※この作品はR-18です。

大江戸捜査網 ハーレム・サムライ   作:a-su

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Bパート

「何じゃ、か(・)す(・)て(・)い(・)ら(・)は無いのか」

 

 忠興がそう言ったので、傍らのお雪が吹き出した。

 

「お殿様、久しぶりに会ったってのに、最初に言うことがそれですかい?」

 

 お雪と太一郎は、長崎での激闘の後、江戸に戻ってきた。真っ先に、隠密支配である無役の大身旗本、本多忠興への報告を行っているのだ。無論、〈黒いデウス〉の野望を打ち砕くためである。

 場所は、隅田川の清洲橋近くに浮かぶ屋根船(小型の屋形船)の中である。男女の密会に使われることが多いのだが、それだけに人払いをしても不自然ではない。

 太一郎は平伏して言った。

 

「御前、帰参が遅れましたこと、お詫び申し上げます」

「藪(やぶ)から棒に何を申す」

「〈黒いデウス〉の鬼一(おにいち)こと、〈流水(ながれみず)八郎太〉に不覚を取り、生死の境を彷徨(さまよ)いました。それがために探索も仕置も全てが後手に回り……」

「繰り言はもう良い。全て早馬の報告で分かっておる。生きて戻って来たのならそれでよいわ」

 

 忠興の言葉にも、太一郎は顔を上げない。そこに助け船を出したのは、お雪であった。

 

「まあまあ、お殿様。兄貴は叱って欲しいんですよ。心配させおってこの馬鹿者め、ってさ」

「お雪っ」

 

 叱責してから、太一郎は畳に頭を擦り付けんばかりにひれ伏す。それを見ながら、忠興は茶をすすった。

 

「……ふ、いつの間にか、お雪は太一郎の事がよく分かるようになっておるのう」

「へっへ、そりゃあ……ね? まあその、色々ありまして」

 

 照れたように頭を掻くお雪を見て、忠興は目を細めた。だが、すぐに表情を引き締めると、太一郎に向き直った。

 

「太一郎、隠密同心である以上は恨みを受け、その恨みを跳ね除けねばならぬのは当然のこと。不覚を取ったのは己自身の弱さと心得よ」

「はっ!」

「しかし、そなたは敵の情報を掴み、黒卍党とも繋がりを得、お雪を助けて見事生還した。よくぞ戻ったな、太一郎よ」

「有難き幸せ……!」

「それに免じて許す。これからも頼むぞ」

「ははっ!!」

 

 顔を上げた太一郎は、喜びを隠しきれない表情であった。そんな彼を見て、お雪はにこにこ笑っている。二人の様子を見た忠興は、ふっと顔をほころばせた。

 

「御前、太一郎めは早速にも〈黒いデウス〉の足跡を追い、全員を成敗致したく。何卒、御下命を」

 

 ずいと膝を進めて進言する太一郎に対し、忠興はしばし考え込んだ。やがて彼は口を開く。

 

「ふむ、だがまずは〈黒いデウス〉の目的が分からぬことにはな。〈終末兵器〉とやらを使って何をするのか……脅しか、それとも幕府転覆か……」

 

 そこでお雪が口を挟んだ。

 

「いや、それは分かっております」

 

 お雪が忠興に話して聞かせたのは、かつて見た〈黒いデウス〉の祈祷のことだった。首を切られた仏像の中で、血液をかけられ侮辱されていた〈はりつけ像〉。そして、それを嘲笑っていたおりんと黒坊主たち。

 

「……奴らの目的は金とか、政事(まつりごと)とか、殺しじゃあないんです。辱めることです。デウスとイエズス、それに人間は醜い、下らない存在だってことを知らしめることなんです」

「ふむ……」

 

 首をかしげた忠興は、盆から菓子をつまんだ。

 伊勢国松坂の銘菓、「老伴」(おいのとも)である。最中の皮に暁(ぎょう)色の羊羹(ようかん)を流し込んだ菓子だ。皮の中に羊羹がみっちりと詰まっていながら、最中の軽やかな食感が保たれている逸品である。

 

「儂(わし)には……それは狂人の……むぐ……たわ言としか……聞こえぬが……お雪、茶を淹(い)れてくれぬか」

 

 もぐもぐと咀嚼(そしゃく)しながら、忠興は湯飲みを口に運ぶ。一息つくと、お雪が急須から茶を注ぎ足す。太一郎は、じっとその様子を見守っている。

 

「はいどうぞ」

「うむ」

 

 ゆっくりと飲み干すと、再び口を開いた。

 

「それでは、奴らはどのような行動に出ると見る? お雪」

「……見せびらかし、そして操るかと思います。ほんの少しだけ殺して見せて、このままでは庶民がカビの犠牲になると思わせておいて、瓦版などを使い、例えば異人に罪を押し付ける」

「さすれば、人々は異人を敵と見なし、自ら虐(いじ)め殺(ごろ)しを始めるか。女ねずみの事件に似ておるな」

 

 忠興は目を細めた。お雪もまた頷(うなず)いた。

 

「ふむ……太一郎、どう思う。お前ならどう見る?」

 

 問われて、太一郎はしばらく考えた後に答えた。

 

「お雪の考えも一理あります。しかし、それがしは別の可能性を考えます」

「ほう? 申せ」

「〈黒いデウス〉の教主、〈黒雲和尚〉とやらは、事件の間全く動きを見せておりませぬ。これを見るに……」

「彼奴らの行動は、実働を担う〈おりん〉〈鬼一〉の考えによる所が大きいと?」

 

 この時代、通信手段は直接会うことがその殆どだ。郵便さえまともに発達していない。まして、おりんと鬼一は長崎を遠く離れた江戸で事件を起こそうとしているのだ。上意下達を徹底することには自ずと限界がある。

 太一郎は唇を湿した。忠興の前でこれを言うのは、いささか勇気を要することであった。

 

「鬼一は、人殺しを好みます。奴は、一人でも多く殺そうとするでしょう。己の愉しみのために」

「なぜ分かる」

「…………」

 

 押し黙った太一郎に、お雪が助け舟を出す。

 

「ああ、あたしが聞きました。囚えられている時に、鬼一の口から直接ね」

「そうか」

 

 忠興はうなずいた。多くを聞かないのは、二人に対する信頼の証であろうか。窓から吹き込んできた冬風に身をすくませたお雪を見やってから、忠興は再び太一郎に目を向けた。

 

「ならば鬼一はどうする、太一郎」

「黒卍党のクリストファーは、あのカビは水を介して毒性を発揮すると申しました。事実、長崎奉行所で命をつないだ者は、いずれも当日、奉行所で水を飲んでおりませんでした」

「……なるほど。井戸か?」

「はい。それも、地下水を用いたものは敢えて避けるのではないかと。大多数の、水道からくる井戸を汚染し、少数の地下水からくる井戸を残す」

 

 江戸の町で使われている井戸は、その大多数が水道から水を引いている。江戸っ子が〈水道の水で産湯(うぶゆ)を使った〉と自慢する理由である。

 俗に〈江戸の六上水〉と呼ばれているが、うち四つは水量の不足から既に廃止されていた。この当時は、井の頭池を水源とする神田上水、玉川(多摩川)の上流を水源とする玉川上水の二つが用いられている。

 

「さすれば、人々は残り少ない安全な井戸を巡って争い、互いに殺し合うであろうな」

「はい」

 

 結末は同じでも、鬼一の狂気はより深く満たされる。

 お雪の推測は〈黒いデウス〉の本質に深く触れたがゆえのものだが、太一郎のそれは実行犯である鬼一の心理を捉えてのものである。忠興は息をつくと、老伴の最後の一口を飲み込んだ。

 

「相わかった。太一郎の考えを容れよう。瓦版屋は、女ねずみの事件依頼、奉行所に睨(にら)まれておるからな。市中の騒乱は南北と深川の奉行所に警戒させ、我らは水道の元を守る。良いな」

「「はっ!」」

 

 揃って頭を下げる二人に、忠興は満足げにうなずいた。

 

「とは言え、水道は地下に潜っておらぬ部分の方が長いくらいよ。御老中に申し上げ、伊賀者(ニンジャ)を総動員して見張らせる。お主らはしばらく身を休めるが良い。特に太一郎はな」

 

 ニヤリと笑った忠興に、太一郎は怪訝(けげん)な表情を浮かべた。

 

「何故(なにゆえ)でございますか?」

「儂がお主の訪れを待たず、こうして出向いたのは何のためと思う?」

「報告を急ぐためでは……」

「ははは、そうではない。いの一番に儂のところに来ては、この先肩身が狭くなろうからな」

 

 太一郎は首を傾げた。

 

「肩身とは……?」

「分からぬ奴め。お主、三ヶ月以上も女房を置いて家を離れておったのだぞ。さぞや美樹殿は寂しい思いをしたのであろうよ」

「……あっ」

 

 江戸から長崎に向かい、オーレンライト号での戦いまででひと月、敗北による毒の苦しみがひと月、療養に半月、帰りは行きより速い船に乗ったので半月。これで合計三ヶ月である。

 確かに、美樹とジェニファーにしてみれば夫に放置されたも同然であったろう。

 

「……申し訳ございませぬ」

「ははは、儂に謝ってなんとする。そんな体たらくでは、お主、帰ったら驚きすぎて胃の腑(ふ)が飛び出してしまうぞ」

 

 実に楽しそうな忠興を見て、お雪が胡乱(うろん)げな眼差しを向けた。

 

「お殿様、一体何を笑ってるんで? 兄貴のお内儀さんに何か……」

「いや、すまんな。だが安心してよいぞ。これは愉快痛快……ではなかった、めでたい事だ」

 

 忠興の言葉に、今度は二人が顔を見合わせた。忠興は、はしゃいだ様子で言う。

 

「良いか太一郎。今日はめでたい日だ。これから忙しくなるだろうが、まずは帰れ。事が片付いたら、儂の屋敷でいい酒を飲ませてやる」

 

 甘党で酒を好まぬ忠興が、いい酒を飲ませてやる、である。とうとう不安になってきた太一郎は、おずおずと尋ねた。

 

「御前……一体どういう……」

「まだ気づかぬか。ほれ、近うよれ」

 

 ちょいちょいと手招きされて近づいた太一郎の耳に口を寄せると、忠興は囁いた。

 あらましを聞いた太一郎は、奇声を上げて船を飛び出した。

 

 

 ◆◆◆

 

 草履が桟橋を蹴る音が遠ざかって行く中、忠興は腹を抱えて笑い転げていた。大身旗本が恥も外聞もなく笑い転げる様など、そうそう見られるものではないだろう。

 

「くっ、くくっ……わはははははっ!! 見たかお雪! あの慌てふためきようを!」

 

 そして、懐から扇子を取り出し、パシッと音を立てて開いたかと思うと、自分の膝を叩いた。

 お雪は呆然としていたが、やがて忠興と顔を見合わせると、ぷっと吹き出した。それから二人でひとしきり笑うと、気を落ち着けるために湯呑に手を伸ばした。茶はすっかり冷めていた。それでも構わず飲み干すと、お雪は言った。

 

「それにしても、まさか二人いっぺんに、とはねえ……」

 

 そう呟いたお雪の顔には、笑みが浮かんでいた。

 

「お雪、お前は……」

 

 探るような忠興の視線を、しかしお雪は真正面から受け止めた。

 

「ええ、兄貴とは情が通じました。まだ色っぽいことはしちゃいないけど、その内きっとそうなると思っています」

 

 そう言ったお雪の顔は晴れやかなものだった。すっきりとして、何の憂いもないかのように。

 

「きっと、いい家族になりますよ」

 

 まるで、長らく自分を苦しめていた心の痛みと悲しみを克服できたかのような──―

 それを見て取ったか、忠興もまた表情を和らげた。

 

「そうか」

 

 短く言って微笑む忠興は、鳶(とび)色の瞳の奥に深い慈愛を湛えていた。

 お雪は忠興の顔をまじまじと見た事はなかったのだが、この時初めて気づいた。彼の目は、美しい形を持っている。

 まるで一流の木彫り職人が丹精込めて彫り上げ、長い年月をかけて磨き上げたかのような目だった。

 

「お前にも、いずれ太一郎の子が授かろう」

「……そうですね」

 

 お雪もまた微笑んでいたが、その微笑みには僅かに陰りがあった。その理由を察した忠興は話題を変えようとした。

 

「そう言えば、お雪……」

「お殿様。あたしに子が生まれたら、その子は『里』にやってしまいますか。お母(かあ)からあたしを取り上げたように」

 

 

 ◆◆◆

 

「徒然草」の第八十五段には、こうある。狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。

 実際、隅田川の傍を矢のように走る太一郎の姿はまさに狂人のそれであったろう。道行く人は皆一様に足を止め、彼の姿を物珍しげに眺めた。

 まず太一郎が飛び込んだのは、大川端の診療所であった。何もジェニファーを優先したわけではなく、清洲橋から診療所までは八町(900m足らず)しかないからだ。

 

「ジェニ……!」

 

 扉を開けるや否や叫んだ太一郎の言葉は途切れた。埃(ほこり)の積もった診療所を、お英が掃き清めて回っていたのだ。こちらを認めたお英が、ほうきを手に近づいてくる。

 

「どうしたの、たいちろー。そんなに慌てて」

「お英! お英ちゃん、ジェニファー、ジェニファーはどこだ!?」

 

 血相を変えた太一郎の問いに、簡素な着物姿のお英は少し困ったような顔で答えた。

 

「落ち着いてたいちろー。ジェニーは最近、たいちろーの家で暮らしてるんだって。何がどうなってそうなったのか知らないけど」

「そ、そうなのか……いや、そうだ、お前、お前はどうなんだ!」

「はい?」

 

 太一郎は怪訝そうにするお英の前にしゃがみ込むと、新妻の下腹部に耳を当てた。お英が少し顔を赤らめて身をよじった。

 

「何やってるの、たいちろー」

「あ、ああ……すまねえ」

 

 顔を真っ赤にした太一郎は立ち上がり、大きく息をついた。何を馬鹿な事をしているのだろうか。

 

「……あの、あのな、お英ちゃん」

「ん? なぁに? たいちろー」

 

 太一郎は照れたように頭を掻くと、小さな声で言った。

 

「ジェニファーと、美樹に……子が、俺の子が、出来たらしい……」

 

 

 ◆◆◆

 

 江戸を離れて西に進み、多摩川を上流にたどる。たどり着くのは現代(いま)で言う奥多摩、御岳山(みたけさん)の渓谷である。忠興の要請で派遣された伊賀者が、〈黒いデウス〉の警戒を行っていた。この区域を担当するのは二人である。

 冬場なので、山中の空気は刺すように冷たい。彼らは白い息を吐きながら、注意深く周囲を見渡していた。

 

「どうだ、何か見えたか」

 

 片方の男が尋ねる。尋ねられた方は首を振った。忍び装束の上に分厚い外套を着てはいるが、それでも寒いものは寒かった。

 

「だめだ、見つからん」

「そうか、やはり誤報だったか?」

「分からんだろう。敵は毒を流すと言うのだから、もっと上流でも良いし、下流でも良いはずだ」

「うむ……何とも、雲をつかむような仕事だ。我らには荷が重いのではないか……?」

 

 忍者にしてはよく喋るこの二人、「半平(はんぺい)」、「助兵衛(すけべえ)」と呼ばれている。頭巾で顔は見えないが間が抜けていそうなのが半平、気が弱そうなのが助兵衛である。

 二人ともまだ若く、十代半ばといったところか。今回の任務には少々不安を抱いていたようだ。

 伊賀者と言えば、長きに渡って御公儀に仕える諜報活動の専門家だ。とは言え、太平の世も長い。情報収集などの地味な仕事が多い彼らにとって、山中でのこの様な仕事は初めての経験だった。

 

「なあ半平よ、もし敵が本当に毒を流しているとしてだな、どうやって流すのだろう?」

 

 助兵衛の言葉に半平が答える。

 

「そりゃあ勿論、ひょうたんの水筒からとくとくと……あれ、しかし毒はカビのようなものなのだろう? ひょうたんからは出て来ぬか」

「で、あるよな。そもそも人食いカビであろう。そんなもの、どうやって運ぶのだ? 俺ならそんな任務ごめん被るな」

 

 そう言って笑う助兵衛に、半平もつられて笑った。随分お気楽な忍者である。

 

「さて、そろそろ休憩にしようぞ」

「そうだな、腹が減った」

 

 二人がそう話していると、不意に茂みの中から音がした。同時に二人の身体が強張る。

 

「敵か……」

「いいや馬だ。……馬だよな」

「鹿では? ほら、あそこの木の後ろにおる」

「馬鹿言え、あちらは崖だ」

 

 言い争う二人に構わず、物音は徐々に大きくなる。どうやらこちらに近づいて来ているようだ。二人は武器を構え、戦闘態勢を取った。そしてついに藪(やぶ)をかき分けて現れたのは……一匹の野兎であった。

 

「……ただの兎ではないか」

「まったく驚かせよって……」

 

 安堵のため息を漏らす二人の前で、兎はぴょんと跳ね上がり、地面の枝を踏みつけた。

 パキ、と音がなる。

 

「何をしておるのだこいつは……」

 

 半平が呆れたように呟いたとき、二匹目の兎が現れた。そして三匹目、四匹目、五匹目六匹目が続けて現れる。

 

「……な、なん、なんだ……!?」

 

 驚きの声を上げる助兵衛の目の前で、さらに七、八、九、十、十一、十二……次々と兎が姿を現す。それらは全て、二人を取り囲むようにして飛び跳ねていた。

 

「おい、〈獣術〉(じゅうじゅつ)か?! 獣術というやつか!?」

「馬鹿な、伝説の飛騨忍者じゃあるまいし!」

 

 助兵衛が叫ぶと同時に、群れの中の一羽が一際高く飛び上がったかと思うと、空中で身体を捻る。そしてそのまま鋭い牙を彼の喉元に突き立てた。一瞬の出来事であった。

 

「ぎいゃーっ?! 三途の川が見えるっ!」

「馬鹿、首巻きをしておるだろう! そんなで死にゃあせんわ!」

 

 悲鳴を上げる助兵衛を半平が叱りつけ、兎を払い除ける。その間にも兎たちは続々と集まってきていた。まるで彼らを包囲するかのように輪を作っている。その数は既に三十を超えていた。

 

「ど、どうする!? 逃げるかっ!?」

「逃げる! 逃げねば死ぬ!」

 

 二人は脱兎のごとく駆け出した。兎に追われて脱兎のごとく、とは妙な話だが、二人の動きは兎よりも兎らしい。四足の動物を思わせる動きで木々の間をすり抜けていく。

 伊賀流忍術・月兎脚(げつときゃく)である。この二人、馬鹿は馬鹿でも逃げに長じた一かどの忍びなのだ。

 だがいくら逃げようとも、彼らの前には常に兎の群れが立ち塞がっていた。右へ左へ迂回しようとしても無駄だった。兎たちが壁となって立ちふさがるのだ。

 

「くそっ、なぜだ、何故こんな目に……!」

「もう駄目だぁ……! 殺されるぅ……!」

 

 二人は涙と鼻水を垂らしながら走っていた。もはや恐怖のあまり言葉すら出ない有様である。

 そんな彼らに容赦なく襲いかかる兎たちであったが、ある地点まで来るとぴたりと動きを止めた。そしてくるりと向きを変えると来た道を戻っていったのである。

 

「……助かったのか?」

「……うむ、多分」

 

 呆然と立ち尽くす二人を余所に、兎たちは再び森へと消えていった。

 

「おい、水をくれ」

「…………なんで俺のをやらねばならんのだ。自分のがあるだろうが」

「さっきの騒ぎで落としてしまったのだ」

「…………俺も落とした」

 

 半平の言葉に助兵衛は顔をしかめた。

 

「うーむ、どうするか」

 

 悩む半平を見て助兵衛は言った。

 

「どうもこうも、戻るしかあるまい……」

「水筒を取りにか?! 水筒を取りに、あんな恐ろしい兎の住処に戻るというのか!?」

 

 半平の悲鳴にも似た叫びを聞いて、助兵衛も叫ぶように言い返した。

 

「馬鹿、分からんのか! あんな恐ろしい兎が、野生の獣であってたまるか。敵だ。恐らく敵の警戒線だ」

「……なんだと?」

 

 半平の顔がさっと青ざめた。それを見て助兵衛は続ける。

 

「こりゃあ、探らねばならんぞ。〈黒いデウス〉には獣を操る暗示使いがいるというではないか……」

 

 小心者のきらいがある助兵衛の口から出た言葉に半平は驚く。この男は普段は臆病なくせに、いざとなると肝が据わるところがあるのだった。

 

「そうだが……しかしなあ……応援を呼ぶのでも……」

「それにな半平、我ら二人で任務を片付ければ、お前、女に引く手数多だぞ? お前だって嫁が欲しいだろ?」

 

 そう言われた半平の目がきらりと光る。彼は助兵衛よりも女好きであった。いや、むしろ好色と言った方が正しいかもしれない。彼の頭の中は桃色の妄想でいっぱいになった。

 

「…………女、女か。くノ一が良いな。うん、俺はくノ一が好きだ」

「くノ一ぃ? お前、町娘の方がよっぽど良いぞぉ? 趣味の悪い」

 

 助兵衛が呆れた声を出すが、既に半平の耳に入っていなかった。頭の中で様々な美女が思い浮かんでは消えていく。

 

「……よし分かった、戻ろう!」

「おう!」

 

 かくして二人は踵(きびす)を返した。日はまだ高い。二人は先程通ってきた道を引き返し、兎に見つかっては逃げ、別の道を通ってはまた兎に見つかっては逃げ、を繰り返す。ふざけている訳ではなく、敵の中心を探っているのだ。やがて彼らが発見したのは、多摩川のほとりにぽつりと建った一軒の寺であった。

 

「地図には、あんな寺はなかったはずだが」

 

 助兵衛が呟く。二人は一旦物陰に隠れて様子を窺った。廃寺だろうか、随分と荒れ果てている。だが人の気配がするのは確かだった。それも一人や二人ではない。

 

「やはり、〈黒いデウス〉の連中か」

「とも限らん。この近くに集落でもあるのかもしれん」

「ふむ……もう少し様子を見るか?」

「うむ、そうしよう」

 

 二人が頷きあった時、突然寺の戸が開かれた。中から三人の男が出て来る。三人とも頭巾を被っており、顔は見えない。三人は周囲を窺いながら何かを運んでいる。高さ三尺(90cm)ほどの円柱状のもので、表面には網目のような筋模様が入っている。透明で滑らかな表面からは中に何があるのかは見えなかった。

 

「鐘(かね)……か?」

「馬鹿を言うな半平、ありゃどう見てもギヤマンだぞ。ギヤマンで鐘なんか作るものか」

 

 半平の言葉に助兵衛は反論した。ギヤマンは、すなわちガラスだ。当たり前だが、ガラスはもろく叩けば割れる。そして鐘は叩いて使うものだ。

 

「しかし見ろ、あの形を……あれはまさしく……」

 

 ギヤマンの鐘。その奇妙な物体は、陽の光を反射してキラキラと輝いていた。それはあたかも空に浮かぶ星々のように二人には見えた。その輝きからは妖しい魅力を感じることが出来た。

 

「な、なんだあれ……」

「分からぬ……」

 

 二人の口から呟きが漏れる。男たちは、大きな金属のたらいに水を満たし、その中にギヤマンの鐘を浮かべていた。すると、どうであろう。鐘が反射していた光が、波紋に乱されてゆらゆらと怪しげな動きを始めたではないか。同時に、水が僅かに泡立ってぼこぼこと音を立て始めた。

 

「おい……」

「ああ、分かっている」

 

 二人の間に緊張が高まる。男の一人が手に持っている棒のようなものを使って、何かを掬(すく)い上げた。

 

「……おい半平よ、あれ……」

 

 助兵衛の声に我に帰ると、半平は頷いた。

 

「ああ、間違いない……」

 

 二人は確信した。あれこそ自分たちの追っていた毒を流す装置。〈終末兵器〉なる人食いカビを生み出すための道具なのだと。

 これは正に手柄、大手柄である。これを持ち帰れば伊賀忍者としての面目は保たれるし、お偉方からの評価も上がるに違いない。それとそう、女にも困らないだろう。くノ一でも町娘でも選り取り見取りだ。彼らは意気揚々と立ち上がった。

 

「ククッ、随分お気楽な忍びがいたものだな。ええ?」

 

 最も、彼らが生きて戻れればの話であるが。振り返った彼らが見たのは、般若の面を被った一人の浪人者であった。

 

(続く)

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