楠太一郎がいない事だ。

 

「そりゃあ、まあ。その……子供ができるような事はしたよ。半月も一緒に暮らしてたんだから……分かるでしょ?」

「……っ!」

 

 娘は髪先をいじりながら、恥ずかしそうに呟いた。その言葉に一瞬息を飲み、どさりと椅子に崩れ落ちる。

 何という事だろう。大切な娘が、異民族の男に、よりにもよって出楠太一郎のような闇社会の男に汚されてしまったというのだ。怒りとも悲しみともつかない感情が胸の内を渦巻く。

 

「そんな反応するなら、最初から聞かないで。私だって恥ずかしいんだよ」

 

 そう言うとお英はそっぽを向いてしまう。だがその顔は真っ赤で、耳まで染まっていた。

 

「……そ、それで、彼はどこに行ったんだ?」

「言うわけないでしょ。お父さん、あの人を殺すつもりなんでしょう?」

 

 そう言われて言葉に詰まる。確かに殺すつもりだった。やっと取り戻した娘を、これから世界で一番幸せにしてやろうと思っていた娘を、劣等人種の若造に寝取られたのだ。当然の感情だ。むしろそう思わない方がおかしいくらいだ。

 

「ねえ、エイミー…………考え直しておくれ。お父さんと合衆国に帰ろう。そうすれば、彼の事は忘れてあげるから…………」

「絶対に嫌。あの人を裏切るくらいなら死んだほうがマシ」

「エイミー……なら、力強くでも…………」

「できると思ってるの? お父さんの部下の誰より、私の方が強いんだよ?」

 

 そう言うとお英は椅子から跳んだ。一跳びで天井の梁に掴まり、逆さまにぶら下がる。そしてそのまま手を放すと、ふわりと音もなく床に降り立った。そのしなやかな動きは、まるで人間の姿をした猫のようだった。

 

「言っておくけど、猫じゃない。鼠小僧だよ」

 

 それは、お英が育ての親から仕込まれた盗みの技、なのだという。

 

「エイミー……分かってる、分かってるんだ。お前が裏の世界の住人だってことくらい……それでも、私の……私の……」

 

 クリストファーの全身から力が抜ける。力なく椅子に座り込む姿は、齢四十二の壮年男性とは思えないほど弱々しいものだった。

 

「……ごめんよ、エイミー。お前の選択を踏みにじるような事を言って……だけど、お父さんは…………お前を不幸にはしたくないんだ」

 

 そう言ってうなだれるクリストファーを、娘はしばらくの間黙って見ていた。

 

「……私こそ、ごめんね。当てつけみたいな事をして。お父さんには感謝してる」

 

 沈黙を破ってそう言ったのはお英の方だった。申し訳なさそうに目を伏せている。それを見たクリストファーはハッと我に返り、慌てて笑顔を取り繕った。

 

「ああ、いいんだ、いいんだよエイミー……私の方こそすまない……大人げないところを見せてしまったね……そうだ、新しい飲み物を持ってこさせようか? 何がいい? 紅茶は沢山あるし、少しだけど珈琲も用意があるよ」

 

 そう言って立ち上がろうとするクリストファーを、お英は制した。

 

「ううん、いいの。時間切れみたい」

「エイミー……?」

「来たよ、〈金色の夜叉〉が。お父さんと私を殺しに」

 

 いつの間にか雨は止んでいた。だが、遠くの方で雷鳴が響いたかと思うと、稲光が部屋の中を照らし出す。

 

「……そうか」

 

 お英の言葉に頷くと、クリストファーは静かに立ち上がった。その表情からは先ほどまでの弱さが消え去っている。娘を思う父の顔ではない。

 黒卍党首領の顔であった。

 

「武器は仕舞わせた?」

 

 お英は恥ずかしげもなく服を脱ぎ、黒尽くめの装束に着替えていた。頭を覆う頭巾の隙間から見える目は鋭く研ぎ澄まされている。

 

「ああ、武器庫の鍵も私が持っている。本当なのかい、私の部下を自由に操れるというのは」

「〈黒いデウス〉の、おりんなら。今は腕を失って弱ってるはずだけど、警戒するに越したことないよ」

 

 お英はしゃがみ込むと、自分の背中を指さした。

 

「ほら、乗って」

「いや、しかし……この年で、娘に背負われるというのも……」

「いいから早くして! 来るよ!」

 

 お英の一喝で、渋々クリストファーはその背に乗った。娘は自分より背が低いが、驚くほどの力で彼を軽々と持ち上げたのだった。

 その時である。稲光が、障子に人影を浮かび上がらせた。

 

『黒卍党首領、クリストファー・アップルホワイト。自らも異人でありながら、攘夷志士たちと異人を争わせる外道』

 

 障子の向こうの影が言う。くぐもった声だったが、その声に込められた侮蔑の念だけははっきりと感じ取れた。

 

「お父さん、しっかり捕まってて」

 

 その声をお英は一顧だにせず、反対側に駆け出した。

 

「No way(まさか)?!」

 

 凄まじい速度だ。その速さたるや、稲妻に勝るとも劣らない。あっという間に庭を抜け、屋敷の門を抜け、塀を飛び越えた。

 

「This is unbelievable(信じられん)!」

「喋ってると舌噛むよ!」

 

 着地。娘の足腰は信じられないほどに強く、道のぬかるみを物ともせずに疾走していく。クリストファーは自分の足で走るよりも速く風を感じ、驚愕していた。

 

「どこまで逃げるんだい! このまま行くと、奉行所の方に行ってしまうぞ!」

「それでいいんだよ! お奉行様と話はついてる!」

「なに!?」

 

 クリストファーが背後を見ると、黒い影が二つ、こちらを追ってきていた。

 一人は般若面を被った小柄な男。いや、少年か。手足が長くすらりとして、その身のこなしはまるで曲芸師のようだ。クリストファーが想起したのは、かつて大坂で見た大道芸人、早竹十郎の見事な軽業だった。

 もう一人は、少女だった。一目見て、これが〈金色の夜叉〉だと分かる。艶やかな黒髪を背に垂らし、稲光に金色の面を浮かび上がらせている。だが、獲物は持っていない。自分と娘を追うためか、話に聞く十文字槍を放棄したようだ。

 

「作戦は上手くいったようだね!」

「油断しないで! あの娘はほうき一本で刀をへし折るし、素手でも人間の首を引っこ抜くよ!」

 

 お英が叫んだ瞬間、風切り音が鳴った。少女がいつの間にか手にした小石を投擲したのだ。恐るべき膂力によって放たれた石礫は弾丸のように飛び、間一髪で跳躍したお英の下を通り過ぎた。地面をえぐり取った石礫を見て、背筋を冷たいものが駆け抜ける。

 

「Holy shit!」

 

 咄嗟に腰のホルスターから拳銃を引き抜く。が、引き金を引くより早く、お英が再度跳躍した。そのまま塀の上を走りだす。

 

「エイミー、これでは狙えない!」

「撃っちゃダメだって言ったでしょ! 私はあの子を救うために来たの!」

「だが、お前にもしもの事が…………うおおっ?!」

 

 横から飛んできた短刀が、二人の横すれすれを通過していく。

 見上げれば、般若面の少年が屋根の上を跳んでいる。速度で勝るお英に対し、障害物をむしろ足場に変えて追随してくるのだ。命も要らぬと言わんばかりの曲芸じみた挙動。命を狙われているのが自分でなければ、拍手喝采したいほど見事な技だ。

 

「エイミー、せめて奴だけでも、立ち止まって仕留めた方が!」

「ダメ、走り続けて速さで振り切るしかない! 立ち止まったら、周り中から短刀が襲い掛かってくるの! トリカブトの毒まで塗ってあるんだよ!」

「……ッ!! くそぉっ!」

 

 クリストファーはどうにでもなれという気分で、娘の背中にしっかりとしがみついた。

 

「もっと走れエイミー! 私は絶対に死ねないんだ!! お前を幸せにして、孫の顔を見るまでは!!!」

「身勝手! 人使いが荒いっ! けど、諦めの悪さは尊敬するよ!」

 

 その言葉を皮切りに、二人はさらに加速する。やがて、長崎奉行所の塀がみるみると近づいてきた。

 そして、お英はなんと真っすぐ塀に突っ込んだのである。これにはさすがのクリストファーも度肝を抜かれた。

 

「うおおおおおおぉぉぉぉぉっっ?!?!?!」

 

 衝突する、と思われた寸前、お英が塀を蹴る。いかなる技か、二人の体は垂直に壁を飛び上がったのである。

 

「天狗かああぁぁっっ?!?!?!」

 

 絶叫するクリストファーを尻目に、娘は悠々と塀の上に降り立つと、もう一飛び。

 

「受け身ぃっ!」

 

 空中で投げ出される。飛来した石礫が顔の横を掠めるが、恐怖している暇もない。地面に叩きつけられる前に、体を丸めて衝撃に備える。

 

「ぐっ……!」

 

 砂利に背中から落ちたものの、大した痛みはない。どうやらうまく受身を取れたようだ。

 顔を上げると、ちょうどお英と二人組が対峙するところだった。いくつも焚かれたかがり火が、奉行所の庭にいる三人を闇の中から照らし出している。

 

「はっ、はっ、お父さん、怪我は?」

 

 肩で息をしながらお英が言った。娘を安心させようと、クリストファーは余裕ぶって笑ってみせる。

 

「大丈夫だ、大丈夫……それよりエイミー、本当に奉行所でいいのかい?」

「心配しないで。作戦通りだよ」

 

 きっと顔を上げたお英と相対しているのは、夜叉の少女と般若面の少年。どちらも恐ろしいほどの殺気を放っている。特に少女の発する気配は尋常なものではない。まるで肉食獣の前に放り出されたような緊張感があった。

 娘が頭巾を取り、夜叉に素顔をさらす。

 

「久しぶり…………私のことが分かる?」

「義賊の女ねずみだね。お江戸の大名屋敷から次々と金銭を盗み、貧しいものに分け与えている。悪党にしては見上げた心意気だ。大人しくその男を引き渡せば、この場は見逃してやってもいい」

 

 そう淡々と告げて、夜叉はクリストファーの方向に進もうとする。対するお英は、それを阻むように両手を広げて立ち塞がった。その目には覚悟の色がある。

 

「私……おいらについて、思い出すことはそれしかないの? ねえ、お英だよ……一緒の布団で寝たことも忘れたっていうの? 一緒に湯屋に行ったことも、二人で夜通し話したことも、全部忘れちゃったの?」

「…………」

 

 夜叉の動きがぴたりと止まる。まるで時が止まったかのように、彼女は微動だにしなかった。

 

「ねえ、思い出してよ……お願いだから……」

 

 そう言って一歩踏み出した途端、弾かれるように動いた夜叉の手が、娘の肩を掴んだ。そのまま乱暴に引き寄せると、有無を言わさず抱きしめたのだ。

 

「……え? あ? あの……ちょっ……」

 

 突然のことに混乱するお英をよそに、夜叉は彼女を抱きしめたまま動かなかった。その口から、戸惑ったような声が漏れる。

 

「なんだ…………あたしは一体、何をしてるんだ……?」

 

 抱きしめていながら、その目には娘の姿が写っていないようだった。クリストファーの方を睨みつけながら、お英の形を確かめるように彼女の頭を触る。その手つきには戸惑いがあり、やがてゆっくりと体を離した。

 

「……やっぱり、分からなくされているんだね。お雪」

「お雪…………?」

 

 夜叉の口元が歪んだ。激しい感情を表すように、歯ぎしりの音が聞こえてくる。だがそこに声をかけたのが、般若面の少年だった。

 

「夜叉様。あなたは誰でもありません。悪を討ち滅ぼす鬼神、それがあなたです」

「忠太郎、黙って。今はおいらとお雪が話しているんだ」

「あなたは夜叉様です。ご安心ください、我ら〈黒いデウス〉があなたを御支えします」

「忠太郎! 黙れと言ったよ! あなたのイエズス様に顔向けできないと思わないの!」

 

 お英は語気を強めた。忠太郎と呼ばれた少年はぴくりと震え押し黙ったが、今度は夜叉の方が口を開いた。

 

「お前の言う通りだ、忠太郎。あたしが何者かなんてどうでもいいことなんだよ。あたしにとって大事なのは一つだけ……」

 

 夜叉が低く構え、腰を落とした。仮面の下から覗く目が、爛々と輝いている。

 強烈な殺気を向けられて、クリストファーの背筋が粟立った。殺される。本能的な恐怖を感じると同時に、彼は銃を構えていた。

 

「お父さん、ダメ!」

 

 この距離なら外すことはない。撃鉄を起こし、引き金に指をかける。あとは指を曲げるだけ──

 

「悪党をぶっ殺すことだけだからね!」

 

 言うが早いか、夜叉は地面を蹴った。瞬きをする間に距離を詰められ、気づいた時には懐に入られていた。拳を握りしめ、下から突き上げるように殴りつけてくる。衝撃が背中まで突き抜けてきた。

 

「ぐぅうッ!!」

「お父さん!」

 

 即死しなかったのは、飛び込んできたお英が彼を突き飛ばしたからに過ぎない。無様に地面を転がり、ようやく止まった頃には息も絶え絶えになっていた。それでもなお立ち上がろうとするが、足が言うことを聞かない。

 

「お雪、待ってっ!」

「あたしが誰かなんてどうでもいい! あたしに名前なんか必要ない! あたしはただ悪党を殺すだけの存在だッ!」

 

 

 

「──────そいつは困るなあ」

 

ひ(・)ゅ(・)う(・)と音を立てて、何かが地面に突き立った。

 

 

 

「?!」

「さ、山茶花の花…………?」

 

 それは、山茶花の枝を鋭く尖らせた、即席の手裏剣だった。ご丁寧に、真っ白な山茶花の花がそのまま付いている。

 

「もう、また…………」

 

 ため息をつくお英。呆然とするクリストファー。そして夜叉は、衝撃を受けたかのように硬直していた。しかしそれも束の間のこと、再び動き出し、手裏剣を投げたであろう人物を睨みつける。

 そこには、一人の老爺がいた。痩せこけた顔に不釣り合いなほど大きな鼻が目立つ。口元に蓄えられた髭も白く長く、髷を結っておらず総髪であった。みすぼらしい着流し姿であり、一見すると浮浪者にしか見えないが、その瞳だけは異様に鋭い光を放っている。

 老爺は不敵な笑みを浮かべながら、手に持った山茶花をくるくると回した。

 

「……誰だい、あんた?」

 

 夜叉の問い。しわだらけの顔に、いっそ慈愛すら感じさせる笑みを浮かべて、老人は言った。

 

「俺かい? 俺はただの名もない人斬りさ……お前がお雪ちゃんでないと困る、お前を俺の女にしたくてたまらない、ただの男だよ」

 

 老人の声は低く太く、それでいてどこか艶っぽい色気があった。

 彼が一歩足を踏み出すと、それに合わせて夜叉が後ずさりした。明らかに動揺している様子だが、その理由はクリストファーには分からない。だが、お英だけは違ったようだ。

 

「もう、いらない格好つけて! 早くお雪を元に戻してあげて!」

「おおっと、段取りを破るべきじゃないぜ、お英ちゃん」

 

 気軽に娘の名前を呼ぶその声に、クリストファーの記憶が刺激された。そうだ、どこかで聞いた声だと思ったが間違いない。この男は、クリストファーにとって最も憎むべき相手。愛する娘と駆け落ちをして行方知れずとなった男。

 

「貴様、出楠太一郎……!」

「困りますな、義父上。今のわ(・)た(・)く(・)し(・)は痩せ衰えた物乞い、ただの哀れな年寄りです。そんなわたくしに怒鳴りつけるなど、あまりにも酷い仕打ちではありませんか」

「なにを白々しいことを……!」

 

 出楠太一郎はへらへらとした笑みを浮かべている。そして夜叉たちに向かって跪いた。

 

「夜叉様、忠太郎殿…………わたくしめは痩せ衰えた物乞い、ただの哀れな年寄りでございますれば、何卒お許しを……」

 

 そう言って額を地面に擦り付ける太一郎を見下ろしながら、夜叉はしばらく黙っていた。やがて口を開くと、こう問いかける。

 

「お前のどこが、出楠太一郎だ。奴は人を殺して悦ぶ外道。お前のどこを探しても、その血腥(ちなまぐさ)い臭いはしないぞ」

「夜叉様の弱点でございますな。弱者に擬態されれば手が出せない。悪党以外を見えなくすれば、そのような弱点を抱えるのは必定でございましょう」

「なにを、知ったような口を聞きやがる」

「知らいでか。俺は出楠太一郎、隠密同心の十文字お雪を女房にする男だ」

 

 顔を上げた太一郎は、左手に真っ白な山茶花の花を持つと、夜叉にそれを捧げた。

 

「この花を受け取り、俺の女になれ、お雪」

「…………はい」

 

 呆然と答えた夜叉は、次の瞬間ばっと自分の口を押えた。自分が何を言ったのか、信じられないというように。太一郎はその様子を見てにやりと笑うと、自然な動作で彼女を抱きしめた。夜叉も当たり前のように抱き返し、呟く。

 

「なんであたしはこんなことを……」

「何も考えなくていい。思うように、自分の気持ちに素直になってみろ」

「……うん」

 

 その言葉を聞いた太一郎は満足げに頷くと、口を寄せていった。初めは軽く触れるだけ。夜叉も抵抗することなく、目を閉じて口づけを受け入れた。それどころか自分から求めるように舌を差し出すと、絡めとった太一郎のそれを甘噛みして、さらに深く唇を重ねていく。二人の間にぴちゃりと水音が生じた時、夜叉の面が外れて落ちた。

 

 唖然としていたクリストファーがお英の方を見た。彼女はやれやれといった表情で肩をすくめる。

 

「まったくしょうがないんだから……」

 

 クリストファーの胸に、さっと怒りが込み上げる。立ち上がると、銃を太一郎に向けた。狙いを定めようとするが、手が震えて照準が定まらない。それどころか目が涙で潤み始めた。

 

「エイミー…………本当に、あんな男と結婚するつもりなのか…………?」

「そうだよ。お父さんの知らない、色々な事があったの。あの人とお雪、それから後、二人のお内儀さんと一緒に、家族を作ろうって決めたんだ」

 

 クリストファーは、とうとう拳銃を取り落とした。その場に膝から崩れ落ちる。そんな彼を見下ろして、娘は言った。

 

「祝福してほしいな。それが一番の贈り物だから」

 

 クリストファーは答えない。娘はため息をついたが、それ以上何も言わなかった。ただじっと父の方を見つめている。その視線に耐えられなくなったように、彼は顔を背けると、小さな声で呟いた。

 

「……おめでとう、エイミー」

 

 いつしか、今年初めての雪が降り始めていた。

 

 

 ◆◆◆

 

 忠太郎は、じっとその光景を見つめていた。ちらつく雪の中で、男と女が抱き合っている。かがり火に照らされた二つの影法師は一つになり、長い接吻が終わると名残惜しそうに離れていった。男は女の耳元で何かを囁き、女はこくりと頷く。その黒髪に、白い山茶花の花がそっと差し込まれた。

 その光景が、凍り付いた彼の心に例えようもない感動をもたらしている。頭上で、一羽の鳩が鳴いたような気がした。

 

「…………『神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』……」

 

 忠太郎の口からこぼれ出た言葉は、聖書の一節である。ずっと昔、尊い存在が残して下さった人間への贈り物である。

 

「忠太郎、正気に戻れたんだね!」

 

 お英が嬉しそうに叫んだ。彼女の声に、忠太郎の目が焦点を結ぶ。そしてゆっくりと頷いた。

 

「ああ、お英さん……私は一体……」

 

 忠太郎が頭を押さえた時、背後から声がした。

 

「──────そいつは困るなあ」

 

 その声の調子は、先ほどの太一郎によく似ていた。だが振り返ってみれば別人だった。白髪交じりの髭を撫でながら、つまらなそうに鼻を鳴らしている。

 

「まさかこんな簡単に暗示が解けるとは思わなんだわ。やはり子供だな」

「八郎太様──!?」

「貴様、鬼一か!」

 

 忠太郎の足が竦む。太一郎たちの叫びを余所に、恩人の…………いや、忠太郎を操り道具にした憎っくき敵、流水八郎太は飄々とした態度で続けた。

 

「まだもう少し、お前には操り人形でいてもらわねば困る。心配するな、仇は討たせてやるとも」

 

 八郎太は、いつの間にか短い筒を口の前に構えていた。

 

「吹き矢だ、忠太郎殿! 逃げろ!!」

 

 太一郎の叫びと同時に、八郎太が吹いた毒針が飛んだ。間一髪で避けたが、その拍子に転んでしまう。そこに間髪入れずに第二射が来た。それはまるで吸い込まれるように忠太郎の首筋に刺さった。

 

「ぐあっ……!」

 

 悲鳴を上げて顔を押さえる忠太郎をよそに、八郎太は淡々と説明を始めた。

 

「それはとある植物で作った秘薬だ。人の脳髄を溶かし、魂を吸い取ると言われている」

「混乱薬か! 鬼一、きさま何という物を……!」

「くくく、怒るなよ。どうせお上品なお前には使えない代物だ。さあ立て忠太郎殿! お前の敵はここにいるぞ! 仇を討つがいい!」

 

 よろめく足取りで立ち上がった忠太郎は、そのままふらふらと歩き出す。

 

(何も見えない。何も聞こえない。神はいない。私もいない。いるのは敵だけだ。敵。敵。敵、敵、敵敵敵敵敵敵敵!)

 

「ああああああああああああ!!!!」

 

 咆哮するや跳躍し、一気に間合いを詰める。最初の標的は、この場で最も弱い男……黒卍党首領クリストファーだった。

 

 

 ◆◆◆

 

 太一郎の視線の先で、クリストファー・アップルホワイトは凍り付いたように動かなかった。彼だけが、八郎太なる鬼一に警戒を欠いていたからだ。その喉元にみるみると忠太郎の刃が迫る。

 その時、横合いから誰かが飛び出した。お英である。既に十分な加速を得ていた彼女は、空中で身を翻しながら強烈な蹴りを放った。まともに食らった忠太郎は、地面を何度も転びながら吹き飛んでいき、やがて庭石に激突して止まった。

 

「お英ちゃん、とにかく距離を取れ!」

 

 叫ぶが、答える余裕はないらしい。彼女はそのまま身を翻すと、クリストファーの首根っこを掴んだ。ぐえ、と声を上げた父親を引きずるようにして走り始める。

 

「逃げるよお父さん!! 死にたくないなら走ってッ」

「あ、ああ……!」

 

 お英に引きずられた状態で、ようやくクリストファーが走り出した。

 ゆらりと立ち上がった忠太郎は、太一郎に狙いを定めたらしい。懐から何本もの短刀を引き抜くと、それを投げながら突っ込んできた。刀を抜いた太一郎は、短刀を叩き落しながら忠太郎の突進を受け止め、鍔迫り合いに持ち込む。

 

「忠太郎殿、今日は手向かいさせてもらうぞ……!」

「あアァ、アアアアアアァァッ」

 

 忠太郎は理性を失い、獣のような雄叫びを上げながら力押しで圧倒しようとしてくる。じりじりと押され始めた太一郎は、このままではまずいと判断した。曲芸技を封じるための鍔迫り合いだったが、忠太郎は薬でタガが外れている。回復半ばの肉体が力負けしていた。

 

「許せ、忠太郎殿!」

 

 渾身の力で刀を跳ね上げた。体勢を崩した忠太郎の腹に膝を入れる。くぐもった呻きを上げて地面に転がった彼を見下ろしながら、太一郎は言った。

 

「この薬は長い間は効かない! しばし辛抱してくれ……!」

 

 そう言って鬼一に向かおうとした時、ふと足元に何かが落ちていることに気付いた。それは忠太郎が先ほど投げた短刀であった。そのうちの一本が、ふわりと浮き上がる。

 

「ちいッ──」

 

 舌打ちをしながら、咄嗟に体を捻った。飛んできた短刀をすれすれで避ける。だがそれで隙を作ってしまったことに違いはなかった。再び顔を上げた時には、目の前に忠太郎の姿があった。その手には、新しい短刀が握られている。逆手に持って、突きの構えを取っていた。

 

 生き延びるには、殺すしかない。

 

 そう判断した時、突然二人の間に何者かが割り込んできた。黒い着物に、今や腰まで届く長髪。

 

「来な、忠太郎。一月も一緒にやってきた仲だ。あたしが眠らせてやるよ」

 

 その言葉を聞いた途端、忠太郎が吠えた。短刀を振り回しながら彼女に襲いかかる。切り裂かれたお雪の黒髪が宙に舞った。

 

「お雪ちゃん!」

「静かにおし。もう終わったよ」

 

 いつの間にかお雪は忠太郎の背後に廻り、首筋を何かで締め上げていた。切り裂かれた黒髪を紐のように使い、後ろから巻き付けるようにして絞めたのだ。白目を剥いた忠太郎の手から、短刀が落ちる。

 

「あっ、あがっ、ぐうっ……」

 

 喉仏を抑えられた彼は呻くばかりで、もはや動くこともできないようだ。太一郎が驚いたのは、お雪が目を閉じていたことである。見えぬまま自分の髪を切らせ、背後をとり、しかる後一瞬で仕留めてしまう……その動きには一切無駄がなかった。まるで予め手順を定めてあったかのように。

 

「やれやれ……髪は女の命だよ……まったく」

 

 そう言いながら、意識を失って崩れ落ちる少年を受け止める。彼はしばらく苦しげに呻いていたが、すぐに静かな寝息を立て始めた。

 

「大丈夫かい、出楠太一郎」

「あ、ああ……俺が分かるのか? 自分がお雪ちゃんだってことが、分かるのか?」

「そんなに都合良くはいかねえよ。でも目を閉じていれば、なんとなく本当の事を感じ取れる」

 

 そう言って、お雪は目を閉じたまま向き直る。庭の中央、ただ黙って見ていた八郎太の方向を。

 

「あんたは、あたしの男。あっちは、あたしがぶっ殺すべき悪党……だろ? 理屈じゃなくて感覚でわかるんだよ」

「は、その通りだとも」

 

 八郎太が笑った。嘲るような笑い方だった。

 

「おりんが惚れ込むだけのことはある。高潔な魂、強い意志──そして何より、仲間に恵まれている。お前を貶めようなど、あいつも徒労に過ぎなかったようだな」

「帰っておりんを慰めてやりな。一宿一飯の恩義だ、この場は見逃してやってもいい」

 

「おい、お雪ちゃん」

「黙って。あんたは万全じゃない、勝ち目があるかないか冷静に考えな」

「む……それは」

 

 八郎太の腕前は、以前の太一郎と同等かそれ以上なのだ。病み上がりの身で戦えば、あるいは命を落とす危険もある。

 く、くくく、と笑いながら八郎太は言う。

 

「そうさな、それがいいだろうな……今日はもう、十分殺したしな?」

 

 言うなり踵を返した八郎太は、門扉の方に足を向けた。

 その時初めて太一郎は気付く。奉行所の内部から、おぞましい苦痛のうめき声が聞こえてくる事に。

 

「貴様、何をした?! まさか奉行所の連中を?!」

「忠告しておくぞ、出楠太一郎! 今はまだ近づかぬ方がいい。〈終末兵器〉の力が消えるまではまだ少し時間がかかるのだ。今近づけば、お前も腐る死体の仲間入りをするぞ! 俺は既に堪能させてもらったがな。ははは……♥ ああ、心地良い悲鳴だ……♥」

 

 八郎太は恍惚とした表情でそう答えた。言葉を失う太一郎の前で、八郎太の姿が闇に溶ける。

 やがて夜の帳に静寂が訪れた。後には、太一郎とお雪、それに死んだように眠る忠太郎のみが残されたのである。

 

「そうか、奴も鬼の類か……畜生め!」

 

 

 ◆◆◆

 

 そして、少し後。奉行所に入り込んだ太一郎たちが見たのは、地獄絵図の如き光景であった。あちこちに役人たちの死骸が転がり、腐臭を放っている。 

 彼らの皮膚は、まるで腐ったかのように黒変していた。崩れ落ちた肌の下は既に骨が見えている。まだ人間の面影を残している者もいたが、彼らも死を待つばかりなのは明らかだった。

 別の建屋には症状の軽い者もいたが、誰も彼も半死半生といった有様で、とても話ができる状態ではないようだった。

 

「なんだこれは……?!」

「……カビだ」

 

 そう言ったのは、お英と共に戻ってきたクリストファーだった。腰から拳銃を引き抜き、生ける屍となった役人に向ける。

 引き金を引く瞬間、彼の指が震えていたように見えたのは気のせいだろうか。銃声が次々に響く。弾丸は正確に、被害者たちを極楽に送っていった。

 

 

 ◆◆◆

 

 三日後。太一郎たちの姿は、長崎の港にあった。鴎(かもめ)の声が響き渡る中、巨大な船が停泊している。黒卍党首領、クリストファーの帆船だ。名は〈スプレッド・イーグル号〉という。

 

「じゃあね、忠太郎。サマンサさんと仲良くするんだよ」

「はい、お英さん」

 

 お英が別れを告げた時、忠太郎は涙をこらえるように俯いていた。母サマンサが、地面に頭がつくのではと思うほどに深々とお辞儀をしている。

 

「本当に何から何までお世話になりました……! このご恩は決して忘れません……!」

「ほんとう、気にしないでよ。半分、私達の事情に巻き込んだようなものなんだからさ。ねえ、たいちろー」

「うむ……」

 

 お英の夫は、沈痛な面持ちで忠太郎親子に語りかける。

 

「忠太郎殿……お主の父を斬ったのは、その必要があったからだ。世の秩序を守る上で、避けられぬことだったのだ。私怨はない。だが──」

 

 そこまで言って彼は口を噤んだ。その先の言葉は言うまでもないだろう。

 

「……分かっています。父様は死ぬべき人でした」

 

 少年はこくりと頷いたが、同時に刀の鯉口を切った。

 

「ですが、分かったと言葉で済ますことはできません。父様の子として、武士の子として」

「……分かるとも。俺にも、父親を慕う息子の気持ちは分かるつもりだよ」

 

 そこで太一郎は一歩下がった。それを見て思わず制止しようとするサマンサを、お英はそっと制した。

 

「見守ってあげてください。忠太郎はきっと大丈夫です」

 

 そう言うと、サマンサは視線を息子に戻してじっと見守った。二人の武士に流れる緊張感を見て取ったのか、小さく呟く。

 

「神よ、お守り下さい。あの子の心を……」

 

 先に動いたのは忠太郎の方であった。腰の刀を抜き放ち、正眼に構える。太一郎も同じく刀を抜いた。

 

「隠密同心、出楠太一郎」

「和泉岸和田藩、江戸留守居役、浅見甚兵衛の長子、忠太郎! いざ参るッ!!」

 

 掛け声とともに忠太郎は踏み込んだ。少年にしては力強い踏み込みだ。そのまま一気に間合いを詰め、上段から刀を振りかぶる。刃風が鋭く空気を切り裂く音。

 

 太一郎は、一振りで刀を弾き飛ばした。宙を舞った刀が、港の桟橋に突き刺さる。

 

「勝負ありだ、浅見忠太郎」

「……ええ」

 

 歴然とした実力差。戦意を喪失したかに見えたが、少年の目は晴れやかだった。腕がしびれるのか、ぶるぶると震えながら刀を鞘に収め、その場に跪く。

 少年は、父の仇に深々と頭を下げた。

 

「私のような若輩者の相手をして頂き、ありがとうございました。どうかこれからも御壮健で。お英さんを守ってあげて下さい」

「言われずとも、俺の女房だからな」

「……悔しいです! 負けたことより、その一言の方がずっと悔しい!」

 

 ぽろぽろと涙を流しながら、それでも忠太郎は叫んだ。サマンサもつられて泣き出す。お英は、にこにこと笑ってその光景を眺めていた。

 

「これからどうする?」

「母様と、芸の道を究める旅に出ようかと思います。神が授けてくれた私の天職ですから」

「そりゃいいなあ……そうだ、お前さんさえ良ければ江戸まで乗って行くかい? 天下一の町で色々と学べば、もっと伸びるかもしれないぜ?」

 

 太一郎の提案に対し、忠太郎はしばし思案していたが、やがて笑顔で首を振った。

 

「いえ、お気持ちだけ受け取っておきます。私がやりたい事は、もう自分で見つけましたから」

 

 その言葉に迷いはなかった。この年若い少年は、自ら選んだ道を歩んでいくのだろう。それは決して平坦な道ではないだろうが、それ故に困難を乗り越えていく力が得られるに違いない。

 

「さようなら、出楠様、御新造様。あなた方のことは一生忘れません」

 

 別れの言葉を残して、二人は去った。後に残った者たちは手を振ってそれを見送る。

 

「行っちゃったね……さてと、そろそろ出発の時間だね」

「ああ、江戸に戻ろう。〈黒いデウス〉に、これ以上、あのカビをまき散らさせる訳にはいかんからな」

 

 そう、あの晩の一件の後。

 奉行の平松は、太一郎たちとの密約で役宅におり、難を逃れていた。彼が調査した結果、奉行所の実に三分の一が〈終末兵器〉の犠牲になっていた事が判明したのだ。運良く生き残った者も皆重度のカビ毒で神経が麻痺しており、まともに会話もできない状態である。ただ、平松が筆談で一つだけ聞き出したことがある。

 

「次は、江戸で〈終末兵器〉を使おうなんて。まさか幕府そのものを滅ぼすつもりなのかな?」

「でなけりゃ、この国そのものをカビだらけにして滅びに追い込むつもりなんだろうさ」

 

 長崎奉行所を襲った〈終末兵器〉とは、人間に寄生して肉体を蝕む、言わば人食いカビであるらしい。クリストファーは、それを西洋で研究されている生物兵器だと言った。ただ、これ程急速かつ劇的な効果をもたらすものは見たことも聞いたこともないという。クリストファー自身も半信半疑といった様子ではあった。

 もしあれが江戸市中にばら撒かれれば、国そのものが滅ぶことすらあり得るだろう。クリストファーの知識や人脈も含めて使えるものは全て使い、破滅の事態だけは避けなければならない。

 隠密同心一行は、急ぎ江戸に戻ることになったのだ。

 

 

 ◆◆◆

 

 太一郎たちが乗り込むと、船は直ちに出港準備に入った。甲板に出た太一郎は、お雪の姿を見つける。

 彼女はこちらに気づくと近寄ってきた。両目を布で覆っているにも関らず、全く不自由を感じさせない足取りだ。そして開口一番こう言ったのだった。

 

「なあ、今日の口づけは? してくれないのかい?」

「……ずいぶん甘えん坊になったじゃないか」

 

 からかうように言うと、お雪は少しむっとしたようだった。頰を膨らませて、抗議してくる。

 

「いいじゃないか。あたしだって人間なんだよ? 惚れた男とは口づけしたいの。毎日したいの」

 

 お雪が唇を突き出して来るので、太一郎は彼女の顎に手を当ててそっと顔を近づけた。軽く唇が触れ合う。そして離れた瞬間、お雪は小さく呟いた。

 

「……うん、悪くないね。気持ちよくて、幸せな気持ちになる」

「……俺もだよ」

 

 囁きあう二人。やがてどちらからともなく再び口付けをした。

 

 お雪にかけられた暗示は、日に日に弱まっていた。江戸に着く頃には、きっと正気に戻っているだろう。

 だがそれまでは、欲望に素直で甘えん坊な、恋する隠密同心との逢瀬を楽しむとしよう── 太一郎はそう思った。

 

 風の冷たさは、気づけばすっかり冬の気配を漂わせていた。

 

(第九回 恋する隠密同心 了)




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