「行ってはいけない、エイミー」
ガチャリと、撃鉄の上がる音がする。お英は振り向くことなく、盗み装備を入れた
盗み頭巾、手甲、革脚絆、遠眼鏡、投げ縄、爆竹、鍵開け道具……
一つ一つ、点検して不備がないことを確かめる。父が焦れた声で言った。
「エイミー、お父さんは本気だ」
「分かるよ。でも私は行く」
背後で拳銃を構えているであろう父、クリストファーに向けて、お英は努めて冷静に言った。
診療所の格子窓を通して、ぼうっとした夜明けの明るみが入り込んでいる。太一郎から離縁を告げられた翌朝だった。
「お前が関わる必要はないんだ。Japと
「お父さんにとってはジャップでも、私にとっては家族だから。このまま死なせられない」
江戸で彼らと家族としての暮らしを始めて、初めて実感することがあった。
父がどれだけ母と自分を愛していたかということだ。
振り向いて、安心させるように微笑む。父は拳銃を右手で構えている。その手はぶるぶると震えていた。
「私はね、お父さん。次郎吉のお父ちゃんからは、ただ愛されただけだった」
腹芸は苦手だった。父に向かって養父の名前を出すときは、どうしても緊張してしまう。
「でも、たいちろーやお雪と家族になって、ようやく愛するって事の難しさを知ったんだ」
それに、お父さんの凄さを。
そう言うと、父は感極まったのか涙を流し始めた。嗚咽を押し殺そうと努力しているようだが、上手くいっていないようだ。鼻水まで垂らしている。ちょっと引いた。
お英はゆっくりと近づいていった。拳銃に手を添え、そっと下げさせる。
今日の父からは、使い古した油のような体臭がする。お英の呼び出しを聞いて、慌てて駆けつけてくれたのだ。
「もういい……もういいだろう、エイミー。今度のbiohazardを引き起こそうとしているのは、ケチな
「聞いたよ。だから、お父さんの力が必要なの。お父さんの愛を、人生を、ぜんぶ私と、この子にちょうだい」
息が止まるほど、ギュッと抱きしめる。手を取って下腹部に押し当てさせた。
「こ、この子!? お、お前……」
「いや、まだだけど」
父がズルリと脱力する。お英は苦笑しながら、そっと涙を手で拭ってやった。
「ごめんごめん。からかっただけだよ」
「エ、エイミー……お父さんもいい年なんだからな……あんまりいじめないでおくれよ……」
「はいはい。言っとくけど、時間の問題だからね」
「お前ときたら……まったく、マリアとそっくりだよ……」
「お母さんに似てるのはいいでしょ? それより、着替えるから出ていって。あと、この紙に書いたものを浜に揃えて。それから源兵衛に言って小舟を用意させて。後それと……」
矢継ぎ早に要求すると、父が天を仰ぐ。それからこう言った。
"Oh, my dear, Maria. I am so happy to be with you again..."
《ああ、愛しのマリア。また君に会えて嬉しいよ……》
◆◆◆
見上げるような大男がたすき掛けをして、あくせくと動き回っている姿は、なんだか滑稽ではある。
ジェニファーは女中に言って、暖かい紅茶を用意してやった。
「忠介さん、少し休んでちょうだい」
「あ、はい、奥様」
忠介は素直に応じると、カップを受け取って椅子に腰を下ろした。そして一気に飲み干すと、大きく息を吐く。
「ありがとうございます、ようやく人心地つきました」
忠介が笑うと、白い歯がキラリと光った。だがその表情にはどこか陰があるように思える。
ジェニファーは心配になったが、すぐに笑顔を作り直した。
「ごめんなさいね、急な引っ越しで」
「いいえ、奥様こそ大丈夫ですか? お体に障るといけませんので、そろそろ……」
「いやね、妊婦だからってそんなに気を遣わなくても大丈夫。まだ五ヶ月目ですからね」
そう言ってジェニファーは膨らんだお腹を撫でてみせる。忠介は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「……しかし旦那様も人が悪うございますなあ。急に江戸を離れるとは」
「あら、あの人は一人で行くって言ったのよ。私が無理やり着いていくの」
「……そうでしたか」
忠介はしばし沈黙していたが、不意に立ち上がった。頬を叩いて気合を入れると、また引っ越しの準備に戻る。
ジェニファーは礼を言って、自分も紅茶に口をつけた。
「……」
『お前たちを離縁する』
昨夜、太一郎はそう言った。
自宅に四人の妻を集め、黒い着流し姿で正座して背筋を伸ばし、鋭い眼差しを向けてきたのだ。隣にはお雪が寄り添うように座って、太一郎の膝に手を乗せていた。
ジェニファーの前には、湯気を立てる茶碗が置かれていた。お英の前にも、美樹の前にも。
太一郎たちの前に茶はなく、大晦日を前に張り替えた青い畳の上には、いくつかの包が置かれていた。
夫は自分を含めた妻たち一人一人を見据えて言った。
『詳細は言えぬが、明日、おれとお雪は死ぬだろう。よしんば生き残っても、もうこの江戸で生きていくことはできぬ。ゆえに、お前たちにこれを渡しておく』
太一郎が差し出したのは、それぞれ一つずつの書状だった。
『離縁状だ。御前の印もいただいている。おれとの関係を尋ねられたらそれを見せろ。それから、これも』
紙に包んだ小判が、それぞれに配られた。
『百両ずつある。美樹、ジェニファー。それで元気な子を生んでくれ。もし孕んでいたら、お英も』
百両は、数年遊んで暮らせる金額である。たとえ家ひとつ買ったとしても、子を産むには十分だ。
だが、誰も手を伸ばそうとはしなかった。
『ふざけないで』
三人は湯気を立てる湯呑みをひっつかみ、一斉に中身を夫にぶちまけたのである。
「ぷっ」
思い出し笑いをしたジェニファーを見て、忠介が不思議そうに首を傾げた。
「何か面白いことでも?」
「いえ、何も」
ジェニファーは微笑みながら首を振った。忠介はそれ以上追求しなかったが、代わりに別のことを尋ねてきた。
「それで……旦那様はどちらに?」
「朝早くに出ていったわ。偉い人と会うんですって。とっても、偉い人とね」
ジェニファーの言葉に、忠介は首を傾げるばかりであった。
◆◆◆
昼餉を終えた勘蔵は、膳の上に粗末な箸を置いた。飯に漬物、葱の味噌汁のみという質素なものだったが、今の勘蔵にはこれでも豪勢に思える。
勘蔵は手を合わせ、深々と頭を垂れた。食事に感謝し、命を繋いだことへの感謝を捧げたのだ。
とは言え、いつ切腹を命じられても不思議ではない立場だ。それが本望と腹を切れるように、心構えは常に持っているつもりではあるが。
大晦日を前にして、座敷牢の畳も張り替えられていた。真新しい井草の匂いが漂ってくるようだ。
「まあ、牢に新しい畳なんて。なんとも、勿体ないことですね」
「美樹……!?」
顔を上げると、格子の向こうに娘と見張りの侍が立っていた。
思わず腰を浮かす──が、下半身からグキッと嫌な音がした。
「む、ぐ、おお……」
「あらあら、大変……! 湯たんぽを持ってきましたから、横になって温めてください」
格子戸のすき間から差し入れられた湯たんぽを腰に当てていると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
美樹は心配そうに父を覗き込み、さらに手ぬぐいを渡してくれる。
「お前、どうしてここに……」
「父上のことが心配で」
「馬鹿者! すぐに家に戻れ!」
怒鳴った瞬間、また腰に激痛が走った。美樹は驚いて身をすくめている。だが、今は構っていられない。
「美樹よ、よう聞くのじゃ。儂はそのうち切腹を申し付けられるであろう。こんな所に来てはならん。早く……」
「わたくしにはよく分かりません。太一郎様を恐ろしい敵と戦わせぬように、偽物を逃したのでしょう。なぜ命を奪われるのですか?」
勘蔵はぎょっとした。娘には、自分や太一郎の役目は一度も伝えていないはずだからだ。
「美樹……?」
美樹はころころと笑った。娘は笑う時、目を細める癖がある。その仕草も幼い頃と変わらない。
だが、瞳に宿る光は全く異なっていた。妻にそっくりな、男の心を吸い取ってしまう女の眼だった。
その視線を一身に浴びながら、勘蔵は唾を飲んだ。
「太一郎様から聞いております。父上が何をされたのかも全て」
「な、なんと……!」
言葉を失った勘蔵に、美樹はさらに畳みかけるように言った。
「でも、お気遣いは無用です。わたくしは太一郎様の妻、出楠家の嫁ですから。夫がどんな道を選んでも、共に生きます。もちろん、お腹の子とも」
「……儂が背いた、と知れれば御前の恥となる。儂は曲者と戦い、奮戦したが討ち死にした……そういう話にするのが武家の習い……」
「いいえ父上。そうはなりませぬ」
「正之助!?」
美樹の後ろから現れたのはまだ十一歳の息子であった。
自分にはまるで似ていない、目鼻立ちのきりっとした子である。体つきはまだ細く頼りない印象を受けるが、眼差しだけは妙に大人びていた。
息子は格子の前にちょこんと正座し、生意気にも恐れ入らぬかという顔つきで鼻を鳴らした。
「父上は、義兄上を見くびっておられるようです」
「なに?」
「義兄上は勝ちます。名前を呼んではいけない黒幕さえ仕留めれば、父上の行動などいくらでも誤魔化せます」
「馬鹿な、相手は……」
「勝ちます。義兄上は勝ちますよ。ねえ、姉上」
「正之助、父上に対して何という口の利き方をするのですか」
「アッハイ」
一回り年上の姉に睨まれ、賢しい息子は慌てて口をつぐんだ。
「ゴホン……父上、父上は黒幕の居場所を突き止めるため、あえて偽物を解き放たれたのです。よろしいですな」
「そんな詭弁が」
「通します。義兄上が己を捨てて戦いに征かれたのですから。この正之助も、覚悟を決めております」
「…………」
「だから大丈夫です。ね、姉上」
「ええ、正之助の言う通りです」
姉弟は頷き合うと、父の前を辞していった。勘蔵は大きく息を吸うと、深く長く吐いた。
昔から、似ていない親子だと言われていた。本当にお前の種かと言われて、あやうく刃傷沙汰になりかけたこともある。だが、自分自身そう思ったのは初めてのことであった。
「まったく、我ながら情けない……」
勘蔵は笑った。腰痛にも構わず、声を上げて笑い続けたのだった。
◆◆◆
夕刻。深川奉行所の水門が、ギイイィィ……と音を立てて開く。
太一郎とお雪、そしてもう一人を乗せた鯨舟は、波を分けるようにして水路を進んでいった。大川(隅田川)に出ると、石川島は目と鼻の先だ。
頭巾を被った男が言う。
「その方ら、覚悟はよいな。大納言が石川島にいる、この瞬間が最大の好機。失敗すれば、我ら全員の命はないものと思え」
「委細承知。すべてお任せいたします」
太一郎は恭しく頭を下げた。お雪も同じように頭を下げるのを見て、男は頷く。
「……行くぞ。隠密同心の務めを果たし、徳川の御世を、この国の威信を守り抜くのだ」
「合点承知の助! じゃあ、あたしが音頭を取りますぜ!」
お雪の威勢よい声と共に、三人は鯨舟の上で唱和する。
「隠密同心、心得の条!」
(続く)