夜の横浜。洋館が立ち並ぶ異人街を一組の男女がゆっくりと進んでいく。
全く同じ速度で、一糸乱れなくゆっくりと行進していく。
彼らの胸中では、一つの心得が唱えられていた。
隠密同心 心得之条
我が命我が物と思わず
武門之儀 飽くまで陰にて
己の器量を伏し
御下命 如何にても果す可し
尚、死して屍拾う者無し
死して屍拾う者無し
死して屍、拾う者無し
◆◆◆
横浜にあるエゲレス商人ベンジャミン・パナイスの洋館。ボンクラ息子が大川端を襲撃した翌日の夜である。
ベンジャミンの私室で、二人の男が密談を行っていた。葉巻をくゆらすベンジャミンの前に、大店の主人といった風体の男がいる。
「どうでしょう? あなたが神田の方に販路を広げてくれれば、我々のアヘンが考えられないような金を生み出してくれる」
「ええ、ええ、それはもう。しかしですねぇ、パナイス様。いくらなんでも、異人さん相手に商売するのは、お奉行所が許してくれますまいよ?」
男は太い眉を寄せ、困り顔をした。この男は、神田に拠点を持つ呉服問屋、越後屋喜兵衛である。ベンジャミンは小さく笑みを浮かべた。
「なあに、大丈夫ですよ。サムライは私のような紳士を異人と呼ぶが、所詮は幕府の犬、そう簡単には手が出せない。それに、私は呉服のような日本の文化を英国の紳士淑女に紹介したいのです。そのためには、どうしても必要なのが、金なんです。分かりますか、越後屋さん?」
「へへへ、そりゃ分かっておりやすがねぇ。でも、異人さん相手じゃあ、うちの若い者が怖がっちまいますからねぇ」
「心配ありませんよ。私が懇意にしている深川の徳田屋さんを中継地に使います。あそこの旦那さんは江戸っ子気質の粋なお方だから、きっとうまくやってくれるでしょう。ところで、例のものは用意できましたかな?」
ベンジャミンは微笑んだ。その視線を受け、越後屋の目が細くなる。越後屋が扉の外に声をかけると、外から下人が入ってきて、ベンジャミンの前に細長い木箱を置いた。
ベンジャミンが蓋を開けると、中から現れたのは、ご禁制の品々であった。ギヤマン製の小瓶に入った粉薬、麻袋入りの煙草、そして、大きな革張りの本。
越後屋は頭を掻いた。何しろ、エゲレス人は、日本を野蛮な国だと蔑視しているのに、自分たちは大真面目に、ご禁制の品々を売りさばこうとしているのだ。これは、明らかに天下への背信行為である。だが、金のためなら何でもするというのが、商人という人種なのだ。
ベンジャミンも内心では、こちらを見下しているに相違ないと、越後屋は思った。
──まぁいい。
「パナイス様、これでよろしいでしょうかね?」
越後屋は、媚びるような声で尋ねた。ベンジャミンは、うむうむと何度もうなずき、満足げな表情をする。
「ええ、いい品です。感服しますよ。それにしても、越後屋さん。あなたも悪い人ですねえ」
「いえいえ、パナイス様ほどでは……」
──その時である。バァン!! という音が響き、窓のカーテンが揺れた。続いて、ガラスの割れる音と、曲者! と叫ぶ声。
二人は顔を見合わせ、私室から飛び出した。
洋館のホールにベンジャミンの護衛と越後屋の用心棒が集まっている。
「どうした! 何事だ!」
階段の途中から越後屋が叫ぶと、部下の一人が駆け寄ってくる。
「へい、賊でございます。窓から侵入してきたようで……あっ!!」
男は、越後屋とベンジャミンたちの背後を見て絶句した。
「ん? ……うっ!?」
階段の上にいたのは、整った顔立ちの美しい少女であった。さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。装束は
越後屋が驚いたのは、少女の得物だった。
十文字槍である。
戦国武者かと思うような長い槍を手に、少女はゆっくりと階段を降りてくる。その穂先は越後屋に向けられていて、どういう馬鹿力をしているのか
少女が言った。
「あんた、神田にある越後屋の喜兵衛さんだね。ここで会ったからにゃあ、あんたもアヘン売りの一味かい」
「違う!」
越後屋は叫んだ。
「わしゃあ、まだ、そんなことは一度もしたことがない!」
「ほう、そうかい」
少女は槍を構えたまま、一歩前に出た。
「知らんと言わず、まだと言うからには、これからやろうと言う訳だね」
「ぐっ!」
越後屋の顔が青くなる。目配せすると、ベンジャミンが懐に手をいれ、拳銃を抜こうとする。
「あうっ!」
「つ、椿の花……!?」
それは、椿の枝を鋭く尖らせた、即席の手裏剣だった。ご丁寧に、真っ赤な椿の花がそのまま付いている。ベンジャミンは悲鳴を上げ、手を押さえた。
越後屋は手裏剣の飛んできた方を見る。
ホールの大扉から、
「エゲレス商人、ベンジャミン・パナイス。貴様は深川の酒問屋、徳田屋久兵衛と共謀し、
ベンジャミンが、慌てて否定する。
「待ってくれ! 私は何もしていない!」
少女が、槍を構え直しながら言う。
「言い逃れすんじゃねえ! 徳田屋の方から既に調べはついてる。てめえらの密書、この目で読ませてもらったぜ」
「な、なんと!?」
侍も少女に続けた。
「証人もいる。今頃は、奉行所が徳田屋中を引っ掻き回して、証拠を探し回ってるところだろうさ」
だん、と十文字槍の石突きを床に叩きつけ、少女が言う。
「てめえらの悪事、たとえ世間が黙って見逃したとしても、この十文字槍が承知できねぇとよ。覚悟しな」
「うう……」
ベンジャミンは、血が出そうな程に強く唇を噛む。その情けないざまを見て、進退極まった越後屋が叫んだ。
「ええーい、黙れ黙れ! 突然押し込んで好き勝手を言いくさって! お前ら、一体何者だ!」
ニイッと笑った少女が十文字槍を振り、見得を切る。侍も進み出て、刀を構える。
「隠密同心、十文字お雪!」
「同じく、出楠太一郎!」
「ベンジャミン・パナイス、越後屋喜兵衛! てめぇらの命運もここまでだぜ!」
お雪の宣言に、越後屋は震え上がる。
「ま、まさか、御公儀の……? ええーい、だとしても構いはしねえ! 野郎ども、何をしてやがる! 斬れ斬れ! ぶっ殺せ!」
手下の用心棒たちが、一斉に刀を抜き放つ。戦いの鐘が鳴る。
「でぇぇぇぇぇぃ!」
気合一閃、穂先が一人の胸元を深々と切り裂いた。死角から飛びかかった男を、十文字槍の石突きが素早く払い上げる。吹き飛んだ男の身体が背後の男を巻き込みながら宙を舞い、壁に激突する。
お雪は、まるで踊っているかのように、次々と敵を仕留めていく。その動きは美しく、また、疾かった。槍の動きに合わせて翻る黒髪が、ランプの光に映えて鮮やかである。
突き、払い、そして殴りつける十文字槍が、
太一郎も負けてはいない。燕のように俊敏に動き回り、瞬く間に三人を切り捨てた。エゲレス武術の足捌きが、太一郎の剣術に活かされているのだ。
太一郎は二人に向かって突進すると、一人に飛びかかって袈裟懸けに斬りつける。返す刀でもう一人の胴を薙ぎ払うと、二人は声もなく倒れ伏した。
返り血を浴びながら、太一郎は不敵に笑う。その表情からは、およそ恐怖の色は読み取れない。
一方的であった。二人の隠密同心は、
「くそっ、こいつぁ只の小娘じゃねえぞ!」
「こっちの
「おい、死にたくなければ退け!」
たちまち、悲鳴を上げて逃げ惑う男たち。
「てめぇら、逃げるんじゃねえ!」
お雪が怒鳴るが、誰も聞く耳を持たない。
その時、彼らの頭上に何かが投げ込まれた。太一郎が放った
「わああっ!」
燃え上がった炎が、ぱっと散る。
「なんだありゃ!」
「油か!?」
「ひいっ! ……ぎゃああああ!」
逃げ遅れた悪党が数人、火達磨になって転げ回る。太一郎の
「ハハハ……ハーハッハッハッハ! こりゃあ見ものだ! 悪党どもの阿鼻叫喚! 踊れ踊れ! この世は極楽だァ!」
「こ、この気狂いが!」
炎を逃れて切りかかってきた悪党どもを、太一郎が軽くいなす。一振り、二振り、三振り。それで十分。男たちは、ずたずたに引き裂かれ、血の海に沈む。
血の華に包まれて真っ赤に染まった太一郎が、満足そうに息をつく。
「フウゥゥゥ……♥」
炎の反対側で、お雪が最後の悪党を串刺しにして、十文字槍を引き抜く。
「フンッ!」
穂先が抜け、血が噴き出る。その音だけがホールに残され、やがて静寂が辺りを支配した。
「お雪ちゃん、これで全部かい」
「ああ、後はこいつらだけさ」
お雪がベンジャミンと越後屋を指差す。既に、二人の命運は尽きていた。
怯えた越後屋は、必死の形相で命乞いをする。
「た、助けてくれ! 金ならいくらでも払う! だから、許してくれ!」
だが、お雪は冷めた目つきで言う。
「馬鹿言っちゃいけねえよ。あんたらが銭を出すのは、あたしらじゃない。三途の川の渡し守だ」
「そんな……!」
「地獄へ落ちな」
お雪は、十文字槍の一振りで越後屋の首を飛ばした。
「ヒイィィィィィッ!」
ベンジャミンが、失禁しながら這いつくばって逃げようとする。その背中をどん、と踏みつけながら、太一郎が問うた。
「ベンジャミン・パナイス。息子を操り、大川端の女医者を襲わせたのはお前だな?」
「お、女医者? 知らない、私は何も知らない! 本当だ、信じて……」
「そうかい。そりゃあ残念だ」
太一郎は脇差しをベンジャミンの背中に突き立て、心臓を一突きにする。
「そんなら、楽に死なせてやらなくちゃな」
ベンジャミンは、ぐえ、と蛙が潰れるような声を出して動かなくなった。
「兄貴、館に火が回ってる。早く逃げよう」
お雪の言葉に従い、太一郎は素早くその場を離れる。
二人は、周辺のアヘン庫にも次々と火を放った。パチパチという音を立てて、炎が踊り続けている。やがて、その炎は大きくなり、屋敷を飲み込んでいく。
太一郎とお雪は、その様子をじっと見つめていた。
「兄貴、これでいいんだよな。これで、お江戸の人たちはアヘンを怖がらなくて済むんだよね」
いつの間にか、斬り合いの高揚から冷めたお雪は泣いていた。
当然、これは一時しのぎに過ぎず、アヘンの災いが終わるわけではない。中毒者の苦しみは一生続き、市中に残されたアヘンもある。何より、外つ国では今もなおアヘンが作られ続けているのだ。
だが、太一郎はそれを〈言わずともよいこと〉と思い、そっとお雪の肩を抱いて言った。
「涙が出るなら、止まるまで泣けばいい。お雪ちゃんはまだ若い。泣きたい時は、思いっきり泣くのが一番さ」
燃え盛る洋館の最期を見届けると、二人とも夜の闇へと消えていった。
◆◆◆
数日後のことである。
お堂の中に、白い煙が立ち込めている。
男は、ああ、と声を漏らした。己に絡みつく二つの女体。男がうめくと、二人はさらに体をすり寄せてくる。
それを見て、男は思った。
(なんて醜いんだ)
肉が崩れた中年女と、
しかし
お堂の中に、美しいものは二つある。仏の像と、たゆたう白い煙。
いや、三つか……煙がもたらす甘ったるい
音もなく戸が開いた。
(あ……)
月光が、煙の中に影を映す。影がささやくように言った。
──なんとまあ、自業自得とはこの事か。
──自分がさばいた
男には、言葉の意味が分からなかった。地獄? こんなにも甘く美しい極楽は他にない。
誰だ、と問おうとしたが、舌が痺れて動かない。
──そんな骨と皮ばかりになって、生きていたって仕様があるまい。
──全く、こんな仕事は娘っ子には任せづらい……。
男の胸に、スッと刃が潜り込んだ。
「あ……がッ! ぐぅ!」
何が起きたのか理解できずに、胸の痛みにのたうち回る。そんな男に醜女たちが肌をすり寄せ、
「……だ、だれ……だ……」
影が応えた。
──三途の川の渡し守だよ。
──フフフ……♥
◆◆◆
妻恋坂にほど近い、太一郎の自宅にて。
「太一郎様、お聞きになりましたか? 深川の徳田屋さんが、お奉行所に捕まったとか」
「へえ、そいつは知らなかったな」
美樹の膝枕で耳掃除をされている太一郎は、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。
「なんでも、悪いお酒を売って、飲んだ人足が死んでしまったとか。恐ろしいことですね」
「うーん、そうだねェ……」
太一郎は頭を悩ませるふりをして、美樹の柔らかなお尻を撫でる。
「あン……太一郎様ったら、もう」
美樹が顔を赤くする。
「へへ……今夜は美樹のわかめ酒が飲みたい気分だなぁ」
「もう! 太一郎様の助平!」
美樹が太一郎の頬を引っ張る。太一郎は飛び切りの笑顔で笑った。
数日後、徳田屋久兵衛は獄死と発表された。
(第一回 アヘン事件 了)