※この作品はR-18です。

大江戸捜査網 ハーレム・サムライ   作:a-su

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Dパート

 

隠密同心 心得之条

我が命我が物と思わず

武門之儀 飽くまで陰にて

己の器量を伏し

御下命 如何にても果す可し

 

尚、死して屍拾う者無し

死して屍拾う者無し

死して屍、拾う者無し

 

 

 

 

 その男の名はさ(・)ぶ(・)と言った。邪教、〈黒いデウス〉において荒事を担う黒坊主の一人だ。浅黒い肌に筋骨隆々の身体つき、精悍な顔つきをした偉丈夫である。冬の山中にあっても褌に晒しを巻いただけの格好なので、丸太のように太い四肢がよく分かる。剥き出しの腕や足にびっしりと刺青を入れ、大声で黒坊主や巫女を指揮するその姿は堂々たるものだ。

 さ(・)ぶ(・)は和泉国日根郡に住む漁師だったが、ありふれた悲劇が彼を襲った。流行り病にかかった妻子が、村長の決定で家ごと焼き払われたのだ。妻と子供たちが赤い炎に包まれていく様は、彼の脳裏に今でもはっきりと残っている。

 彼は憎悪と鍛えられた肉体をもって瞬く間に〈黒いデウス〉でも有数の戦士となり、今や黒坊主の中でも一目置かれるようになっていた。

 

 そんなさ(・)ぶ(・)だが、今回の任務を与えられたのは僥倖(ぎょうこう)だった。何しろ、成功すれば徳川将軍お膝元の江戸、そこでのうのうと暮らす人間たちを皆殺しにできる。生き残った人間たちも、安全な水を巡って殺し合いを始めるらしい。笑いが止まらないというものだ。

 

(ああ、こんカビさえありゃあ、人間なんて間違(まちご)うた生き物は全滅させられるんや!)

 

 奥多摩、御岳山(みたけさん)の渓谷で、彼ら〈黒いデウス〉は人食いカビの培養に勤しんでいた。いくら人食いカビといえども、十分な量が無ければ江戸市中を皆殺しにするほどの効果は期待できない。周りでは、邪悪な志を同じくする黒坊主や巫女たちが忙しなく働いていた。彼ら彼女らはこれから始まる虐殺劇を想像し、恍惚(こうこつ)としながら立ち働いている。柄杓(ひしゃく)でカビをすくって瓶(かめ)に入れ、次々に廃寺の御堂へと運び込んでいる。

 彼の目前にある奇妙な物体。高さ三尺(90cm)ほどの円柱状のもので、透明で滑らかな表面には網目のような筋模様が入っている。

 ギヤマンの鐘。またの名を、〈デウスの鐘〉。巫女頭のおりんが〈終末兵器〉と呼ぶそれは、十万両を超える金銀で異国の組織から買い付けた代物である。

 いつどこで誰が、どうやって作ったのかは分からない。ただ、この鐘には"菌根(きんこん)"なるものが宿っている。そして表面の模様を通り抜けた太陽の光と多量の水分によって、目に見えない菌根は恐るべき人食いカビへと成長する。水を介して人体に侵入したカビは、瞬く間に体を食い尽くし、胞子を撒き散らすカビ人間に変えてしまうのだ。

 

「よう」

 

 声をかけてきたのは、般若の面を被った流水八郎太だった。さ(・)ぶ(・)はよく知らないが、各地を渡り歩き多額の資金を集めてきた教団の幹部だ。

 昨日から手勢を引き連れて、侵入してきた伊賀者を追っていたはずである。

 

「八郎太さん、あんた、伊賀者(いがもん)は殺れたんけ」

「ああ、まあな。ところで」

「なんよ」

「この鐘の近くにいても、特に危険はないのだな。水を介さねば、カビは人に取り付けないわけだ」

 

(ん…………?)

 

 違和感を覚えたさ(・)ぶ(・)は思わず尋ねた。

 

「八郎太さん……なんで、そないしょーもない事聞くんな。これ、あんたが買(こ)うてきてくれたモンちゃうんけ」

「む……いや、なに、念のためだ」

 

 お国訛(なまり)丸出しのさ(・)ぶ(・)に、八郎太は戸惑ったような声を出す。しかしすぐに気を取り直したのか、声を改めるとこう言った。

 

「ところで、カビはもう十分な量を作れたのか? 江戸の人間を皆殺しにするだけの量は」

「……さあ、知らんけど……まだちゃうけ。出来ちゃある分は寺ん中に入れちゃあるさかいに、後は待つしかないわし」

 

 違和感が消えない。探るように訪ねてくる八郎太に、さ(・)ぶ(・)は内心苛立ちながらも答えた。しかし相手は納得したのかしないのか分からない様子でうなずく。

 

「そうか……まだか……」

「……気味の悪いやっちゃなあ……」

 

 それとなく、さ(・)ぶ(・)は鐘を守るように体を移動させた、それに反応したのか、それとも単に用事を思い出しただけなのか、不意に八郎太は踵(きびす)を返そうとした。さ(・)ぶ(・)は思わず腕を掴む。

 

「待てや!」

「何だ?」

 

 八郎太は再び向き直った。般若面の下からは、動揺や驚きは感じられない。まるで最初からこうなる事を予想し、待ち構えていたかのような態度であった。その不気味さに、思わず手を緩めかけるも──何とか堪えて続ける。

 

「われ、ホンマに八郎太け? さっきから、何やケッタイな事……」

 

 すると、八郎太が笑ったような気がした。顔は見えないが、確かに空気が震えたのだ。そして彼はゆっくりと首を振ったようだった。

 

「もちろん……だがお前さん、そんな事を気にしている余裕があるのかい」

「なんな!」

 

 

「──────いやぁあああああああああああああああああ!!」

 

 

 突然響いた悲鳴に振り返ったさ(・)ぶ(・)が見たものは、地面で七転八倒する巫女の姿だった。人食いカビの運搬を任せていた女だ。左手の指が、付け根まで無くなっている。そして、付け根は黒変している。手の甲、手首、前腕と、徐々に黒く変色し、崩れていく。

 

「ほう。な(・)ぜ(・)か(・)は(・)知(・)ら(・)ん(・)が(・)、うっかり人食いカビに触ってしまったようだな。体が痺(しび)れたかね」

 

 淡々とした口調で語る八郎太の声に被さるようにして、女の絶叫が響き渡った。苦痛から逃れようと必死に暴れる女を見て、さ(・)ぶ(・)は我知らず後ずさりした。本能的な恐怖が湧き上がってくる。

 

「そう怖がるな。別にお前が触ったわけじゃねえんだ」

 

 そう言うと、八郎太は懐から何かを取り出し、絶叫する巫女の真上に投擲(とうてき)した。

 

「……火ィ?!」

 

さ(・)ぶ(・)は知らぬ事だったが、それは火焔玉(てつはう)と呼ばれる暗具である。燃え上がった炎が、ぱっと散る。悶えていた巫女が、たちまち火達磨にされた。

 

「ぁぁあああああっ!! 熱いっ! 熱いぃぃぃいいいっ!!!」

 

 転げ回る女を見下ろしながら、八郎太は笑った。実に気持ちよさそうに、楽しそうに笑っている。その股間は、袴の上からでも分かるほど大きく膨らんでいた。

 もはや疑いようがなかった。八郎太は殺しに快楽を感じる根っからの殺人狂と聞く。この男は、間違いなく本物の八郎太だ。こんな怪物と喋っていたのかと、さ(・)ぶ(・)は背筋が凍る思いだった。

 

「ああ……♥ いい悲鳴だ……♥ たまらないね、まったく……!」

「わ……わ、われ何(なん)ちゅう恐(おと)ろしいことしようねん! 気い狂っちゃあるんか!?」

 

 震える声で叫ぶさ(・)ぶ(・)を、八郎太は嘲笑うかのように見つめ返した。

 

「そいつがカビを周りに感染させる前に、焼いてやっただけだ。カビだぜ、火に弱いに決まってるだろう」

「しゃあけど、女やし、仲間やし──」

「それに、どうせお江戸の全員を殺すつもりだったんだろう? なら、我ら〈黒いデウス〉がここで何人死のうと、大した違いはないんじゃないか?」

「……なん……!」

 

 そんな訳がない。さ(・)ぶ(・)たち〈黒いデウス〉は愉(たの)しみたいのだ。人間を苦しめて、醜く生き足掻こうとする様を指さして嗤(わら)うためにこそ活動しているのだから。だがそんな反論を口にする間もなく、八郎太は懐に手を入れた。

 

「あっ!」

「そうれ、もう一つ馳走しよう。フフ…………♥ 今度は何人焼け死ぬかな……?」

 

 投擲された二発目の火焔玉(てつはう)。それは培養した人食いカビを保管する御堂の上で炸裂(さくれつ)し、中に仕込まれていた油脂により炎をまき散らした。折りしも、冬である。乾燥した空気の中で放たれた炎の勢いたるや凄まじかった。瞬く間に屋根を燃やし尽くした炎は御堂の内部へ侵入する。あっという間に、御堂全体が紅蓮に包まれた。中で保管されていた大量の人食いカビもまた、業火に包まれていく。

 そこにいた何人もの男や女、黒坊主や巫女たちも一斉に生ける松明(たいまつ)と化した。そして彼らは阿鼻叫喚の地獄へと突き落とされたのだった。

 

「ぎゃあああー!!!」

「があああああ! あづい! あがががが! あだまががああ!」

「あああ! あ! ああ! 手、手があ! 助け! 死にたく! 誰か……ッ」

「だずけでぐれぇ! びょだ! っぢまぅ! ぐぶぼ! ごぷ! あ~~ぁあああ」

 

 油脂によって点けられた火は、なかなか消えない。

 みな、目前に迫った死から逃れようと地面を転がったり、あるいは助けを求めて仲間に縋(すが)りつく。もちろん火が燃え移るから、仲間の黒坊主や巫女は武器を抜き、悶え苦しむ仲間を切り殺そうとする。

 

「だずげて! いだいいだいぃいー!!」

「ひゃああ! くるな、くるなくるな! やめてやめてェ──!」

 

 必死でかつての仲間に縋りながら、無残に切り殺される黒坊主。

 

「あっ、あっ、あだじがさきにごろずがらだずげでおねがいいでじょぉおお!」

「あああ ゛ぁあああああ!!! いやだぁあ──ー!!!」

 

 燃え上がる仲間をめった刺しにしながら、自分は助けてくれとわめく火達磨の巫女。

 

 炎と血肉、哀願と裏切りの祭りがそこかしこで繰り広げられる光景に、さ(・)ぶ(・)はすっかり腰を抜かしてしまった。逃げることすら叶わず固まってしまっている。かつて、炎に包まれる妻子を見た時の記憶が蘇る。あの時と同じように全身が震え、冷や汗が噴き出した。

 

(こンなはずあらへん……!)

 

 呆然と立ちすくむさ(・)ぶ(・)の眼前では、なおも惨劇が繰り広げられている。ふと視線を上げると、般若の面を被った男と目が合った。八郎太である。

 

「どうした? これこそ〈黒いデウス〉の教えじゃあないか。人は愚かで、生きるに値しない生き物だと。だから弄んでいいのだと。そうだろう? お前だって、そう思ってたはずじゃあないか」

 

 八郎太の口調には、嘲りと侮蔑、そして嫌悪と敵意が含まれていた。それに気づいてなお、さ(・)ぶ(・)は何も答えられなかった。目の前で仲間が焼かれているというのに、あまりの恐ろしさに指一本動かすことができない。それどころか──

 

 眼前で繰り広げられている壮絶な地獄の中に、見知った顔を目にした。それは彼とい(・)い(・)仲であった巫女で、共に沢山の男や、女や、子供や、老人を殺してきた女だった。

 

「おい─────!」

 

 呼びかけようとして、言葉を失った。彼女は顔面の半分が崩れ落ちてしまっており、真っ赤な中身を曝け出していたからだ。その目は焦点を失い、濁って光を失っている。

 

「そ、んなん……」

「あ゛~」

 

 女は何か言おうとしているらしい。しかしその唇からは泡混じりの灰色の粘液しか出てこない。熱風を吸い込んでしまったせいで声帯がやられてしまったようだ。舌を突き出し口を開閉しても意味のある声が出ることはなく、ただ口から零れるのは粘着質な吐息の音だけである。

 

「……どうした、我が〈黒いデウス〉の同志よ。何を呆けている?」

 

 その様子を見てか、八郎太の口調が少しだけ変わった気がした。

 

「あれは、お前の女か。楽にしてやれ。もう助からん」

「ぁ……」

 

 八郎太の言葉に誘われるように、さ(・)ぶ(・)はフラリと立ち上がった。とうとう崩れ落ちたかつての情女(いろ)を抱きしめ、泣き笑いのような表情を浮かべて言う。

 

「お前とは長いこと付き合うちょったけど……ええ女やったわ……堪忍なぁ……ほんますまん……すまんよぅ……」

 

 そうして、自分の短刀を女の胸に突き刺した。ぐいとひねり、傷口を広げるようにしながら刃を抜くと、そこから赤黒い液体が溢れ出す。同時に女が一度大きく痙攣(けいれん)すると、やがて動かなくなった。完全に死んだらしい。

 

「…………。お前は、もう少し狂っていた方が幸せだったろうに」

 

 八郎太の声は、既にさ(・)ぶ(・)には聞こえていなかった。彼はしばらく亡骸を抱きしめていたが、やがて腕を解くと振り向いた。背後で何かが倒れる音がしたが、もはや振り返らなかった。

 

「──八郎太アァァァッ! おのれえぇぇッ!!」

 

 怒号を上げて飛び掛かるさ(・)ぶ(・)に対し、八郎太は刀を一閃させた。刃はさ(・)ぶ(・)の腕を捉える。が──

 

「固いっ!?」

「斬れんわ! こん糞ったれがァ!!」

 

 さ(・)ぶ(・)の筋肉は鋼のように硬く強靭だった。八郎太の刀を跳ね返すと、お返しとばかりに蹴りを放つ。だが、それ以上に八郎太の動きが尋常ではなかった。怒りに任せて繰り出した一撃は空を切る。まるで柳を相手にしているような手応えに、さ(・)ぶ(・)は思わず舌打ちをする。

 

(この野郎、強い……!)

 

「われっ……! われわれわれわれッ!! われッ! 勘弁せえへんぞォッ!!」

 

 渾身(こんしん)の力を込めて蹴りを放つも、それもあっさりと躱(かわ)されてしまった。やはりこの男、並の使い手ではない。それどころか、今まで戦ってきたどんな敵よりも強敵かもしれない。

 その時、もう一つの声が割り込んできた。

 

「こ、これは一体…………?!」

「?! 八郎太が二人おるっ」

 

 そう、八郎太と戦うさ(・)ぶ(・)の後ろから現れたのは、もう一人の八郎太であった。

 

 

 ◆◆◆

 

 ほんの少し、時間を遡る。

 

 尻の下から、雪の冷たさが伝わってくる。八郎太は、雪を掴んで尾根の下に投げ捨てた。苛立ち紛れに、また一つ雪玉を作る。それを握りつぶすようにして固めると、再び放り投げる。今度は木に当たって砕けた。

 

(えいくそ、彼奴等、間が抜けているくせに小賢しい真似をしおって……!)

 

 〈デウスの鐘〉を使った、人食いカビの培養。それを偵察していた二人組の忍者を、八郎太は殺し損ねてしまったのである。

 

「あなた、おひげが萎(しお)れていますよ。ほら、これで拭いてくださいまし」

 

 おりんは苛立つ夫を気遣うが、両手を失った彼女では満足に水を使うこともできない。仕方なく近くにいた巫女に命じ、濡れた布巾を持ってこさせた。八郎太はその気遣いに感謝しつつも憮然(ぶぜん)とした表情で受け取ると、乱暴に顔を拭く。

 ここは御岳山の隣山、その尾根(おね)だ。太陽は真上にあり、辺りは雪景色であるにもかかわらず暑いくらいである。しかし彼の苛立ちは決して気温のせいだけではなかった。

 

「彼奴等、俺の計画を台無しにしやがって……許さん……絶対に許さんぞ……!」

 

 2人組の片割れである、助兵衛(すけべえ)と呼ばれていた忍者。そやつは、怯え切っているくせに決断力がある、という妙な男だった。まさか助兵衛(すけべえ)が本名ではないだろうが、とにかく片割れを助けてよく戦った。八郎太の剣や苦無、おりんが操る殺人兎の攻撃を巧みに避け続け、隙あらば反撃さえしてみせた。その戦いは一晩に渡って続いた。そして朝が来ると同時に片割れを川に逃がし、自身は八郎太の前に立ち塞がった。

 だが、ここで八郎太は謀られた。足止めに徹するかと思われた助兵衛は見事に逃げに転じたのである。挑発を繰り返しながらつかず離れずで逃げ続ける忍者により、八郎太たちは御岳山の隣山まで追跡させられたのだ。

 

「最後は、あなたの刀で滅多切りにされて崖から落ちたではありませんか。あれで命が助かったとは思えないのですが……」

「うるさいッ! 黙れッ!」

 

 妻の言葉を遮るようにして怒鳴る八郎太だったが、内心では少し安堵もしていた。崖の下は川だった。手傷を負い、崖から落ち、冬の川に落ちたのだ。助かるわけはあるまい。

 問題は他にある。

 

「逃げた片割れが生き延びたとすれば公儀、ひいては隠密同心どもに俺たちの居場所が割れるだろう」

 

 それが何より恐ろしいことだと、八郎太は思うのだった。今まで三度、隠密同心と戦ったが、八郎太は常に優位な状況からの不意打ちを繰り返してきた。それでも、隠密同心どもは一人も欠くことなく今日まで生き延びている。

 人食いカビによる大虐殺の成就まであと少しだというのに、最後の最後で横槍を入れられてはたまらない。

 

「心配なさらないで、あなた」

 

 おりんが言った。出会って十年、おりんは常に八郎太のよき理解者であった。彼の狂気を受け入れ、悲しみを癒し、〈黒いデウス〉の幹部として共に働いてきた唯一無二の妻なのだ。

 そんなおりんの慈愛に満ちた声に、思わず胸が熱くなるのを感じた。

 

「当面、わたくしたちの目標は人食いカビの繁殖ですもの。それは、あと少しで達成されるのでしょう? ならば、他のことは気にしなくてもよいのです。あなたはただ、計画の成功だけをお考えになればよろしいのですよ」

「……そうだな、その通りだ」

「それに今回はわたくしの切り札も待機させてあります。隠密同心といえども、アレの相手にはならないでしょう」

「ああ、そうだとも。お前の言う通りだ」

 

 おりんと言葉を交わしていると、不思議と気分が落ち着いてくる。先ほどまで感じていた焦りや不安が嘘のようだ。

 

(ああ、これだ──これがいい)

 

 流水八郎太というのは、生まれつきの名ではない。そもそも彼は武士の生まれでもない。親に捨てられた孤児が、たまたま川岸で糞(くそ)をしていた一人の浪人を殺し、その刀を奪い取ったことで得た名だ。刀に〈八〉と刻んでいたから、彼は自分の事を〈八郎太〉と呼ぶようになった。以来ずっと彼は〈八郎太〉であり続けている。

 

「う…………」

 

 冷たい風が吹くと、体の芯に拭いがたい疲労を感じる。思わず、白くなってきた口髭を触ってしまう。

 もう若くない。出楠太一郎といい、助兵衛といい、若さに満ち溢れた敵と戦うたびに痛感する。

 

(俺も、いつまで生きられるか分らん。地獄に行く前に、おりんを〈黒いデウス〉の教祖、新たな〈黒雲和尚〉にしてやらなくては……)

 

 そこまで考えて、自嘲気味に笑った。自分がこんなことを考えるようになるとは、ついぞ思っていなかったのだ。

 八郎太は悪鬼羅刹と呼ばれ、血に飢えた殺人鬼である。今でもそれは変わりない。

 

(だが、鬼の目にも涙というやつか)

 

 年経てから、八郎太はおりんと巡り合って妻とした。

 おりんは有り余る暗示の才能を持って生まれた。危険すぎる才能だった。誰でも操れる彼女は、他者を欲する感情、すなわち愛を理解できなかったからだ。

 金、色ごと、酒、薬。あらゆる物がおりんの体を通り過ぎたと聞く。

 だが、彼女も肉の体を持った生き物。ある時その体は壊れ、女として使い物にならなくなった。

 その頃になって彼女が出会ったのが、〈黒いデウス〉であり、〈黒雲和尚〉だった。彼らがおりんに与えたのは、大したものではなかった。それは〈納得〉だった。

 

 やはり人間など、生きるに値しなかったのだ、と。

 

 自分の信念は間違いではなかったという確信こそが、彼女を救い上げたのだ。

 それからしばらくして、二人は結ばれた。幹部同士、初めは打算もあったが、元より人間は矛盾を抱えた生き物だ。躰(からだ)を重ねることもないまま、心の結びつきだけが深くなっていった。

 少なくとも、八郎太にとってはそうだった。初めて尽くしたいと思う女を知った。この女を〈黒雲和尚〉にしてやりたい。〈納得〉だけが救いであるなら、最も大きな〈納得〉を俺が与えてやればいいではないか──と。

 

「あなたっ、見て! 〈デウスの鐘〉の方角です!」

 

 おりんの切羽詰まった声と共に指差された方角を見下ろす。御岳山の渓谷から立ち上る灰色の煙が見えた。あれは──

 

「しまった……! もう来たのか、隠密同心……!」

 

 

 ◆◆◆

 

 飛ぶようにして山を降り、渓谷にかけつけた八郎太は見た。人食いカビを保管していた御堂が炎上し、黒煙を上げている様を。

 そして──燃える御堂を背に立つ二人の男の姿を。留守を守っていた黒坊主のさ(・)ぶ(・)。そして般若面に黒い道着の、つまり八郎太に化けた何者か。

 

「──!」

 

 その姿を認めた瞬間、八郎太の中で何かが爆ぜた。考えるより先に体が動く。腰に佩(は)いた刀を抜き放つと、跳躍した勢いのまま斬りかかる。

 

「ぬうんッ!」

「遅い登場だな、鬼一!」

 

 振り下ろした刃は、般若面のニセ八郎太によって受け止められた。巨岩を切りつけたような手応えと、それに反するような繊細な足さばき。

 覚えのある感覚に、八郎太は慄然(りつぜん)とした。

 

「ぐうっ……!」

 

 ニセ八郎太はそのまま刀を跳ね上げると、返す刀で袈裟懸けに斬りつけてきた。咄嗟(とっさ)に飛び退くが、刃先は八郎太の肩を浅く切り裂いた。痛みはない。傷口からは血が一滴垂れただけだ。

 

「この剣技、やはり出楠太一郎……! きさま!」

「太一郎? 知らんなあ。俺も黒いデウスの鬼一さ。ほれ、この面を見れば分かるだろう?」

 

 そう言って仮面を指差す。八郎太が正体を隠すのに多用する般若面と丸っ切り同じものだった。

 

「きさまっ虚仮にしおって! さ(・)ぶ(・)、合わせろ!」

「お、おおう! アンタがホンモンか!」

 

 さ(・)ぶ(・)と二人、太一郎に左右から殺到する。八郎太の斬撃は下から、さ(・)ぶ(・)の拳は上から同時に襲いかかった。

 ゆら、ゆら。〈黒いデウス〉の戦士たちが襲いかかる中に、太一郎の肉体が陽炎のように揺らめく。だがそれも一瞬のことで、一太刀かわした瞬間、燕のように鋭く反転する。

 

「うわ……」

 

 さ(・)ぶ(・)が間抜けな声を上げた。無理もない。目にも留まらぬ早業で繰り出された斬撃が、その耳を切り落としていたのだから。

 以前にも増して鋭い、若い精気のみなぎった熱剣。かつて生死の狭間に追い詰めた男のほ(・)と(・)ば(・)し(・)る(・)ような強さに、八郎太の心臓が激しく脈打つ。

 

「面(これ)のお陰で今日は早く帰れそうだ。念仏は、形だけでも普段から唱えておくものだぜ、鬼一」

 

 言いたいことを言って、そやつは横ざまに転倒したさ(・)ぶ(・)を踏みつけるようにして跳躍した。咄嗟に斬りつけるが、八郎太の剣は般若面の表を掠めるだけに終わった。二つに割れた面が地に落ちる。

 

「フ……!」

「出楠太一郎ぉ!」

 

 そやつは振り向かずに駆け出した。廃寺の門をくぐり抜け、崖へと身を躍らせる。慌てて後を追った八郎太だったが、既にその姿は消えていた。

 

(逃がしたか……いや違う。まだ攻撃は終わっていないはずだ)

 

「立て、さ(・)ぶ(・)! まだ〈デウスの鐘〉は健在なのだ! あれを守るぞ!」

 

 耳を失ってうめくさ(・)ぶ(・)を叱咤(しった)しながら、〈デウスの鐘〉を取り囲むように陣取る。その時になって、ようやく残った黒坊主と巫女、おりんが山から下りてきた。

 

「あなた、ご無事でしたか」

「ああ、なんとかな」

 

 駆け寄ってきたおりんを抱き留めると、安堵のため息を漏らす。隠密同心の狙いはこの鐘だ。これを破壊されてしまえば、おりんと八郎太は破滅するしかない。

 

「さ(・)ぶ(・)、よくぞ鐘を守ったっ。〈黒雲和尚〉はお喜びになるぞっ」

「ちゃうわ……あいつ、あいつが鐘より人を焼くンが優先やて思っちゃあっただけや……余裕かましくさって、ほんま憎そい……!」

 

 切られた耳を押さえながら、さ(・)ぶ(・)は悔しげに歯噛みしている。

 そうかも知れない。既にここは、隠密同心どもの狩り場なのだ。

 燃え盛る御堂から、熱波が吹き付けてくる。吹き出す汗が、瓦解していく計画への焦燥感を物語っていた。

 

「ええいっ、忌々しい炎め……! さっさと消えろっ」

 

 苛立たしげに吐き捨てると、八郎太は刀を抜いて振るった。それで消えるわけもなし、舌打ちして、今度は風向きを確かめるために周囲を見回す。すると、何かに気づいたらしいさ(・)ぶ(・)が指をさしてきた。

 

「八郎太っ。来よった、来よったでえっ。隠密同心や!」

「!」

「お雪さん……!」

 

 鐘楼の後ろから、一人の美しい娘が姿を現した。砂利を踏みしめ、一歩一歩、〈デウスの鐘〉へと前進してくる。

 さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。装束は巫女のそれにも似た赤い袴姿であるが、裾や袖口には豪奢(ごうしゃ)な金糸が入っている。だが、彼女の美しさを最も際立たせているのは、その瞳であろう。鳶色の澄んだ目は獲物を狙う猛禽類のように鋭く、そして明確な殺意を湛えている。

 

「よう、おりん。ここで会ったが百年目だ」

「……お雪さん……貴方には、わたくしが理解できるはず。隠密同心として、貴方も人間の薄汚い欲望を目の当たりにしてきたはずです」

「おりん……」

 

 まるで懇願でもするかのように言うおりんに、お雪と呼ばれた娘は、冷徹な目を向ける。その目には哀れみさえ浮かんでいるようだった。

 

「いいや、わからねえ。お前らの言う〈人間〉ってのは、一体全体なんなんだい? 欲深くて、狡賢(ずるがしこ)くて、嘘つきの、他人を踏み台にしてもなんとも思わねえ、そういう下衆(げす)どものことなのかい?」

 

 お雪が問うと、おりんはしばらく黙っていた。やがてゆっくりと口を開く。

 

「……その通りですわ。お雪さんは、なぜ隠密同心を続けるのですか。下衆のために戦って、辛くはないのですか。苦しいでしょう」

 

 おりんは言葉を切って、とん、とんと足を踏み鳴らし始めた。彼女が得意とする暗示をかけようとしているのか。

 

「それとも愉しいのですか。下衆のために槍を握り、下衆のために下衆を殺すことが?」

 

 お雪が静かに瞑目(めいもく)した。そしてゆっくりと瞼(まぶた)を開けると、瞳に宿る意志の光が一層強くなる。それは決意の光であった。

 

「ふんっ!」

 

 少女は得物を振り回す。戦国武者かと思うほどに長い十文字槍。穂先が地面を削り、石ころが飛び散る。まるで小枝でも振り回すかのような軽々しさだ。黒坊主と巫女達が息を呑む中、彼女は再び口を開いた。

 

「愉しかあない。だけれど、悲しくもない。辛いとも、苦しいとも思わない」

 

 どこか悲しげな表情だった。

 

「どれほど下衆や悪党どもをぶったぎっても、心は何も感じない。あたしはそういう人間だ」

 

 しかしそれも一瞬のことで、すぐにまた鋭い顔つきに戻る。そして手にした槍を頭上でくるりと回した。

 

「結局、あたしは隠密同心に向いてんだ。手前らみてえな犬にも劣る畜生どもは、あたしが叩っ斬る。上様、神様、仏様、誰でも知ったこっちゃねえ。悪党は殺す。違うなら守る。そんだけさ」

 

 お雪の言葉に迷いはなかった。一切の躊躇(ちゅうちょ)なく言い切った彼女に、今度はおりんが顔を歪めた。唇を噛み締めるその表情には、深い苦悩の色があった。

 

「……くせに。お前も、人から外れた化け物のくせに……!」

 

 苦しげな声で絞り出した言葉には憎悪が込められていた。お雪は無言でそれを受けると、小さくため息をついた。だがそれをかき消すように、もう一つの声が割って入る。

 

「人の女房に向かって化け物とは、聞き捨てならねえな」

 

 お雪の後ろから、皺(しわ)一つない紋付きの白い着流しを身につけた、いかにも「洒落者(しゃれもの)」の若い侍が、悠然と現れた。片手に抜き身の刀を持っている。

 

「お初にお目にかかるな、〈絢爛(けんらん)お燐(りん)〉。おれの女房を二人も惑わしてくれた礼をしに来たぜ」

 

 侍は不敵な笑みを浮かべて言った。お雪と並び立ち、すっと刀を構える。お雪も侍の隣で同じように構えた。二人とも、視線は油断なく正面に向けたままだ。二人の周囲には、目に見えない緊張感が漂っている。

 

「お前ら何者なんやっ!」

 

さ(・)ぶ(・)の叫び声。二人は朗々とした声で名乗りを上げる。

 

「隠密同心、十文字お雪!」

「同じく、出楠太一郎!」

 

 二人の隠密同心に負けじと、八郎太も叫んだ。

 

「殺せ! ここが正念場ぞっ、〈黒いデウス〉の同志たち! 斬れ斬れ、薙ぎ払えぃ!!」

 

 〈デウスの鐘〉を守っていた黒坊主と巫女たちが、一斉に武器を取り出した。刃が鞘に擦れ合う音が一斉に響く。

 鬨(とき)の声を上げ、黒坊主と巫女たちは雪崩を打って突撃した。

 右から左から切りかかる悪党どもを、お雪の十文字槍が叩き伏せていく。穂先を避けようとした黒坊主の腕を斬り飛ばし、返す一撃で巫女の胴を突く。さらに横から飛びかかってきた別の黒坊主を、十文字槍の柄で殴り飛ばした。背後から振り下ろされた刀を振り向きざまに打ち払い、そのまま回転して柄で相手の頭を殴りつける。地面に叩きつけられた黒坊主が気絶するより早く、次の相手を打ち据える。

 

「ぐわっ!?」

「ぎゃんっ!!」

 

 次々と打ち倒されていく仲間を見て、黒坊主達は明らかに動揺していた。無理もないだろう。彼らはただの黒坊主ではない。〈デウスの鐘〉を守るために集められた精鋭なのだ。そんな彼らの攻撃をものともせず、逆に圧倒的な力で押し込んでいく小娘がいるのである。

 しかも隠密同心は一人ではない。彼女の隣に立つ若侍もまた、鋭い刀筋で敵を蹴散らしていく。二人一組で襲いかかった巫女が、どこをどうされたものか一瞬で血煙に変わり、断末魔の叫びを上げて倒れ伏すのだ。

 

「ちぃっ……!」

 

 苛立ったさ(・)ぶ(・)が、拳を構えて突っ込んでいく。鋼の筋肉を持つ豪傑は、しかし、あっさりと二人によって返り討ちに遭ってしまった。

 

「エイッ!」

 

 太一郎の甲走(かんばし)った気合声に誘われ、さ(・)ぶ(・)は反射的に体をひねった。そこに間髪入れず、お雪が襲いかかる。大きく一歩踏み込んで繰り出された石づきは、正確に豪傑のみぞおちを捕らえていた。

 さ(・)ぶ(・)は強烈な一撃を受けて悶絶し、胃液を吐きながらその場に崩れ落ちる。

 

「あっ……かっ……」

「もう女のところに逝け、さ(・)ぶ(・)。それがお前の幸せだ」

 

 太一郎の声が沈んでいるのを聞いて、お雪が鼻を鳴らす。そして、十文字槍でさ(・)ぶ(・)を脳天から股下まで真っ二つに引き裂いた。飛び散る鮮血が雨となって降り注ぐ中、太一郎が残る敵に刃を向けた。

 

 たった二人だ。数は〈黒いデウス〉が上だ。だのに、一方的と言っていいほどに、二人は優勢だった。触れることさえ許さずに、邪教団の戦士共をなぎ倒していく。

 お雪達の戦いぶりを見ながら、八郎太は叫んだ。

 

「おりん、〈切り札〉を出せっ」

「はい!」

 

 即座に答えたおりんは、口笛を吹いた。

 

「何をしてやがる、おりん!」

 

 叫んだお雪が、妨害しようと突っ込んでくる。八郎太は、その進路に何かを投げ入れた。

 

「避けろ火焔玉だっ!」

 

 太一郎の叫び。咄嗟に横へ跳ぶお雪。直後、投げ込まれた物体が破裂し、炎が吹き上がった。熱風が、御堂の炎に負けじと激しく燃え盛っている。

 そして、おりんの切り札が姿を表した。跳躍し、着地する。それだけで、地面が大きく揺れるようだった。

 お雪がうめく。

 

「うお……なんだっ、このバケモノはっ!」

 

 それは、巨大な熊であった。全身を覆う体毛の色は黒く、目は赤く爛々(らんらん)と輝いている。太い四肢を持ち、牙の間から漏れる息は荒く、涎(よだれ)を垂らしている。口から覗く舌も、また赤い。

 

「■■■■──ッ!!」

 

 恐るべき事に、そいつは鉄の鎧で急所を護っていた。手には鋼の爪を付けており、それが今、振り上げられようとしていた。

 轟く咆哮と共に鉄爪がお雪を襲う。彼女はそれを間一髪でかわした。凄まじい威力で地面がえぐれる。まともに食らえば、間違いなく死ぬであろうことは容易に想像できた。

 思わず息を飲むお雪たちに、八郎太が言う。

 

「そうだ、こいつが我らの秘密兵器よ」

 

 その言葉を合図にしたかのように、鉄の熊が突進する。大きく開かれた口が、お雪を飲み込もうと迫る。彼女は十文字槍で受け止めようとしたが、あまりの勢いに押し飛ばされてしまった。すかさず体勢を立て直すも、熊は間髪入れずに追撃を加えた。

 彼女は十文字槍を振り回したが、熊はまるで意に介さない様子だ。毛も、皮膚も、肉も骨も、何もかも全てが人より固い。それが鎧で身を護っているのだから。

 

「おりんよ、冥土の土産に教えてやれ。その秘密兵器の名は?」

 

 八郎太は余裕の表情で問いかけた。おりんは憎々しげにお雪をにらみ、吐き捨てるように言う。

 

「悪鬼(あっき)です。わたくしの暗示で凶暴化させた、この山の主ですわ」

「そう、『悪鬼(あっき)』だ! 行け悪鬼よ、隠密同心を殺せぇい!!」

 

 お雪に向かって襲い掛かる悪鬼は、まさに鬼気迫るものがあった。巨体でありながらも恐ろしい速さで動き回り、あらゆる角度から攻撃を繰り出していく。

 

「でぇぇぇぇぇぃ!」

 

 気合一閃、十分に速度を乗せたお雪の十文字槍が、唸(うな)りを上げて繰り出される。稲妻の如き穂先が悪鬼の眉間を狙う。だがその寸前で、鉄爪に阻まれた。金属同士が激突する轟音が鳴り響く。衝撃で周囲の空気が震えた。

 お雪は舌打ちをすると、後ろに飛び退った。

 

「見事だ、おりん!この悪鬼ならば、隠密同心とて物の数ではない!はははははっ!!」

 

 八郎太は、鬼の首を取ったかのような気分だった。高笑いを上げて悦に入る。やはり、自分とおりんは特別だ。他の人間とは違うのだ。特別な存在なのだ。そう思うだけで心が弾むようだった。

 

 興奮したおりんが叫ぶ。

 

「死ねえ、お雪! いくらお前が化け物でも、この悪鬼には敵うまい! 死ね、死ね、死んでしまえぇっ!!」

「──化け物じゃない。お雪は可愛いよ」

 

 どこからか、女の声がした。澄み上がって、悲しいほど美しい声だった。

 そして、何かが回転する音。

 それは、ガ(・)ト(・)リ(・)ン(・)グ(・)ガ(・)ン(・)の駆動音だった。

 

「は─────」

 

 八郎太は息を呑む。

 ピタリと悪鬼に狙いを定めた銃身が火を噴く。無数の弾丸が撃ち出され、硝煙が立ち込める。

 

「■■■■──ッ?!」

 

 さしもの大熊も、秒間にニ発打ち出される0.58inch(約15mm)の大口径、鉛玉の雨あられには耐えられなかった。

 鎧が外れ、眼球が砕け、喉仏が叩き潰され、腹に大穴が空いた。ふらりよろけて倒れそうになるが、寸前で踏みとどまる。

 

「■、■、■■──ッ!」

 

 血液を撒き散らしながら、それでも即死しないのはさすがと言うべきか。暗示の影響によるものか、驚異的な生命力である。

 なおも前進を続ける熊に対し、給弾を終えたガトリングガンの第二射が降り注いだ。

 無論のこと、いかに頑丈な身体と言えども、それに耐えられるはずがなかった。熊の肉体は蜂の巣になり、ついに力尽きた。大量の鮮血がまき散らされると同時に、ゆっくりとその場にくず折れるのだった。

 

「そんな……こんな、ことが……!」

 

 静寂が訪れる。切り札を失ったおりんは、真っ青な顔で立ち尽くしていた。

 そこに太一郎が歩み寄る。気負いのない、自然な動きだった。まるで、よう、今日もいい天気だ……と隣人に挨拶するかのような。

 右手の白刃が、夕日を反射してギラリと光る。

 

 唖然としていた八郎太は、叫ぼうとした。

 

「あっ……おりん、逃げ……」

「終わりだよ、鬼一」

 

 した瞬間に、十文字槍が襲いかかった。咄嗟に防御するものの、一撃で刀を砕かれる。

 

「こいつは……兄貴の礼だあぁあっ!」

 

 一振り、二振り。稲妻のごとき速さの槍が、たちまちのうちに彼の両手両足を切断していた。

 

「げぇええええあああああああぁあああああっ!!」

 

 絶叫を上げながらもんどり打って倒れる彼を見下ろしているのは、血塗れのお雪だ。

 

 二人の間に、何かが転がってきた。八郎太の妻、おりんの首だった。なんの別れも告げることなく、呆気に取れられたような表情のまま絶命している。見開かれたままの目は白く濁っており、口は半開きのまま固まっていた。

 

 八郎太は悲鳴を上げ続けた。手足を斬り落とされた激痛よりも、最愛の妻が死んだことの方が何倍も痛かった。痛みすら忘れる程に悲しみ、苦しみ、もがき続けていた。

 

「あ、あぁ……あああああぁぁ……っ!!」

 

 涙で視界が歪む中、お雪の姿が見えた。

 

「────っ!! なぜっ……なぜっ……おりんを殺すっ……」

「ああ?」

 

 心底馬鹿にしたように、八郎太を見下ろしたままお雪が答える。

 

「何を言ってんだ、お前は」

「あいつは、貴様を欲しがっていたのにっ、理解して欲しがっていたのにっ、なぜ出楠太一郎が殺すうっ……!?」

「……はぁ?」

 

 八郎太が思うに、おりんはこの娘を求めていた。人から外れた力を持った者同士、理解と共感を求めていたのだ。おりんは、ある意味で童女のような純粋さを持っていたのだと、八郎太は思っていた。

 

「そんなに憎いのか!? 貴様を苦しめたおりんが、それほどまでに憎いかぁっ!」

「あのなぁ、お前(めえ)よぉ」

 

 お雪が呆れたように言った。その顔は、酷く冷たかった。

 

「あたしは別に、この女のことを憎んじゃいねぇぜ」

「……え?」

 

「ただの悪党だろ。持って生まれた才能に振り回されて道を踏み外しただけの、ただのつまらねえ小悪党さ」

「……」

 

「あたしと同じ、ただの人間だよ。あたしには兄貴がいたからまだ良かったけどよ、こいつぁ独りぼっちだったからなあ。そりゃあ辛かったろうさ」

「……違う……違うぞ……独りぼっちでは……我らは……ただの人間より……ずっと……」

 

 呆然とした様子で、八郎太は言った。しかしその声は、ほとんど掠れていてよく聞こえない。

 八郎太は初めて気づいた。自分とおりんは、隠密同心たちに、憐れまれて(見下されて)いたのだと。

 彼は泣いていた。とめどなく涙を流しながら、うわ言のように呟いていた。

 

「そうかい」

 

 お雪が冷ややかに言った瞬間、彼女の足が動いた。そして、まるで虫けらを踏み潰すように、八郎太の頭を蹴り飛ばしたのだ。首が折れて、頭がひしゃげる音がした。目玉が飛び出て、舌がはみ出し、八郎太と名乗っていた男は絶命した。

 

 

 ◆◆◆

 

「お雪!」

 

 姿を表したお英が、飛びつくように抱きついてくる。彼女は泣きじゃくりながら、お雪の胸に顔を埋めていた。

 

「怖かった……! お雪が死んじゃうんじゃないかって思った! あんな熊が相手だなんて聞いてなかった! もう絶対に無茶したら駄目だからね! 約束してね! 絶対守ってね! 破ったら許さないからね!」

 

「あーはいはい」

 

 適当に返事をする。隠密同心に無茶をするなとは、それこそ無茶というものだ。

 暗示に抵抗力がないお英は、隠れて機を伺っていたのだ。熊を撃ったガトリングガンは、あのオーレンライト号から回収されたものだ。長崎の海から引き上げ、黒卍党が多摩川をさか上る船で密かに運んでいたのである。その内回収に来るだろう。

 

「お雪ちゃん」

「兄貴っ」

 

 夕日を背にして近づいてくるのは、太一郎であった。穏やかな微笑を浮かべている。今度はお雪が、愛しい男の胸に飛び込む番だった。

 二人はしばらく抱き合っていたが、やがてどちらともなく離れた。そして互いの顔をまじまじと見つめ合い、それから笑った。心の底から幸福そうな笑顔だった。

 最早二人とも、おりんと八郎太の事は欠片も心に残していなかった。

 

「なあ、この近くに温泉があるんだ。そこで血を洗い落として、一緒に湯に浸かろうや」

「鐘はどうするの?」

「いや、いいさ。伊賀者に任せよう。俺たちの御役目はここまでだ」

「ちょっと、温泉なら私も行くから!」

 

 お英が叫ぶように言った。その目はきらきら輝いている。どうやら、太一郎とお雪と一緒に湯に浸かるのが楽しみで仕方ないらしい。

 

「そうだな。三人でゆっくり楽しむか」

 

 三人は連れ立って歩き出した。その背中を見送るものは誰もいなかった。

 激闘の跡には、ただ、静けさだけが残されていた。

 

(第十回 デウスの鐘 了)

 




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