〈黒いデウス〉の驚異は一先ず去った。
平穏の中で四人の妻と新たな暮らしを初め、お英やお雪と抱き合う太一郎。
そんな折、彼の名を騙り、なぜか侍ばかり狙う辻斬りが現れた。身動きを封じられ、殺人への衝動に苛まれる太一郎。
そんな時、美樹の弟・正之助がお雪に助力して辻斬りを捕らえ、見事義兄の汚名を晴らしてくれた。妻たちに見守られながら、ついに太一郎はお雪と一つになる。
だが、彼の終わりは刻一刻と近づいていた。
Aパート
「おい
「な、な、何を言うか
夜も深まった頃合いであった。二人の若き忍者、助兵衛と半平は江戸湾に浮かぶ石川島にいた。
石川島は
この騒がしい忍者たちが身を伏せているのは造船所の資材置き場であった。周りには木材や鉄の板が積まれているだけで何もないが、近くには番小屋があり、そこからは火の爆ぜる音がかすかに聞こえている。見張りの船大工たちは眠っているようだ。
「ええ加減にせえよ、助兵衛。そんな体で粋がんなや」
やおら上方なまりになった半平が、助兵衛の肩を叩く。彼の相棒は、激痛に悲鳴を上げそうになり、なんとか堪えた。包帯の下にのぞく顔は蒼白となり、脂汗が滴っている。
「ほれ見い。〈黒いデウス〉に滅多斬りにされて冬の川に落ちて、命が助かっただけでも儲けもんやに」
「ぬうう……しかし、しかし、きさまにも、事の重大さは分かるであろう! あのギヤマンの鐘が、今、ここにあるのだ!」
助兵衛が口に出したのは、幕府の管理下から忽然と姿を消し、彼が行方を追っていた殺人兵器のことであった。
水と光だけで恐るべき人食いカビを生み出し、あわや江戸の人間を皆殺しにしかけた悪魔の鐘。
その名を、〈デウスの鐘〉。
「助兵衛な、お前がそんな体でアレの行方を追って見つけたんは、ええ。大したもんや。せやけど、いま逃げんと俺らコレもんやで」
そう言って半平は自身の首を斬る仕草をした。助兵衛はぐむ、と唸ったきり言葉が出ない。
「見たやろ、ここにアレを運んできた船の、あの家紋。言うてみい。あれは、何ちゅう家紋や」
「……三つ葉の、葵であった。間違いない」
「そやろ? あれは、
言うまでもあるまい。葵の紋所といえば、将軍家である徳川の家紋だ。
そしてこの造船所には、ある異国の船が停泊していた。その船には、白・青・赤の三色旗が掲げられている。
ロシア帝国。この当時の日本では「オロシャ」と呼ばれる、北の大国だ。
助兵衛たちは知らぬ事だが、近年は他国への侵略戦争に失敗し、革命の気配さえ漂っていた。
彼らは、力を求めている。
つまり。
徳川将軍家自らが、恐るべき殺人兵器を、オロシャに売り渡そうとしているのである。
鐘は、消えたのではなかった。幕府が秘密裏に横流ししていたのだ。それも戦を続ける異国に。
「半平、だとしても……」
それは許されざる背信行為だと、助兵衛は考えた。
自分たち忍びへの、ではない。あの鐘に命を奪われかけていた事などつゆ知らず、ただ平穏無事に暮らしている民草への、である。
「ええやないか、知らん国で、誰が死のうと」
「……!」
「ここに
「……」
「俺ら伊賀者は
「……俺は」
「なあ、頼むわ。知らぬ存ぜぬで逃げようや。そや、大坂とか京の方へ行ってもかまへん。饅頭でも売って、たまには二人で岡場所なんかも行って……」
「俺は……」
「堪忍してくれ。死にたないし、お前も死んでほしないねん、な、後生やから……」
「俺は──!」
助兵衛が何かを叫ぶ。その時、空に雷鳴が轟いた。一瞬の閃光。若き忍びたちの姿が闇の中に浮かぶ。
──果たして、彼らの決断がどのようなものであったか。それは今、語られるべき事ではない。
確かなことは、その決断が隠密同心・出楠太一郎の最期を決定づけたということである。
◆大江戸捜査網
ハーレム・サムライ◆
第十二回 さらば隠密同心
数日後、江戸城。
「なんと」
と言ったきり、忠興はしばし絶句した。
老中・稲葉越前守に召され、朝も早くから長袴に
「…………これは、まことで?」
「わしゃ知らん」
部屋には、二人しかいない。
だというのに越前守は
「アレを……しかも、お世継ぎ様が……」
「声が大きい」
お世継ぎ様とは、すなわち次期将軍である。口を閉ざして素知らぬ振りをする老中の横顔を見て、忠興は深いため息をついた。
「ため息をつくな、無礼者めが」
「失礼。して、どうなさるおつもりですか」
「どうもこうもないわ、わしゃ何も言っておらん。お主も何も聞いておらん。よいな?」
「……」
ずい、と忠興は膝を進め、絞りに絞ったささやき声で問いかける。
(とてつもない人死にが起きますぞ。あの〈デウスの鐘〉にはそれだけの力があるのです)
「よく聞こえん。これは独り言じゃが、異国から入ってきたものを異国に戻すのは決して悪いことではないはずじゃろ」
(罪もないものが大勢死にます)
「そう言えば、知っておるか忠興。異国では今も下らぬ理由で戦が絶えぬとか。そこでは罪もないものが大勢死んでおるじゃろう。我らの知るところではないがのう」
(万に一つも御公儀が手を貸したと知られれば、国威に関わる事態になりまするぞ)
「よく聞こえん。──そう言えば最近、上様の
「!!!」
忠興の目が険しくなるのを見て、越前守は大きく咳払いをした。
「ごっほん、歳は十五、商家で養育されておられたのじゃが、中々に英明な若者じゃという」
「御老中…………!?」
御落胤とは、つまり隠し子である。お世継ぎが死んでも、替わりはいる、と。越前守は言外にそう言っている。
忠興の鼓動が速くなり、こめかみを一筋の汗が伝った。
「そう、それからな……かのオロシャは近年戦に負け、百姓一揆や地方の乱が頻発しておるそうでな。統治体制は行き詰まっておるとか」
「……それで、威信回復のため、この国に手出しを?」
「さよう。毛唐どもめ、我ら武士を舐めくさりおって、目にもの見せてくれるわ……と、不満をため込んでおる者は少なくない」
それは知っている。下級武士が主体の黒卍党とは別に、幕閣にもそうした者たちはいる。目の前の老獪な幕臣が手を尽くして抑えに回っていることも知っている。
「ちょうどよい機会だ、と。そうした声があるわけですな」
「なんの話か分からんのう」
抑えに回れるという事は、普段から彼らとの綱引きをしているという事だ。その結果が、いま忠興に開陳されているのである。
頭に血が上り、やおら立ち上がった忠興を越前守が慌てて制止する。
「ならん、ならんぞ忠興よ。軽挙妄動はならん」
「よくも、そのように仰る。この本多左門にわざわざ情報を与えておいて」
「わしは何も言うとらんじゃろうが! ……よいか、事は天下の問題じゃ。分かるか? 畏れ多くも上様がご病気の折、お世継ぎ様を止められる者はおらん。これがどういうことか……」
「…………はぁぁ…………」
「これ、ため息をつくなと言うに」
忠興の歳は、まだ三十一である。配下には見せられぬし決して見せることもあるまいが、
言葉にするなら、こうだ。
俺が知るか。
この狸め、いつもいつも言質も取らせずに好き放題こき使いやがって。こんな奴の下についていたら命がいくつあっても足りやせん。そもそも本多家の御役目は東照大権現様より賜ったもの、このシワくちゃジジイに指図される筋合いはないのだ。
俺はさっさと隠居して生まれてくる孫と饅頭を食いながら
俺は
なあに面倒ごとは勘蔵と太一郎に押し付けてしまえばよい、あ奴らなら万事上手くやってくれるだろう。特に太一郎はたっぷりと苦労させねば、後で孫が困る。
大体、あんな
「…………はぁぁ…………」
「だからため息をつくな!」
戦国より続く本多家の当主として、徳川家のために陰の仕事を引き受けてきた。忠義といえば聞こえはいいが、要するに汚れ役である。
自分はいい。だが太一郎や娘が国と国との揉め事に巻き込まれるのかと思うと、それだけで胸が潰れそうになるのだった。
「よいか忠興、ならんと言うたらならんぞ。くれぐれも余計な真似はするな」
「ええ、わかっておりますとも。拙者は、東照大権現さまのお言いつけ通りに振る舞うまで」
そう言って立ち去ろうとする忠興の背中に、越前守の重くのしかかるような声が投げかけられる。
「ただし……上様の名を汚す者あらば……分かるな」
「例の物を抜きまする。上様の名を汚す者あらば」
「うむ…………上様の名を汚す者あらば、致し方あるまい」
「はっ」
今度こそ、忠興は部屋を後にした。そうして江戸城を出た、その時であった。
「なに、勘蔵が…………!?」
配下から耳打ちされた凶報を聞いて、忠興は思わず足を止める。足元で、凍りついた小枝を踏み割る乾いた音がした。
◆◆◆
義父・勘蔵が、自身を騙って凶行を繰り返した夢路なる男を逃し、座敷牢に入れられた。
忠興の屋敷でそう聞かされた太一郎は、すぐさま立ち上がろうとした。
「座れ!!」
「……っ!!」
しかし、そんな若侍の胸ぐらを掴んで引き留めたのは他ならぬ主・忠興であった。
彼は無言でそのまま強引に着席させると、がっと湯呑みを取り上げて太一郎に突きつける。
「飲めっ」
「御前、それがしは……」
「いいから黙って飲めっ!! そして聞け!!」
「……!」
有無を言わさぬ気迫だった。言われるがまま、ぐいと一気に茶を飲み干す。喉が焼けるように熱かった。
「太一郎、お主まさか、勘蔵が自分への意趣返しをした……などと考えておらぬだろうな」
「う……」
図星だった。見透かされてたじろぐ太一郎を尻目に、忠興はさらに続けた。
「お主が他の女を家に入れたために、美樹殿の父である勘蔵が恨み、それで儂に背いたと申すのか。ん?」
「そ、そのような……」
「馬鹿者めがッ!!」
がつんっ、と鈍い音が鳴った。それは、忠興が拳で文机を叩いた音であった。
「たわけが。勘蔵がそんな男か。若造の分際で、義父の心を見透かしたつもりか! 恥を知れ恥を!!」
「は……ははっ! 申し訳ございませぬ!」
畳に手をつき頭を下げる太一郎に対し、忠興はふうふうと肩で息をしながら腕組みしている。太一郎は、このような主を初めて見た。
実のところ、太一郎は勘蔵と疎遠になっていた。その責は太一郎にある。勘蔵からすれば、目に入れても痛くない愛娘にやっと子ができたその折、太一郎が異人の女医者にも種をつけていたのだから。
いや、それだけならまだいい。この当時の考え方では、二十三にもなって子を孕めなかった美樹にも一定の咎はあるとされるからだ。社会を維持するには単純な人口に頼るしかない時代である。
だが問題なのはその後だ。
長崎から戻った時、太一郎はさらに二人の女に手をつけていた。しかも美樹より遥かに若い、十六歳と十四歳。勘蔵が我が娘への侮辱と受け取ったのも無理はない。
以来、勘蔵は太一郎とは没交渉を貫いている。何度小野寺家を訪ねても門前払いであった。
気落ちする太一郎に、美樹は膨らんできた腹を撫でながらこう言ったものだ。
『太一郎様、そんなにお気になさらず。この子が無事生まれれば、父上もきっと認めてくださいます。ね?』
孕んだ女は、こうも肝が座るものか。
当の美樹が言うのだから、太一郎も素直に頷くしかなかった。
「甘ったれるな。勘蔵はそんな些事で儂に背いたりはせん」
「は……では、何故」
「読め」
そう言って忠興が差し出したのは、一枚の書状だった。伊賀者が使う忍び文字(暗号)で書かれた文章に、僅かながら血痕が付着している。
「デ、デウスの鐘が……オロシャの手に?!」
「そうだ」
「しかもお世継ぎ様……大納言
「……声が大きい」
忠興が文机から饅頭を投げてよこす。いつもの取り寄せた逸品ではなく、そこらの饅頭屋が売るような安物だ。
「食って、しばらく黙れ」
一口頬張り、改めて忠興の顔を見た。そこには厳しい顔がある。いつもの、温和で慎み深い忠興はいなかった。
「御老中の確認は取れた。そう、黒幕は……確かに」
その方だ、と小声になる忠興の言葉に、体中の血が凍るような心地になる。
次期将軍、徳川大納言
隠密同心の存在も、当然知れている。
「お主の騙りが現れたのも、我らへの牽制だったのだ。勘蔵の息子に捕らえられたのは予想外だったであろうが」
「そして、義父上に接近し……」
「そうだ。勘蔵は、儂に背いたのではない。本多家の存続を第一に考え、お世継ぎ様に尻尾を振ったのじゃ」
「…………」
「そして、出楠太一郎と生まれてくる孫の行末もな。もしお世継ぎ様に歯向かうことあらば、お主らの命はないと思ってのことよ」
「……っ!」
侍が、次期将軍に歯向かったら、どうなるか。
自分と忠興、勘蔵は切腹。妻である美樹は死罪。よくて、小野寺家がお取り潰しだけで済むかどうか。
美樹の首が落ちる瞬間を想像して、太一郎は先程の饅頭を戻しそうになった。
「太一郎、どうする」
「どうもこうも……それがしは隠密同心、何事もご下命に従い……」
「たわけ、そんな事は聞いておらぬわ。家族をどうすると聞いておる」
「……」
「じき、年が明ける。夏が来る頃には、お前は父親になる男なのだ。いいか、太一郎。よく聞け」
忠興の瞳が太一郎を射抜く。かつて見た事のない、真剣な眼差しであった。
続く主の言葉に、太一郎は身を裂かれるような思いを味わった。
◆◆◆
「あたしが行くよ。あたし一人で、お世継ぎ様とやらをぶった斬る」
なんでもないような口調で、お雪は言い切った。
丘の上の茶屋で夕日を浴びながら、みたらし団子片手に、徳川将軍家の跡継ぎと一人で戦うと言う。
できるはずがない。いくら十文字お雪であっても、たった一人で次期将軍の首を取るなど不可能だ。
「無茶を言うな」
「てやんでえ、なら黙って見過ごそうってのかい。悪党を叩き切って、なるべく多くが生き残るには、それしかねえ」
そうすれば、死ぬのは自分と忠興だけで済むと。忠興が提案し、お雪が肯定したのは、そういう策とも言えぬ策であった。
「お雪!」
たまらない気持ちになって、太一郎は十四歳の幼妻を強く抱いた。お雪の体は寒風で冷えていた。まるで死人のように冷たい体だ。しかし胸から伝わってくる鼓動だけは、確かな生命の証であった。
「離しなよ。お世継ぎ殺しと抱き合ってるところを見られたら、タダじゃ済まないよ」
「今更……!」
何もかも、今更であった。
隠密同心となってもうすぐ四年、何度となく背中を預けて悪党と戦ってきた。
星空の下で唇を奪い、初雪の中で心を奪い、女たちに囲まれながら一つとなった。
ひょっとしたら、胎の中に新しい命が宿っているかもしれないのだ。
「馬鹿だね、あんたもあたしもさ」
その言葉が、とどめとなった。太一郎は乱暴に唇を奪うと、必死の思いで口を吸った。舌を絡める余裕すらない口吸いに、それでもお雪は応じてくれた。
冬の陽は赤く、落ちるのも素早い。
永遠とも思える一瞬のあと、二人は離れた。赤い光が二人を照らし出す。だがそれは同時に影を落とすことでもあった。
影が、また重なる。二人は別の人間であり、一人の人間として共に生きることはできない。だからこそ惹かれ合い、こうして唇を重ねるのだ。
「やるかい?」
「ああ」
短い言葉のやり取りであったが、それだけで十分だった。再び唇を合わせる二人を、沈みゆく太陽が見守っていた。
◆◆◆
その夜、太一郎は自宅に女達を集め、そして言った。
「お前たちを離縁する」
(続く)