さっと変装して雪がちらつく日本橋を渡ったお雪であったが、青木源造がなぜ事件に首を突っ込んできたのか、そして口を濁したのか、その
「……『恐怖の人斬り、でくすたいちろうの正体やいかに』……『血を吸う妖刀、血風丸に取り憑かれた男の狂気』…………っ、お、『女子供を手にかける鬼畜』だあ……?!」
ひと気のない路地裏でぐしゃぐしゃと瓦版を丸め、思い切り地面に叩きつける。冬のからっ風が、紙切れをさらっていった。
「なにが『異人を娶る異常者』だ! あたしの家族を虚仮にしやがって!」
思い切り、その場にあった桶を踏む。馬鹿力のお雪である。一踏みでタガが外れてバラバラになった桶をさらに踏みつけて、何度も何度も執拗に踏みつぶした。
「くっそ、くっそ、……ふーっ、……ふーっ」
冬だというのに、熱い汗が首筋を伝っている。息を乱しながら、何度も深呼吸を繰り返す。
「……くっそ」
雪混じりの泥水で足元を汚してしまった。ずいぶん感情的になってしまったらしい。これではいかんと首を振り、大きく深呼吸をする。
ようやく落ち着きを取り戻したとき、
「お雪さん」
「む……小野寺の坊っちゃん」
聞き覚えのある声に呼びかけられ、顔を上げる。
そこには美樹の弟である小野寺正之助が立っていた。
「よく分かったね」
「昨日は義兄上と一緒におられたのでしょう。お香の匂いがいたしますよ」
言われて袖の匂いを嗅いでみるが、自分では分からないものである。正之助の方を向くと、そろそろ十二になる少年は鼻をひくつかせた。どうやら本当に義兄の匂いが分かるらしい。お雪は内心、舌を巻いた。
「さすが小野寺の坊っちゃんと言いたいが、変装してる相手に声をかけるもんじゃあないよ。逆上されて刺されでもしたらどうするんだい」
「ふふ」
正之助は悪戯っぽく笑った。
姉によく似た赤毛の美少年なのだが、夏に命を救ったときとは見違えるように日に焼けて、どこか少女めいたかんばせに男の気配を漂わせ始めている。
「ご心配なく。ちゃんと弁えております。それより坊っちゃんは止してください、義姉上」
「そっちこそ義姉上は止しな、あたしは裏の人間だよ。必要もなく馴れ合うべきじゃあない」
「義兄上があなたを家に入れ、姉上も家族としてあなたを受け入れたのです。なんで正之助が他人面できるものでしょう」
「……」
すらすらと、まるで算術の話でもするように語られて言葉に詰まる。そういえば太一郎が、正之助の利発さをしきりに褒めていたことを思い出した。
しかも彼は、忠興の側近である小野寺勘蔵の跡取り息子。いずれは忠興、またはその子と共に隠密同心を動かす立場につく人間だ。今のうちに顔を売っておくのが、打算的な考えというやつなのだろうか?
黙ってしまったお雪に正之助が言う。
「しかし、
「
「では、茶屋にでも行きましょう。あるのでしょう、こうした話に使える店が」
「はあ……」
お雪は思わず苦笑いした。まったく恐れ入るほど聡い子だが、危ういことだ。
太一郎に嫁した美樹といい、小野寺の血族はそうしたものに惹かれる質らしい。赤毛の美女が夫を手わざで追い立てる時の、あの生き生きとした表情を思い出しながら、お雪は観念した。
◆◆◆
「おいしそうですね」
「……」
運ばれてきたみたらし団子に目を輝かせる正之助を見て、狐につままれたような顔をするお雪であった。忠興といい、顔の良い男には甘党が多いのか。
とは言え太一郎は甘味よりは精のつくものを好むし、この年頃ならば甘いものが好きな方が自然なのだろうとも思うのだが。
それでもつい、尋ねてしまう。
「好きなのかい、甘い物」
「ええ、甘味には思考の助けになる栄養が多く含まれています。何より消化が良く、胃の腑への負担が少ないですから」
「……」
やはりサラサラと理屈を並べられ、閉口する。
お雪が連れてきたのは表通りの甘味処ではない。
川を見下ろす小高い丘は江戸湾を見晴らす絶景の場所であり、そこにぽつんと立っている掘っ立て小屋のような茶屋でお雪たちは向かい合っていた。
狭い店内には他に客の姿はない。店主も忠興の息がかかった寡黙な老爺である。
正之助が少し目をしばたたかせて、
「あ、いえ、もちろん美味しいと思っております。正之助は理屈一辺倒の偏屈ではありません」
と付け足したので思わず笑ってしまった。どうやら周りから偏屈偏屈と言われているのでないか。正之助自身も気にしているのか、わざとらしく美味い美味いと呟いて串を食んでいる。
「いいじゃあないか。あたしは偏屈な男も好きだけどね」
「むぐ……まあ、義姉上はそうでしょうな。でなければ義兄上と一緒になられるはずがない」
「てやんでぇ、生意気言うんじゃないよ。毛も生えてなさそうな小童のくせに」
頬をつつくとぷうと膨れた顔が可愛らしい。思わず頭を撫でると嫌そうに顔をしかめられたが、構わず撫で回していると諦めたのか、大人しくされるがままになっている。その様子は年相応か、むしろ幼いくらいだ。
「……たしかに、正之助はまだ男になってはおりませんが……ですが、あの義兄上でさえ
「あの宿六、子供に何を吹き込んでやがるんだ」
「時が来れば吉原に連れて行って下さるとも言っておりました。あまり子供扱いしないでいただきたいものですな」
「ああそうかい……あんた、あまり兄貴のたわ言を真に受けてるとろくな大人にならないよ」
「義姉上が言えた義理ではありませんな。十四で義兄上と毎日毎日
「あたしは
「それは失礼しました。義兄上は貴女を大事にされているのですな。家に入られてひと月になろうかと記憶しておりますが、未だにお床入りなさっていないとは意外でした」
「ん、んん゛っ! ……その話はやめな!」
「いや、それとも床入りはなさっていて、最後の一線だけは超えていないということでしょうか……まさか義兄上に、その度胸がないはずも──あだっ!」
お雪は拳骨で思い切り義弟の頭をぶん殴った。頭を押さえて呻く少年に吐き捨てるように言う。
「このすっとこどっこい! おんなじ話をもう一遍でもしてみやがれ、二度とそのこまっしゃくれた口を利けないようにしてやるからね!」
「は、いぃ……」
素直に頷く義弟を見て嘆息する。
お雪はいま、表向きは女中として太一郎の家で暮らしている。家に美樹とお雪、大川端にジェニファーとお英、として妊婦を分けた形だ。
その生活もひと月を過ぎている。とっくに初陣を済ませていてもおかしくない頃合いだが、太一郎は幼妻を気遣ってか言葉や唇で燃え上がらせても、あとは舌や指先で燃え尽きさせるばかりだ。本当の
お雪も少年の姉とともに随分と彼を啼かせたし、それとなく求めたこともあった。しかしいつも上手くはぐらかされてしまう。
一番腹が立つのは、そんな日に限って薄い金髪のねずみ女が夜に忍んできて、太一郎の精を胎に吸い込んでしまう事である。
『早いもの勝ちだよう、お雪。おいら……じゃない、私が全部飲んじゃったからね。分けて欲しい? ねえ、欲しい?』
『やかましい!』
『あん、いけずう』
手出しされないことが悔しくてならない。一方で幼い自分が彼に我慢を強いているのではないかという負い目もあって、ただ日毎夜毎、太一郎の猛りを慰めるだけの日々を過ごしている。
そんな鬱憤を義弟に見透かされたような気がして、余計に腹が立ったのである。
「しかし、『
突然話題を変えた正之助だったが、その内容もまた聞き捨てならなかった。お雪は思わず声を荒げる。
「そんなのも出回ってるのかい!?」
「ええ、今朝方からあちこちで少しずつ異なる内容の瓦版が出されているようです。人々は異なる内容を知りたがり、話したがり、たちまち噂となって駆け巡るのですぐに伝わるという寸法ですな」
お雪は湯呑を取り上げ、ひと息に飲み干した。熱い茶が喉を滑り落ち、胸を焼く。それが怒りの炎を鎮火してくれた。同時に少し冷静になった頭が考え始める。
「……なんてこった。ああ、これは間違いなく
「左様。昨今、奉行所が瓦版に睨みをきかせること甚だしく、獄死する者まで出る始末。そんな時に、これほど露骨に流言飛語を流して人心を惑わすというのは」
「胆が太いにも程ってもんがあるだろうさね。おそらく相当数の仲間がいるはずだよ」
「……あるいは有力な黒幕、ですか。これは確かに〈でくすたいちろう〉がただの辻斬りではない事の証左でしょうな」
二人はしばし黙り込み、思案に耽っていた。やがて正之助がぽつりと言った。
「狙いは、義兄上の動きを封じるため、でしょうか。あまりにも、あからさますぎる気もするのですが」
「兄貴……と、お殿様の動きを封じて……よほど得をするのか……それとも、この程度のことは片手間にできるほどの大物なのか……」
隠密同心に恨みを抱き、立ち向かってくるのならばよい。長崎で出会った忠太郎のように。仮に討たれても、それは人生の裏道を歩く者にとっては宿命だからだ。
だが夫の名を騙って他人を害するような卑怯者は、生かしておけない。たとえどんな身分、どこの誰であろうと。
「義兄上に江戸を離れていただくわけには?」
「お殿様が許さねえよ。辻斬りの一味に動きを掴まれたら、たちまち怪しい奴から逃亡者に早変わりだ」
再び沈黙が流れる。やがて、お雪が顔を上げた。ぐっと唇を引き結び、毅然とした表情で言い放つ。
「ともかく、あたしの仕事は一つだ。その偽物を見つけ出してふん縛る」
「恐縮ですが、あたしら、と言っていただけませんか。正之助もお供いたしますゆえ」
正之助が恭しく頭を下げるが、お雪はみたらし団子を一口で平らげ、鼻を鳴らすだけだった。
「馬鹿をお言いでない。ガキのお守りをしながらじゃ動きにくくってしょうがないんだよ」
「わが義兄の名誉を汚されたのです。このまま黙って引き下がれましょうか」
「駄目だ。家に帰って吉報を待ちな」
言い捨てて、お雪は立ち上がった。
◆◆◆
本名はともかく、その男は
こけた頬、細い鼻梁、切れ長の目に薄い唇、いずれも鋭利な印象を見る者に与える。年齢は三十半ばといったところだろうか。総髪にした髪は、手入れが悪いのか艶を失っている。
身に着けているものは古めかしい黒
端的に言って、本物の出楠太一郎とは似ても似つかない粗末な偽物だ。
だが、腕前は悪くない。
少なくとも、雇い主はそう思ってくれておるだろう。そんな風に思案しながら、夢路は腰を振って股間の毒蛇を夜鷹の熟れすぎた恥芯へと突き入れていた。
「……ひぎっ……ううっ……あぐっ……」
夜風が建付けの悪い板戸を揺らす中で、下になった女がくぐもった嬌声を漏らす。
粗末な布団の上に仰向けになった夜鷹の女は、溶けかける寸前の甘すぎる柿のような乳房が堪らない。
そして、小判を見せれば一人こんなひと気のない川べりの小屋まで着いてくる警戒心の無さもいい。
女の胸、その中央に、すとんと短刀の刃が落ちる。
「ひ……ひいいいぃぃっっっ!?」
「騒ぐな。ほとんど血も出ておるまい。そらっ、楽しませろっ!」
夢路は胸を刺されて恐怖に硬直する穴を思う様えぐり、どんどん高ぶっていく。
粗末な布団の下から、小さな百足が逃げ出していくのが分かった。
「やだっ……やあっ! もうやめてぇっ……!」
「やめぬ」
悲鳴を上げて暴れる女を押さえつけ、犯すうちに快感が増していく。女の方も徐々に反応が変わってきた。抵抗を止め、うっとりと目を閉じ、快楽に身を任せ始める。
その変化に気付き、夢路は突き刺さった短刀をちょんと弾いた。
「ぎひぃぃっ!?」
再び悲鳴が上がる。
「どうだ? よいか?」
「ひっ! いっ、いいですっ! いいっ!」
叫ぶたびに激痛が走るのか、夜鷹は顔の半ばが笑い、半ばが泣くような奇怪な表情で媚びを売ろうとした。客に殴られた事があるのだろう。媚びて、おのが命を繋ぎ止めようとしているに違いない。
そう判断した夢路は、こう言った。
「悪くないッ。屍肉を漁って生きようとする蝿と同じくらいにはっ」
「ありがとうございます! ありがとうございます! いいっ! お珍棒いい!!」
「そうだ! もっと叫べ! 淫らな言葉を吐けっ! お前の肉壺が絡みついておるぞ! 淫売めが! 淫乱な雌犬めが! くたばれ! 死んでしまえ! お前はただの肉袋だ!」
罵倒の言葉を口にすればするほど昂ぶり、一物が硬くなるのが分かった。やがて限界を迎えた夢路は、短刀をぐりっと抉った。
吹き出る鮮血。
「あがっ……こ、ろ、さ、な、………………」
「おおお出るぞ……出るぞ……くっ……ふっ……ふっ……ふっ……ふううぅぅっ……!!」
目の前に火花が飛び散り、下腹から熱いものが迸る。びくびくと全身を震わせながら射精し、余韻に浸る。死にゆく女の、もう機能する必要のない子袋が、己の放った精で膨れていく光景を思い浮かべる。それはまさに至福の時間だ。
女は死んでいた。喉の奥からあぶくを吹き上げ、虚ろな目で宙を見上げている。胸に開いた穴からどくどくと血が噴き出し、彼女の命を奪った凶器を赤く染めていった。
「つまらん。もう少し……まあ、女はこんなものか」
女の死は、夢路になんの感慨も与えていなかった。欲するのは、死を免れようとする必死の生気である。
死体など用はない。萎えたものを抜き出し、まだ体温が残る邪魔な肉を無造作に蹴り転がす。
手早く着物を身に着け外へ出た時、人の気配を感じた。見れば、一人の異人が江戸には無いはずの葉巻を咥えたままじっとこちらを見つめている。
「イワンか。新しい獲物が見つかったのか」
「……」
やたら短い白茶色の髪に、腐った蜜柑のような緑の瞳をした男である。異国の人間特有の高い鼻梁を持った面立ちであるが、肌の色は黄味がかった土色をしていた。
着ているものも明らかにこの国の物ではなく、夢路の目には貫頭衣のように見える。
「……」
なにも話さず、ただ煙を吐き出すだけだ。この男の母国では、意味のない笑顔は
長い手足を持て余すようにして立ち尽くしていたが、やがて無言で紙の束を差し出した。
「また侍か」
「……フフク、か?」
「侍はつまらん。太平の湯につかリ過ぎて、必死という言葉さえ忘れた猿どもよ」
「……サル、か……」
イワンは無表情のまま、自分の言葉を繰り返す。葉巻の臭いに嫌なものを感じ、夢路は足早にその場を去った。
かぎ続ければ、肺腑が腐りそうな気がする。そんな臭いだった。
◆◆◆
くそったれ、とお雪は小さく毒づいた。夕暮れ、太一郎の家に戻ったところである。
あれから五日、十日と時が流れた。お雪は忠興の命を受けて辻斬りの足跡を追っている。
だが手がかりとなるような物は何もなく、行き詰まっていた。相手が組織ならば痕跡は必ず残るものだが、ただ一人凶行を繰り返す輩を追うことは難しい。
その間、辻斬りは次々と犠牲者を増やしている。それも侍ばかりだった。しゃくだが、中々の腕前だ。
ところが市中の人々は恐れるでもなく、瓦版を買っては口々に言い立てる。
「まったく、武士ってのは頼りにならねぇなあ」
「お奉行所は何をしてやがるんだ」
「
「いっそ異国に御政道を任せっちまえよう」
「そりゃお前、それじゃ御公儀が御役御免じゃねえか。けけっ」
町人たちの声は恐怖よりも好奇心と侮蔑の方が勝っていた。
居住を許されて以来、徐々に増え始めた異人たちの知識や文化が、武家の権威を少しずつ蝕んでいたのだ。
被害者は旗本のみならず大名家の家臣たちまでに及んでおり、町奉行所だけでなく公儀の御徒目付が調べを進めている。だが近頃では、商人から金を借りていない侍のほうが珍しい。すっかり軽侮されてしまっている彼らは、思うように内偵を進められないでいるようだ。
さらに悪いことに、最近では奉行所が躍起になって瓦版を取り締まろうとするせいか、町人たちが態度を硬化させてきて思うように情報が集まらない。
「……頼りなくって、涙が出らあ」
冬だけに日の入りは早く、暗闇の刻は長い。今夜はお英が市中を見回ってくれる約束だが、彼女とて奉行所に追われる身だ。全面的に頼ってはいられない。
お雪には焦りがあった。一刻も早く犯人を捕まえなければならない理由が出てきたのだ。
「兄貴……」
「エイッ! エイッ! エイッ!」
庭で太一郎が一心不乱に真剣の素振りをしている。裸の上半身から汗の湯気を立ち昇らせる様は惚れ惚れするほどだが、いかんせん相手は
忠興に外出を禁じられ、藁束に向かって真剣を振るうこと十日。太一郎は明らかに
何の? 言うまでもなく、人を殺したいという太一郎特有の歪んだ衝動だ。
「エイッ! エイッ! エェイッ!」
ずたずたに切り裂かれた藁束がいくつも散乱している。それでも飽き足らず、幼いお雪の若い夫は刃を振るい続けている。血走った目で虚空を睨み据えながら。
彼は耐えている。必死で自分の邪悪な欲望と戦っていた。お雪にはそれが解っているから、止めることができないでいる。
ジェニファーも大川端から籠に乗って訪れては太一郎の心を癒やすための問診を続けているようだが、彼女も妊婦だ。診療所で患者が待っていることもあり、日がな一日、夫のそばにはいられない。
「お雪さん、寒くなりますから中に……」
「姉さん」
美樹が声を掛けてきた。赤毛の義姉もまた暗い目をして、いずれ我が子の父となる男を見つめている。あの洒落た若侍の面影を探し求めるかのように。
美樹は彼のために小さな火を焚いていた。その火が小さく揺らめいている。それはまるで、女たち四人の心を映すようだと、お雪は思った。
「……頼ってみるか」
美樹を伴って家に入りながらお雪は呟く。藁にもすがるとはまさにこのことだな、と思いながら、赤毛の義姉に心の中で詫びていた。
◆◆◆
標的の首筋を狙う夢路の刃が、暗闇に火花を散らした。必殺の横薙ぎを防がれ、夢路は舌打ちする。
「でやあ!」
「うお!?」
体勢を立て直した相手の一撃が、頭巾を裂いて夢路の前髪を散らす。
若い、と感じた。甲高い叫びは、まだ少年のもの。でありながら、剣の鋭さは明らかに死線を潜り抜けてきた者のそれだ。
下段から疾走する一閃が、夜気を切り裂くように跳ね上がってくる。避けきれぬと判断した夢路は、体重を乗せてこれを打ち返そうとする。
衝撃、とみて体の芯を固くした瞬間、相手は脱力して刀を引いた。
(誘いこまれたか!?)
そう思ったときにはもう遅かった。相手の体は鼠のように低く地に潜っており、鋭い切っ先が再び顔面を襲う。すんでのところでかわしたが、頬に熱いものが滲む感触がある。
どうやら、左頬の皮一枚斬られたらしい。
追撃を避けるため後ろに飛び退くと、夢路の背中がいくつもの桶を倒してガランガランと音を立てた。
いつの間にか、追い詰められている。夜闇の中で、再び敵が刀を構える気配がした。
(こいつ、できる……!)
思わず唾を飲み込む夢路である。
ここは南町奉行所にも近い数寄屋町の路上だ。町人共は刀と刀の激突を恐れてか、戸を固く閉ざして屋内に逃げ込んでいる。おかげで周囲は無人だったが、夢路は迂闊さを悔やんだ。
今宵の獲物は、ある異国との会談に同席するはずの目付、その配下である徒目付の一人と聞いていた。仮にも侍を見張る侍である徒目付、ある程度の歯ごたえを期待してはいた。
それがどうだ! 若さみなぎる、こんな小僧だとは思いもしなかった。女のように整った顔の中で爛々と輝く瞳が、真っ直ぐに自分を射抜いてくるではないか。
「お主、名は?」
「人に名を尋ねる前に、まず自分から名乗るのが礼儀というものではないですか」
命を削るような戦いの中、相手に礼儀を求める余裕まで持っている。夢路はこの年端もいかぬ小僧を素直に賞賛したくなった。
「確かにその通りだな」
言って、彼は懐に手を入れる。取り出したのは、
「俺は、でくすたいちろう」
「────フ」
少年の瞳が、なぜか和らいだように見えたとき、夢路の背筋に悪寒が走った。咄嗟に飛び退こうとする。
「でえぇえええやああああ!!!」
したたかに夢路を打ち据えたのは、ひのきで作られた棍棒であった。そこらの
そこへ追い打ちをかけるべく少年が刀を振り下ろしてきたので、やむなく転がって距離を取る。幸いにして少年は追撃をしてこなかった。
立ち上がるまでに時間が必要だった。体が痛むのではない。心の臓が激しく脈打っているからだ。額からは汗が噴き出しており、それが冬の冷気に冷やされて雫となって滴り落ちる。
死ぬ、と思った。小娘の一撃は、本当に体を両断されるかと思ったほどだ。たかだかヒノキの棍棒が、まるで破城槌のような重圧を与えてくる。
なんとか身構えて、恐るべき娘を見据える。整った顔立ちが、月明かりに照らされて青白く映える。
よく見ればまだあどけない面差しが残っているというのに、なんという気迫だろうか。少年とは比較にならない殺気に、夢路は気圧された。
「ようやっと、食いついてきたな。ええ、
「あなたに斬られた皆様方の共通点を調べていただき、いずれ狙われるであろう方に成り代わっていたのです。まあ、根拠薄弱な当て推量でしたが上手くいきましたね」
「……なんの話だ」
「おや、おとぼけになるのですか。義姉上、いかが致しますか」
「イカもタコもあるもんかい!」
娘の姿が消えた。あっと思った時には、棍棒が夢路の左手を粉々に砕いていた。手首から先の感覚が消失し、掌には血が溢れ出ている。
「う……お……」
気が遠くなる。だが、夢路の意識には一匹の油虫が浮かんでいた。
そいつは何度打たれても打たれても決して倒れることのない不死身の怪物。自分もそうありたい。だから、必死に歯を食いしばって膝をつくまいとする。
「お見事です義姉上。あとは私が」
「トチるんじゃないよ。物事は理屈通りにいくとは限らないんだからね」
娘はいつの間にか覆面をしていた。
お任せ下さい、と言って少年が腰に下げていた何かを構える。
それは、法螺貝だった。ブオォォー! と、大きな音が夜闇に響き渡る。
繰り返すが、ここは南町奉行所にも近い数寄屋町の路上だ。法螺貝の音に驚いた人々が、何ごとかと次々に顔を出す。
掲げられた提灯や蝋燭の火に、夢路と少年の影がくっきりと映し出された。
機を得たりと、少年が声を張り上げる。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ!」
講釈師か琵琶法師かと思うような、時代がかった名乗り口上に野次馬たちは度肝を抜かれたらしい。興味本位で遠巻きにして見物しだす。
それを良しとしたのか、少年は朗々と続ける。
「我こそは、大江戸に誉れも高き出楠太一郎の義弟、小野寺正之助なり! 我が義兄の名を騙る不届き者に天誅を下すため、ここに推参仕った!! さあ、いざ尋常に勝負勝負!!」
正之助と名乗った赤毛の少年は、野次馬たちへ見せつけるように夢路へ切りかかった。
砕かれた左手をかばいながら、右手だけでどうにか受け止め、弾き返そうとする。だが左手から昇る激痛が集中力をかき乱すのか、どうしても反応が遅れる。
二度三度と打ち合わせた後、とうとう得物を弾き飛ばされてしまった。さらに、体勢を崩したところへ容赦なく何度も突きこまれる。左肩、脇腹、鎖骨の下、右大腿部──
次々と傷が増えていくうちに、ついに膝が折れた。もはや立とうとしても力が入らないのだ。地面に手をついて倒れ伏そうとするも、顎を思い切り蹴り上げられて仰向けにひっくり返ってしまう。
その拍子に頭巾が取れて、夢路の顔が露わになった。
「どうした、出楠太一郎の名を騙る悪党め! 義兄上とは似ても似つかぬその顔、この小野寺正之助はしかと見た! さあさあ、まだ息があるなら潔く白状しろ!」
野次馬どもがざわめく。夢路が積み上げてきた
(殺される……)
恐怖よりもまず、己の弱さへの怒りが沸き起こった。こんな小僧どもに手も足も出ない自分が情けなくてならない。まるで幼子が蟻を踏みつぶすように嬲られている現状が悔しくてならなかった。
(ここで終わるわけには──)
だが思考できたのはそこまでだった。顔面に容赦のない殴打を受け、視界が激しく揺れたかと思うと意識が薄れていったのである。
◆◆◆
どれくらい経ったのだろうか。気がつけば、夢路はどこかの座敷牢に閉じ込められていた。
両腕は縄で釣り上げられ、膝立ちのまま拘束されている。それはまるで、蜘蛛の巣にかかった蝶のようだった。
(続く)