隠密同心たちが〈黒いデウス〉の陰謀を打ち破り、一月が経った。
年の瀬が近づいてきた、師走。
冬が深まって、江戸の町には雪が降り積もっている。
そんな中でも人々の往来は絶えることなく続いていた。年の瀬が近いせいだろうか、誰もが何かに追い立てられるようにせかせかと動いていた。冷たい風もものともせず、人々はどこか浮き立った様子で通りを歩いている。
そして寒空の下、日本橋にある蕎麦屋〈竹むら〉は繁盛していた。この店は酒を出すので、寒さに耐えかねて熱燗を一杯引っかける客が多いのだ。店の中で連れと酒を酌み交わす者もあれば、外の席で茶碗酒をちびりちびりとやっている者もいる。
「はい熱燗! はい味噌そっちは漬物、あんた席空けておくれ、はい空いたよお客さん!」
店の中を走り回り、大声で酔客どもを仕切っているのは看板娘のお雪である。
さらりとした黒髪を後ろで束ね、藍色の着物の上から前掛けをしている姿はいかにも若々しい。
それでいて客あしらいは堂々たるものがあり、彼女が一声掛けるだけで酔っ払いたちも大人しくなる。侍だろうと力士だろうと構わず威勢良く叱り飛ばすその様は、いっそ小気味よいほどだった。
「おでんお待たせ! 豆腐とこんにゃく、甘味噌だからね!」
この当時、おでんと言えば
〈竹むら〉では串に刺した種を鰹の出汁でさっと煮て、味噌だれを塗って食べさせる。
豆腐を頬張った常連の飾り職人がはふはふと、
「いやァ、やっぱここのおでんはうめぇなァ……」
と、皺だらけの顔を綻ばせた。すると連れの大工職の男も
「おうよ、こりゃ逸品だぜェ……そこらの屋台と違ってよ、出汁で茹でてやがるから豆腐の味が抜けてねえや」
「そうかいそうかい、そりゃあよかったね」
と、お雪は顔を綻ばせる。一筋の汗が頬をつたい、首筋へと流れ落ちていくのが見えた。玉となって肌の上を転がり落ち、鎖骨の間に消えていく。
注文を取り、出来上がった料理や酒を運ぶ。お雪の動きは実に軽やかだった。精力的な動きに合わせて艶やかな黒髪が揺れ動く。
男というものは単純だから、そこに揺れる髪にさえ目を奪われるものだ。お雪はその髪をかき上げつつ、店内を走り回っていた。
職人が大工の頭を小突く。
「はっ! な、何でえ?」
「いい歳をした一端の大工が、何を十四や十五の娘っ子に鼻の下を延ばしてんだィ? ええ?」
「む、こりゃいけねェや……」
大工は頭を掻いて照れ笑いする。
「しかしよ、おやっさん。最近のお雪ちゃん、色っぽくなったとは思わねえかィ?」
「……まァ、そうさなぁ……旅から帰ってからはちょいと雰囲気が変わった気ィするが……」
職人は曖昧に
体つきはそう変わってもいないが、旅先で心境の変化でもあったのだろうか。
もともと器量よしだったが、近頃は時折はっとするような艶っぽさを覗かせることがあるのだ。
それは着物の襟元を直すわずかな仕草であったり、あるいは汗ばんだ肌を手拭いで拭う時だろうか。
何気ない瞬間に、男を惹きつける何かが
「旅先で男でもできたんじゃねえのかィ……?」
「……かもしれねえなあ……」
以前までのお雪は、酔客に尻でも
最近は男の邪心に敏感になったのか、さりげなく身をかわすようになっている。それがまた、妙に男心をくすぐる。
「あの様子じゃ、嫁に行く日も近ぇかもなァ……?」
「馬鹿野郎、まだ早ぇってんでい……俺ぁまだまだ認めねえよ……俺らのお雪ちゃんだぞォ……ったくよォ……俺があと二十年若けりゃあな……ブツブツ……」
二人して、店主である長兵衛に聞こえないようひそひそ話をする。彼がお雪を孫のように可愛がっているのは周知のことだ。
だが地獄耳の長兵衛は二人の会話に聞き耳を立てており、じろっと睨みつけたかと思うと、低い声で言った。
「看板娘を酒の肴にするなんざぁ感心しねえな。お前ぇら、そんなに暇ならちょいと手伝っていきなよ」
「おおっと、そりゃ勘弁」
「すまねぇ長兵衛親分、もう行くぜ」
そそくさと逃げ出す男たちを尻目に、長兵衛はぼそりとつぶやいた。
「まったく……出楠の若造め」
◆◆◆
お雪が獅子奮迅の女中働きを見せている、ちょうど、そのころであった。
とある五百石の旗本が、二人の供を連れて雪の小路を足早に歩いていた。
この旗本は友人宅で囲碁と酒、あぶらの乗った冬の鯛を楽しみ、ほろ酔い気分で帰宅の途についていた。彼は元々、剣術よりも碁の方が好きで、酒宴の場ではいつも一番に脱落してしまうような男である。
ところが今日はどういうわけか酒がよく進み、ついつい飲み過ぎてしまったようだ。おまけに帰り路がやけに長く感じられる。どうやら知らず知らず道を違えたらしい。
お供の家来も小物も、酔った主にしきりに言い聞かせたのだが、
「なあに、心配は要らぬぞ。私はこの江戸随一の剣士なのだ。道に迷ったところで敵などおらぬわ」
と
五百石の旗本ともなれば、使用人に内職をさせるような
小者が提灯で暗い夜道を照らし、家来が主の足下に注意しながらゆっくりと歩きだした。
ところが酔漢とは恐ろしいもので、
「おい、蕎麦を食いに行こうではないか」
と言い出してきかない。仕方なく頭巾で顔を隠してもらい、ひと気のない橋のたもとにいた屋台のそば屋に押しかけた。
主人は突然の珍客に目を白黒させたものの、他に客がいるわけでもない。金さえ払ってもらえれば文句はないとばかりに三人を迎え入れてくれた。
「寒い日に熱い蕎麦は何よりの馳走だな……」
と上機嫌の主とともに、三人は焼きちくわを浮かべただけの熱い蕎麦をすする。
そば屋の親父は、三人が武家の人間であることは気づいていたが、あえて知らぬふりをしていた。面倒に巻き込まれたくないからである。
蕎麦を食べ終えた旗本は鼻歌を歌いながら千鳥足で歩き出した。さすがに家来たちは気が気ではない。
引き返そうと目配せを交わし合ったときだった。闇の中から突如として現れた侍が、いきなり刀を抜き放ったのだ。
家来がとっさに抜き合わせ、闇夜に火花が散った。
「おのれ、曲者っ!」
相手は無言だった。ただ、頭巾の下からぎらついた双眸だけが火花に照らされたように煌めいている。
「貴様、何者だ! 前田内膳と知ってのことか!」
誰何の声を上げたのは旗本であった。さすがに五百石取りだけあって、体格の良い賊にも怯えを見せていない。
賊の侍は一言、
「でくす、たいちろう」
とだけ名乗るなり、
「ぐぅっ!」という家来の声とともに、肉を切るような嫌な音が響く。
まさか、と思考を凍らせた旗本の急所を、いつの間にか飛び込んできた賊の白刃が容赦なく貫いた。
「おのれ……でくす、たいちろう……」
それだけ言い残してこと切れた旗本を見て、最後に残った小者が奇声を上げて飛びかかろうとする。しかしそれもすぐに首を飛ばされて事切れることとなった。
「ひっ、ひいっ」
一部始終を見ていた蕎麦屋のおやじは息を呑み、腰を抜かしてへたり込んだまま動けなかった。目の前で人が殺されるのを見たのは初めてだったのだ。
「見たな?」
不意に声を掛けられて、慌てて顔を上げる。そこには今しがた三人の人間を斬り殺したばかりの男が、血に濡れた刀を下げて立っていた。
「みっ……見ておりません! 何も……!」
「そうか。それは不幸中の幸いであったな」
「なあ、おやじ。寒い冬にも生き残っている蝿を見て、お前はどう思う?」
「ど、どうと言われましても……冬に、蝿なんぞ見たことも……」
「いるさ、冬にも。たくましく屍肉にたかる、黒い蟲がな」
「へえ……」
「そいつらと、吉原の
まるで意味の分からぬことを問われ、おやじはぽかんと口を開いた。だが己の命が風前の灯火であることを思い出し、必死に頭を巡らせる。
「……そ、そりゃ、そりゃあ、遊女の方でごぜえます。お戯れを……」
「外れだ」
「えっ……」
ひゅう、と音を立てた刀身から鮮血が飛び散り、雪の上に赤い斑点を描く。おやじの顔に真一文字の赤い線が走り、永遠に光を奪った。
ぎゃあ、と短い悲鳴を発して身を丸めるおやじには目もくれず、賊は踵を返した。そのまま夜の闇に姿を消していく。
あとに残された蕎麦屋のおやじが、這いずりながら番所にたどり着くことができたのは、それから半刻ほど経ってのことだった。
◆◆◆
翌日の朝。妻恋坂にほど近い、出楠太一郎の自宅。
風が雨戸をカタカタと揺らしている。今日も雪が降るらしい。
「む…………」
太一郎の全身を布団の温もりが包んでいる。だが、下半身に違和感があった。ねっとりと、絡みつくような感触がある。
目を開けると、掛け布団がこんもりと盛り上がっているのが分かる。
布団の中でもぞもぞと動くそやつは、ぬめる舌で太一郎の股間を
昨夜、
「おい、お雪ちゃん」
「あたし、お雪じゃないよ」
「冗談言うない」
太一郎は苦笑して、掛布団をめくった。案の定、そこにはお雪がいた。長い黒髪に
真冬だというのに、寝間着一枚しか着ていない。白い素肌には珠のような汗が浮かび上がり、匂い立つように輝いていた。
「ふふ、めくらないでおくれよぅ」
お雪は太一郎の足の間に顔を埋めたまま、悪戯っぽい表情で見上げてくる。彼女は自分の唇をぺろりと
「もうちょっと寝てれば良かったのにぃ……」
それから吐息がかかるほど顔を近づけてきて、耳元で
(ねえ、もう一回眠ってよ。男はさ、夢を見てても精が出せるんでしょ?)
柔らかい唇が耳たぶに触れ、甘い息がかかる。彼女の舌がゆっくりとはい回り、耳の穴の中に侵入してきた。くちゅり、という水音が鼓膜に響く。
太一郎も段々その気になってきて、
(そりゃ、出せるがね…………しかし、おれはお雪ちゃんの生身を味わいたいんだよ。分かるだろう?)
と抱き寄せようとするのだが、その前に彼女がするりと抜けてしまう。
「だぁめ。今日は店に出るから、お触りは禁止だよ」
お雪はくすくすと笑いながら、
「兄貴だけ気持ちよくなりなよ。あたしは勝手にやらせてもらうからさぁ」
と、再び布団の中に隠れてしまった。くちゅり、と湿った音がする。
「うっ……!」
思わず声が出た。既に硬くなっていたものが更に膨張していくのが分かった。
「ふふっ……どうでえ、見えないまま触られる気分は……?」
からかうような声と共に、温かい舌が亀頭を刺激した。ちろちろと鈴口を刺激するその動きは、明らかにこちらを挑発するためのものだった。裏筋を丹念に
それを意識すればするほど、興奮が増していく。
「くっ……! お、お雪ちゃん……っ!」
「ほらほら、我慢しないで出しちまえよぉ」
舌の動きが早くなる。先走りの汁が
そのまま強く吸い上げられ、堪らず
「こほん」
「あっ」
その時、わざとらしい咳払いが聞こえた。襖を開けてこちらを見ていたのは太一郎の妻、美樹だ。
その足元から、冷気とともに味噌汁の良い匂いが流れてくる。
「太一郎様、朝餉の準備ができております」
「う、うむ…………あのだな、美樹」
気まずそうに目をそらす太一郎に対し、美樹は楚々として微笑んだ。
「ええ、分かっております」
「う、うむ」
子ができて五か月目に入り、ほんの少しふっくらとしたように見える。つわりが収まってきたせいか、顔色も良くなっているようだ。相変わらず若々しく、食べごろの程よく熟れた桃を思わせる。
「太一郎様のお子種、きちんとお雪さんに飲ませてあげてくださいませね?」
お雪が嬉しそうな鼻息を漏らす。ぐっぽり
「うお……いや、美樹……おれは別にこんな朝から……」
「いいえ、最後までするべきです」
美樹はきっぱりと言う。
「せっかくお雪さんがここまで頑張ってくれているのですもの。男ならばそれに応えるべきです」
「そ、それはそうだが……」
ちらりとお雪を見る。布団の隙間から、二つの目が覗いていた。その瞳は爛々と輝き、まさしく獲物を狙うトビのようにぎらついている。
お雪は言った。
「遠慮しなくていいよ、兄貴ィ……さっさと出して楽になっちゃいなよ……姉さんの言う通り、あたしが一滴残らず飲んでやるからさぁ……」
ぴとりと当てられた鼻から、荒くなった息が吹きかかってくる。まだ十四の小娘とは思えぬ
「ほら、出すんだよ……出せってば……出せぇ~……」
猫
「ほぉらぁ、早くぅ~」
「お、
と強がってみたものの、限界が近いことは自分自身が一番分かっていた。これ以上されると達してしまう。
それも、まだ純潔も散らしていない妹同然の幼妻によって射精させられることになるのだ。男として、夫として情けないことこの上ない。
ないが、これ以上美樹を待たせるわけにもいかぬ。
「太一郎様、お味噌汁が冷めますから……」
「し、仕方あるまい! 出るぞ、出るからな!!」
にたあと、布団の中でお雪が笑った気配がした。かぷんと先端を
「むっぐ……!」
まるで
やがてすべて飲み干し終えると、お雪はうっとりとした声で息を吐いた。
「んふゥーッ……」
そしてもう一度口に含み、ちゅうっと中身を吸い尽くす。それでも足りないとばかりに舌先をうごめかせ、もっとよこせと言わんばかりに催促してくる。
そんな激しい口技とは裏腹に、優しい手つきで
「じゅるるるっ……ぷはぁ……」
最後の一滴まで吐き出させた後、ようやく満足して口を離してくれた。その唇から覗く舌がなんとも艶めかしい。
「どうだい、兄貴。お雪様自慢の妙技はさァ……」
「……なかなかやるな」
素直に認めざるを得なかった。手練れの女郎にも勝るほどの手管だったと思う。
お雪に手わざや尺八を仕込んだのは美樹なのだが、わずかひと月で目を見張る上達を見せている。およそ体を使う才において、お雪は天性のものを持っているようだ。これで年端もいかぬ娘なのだから末恐ろしいものがある。
「……さ、済んだところで朝餉をどうぞ。冷めてしまいますよ」
何事もなかったかのように澄ました顔で言う美樹だったが、よく見ると耳が赤い。子ができて交わりがご無沙汰なせいかもしれない。
そろそろいいかも知れんな……そんな太平楽な考えが頭に浮かぶ。
と、表から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「頼もう! 出楠太一郎殿は御在宅か!?」
◆◆◆
「ほおう……でくすたいちろう、と、そう名乗りましたか」
板の間で顎に手を当て、思案顔の太一郎をよそに、青木源造は熱い味噌汁をかきこんでいた。
その羽織には、まだ雪の粒が残っている。彼が訪ねてくる少し前から降り出したらしく、空からはちらほらと白いものが舞い落ちていた。
この男は北町奉行所の町廻り同心であって、太一郎の女房であるお英、すなわち義賊女ねずみとは因縁の間柄にある。四角四面の絵に描いたような御役人で、やや独断専行のきらいはあるが、腕っこきの捕物名人として知られている男だ。
太一郎も〈太助〉として面識は持っているから、まあ体の温まるものでも……と家に上げた次第である。
源造が口を開いたのは、椀の中が空になってからのことだった。
「さよう、両目を潰された蕎麦屋のおやじが聞いておりました。たしかに、
「偽物ですな。それがしは昨晩、女房と床に入っておりました」
「証明するものは?」
「女中が。……お雪、青木様に茶を差し上げろ」
「あい」
女中に化けたお雪が現れる。源造はぎょろりと目玉を動かした。
お雪が淹れた茶を啜りながら、源造は言う。
「娘さん、出楠殿が昨晩ここにおられたのは確かか」
「へえ、間違いございません」
「ほう」
「
「余計な事を言うな」
太一郎がたしなめると、お雪はぺろっと舌を出した。
言うまでもないが、色っぽい声を上げていたのはお雪本人である。
「……むう」
独り身の源造は、さっと頬に朱を走らせた。落ち着かない様子で腰の十手を撫でながら、咳払いをする。
「ま、ま。頭巾を被りながら堂々と名乗り、目撃者を殺さずに目を潰すだけにとどめた。十中八九は騙りでしょうな。しかし、万が一騙りでなかった場合は……」
「ふ、それがしのような軽輩が五百石の御旗本を襲ったとあっては、それこそお家断絶となりましょうな」
「左様」
脅すように言ってくるが、太一郎はむしろ思案顔であった。
騙りであるのは直ちに分かることだが、目的は何か。もしや、隠密同心としての正体を、知るものの仕業ではないか。あるいは、太一郎個人に恨みを持つものか。
その両方を満たし、太一郎に化けられる個人に、心当たりはある。だが、そやつは死んだ。
沈黙を続ける太一郎に、お雪が助け舟を出す。
「ところで青木の旦那? 町方役人さまが、どうして
「女子供が聞く話ではない!」
源造はぴしゃりと言い放った。お雪の顔が歪むのを見て、慌てて言い直す。
「いや……これは失礼した。蕎麦屋のおやじが害された以上、御旗本のこととは別に賊を追わねばならぬ。万一にもそやつが侍でない場合、御白州に引っ立てないわけにはゆかぬからだ」
「なるほどねえ? それだけで?」
「ああ、それだけだ。では、御免!」
湯飲みを置くなり立ち上がり、足早に去っていく。あまり長居して、奉行所の同僚にでも見られたくないのだろう。
太一郎は茶を飲み干し、お雪に向き直った。
「お雪ちゃん、久しぶりに荒ごとになりそうだ。槍の用意はできているか」
「おうとも。あたしの旦那を騙る不届き者に、痛い目見せてやろうじゃあないの」
お雪は不敵に微笑んで見せた。だが、この事件は意外な展開を見せることとなったのだ。
(続く)