※この作品はR-18です。

大江戸捜査網 ハーレム・サムライ   作:a-su

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Cパート

 夕刻。深川奉行所の水門が、ギイイィィ……と音を立てて開く。

 太一郎とお雪、そしてもう一人を乗せた鯨舟は、波を分けるようにして水路を進んでいった。大川(隅田川)に出ると、石川島は目と鼻の先だ。

 

 頭巾を被った男が言う。

 

「その方ら、覚悟はよいな。大納言が石川島にいる、この瞬間が最大の好機。失敗すれば、我ら全員の命はないものと思え」

「委細承知。すべてお任せいたします」

 

 太一郎は恭しく頭を下げた。お雪も同じように頭を下げるのを見て、男は頷く。

 

「……行くぞ。隠密同心の務めを果たし、徳川の御世を、この国の威信を守り抜くのだ」

「合点承知の助! じゃあ、あたしが音頭を取りますぜ!」

 

 お雪の威勢よい声と共に、三人は鯨舟の上で唱和する。

 

 

 

 

隠密同心 心得之条

我が命我が物と思わず

武門之儀 飽くまで陰にて

己の器量を伏し

御下命 如何にても果す可し

 

尚、死して屍拾う者無し

死して屍拾う者無し

死して屍、拾う者無し

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆

 

 夢路の砕けた左腕が、鉈で叩き切られた。

 

「ぎいぃやぁあぁぁあぁあ!!」

 

 つんざくような悲鳴が、日の差さぬ暗い船室に響く。全裸のまま革紐で両手足を拘束され、使い物にならない部分をイワンの手で切除されたのだ。

 

「ああぁぐぁぅああぁぁうぅうううっっ!」

 

 切断面の肉は鮮やかな桃色を呈しているが、血はほとんど流れていない。イワンが施した止血は完璧だった。それでも切り刻まれる激痛に耐え切れず、夢路は髪を振り乱しながら絶叫する。

 

「サワぐな。イマ、クスリをノませてやる」

 

 抑揚のない片言でそう告げると、イワンは懐から小さな包みを取り出した。中には乾燥させた薬草のようなものが入っている。

 彼はそれをつまみ上げ、細かくちぎり取ってから自らの口に含んだ。

 

 その仕草を見た夢路の顔が青ざめる。夢路は、薬草がいかに悍(おぞ)ましいものであるか知っていた。

 芋虫のように身をよじって拘束から逃れようとするも、あの小野寺正之助に痛めつけられた体が言うことを聞いてくれない。

 

 そのまま顔を固定され、無理やり口づけられた。生温かい舌が入ってくる。

 喉まで押し込まれて、むせ返りそうになった時、突然鼻を摘まれた。息苦しくなって思わず口を開けると、口の中に何かをねじ込まれる。

 何か──いや、咀嚼され、唾液に濡れた植物の葉に違いない。

 息を止めて必死に抵抗を試みるものの、次第に意識が遠のいていく。そして、とうとう限界が来た。

 

「んぐっ……」

 

 飲み下してしまった。絶望と嫌悪感と敗北感が入り交じった涙がこぼれ落ちる。

 そんな様子を見届けてから、イワンは唇を離した。袖口で口の周りを拭いながら、何かの器具を用意し始める。

 

「あ、あ、あ、ひ、ひひ。おお~…………」

 

 徐々に、薬草の効果が表れてきたようだ。傷口の痛みが和らぎ、出血が治まっていくのがわかる。

 代わりに、脳味噌が蕩けるような快感が全身を駆け巡っていった。股間の一物が屹立し、透明な液体がにじみ出す。それはやがて白濁液となり、射精となって放たれた。

 しかし、彼のモノは一向に萎える様子がない。どころかますます硬度を増していき、ビクビクと脈打ち始め、そしてまた新たな粘液が溢れ出る。止まらない、止められない。

 

 背を向けていたイワンが、静かに言った。

 

「ジカは、キく。フクサヨウも、ツヨい。おマエのイノチは、せいぜいスウジツだ」

 

 それを聞いて、夢路が連想したのは蝉(せみ)だった。地面をはい出てほんの数日、朽ち果てるまで木にしがみついて鳴き続ける蝉の姿を思い浮かべていた。

 あの、騒がしくも力強い、空に散る花火のような生き様を自分に重ね合わせたのである。

 

「……うへ、えへへ、あはははっ!」

 

 笑いながら涙をこぼしているというのに、なぜだろうか、不思議と心が安らいでいくような気がした。

 

(俺は虫だ、虫になるのだ。

 人などよりもっと強く、美しい虫になるのだ。

 そうして、人を殺そう。

 必死の生気を、蜜のように吸い取ろう。

 そうして、俺はこの身を大きくしよう。

 もっともっと、多くの命を奪ってやろう)

 

「あはっ、あははっ、あははははっ!!」

 

 唐突に狂ったように笑い出した夢路に、イワンは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。

 

「では、ハジめよう。おマエのイノチを、ヤクダてるために」

 

 鋭い刃物が夢路の肌を切り開き、何かを埋め込んでいく。その苦痛すらも快感に感じられるほど、夢路の精神は破綻し始めていた。

 もはや、まともな思考すらできない。あるのはただ、自分が昆虫になっていくという奇妙な確信だけだった。

 

 

 ◆◆◆

 

「むほっ、むほほっ♪」

「…………っ、あうっ、あうっ」

 

 徳川大納言喜保(のぶやす)。いずれ侍たちの頂点に立つべき男は、オロシャ風のベッドで異人娼婦の饗応を受けていた。

 年が明ければ四十になるはずだが、見た目には五十手前にも見える老け顔。

 丸々と太った太鼓腹の上で、幼い少女が懸命に腰を振っている。

 長い金髪に青い目、まだ乳も尻も実りきっていない、未熟な体つきである。

 

「よいぞぉ……ほれ、頑張れ頑張れ! 余の玉袋を空にしてみせよ……!」

「はいっ、はいっ、おトノサマ!」

「なにっ!?」

 

 健気に応えた少女娼婦に対し、大納言は目を見開いた。

 

「あうっ!」

 

 力任せに少女を突き飛ばし、蹴飛ばす。彼女は壁にぶつかり、鼻血を出して倒れた。

 

「何度言えば分かる! 余はそんな小物ではない! 将軍家の跡継ぎじゃ! 呼ぶなら上様と呼べぇい!」

 

 むくむくとした身体で歩き回り、年端もいかぬ少女を殴る蹴る。

 将軍家の跡継ぎに求められるべき、高潔さや謹厳さといったものは、この男からは微塵も感じられない。

 少女は怯えた顔で這いつくばり、許しを乞うように平伏した。

 

「……ふん、まあよいわ。喉が渇いた。そこの果物を持て」

「はいっ……お、おメしアがりクダさい」

 

 少女は恐る恐る、テーブルから白いベリーをいくつか取り、自ら咀嚼した。それから背伸びして大納言の顔に手を添え、唇を重ねる。

 

「んっ……」

 

 雑菌の少ないさらっとした唾液とともに、甘酸っぱい果実の汁が流し込まれた。

 それを飲み下すや否や、大納言は少女の髪を掴んで床に引き倒し、上に覆い被さる。

 

「ふはは! まずいまずい! オロシャの食い物はどれもこれも泥臭くてかなわんのう! しょせん田舎者の舌じゃな!」

「……モウしワケございません、ウエサマ」

 

 少女の顔に、涙の筋が乾燥して粉を吹いていた。

 体を弄ばれ、殴られ、あげく故国を侮辱され、自尊心を踏みにじられて、それでもなお、謝罪の言葉を口にしている。

 それを眺めて悦に入る大納言の姿は、まさしく暴君と呼ぶにふさわしい。

 

「ひひひっ、ほれ、脚を広げよ。余の珍宝をくれてやるわ」

「はい、ウエサマ…………あうっ」

 

 この大納言も、かつては海の外に夢見る一人の少年だった。

 だがそれは過去のこと。今の大納言はただ葵の御紋を背負っただけの悪漢に過ぎない。

 

「うぐっ、ううっ、あうっ」

「むほっ、むほっ、よいぞよいぞぉ」

 

 ことに、最近父の落とし胤(だね)が見つかって立場が危うくなった大納言は、形振り構わずにオロシャと手を結んだ。

 恐るべき殺人兵器〈デウスの鐘〉を彼らに売り渡し、莫大な金銭を得たのだ。

 その金で地位を固めようとし、それを怪しんだ自国の侍を正体も定かならぬ人斬りに次々斬らせた。

 

 そんな男だから、今日この日が来るのは必然だったのだろう。

 

 ◆◆◆

 

「いいかい兄貴? 船の中は任せるよ」

「ああ、夜の内に終わらせるぞ、お雪」

「あたりきしゃりきのこんこんちきよ」

「なんだ、そりゃあ」

「知らねえのかい?」

「知らねえよ」

「最近店に来る職人どもがよく言うのよ」

「どういうのだ」

「当たり前だってこと」

「それならいい、頼むぞ」

「任しときな、猫の子一匹逃がしゃしねえから」

「そいつは頼もしい……むぐ」

「んん~……♡」

「んっ、ん……」

「ぷはっ♡ ふふ、続きは生き残ってからね♡」

「全く、お前は……もう行け。しくじるなよ」

 

 ◆◆◆

 

 散々に少女を犯した大納言は、趣味の悪い金の羽織に袴を身に着け扉を開いた。

 夕日の赤い光と潮風の香り、それに波の音。帆柱の上から白鴎(カモメ)の鳴き声が押し寄せてくる。

 

 石川島造船所の南岸壁に停泊するオロシャの帆船、〈ウラジーミル・アトラソフ号〉。

 大納言が思う様オロシャの少女娼婦を嬲っていたのはその一室だった。

 甲板には護衛の侍が十人ほどはいたが、みな主の下劣さから目を背けたいのか目線を合わせようとしない。

 側付きの小姓が耳打ちしてくる。

 

「上様、夜になる前にお城へお戻りを。この造船所は人払いをしておるのです」

「分かっておるわ。まったく、遊び足りぬわい」

 

 独り言のように呟きながら、船べりに身を乗り出した。途端にカモメたちが飛び去っていく。

 

 そう、この石川島にいるのは大納言とその護衛、それからオロシャ人だけだ。明日はもう大晦日、餅代をばらまけば容易に人払いできた。闇の取引にはちょうど良かったのだ。

 それに西側岸壁から五町(約550メートル)の運河を隔てた向こうはすぐ江戸の港であるから、大納言がことさら油断していたわけではない。

 ないが、それはやはり致命の隙であった。

 

 夕日に映える江戸城を眺めていた大納言の下に、さきほどの小姓が血相を変えて駆け寄ってくる。

 

「上様、本多左門守様が御目通りを願っております」

「なに? 忠興が」

 

 大納言はやにわに緊張の色を見せる。

 

「ひとりか?」

「はい、供回りも連れずお一人で、下に」

 

 岸壁を見下ろすと、確かに質素な羽織袴と頭巾の侍が立っていた。

 

 

 ◆◆◆

 

「頭が高い!!」

 

 簡潔で威圧的な一声。叫んだのは、岸壁に降りた大納言で(・)は(・)な(・)い(・)。

 声の主は、気色ばった護衛の侍が十重二十重に取り囲む中、造船所の岸壁に堂々と立っている。

 本多左門守忠興であった。

 大納言は押しつぶされるようなうめき声を出しながら後ずさる。

 

「そ、その紋は……!」

 

 頭巾を脱いだ忠興は右手に抜き身の刀を持ち、その姿を見せつけるがごとく掲げている。

 今、陽が横浜の方角に落ちゆく。黄昏の放つ淡い光が、刃のは(・)ば(・)き(・)に施された金の紋様をくっきりと浮かび上がらせていた。

 護衛の侍が次々に驚愕の声を上げる。

 

「あ、葵の紋?」

「まさしく、京の都の加茂明神から頂いたという、三つ葉左葵巴の紋!」

「しかも、家光公の御代までしか用いられなかったという古式の徳川葵ではないか?」

 

 どよめきを切り裂くように、忠興が声を張る。

 

「いかにも! これなるは我が祖、本多平八郎忠勝が神君家康公より賜りし拝領刀! 皆の者、頭が高い! 控えい、控えおろーう!」

 

 その言葉に思わず一斉に跪く侍たち。もう誰も大納言を見ていない。

 忠興だけが、鳶(とび)色の瞳に怒りを燃やし、大納言を睨み付けている。

 

「あ、あ、あ……」

 

 異様な雰囲気と忠興の気迫に押され、大納言は膝が笑うのを感じた。

 

 本多忠興は、隠密同心を束ねる無役の旗本。隠密同心は〈デウスの鐘〉を邪教から奪取した実力組織だ。

 大納言にとって、徳川の世を守ると称し時には大名さえ暗殺してのける彼らは、畏怖の対象だった。ロシア人と共謀して侍殺しの罪を彼らになすり付け、動きを封じようとしたのもそのためだ。

 

「上(かみ)に立つものは、弱き者を守るのがその務め。それを忘れた振る舞いは、いわば天下への御謀叛!」

「な、なにが御謀叛じゃ! 余は、余は大納言喜保、征夷大将軍になる男ぞ!」

 

 忠興の言葉に対し、大納言は必死で反論した。恐怖に駆られてなお虚勢を張るその姿は、傍目には滑稽でさえあった。

 

「忠興、余の顔見忘れたか!?」

 

 しかし忠興の目は鋭く、一笑に付すどころか軽蔑の念すら込めて睨みつける。

 

「笑止! 私利私欲に溺れ異国に誇りを売り渡した逆賊が、なんでお世継ぎ様であるものか!」

 

 拝領刀が、大上段に掲げられた。

 

「本多忠興、家康公に代わって成敗致す!」

 

 大納言も、護衛の侍も誰一人動けない。振り下ろされた白刃に、大納言が目を瞑ったその時。

 

「アマい」

「ぬっ!」

 

 忠興の一撃を受け止めたのは、戦斧の長い柄であった。

 やたら短い白茶色の髪に、腐った蜜柑のような緑の瞳、黄味がかった土色の肌をした男。

 

「イワン!」

 

 アトラソフ号を預かるロシア側の代表者、イワンであった。戦斧を振り回し、忠興を牽制する。

 

「小癪なっ」

「ダイナゴンサマ、サがれ」

 

 命を拾った大納言であったが、イワンの長い手に突き飛ばされよろよろと後退した。

 

「な、何じゃ……たかだか先祖の威光を笠に着て……お、おい、お主ら、余を助けよ! 余は大納言喜保、征夷大将軍になる男ぞ!」

 

 どの口が言うのか、という情けない叫び。我に返った護衛の侍たちは慌てて刀を抜き、大納言の前に立つ。

 

「おい、どうするのだ?!」

「どうもこうも、お守りするしかあるまい!」

「い、いやしかし……オロシャと共にか……?」

「馬鹿、ならば尚更我らこそが……いや、まず助けを求めねば!」

 

 一人の侍が、船手組(幕府海軍)に助けを求めようと小舟がある西岸壁に向かって駆け出す。正しい判断であった。

 だが、しかし。

 

「でえぇぇぇえぇぇぃ!」

 

 天をどよもして響く女の声。

 長大な十文字槍の一閃が、侍を頭のてっぺんから両脚の間まで真っ二つに叩き割る。

 血と臓物が埠頭に飛び散り、二つになった侍が左右にどさ、どさと力なく倒れた。

 たちまち岸壁が騒然となる。

 

「なんだ、なんだあれは!?」

「巫女か? 戦国武者か?」

「いや、夜叉だ!」

 

 そちらを見た大納言は、うっと呻いたきり絶句した。

 黄昏の光を背に浴びて、きっぱりとした足取りで一人の娘が近付いてくる。

 

 整った顔立ちの美しい少女であった。

 さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。

 装束は巫女のそれにも似た赤い袴姿であるが、裾や袖口には豪奢な金糸が入っている。

 

 だが、彼女の美しさを最も際立たせているのは、その瞳であろう。

 忠興によく似た鳶(とび)色の澄んだ目は逆光の中でも爛々と輝き、明確な殺意を孕んでいることが容易に見て取れる。

 

「おうおう、大納言さんよ!」

 

 血に濡れた槍の穂先は大納言を向いていて、どういう馬鹿力をしているのかぴ(・)く(・)り(・)とも揺れていない。

 彼我の距離はまだ六間(約11メートル)程はあろう。だというのに、喉元に冷たい切っ先を突き付けられているような感覚がある。

 

「……ひっ」

「先祖の威光を笠に着てぇ? どの口が言いやがる! 葵の紋所を汚す小悪党が!」

 

 少女の声はよく通った。凛とした響きの中に、鬼神が宿っているかのような凄みがある。

 

「ひっ、ひいぃっ、誰じゃ、貴様は!!」

 

 泡を吹きながら叫んだ大納言の言葉に、少女は口角を吊り上げて笑い、見栄を切る。

 

 

「隠密同心、十文字お雪!」

 

 

「おっ、おっ、隠密同心っっっ!?!?」

 

 堂々たる名乗りが、大納言の小さい肝っ玉を縮み上がらせる。

 次期征夷大将軍であるはずの男は、褌(ふんどし)の中で小水を漏らしていた。

 

「お雪!」

「お殿様、こっちに!」

 

 イワンと睨み合っていた忠興が少女に駆け寄る。

 

「むぅんっっ!」

「おりゃあっ!」

 

 追撃するイワンの戦斧が、十文字槍によって弾かれた。何度となく薄闇に火花が舞い、甲高い金属音が響き渡る。

 やがてイワンが大きく後ろに跳び退いた。

 

「ちっ……」

「やるね。あんたがオロシャの手先かい」

「テサキではない。アトラソフのオカシラだ」

「成る程? その戦斧、大した獲物だ。あたしの槍と打ち合うなんて、オロシャにも腕の立つ職人がいるようだね」

 

 少女は十文字槍の柄を肩に掛け、顎でイワンの持つ戦斧を指す。

 イワンの腐ったような目が、ぎろりとお雪を睨む。

 

「これは、バルディッシュというのだ。サルめ」

「言うじゃあないか。その猿に今から殺される気分はどうだい?」

「ナめるな。Kрасный(クラースニ) страж(ストラーシュ)がキサマごときに」

「ああ? なんだい、オロシャ語なんざわからねえよ」

「ちっ……アカい、センシだ。オレは、アカいセンシ! キイロいサルがカナうものか!」

 

 再びの激突。長柄武器同士が巻き起こす竜巻のごとき乱舞は、さながら人外の怪物同士がぶつかり合っているかのようだ。

 侍たちは大納言を屏風のように取り囲んだまま、二人の斬り合いに魅入られるが如く呆然と立ち尽くしている。

 

「す、すごい……」

「うむ、オロシャ人も凄いが、あの娘も凄まじい。あんな長槍を軽々と使いこなすとは」

「人間業とは思えん……」

「ど、どうする?」

「どうもこうも、奴らに近づいたら死ぬぞ」

「だが、こんなだだっ広い所では大納言様を守りきれん」

「かと言って、船着き場まで行くには、あの小娘を突破せねばならんぞ……」

 

 そうこうしているうちに日は完全に落ち、闇が訪れた。十文字槍とバルディッシュの応酬はなおも続き、月光を浴びて青白い火花を咲かせている。

 

「とにかく火だ! 明かりを焚け!」

 

 一人の指示により、十人ほどの侍たちが造船所の建屋に向けて一斉に走り出そうとする。行く手を阻んだのは忠興で、

 

「でぇい!!」

 

 と繰り出された横薙ぎが一人の右手を切り落とした。悲鳴とともに倒れる侍を助けようと、同輩たちが周りを囲む。

 

「それでよい。火を焚かれては困るのでな」

「本多殿! なぜ上様を!」

 

 忠興の顔を見知っていた年配の侍が叫ぶ。正眼に構えた忠興は憐れむように笑って見せた。

 

「上様? 上様がどこにおわす。あれは私利私欲のため、異人に魂を売った外道に過ぎぬ」

「……そ、それは……」

「ここで死ねば、ただの肥え太った土左衛門ができあがるだけよ。黙って見逃せば命は取らぬ」

「……っ、世迷い言を! 侍が主を見捨てることなどできようか!」

 

 いずれにせよ、大納言が死ねば彼らは切腹より他にない。生きる道は忠興を斬って進むのみ。

 

「やああぁーっ!」

 

 裂帛の気合いと共に、二人ほどが剣を構えて飛びかかる。さすがに次期将軍の護衛、体躯といい腕前といい堂々たるものだ。

 しかし忠興はそれ以上だった。

 

「──!」

「ぎゃあっ!」「あっ!」

 

 目にも留まらぬ二連撃によって二人がほぼ同時に絶命する。

 それを放った忠興は一歩も動いておらず、また正眼の構えに戻っている。まさに鎧袖一触だ。

 

「まさか本多、これほどとは……っ、オロシャ兵は! オロシャの者共は何をしておる!」

 

 年配の侍がアトラソフ号を振り返る。その一瞬に、忠興の刃が彼の首筋を切り裂いた。

 飛び散る血飛沫。侍達の悲鳴。

 

 それにも関わらず、アトラソフ号は静まりかえっていた。

 

 ◆◆◆

 

 忠興が拝領刀を掲げて侍達を跪かせた、ちょうどその頃。

 

「おい、イワン隊長が飛び出しちまったぞ」

「おらたちはどうするんだ?!」

「イワン様が出ていったんなら、俺たちは別に……なあ」

「んだ、下手に近づいたら巻き添え食らうぞ」

 

 オロシャ兵達は、アトラソフ号の中で右往左往していた。

 突如として現れたサムライが刀を見せたと思ったら、ダイナゴンのサムライが次々と膝をつくのである。

 おまけにそれを見た自分たちの頭目はバルディッシュを携えて飛び出して行ってしまった。

 

 イワンは、強い。頭もよい。頼りになる。あのバルディッシュで真っ二つにされた他国の兵士が何人いたことか。

 だが、得体が知れない。この船に乗って日本(イーポニヤ)に渡って来てからも、他のオロシャ人とはあまり交わろうとせず、酒(ウォッカ)すら飲まない。

 いつも謎の薬草を混ぜた葉巻を吸っていて、そのせいか肌は黄色がかった土気色をしているし、何より目が変だ。腐った柑橘類のような緑の瞳が常に爛々と輝いている。

 

 農奴上がりが多い彼らからすれば、本当に自分たちと同じ人間なのかとさえ思う。

 〈怪人〉としか言いようがない存在であった。

 

「だが何もしないわけにゃいかねぇ、マスケットで上から撃つぞ! 野郎ども、準備しろ!」

 

 オロシャ兵がマスケット銃を取ろうと、集団で動き始める。最後尾にいた兵が、物陰に潜んでいた何者かに後ろから組み付かれた。

 

「……っ!」

 

 一瞬で口を塞がれ身体を押さえられ、気づいた瞬間には短刀で喉をかき斬られていた。北の帝国からはるばる大海を越えてやってきたにしては、あまりにも呆気ない最後だった。

 

「……」

 

 下手人は素早かった。足音は全くない。物陰から次々に奇襲を繰り返す。時には懐から取り出した鈴を投げて注意を引き、時には仲間の死体を囮にして、一人ずつ確実に仕留めていく。

 また一人。また一人。次々にオロシャ兵の首を切り裂いていく。

 それは何度も何度も同じ殺し方を経験してきたがゆえの慣れた手つきである。

 兵たちが騒ぎ出した時には、船にいたオロシャ兵の半分、十七人が物言わぬ骸と化していた。

 

「フフ……♥」

 

 殺しに悦楽を覚えているのか、奇っ怪な笑い声が闇にこだまする。言うまでもなく、それは黒い着流し姿の出楠太一郎であった。

 ……その様子を、闇の中から誰かが見ていた。

 

「やっぱり、本物ので(・)く(・)す(・)た(・)い(・)ち(・)ろ(・)う(・)だあぁ……♥ ひ、ひひ、ひひひひひっ……」

 

 

 ◆◆◆

 

 ろうそくの明かりだけを頼りにして、船倉の下層へと入っていく。

 太一郎は、アトラソフ号の武器庫にいた。兵たちはこちらを探し回っているが、まだ気づいた様子はない。

 

 目の前には何丁ものマスケット、火薬樽、弾丸や手投げ弾の入った革袋や箱などがずらりと積み上げられている。

 よくもまあ、これだけの火器を江戸の目前まで持ち込めたものだ。それに壁にかけられているのは突撃用の槍、柄の長い戦斧、そして軍旗である。

 やはり、この船は軍艦だ。太一郎は確信を深めた。

 

 外から見たアトラソフ号は、どう見ても大型の貨物帆船だ。それがこれだけの武器を隠している以上、その目的が邪で尋常のものでないことは察しが付く。

 万一にも、これらが江戸の町に向けられてはならない。この船を沈めるか、破壊せねばなるまい。ここで派手にやれば江戸の湊に気づかれ、自分たちの逃げ道が少なくなってしまうが──

 

「ひ、ひひゃああぁっ!!!」

「!?」

 

 甲高く、調子の狂った男の声。

 奇声と共に、異臭を放つ何者かが闇に紛れて襲いかかってきた。それを躱しつつ刀を鞘走らせると、手応えがある。肉を断つ感触があった。

 

 だが同時に何かが左肩をかすめ、燃えるような痛みが走る。

 その瞬間にはもう敵の姿はなく、ただ生臭い血溜まりだけが残っていた。そして先程までとは比べ物にならないくらい強烈な悪臭に襲われる。

 

「ぐ……!」

 

 思わず声を上げそうになり、口を抑える。鼻が曲がるどころか、肺腑が腐りそうだ。だが嗅ぎ慣れた臭いでもある。それは死臭だった。

 太一郎は刀を構えたまま、周囲を警戒しながら気配を探る。

 

 左、前方、闇の中、武器庫の奥、火薬樽の後ろ。

 今! 

 

 左手で苦無を二本投げ放つ。暗闇の中で鈍い金属音が一つ、肉を裂く音が一つ。悲鳴が上がる。そのまま一気に距離を詰め、突きを放った。

 

「ぎゃあっ!! あああっ!」

 

 確かな手ごたえとともに、今度ははっきりとした断末魔の声が響き渡る。

 

「……う、お……ぉ……」

 

 呻きながら、影がゆっくりと倒れるのが見えた。それきり動かなくなる。

 強烈な死臭を振り払うように頭を振って、太一郎は細く息を吐く。

 

 正体を確かめたいが、男は大きな叫び声を上げていた。天井板から、気づいたオロシャ兵が走り回る音が聞こえてくる。じき、ここに降りて来るだろう。破壊の算段をつけ、一刻も早く脱出せねば──

 

「おまえ、で(・)く(・)す(・)た(・)い(・)ち(・)ろ(・)う(・)だろぉ?」

「なに!?」

「ひゃは、ひゃはははは!!」

 

 死骸が、起き上がった。まるで撥条(ばね)仕掛けのように跳ね上がると、太一郎に向かって飛びかかってくる。

 

「ちいっ!!」

 

 かろうじて身をかわすが、一瞬遅れていたら危なかった。屍人(しびと)は床に転げ落ちると、まるで油虫(ごきぶり)のように床の上を這いずっている。

 

「ひ、ひひっ! 見たぞ見たぞ! お前の殺しを見た! 悦んでいた!」

「!!!」

「こ、殺したくて殺したんだなぁ!? そ、それで殺してる間中ずっと笑ってたぁ……! ひ、ひぃーっはははははっ!!!」

「……っ!」

 

 再び襲いくる屍人へ、反射的に右手の白刃を振るった。ぬるりとした感触。肉を切り裂き骨を断つ、独特の手応え。しかし相手の勢いは止まらない。

 

「ぐうっ!」

 

 正面から飛びかかられ、床に倒れる。首に激痛が走った。右手で首を締め上げられている。

 反射的に刀の柄頭で男の脇腹を打つが、全く効いていないようだ。

 

「お前も俺と同じ人殺しなんだなぁ!? いいなあ! 最高だなあ!! ひゃははははははっ!!!」

 

 屍人が振り上げた左手には、手首から先がなかった。代わりに、短刀のようなものが金具で骨に繋がれている。どう見ても、まともな医者が施す医術とは思われない。

 

「あがけ! 生きようとしてみろ! 屍肉にたかる、冬の蠅みたいになあ!」

 

 太一郎は左腕を振り上げ、思い切り男の顔面を殴りつけた。ぐきり、と嫌な音がする。男の頬には金板が縫い付けられていたのだ。指にヒビが入るのが分かった。

 だが構わない。拘束がゆるんだ隙に、ふところから暗具を投げ放つ。南無三、と念じながら。

 

 それは火焔玉(てつはう)だった。火薬を満載した武器庫に、特殊な油による火炎が何条にもなって降り注ぐ。

 

「ひ────」

「貴様も、もがいてみろ」

 

 男の胸ぐらをひっつかんで引き寄せ、盾にする。

 

「ぎぃやああああぁぁっっ!!!」

 

 太一郎は炎の中で踊る男を放り捨てた。着流しに燃え移った火を払いつつ立ち上がり、悲鳴を聞きながら出口を走り抜ける。一刻の猶予もない。

 飛びつくように上層につながる梯子を掴む。その瞬間、背後の武器庫で爆発が起こった。間一髪梯子を登りきった太一郎の足元から爆炎が吹き出す。爆風に煽られて、アトラソフ号の上層を転げ回る。

 

「がっ! ぐぅぅっ!!」

 

 咄嗟に受け身を取ったものの、全身を強く打ちつけたせいですぐに立ち上がることが出来ない。

 何とか起き上がろうとして、気づく。右足首が腫れ上がっている。おそらく先ほどの爆発で焼かれたのだろう。動きはするが、感覚が鈍くなっている。

 他に手がなかったとは言え、武器庫で火焔玉を使うなど自殺行為だった。それに、この爆発は江戸の湊からも観てとれるだろう。増援が来れば一巻の終わりだ。

 

「ええい、なんだったんだ奴は!」

 

 悪態をつきながら、太一郎は熱風に押されるようにして甲板に駆け上がる。

 そこは既に蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。どうやら船底に穴が空いたらしく、足元が傾いている。

 次々とオロシャ兵が船内から飛び出し、悲鳴や怒号を上げ左舷から海に飛び込んでいく。もはや船に残っている兵はごくわずかであろう。

 

「あっ!」

 

 こちらに気づいた一人が、マスケットを構えようとする。だがそれよりも早く、太一郎は一太刀でその兵士を絶命させた。

 

「アグッ……самурай(サムライめ), умри(死ね)!」

「なにっ!?」

 

 いや、しくじった。倒れ込みながらもマスケットの銃口をこちらに向けている。

 発砲音。

 左頬に熱いものを感じる。その瞬間に兵の喉をつき、今度こそ絶命させる。

 

「グッ………………」

「く、そ、左手の感覚がねえ……!」

 

 さきほど屍人を殴りつけた時の負傷が響いて太刀筋を誤った。かすり傷で済んだものの、ほんのわずかに銃口がずれれば死んでいた。

 だが、悠長なことは言っていられない。とにかく自分も、左舷から船を脱出しなければ──そう考え顔を上げた瞬間、太一郎は我が目を疑った。

 いつの間にか、あの屍人が船倉から這い上がってきたのだ。しかも、火だるまになったままで。

 

「ひひゃっ! 見た、見たぞ! 本物ので(・)く(・)す(・)た(・)い(・)ち(・)ろ(・)う(・)! さ、最高だぁ! もっと殺せぇっ!!」

「ば、馬鹿なっ」

 

 太一郎は狼狽を隠せなかった。火焔玉の炎に包まれ、武器庫の爆発に巻き込まれたはずだ。生きていられるはずがない。

 それなのに、この屍人は近づいてくる。糸で吊られた操り人形のようにびぐん、びぐんと手足をばたつかせながら向かってくるのだ。その姿はあまりに異様でおぞましいものだった。

 

「ひぃーひひひ、見ぃぃろぉ! 俺はふぅじみだぁっ!! おでぇはぁ、不死身の虫なのだぁっ!!!」

「畜生め!」

 

 炎に包まれた屍人が、左腕の短刀を振りかざして飛びかかってくる。それを刀ではじき返す。火花が飛び散り、同時に屍人の肩がごきんと外れた。

 しかしそれでも、敵は止まらなかった。外れた左腕をはめ直し、なおこちらへ向かって来る。あまりの執念深さに戦慄すら覚えるほどだ。

 

 刀を構えたまま後退する。しかし、太一郎の背には右舷が、すなわち岸壁があるのだ。船から落ちれば、死ぬ。

 敵の刃を受け流しながら、必死で頭を回転させる。地上に降りるには、船首側にある縄梯子を使うしか無い。

 だが遠い。まだ五間(約9メートル)以上離れている上に、屍人のまとった炎が揺れて視界を幻惑してくる。動きが読めない。

 

「ひぃーひひっ!」

 

 振り下ろされた短刀を避けざま、脛を思い切り蹴り上げる。相手はたまらず転倒するが、それも束の間のこと。今度は右腕だけで跳ね上がり、再び斬りかかってくる。

 刃とともに炎が鼻先をかすめ、思わずのけぞる。

 

「かあぁぁぁっ!!」

 

 体勢を崩したこちらの隙を見逃さず、屍人は体当たりを仕掛けてきた。そのままもつれ合うようにして落下防止用の縄を越えていく。

 

「落ちる! 落ちるぞ! このままでは地面に落ちる! お前と一緒に落ちてやる!」

 

 地面までいったい何間ある? 

 十間か、二十間か。万事休すか──

 

「あ が け ! お前の生気を喰ってやるぅぅ!」

「……!」

 

 自由落下が始まるその直前、太一郎の脳裏に女達の顔がよぎった。

 体の芯が滾る。

 

「うぅうううおおおぉぉぉおおぉぉっっ!!」

 

 渾身の力で燃える屍人にしがみつく。炎が皮膚を焼く痛みも忘れ、歯を食いしばり耐え抜く。上下を入れ替え、敵を下敷きにして落ちるつもりだった。

 太一郎の生気は、こんな妖かしに喰わせるための安物ではない。女達と生きるためのものだ。

 

「はかないなあ! ひひゃひゃひゃひゃ!!」

「美樹! ジェニファー! お英! お雪ぃいっ!!」

 

 太一郎は叫んだ。力の限りに声を張り上げ、女達の笑顔を思い浮かべながら腹の底から吠えたのだ。その叫びが魂を震わせた瞬間、重力が二人を地面に叩き落とした。

 

 ずん、という鈍い音と共に、太一郎の身体は跳ねた。全身に衝撃が走り、身体が宙に浮く。落下の衝撃が屍人の肉体を通して反発力となり、太一郎を死から跳ね返したのだ。

 

 自分がどこにいて、どんな状態にあるのか把握できないほどに視界が混濁している。本能的に頭をかばいながら、もう一度地面に落ちる。

 

「ぐはっ」

 

 背中から落ちたせいか、肺の中の空気が全部抜け出たようだ。咳き込みながら身体を反転させ、上体を起こす。

 

「……い……きてる…………のか? あっ、づうう」

 

 痛い。どこもかしこも激痛が走るが、かろうじて動くことはできるようだった。

 痛みは、生きている証しだ。太一郎は生きていた。それだけわかれば十分だった。引きつるような笑いを漏らしてしまう。

 

「……ははっ。ははは……」

 

 傍らに屍人が倒れていた。既に火は消えている。衣服は焼け落ち、黒焦げの表面からは性別もわからないほどだった。胸郭は落下の衝撃で潰れ、口からはあぶくを吐き、右の眼球が眼窩から飛び出している。

 死んでいる、そうに違いない。ここまでやって死なない人間がどこにいるのだ。

 

「兄貴!」

 

 お雪の叫び声。見れば造船所の西側、小舟が着く岸壁の目前で、お雪が大柄なオロシャ人と打ち合っている。

 太一郎は目を見張る。あの十文字お雪が、明らかに苦戦していた。

 一体どれだけ打ち合っていたのか、真冬だというのにお雪は滝のように汗を流している。それでもなお鋭い踏み込みで十文字槍を繰り出すのだが、相手の男は柄の長い戦斧でそれを受け流し続けていた。

 

「兄貴っ! こいつ、息が切れねえ! いくら戦ってもまるで疲れねえんだっ!」

「そんな……御前はどうした!?」

「建屋だ! 大納言を追って行ったっ!」

 

 叫ぶお雪の声がかすかに震えているのがわかった。まさか、あの男も不死身なのか──思わず屍人の方を振り向く。

 

 いつの間にか屍人は消えていた。

 

「っ、まさかっ!」

「ひぃっひひ……ここだぁ……♥」

 

 声、左、斜め後ろ! 

 振り向こうとした時にはすでに遅く、太一郎の左肩に短刀の刃が突き刺さった。

 

「ぐううっ」

 

 激痛に顔を歪ませながらも右手一本で刀を振りきるが、敵は離れたところにいた。黒焦げの左腕を正拳突きのように構えている。そこに刃はない。

 

「撥条(ばね)仕掛けの飛び道具かっ……」

「そぉーうよ、見事な仕掛けだろう? 俺はもうニンゲンじゃない……いや、ニンゲンを超えたぁ! 人の生気を喰らって生きる、気高い蟲になったのよぉっ」

 

 何をどうやってかは分からないが、オロシャは人に異様な生命力を与える術を持っているのか。

 

 お雪と打ち合って疲れぬという戦斧の男。

 斬っても燃えても墜落しても動き続ける屍人。

 

 失血と疲労のあまり、太一郎はその場に膝をついた。指から力が抜け、右手の刀が地に落ちる。

 

「ひひっ、もぉーう終わりかぁ? お前の生気は美味かったぜぇえ……♥」

 

 屍人は太一郎の刀を取り上げ、刀身を月光に照らした。

 おそらく恍惚とした表情を浮かべたつもりなのだろう。焼けただれた顔の筋肉を動かし、口を三日月型にする。ふと、その声から狂気が消えた。

 

「お前が死ねば、俺がで(・)く(・)す(・)た(・)い(・)ち(・)ろ(・)う(・)というわけだ。今度こそ本物のな」

 

「……そうか。お前が夢路か。おれの、偽物の」

 

「……ひひっ。ひひひぅ、ひひゃっはははははははぁっ! そうだ、そうだとも!」

 

 再びの狂声。屍人、いや人斬り夢路の成れの果ては、両手を大きく広げて天を仰いだ。

 

「分かるだろう、出楠太一郎! 俺たちはニンゲンじゃない! ニンゲンを殺して喜ぶものがニンゲンであるはずがない!」

 

「ああ、そうだ。おれは鬼だよ。狂った鬼だ」

 

「ひぃーっひひぃ! 鬼か! 分かる! 分かるよ! 殺しは楽しいよなあ! なのにニンゲンどもはそれを理解しない!」

 

 夢路の声が滑稽なほど上ずる。高ぶった精神がいよいよ臨界点に達しようとしているのだ。

 知ったことか。太一郎は深く息を吸い、そして吐いた。

 

「ふーっ……全くだ。殺しが楽しいなんて、誰からも理解されるはずがない」

 

「俺はやっと理解したんだ! ニンゲンなんか止めればいい! 蟲になるんだ! ニンゲンの生気を喰って生きる美しい蟲に!」

 

「すーっ……」

 

「なぁ出楠太一郎、いいや、俺! 俺なら分かってくれるだろぉっ!? 俺もで(・)く(・)す(・)た(・)い(・)ち(・)ろ(・)う(・)なら!」

 

 屍人の言葉が右耳から入って左の耳から抜けていく。太一郎は深呼吸を繰り返した。

 

「ふぅー……すうー……」

 

「お前も蟲になれ! 俺たちは一つになるんだ! 蟻のように! 蜂のように! 別々の身体で同じ心を共有して生きようっ!!」

 

「ふぅー……」

 

 吸い込んだ息をゆっくりと吐き切ると、身体の芯に火が灯ったように感じた。全身が熱を帯びていく。同時に思考と感情が研ぎ澄まされていく感覚があった。

 

「お断りだ」

「はぁ!?」

 

 立ち上がり、右の拳を握って、構えた。太一郎が得意のエゲレス武術だ。しらけた笑いを貼り付けて、太一郎は一歩踏み込んだ。

 

「お前とは一つにならない」

 

「なぜだっ!! 俺はお前だぞ! お前は俺と同じだ! 俺たちはお互いの心を理解できるはずだ!」

 

「おれにお前の心が分かるはずがない。お前におれの心が分かるはずがない。お前に、おれを愛してくれた人達の心が分かるものか」

 

 右のジャブ。右拳が、夢路の胸をポンと突く。突くだけだ。

 

「……なんの真似だ?」

「教えてやってるんだ。おれのする事は、お前には何一つ理解できないと」

 

 続けて右フック。今度は左の頬に命中する。またジャブ。

 力のない、虫も殺せないような拳で、しっかりと間合いを測る。

 

「ふざけるなぁっ!!」

 

 怒気とともに振るわれた刀を、しかし太一郎は躱さなかった。

 左肘を上げて手首を受け止め、同時に渾身の右ストレートを叩き込む。

 

「づぁっ!」

「げぇふぃっ!!」

 

 体重の乗ったその一撃は見事顔面のど真ん中に決まった。屍人の頭骨は凹み、身体は吹き飛んだ。

 顔を押さえて転がり回る姿には目もくれず、再び深呼吸をする。

 

 

「ふぅー……すうー……」

 

 美樹。

 

「ふぅー……すうー……」

 

 ジェニファー。

 

「ふぅー……すうー……」

 

 お英。

 

「ふぅー……すうー……」

 

 お雪。

 

 

 出楠太一郎とは誰だ。

 それは彼女たちを心から愛し、愛し続ける男の名だ。

 

 そうだ、愛こそがすべてだ。

 女達を愛すること、愛し続けること。それがおれに課せられた使命であり誇り。己にとって最も重要なことなのだ。

 それを忘れれば、おれは真の鬼に堕ちる。

 

 ああ、身体の芯が燃え上がるようだ。この熱こそおれが人間であるという証ではないか。

 今は怒りも、悲しみも、喜びも、苦しみも、憎しみもない。あるのはただ愛情のみ。愛さえあれば何もいらない。

 それでいいじゃないか。いいじゃないかそれで! 

 

「ひぎぃいっ、こ、殺じてやるぅっ!」

「来いっ、死にぞこない! 愛の力を見せてやるっ!」

「虚仮にしやがってえええぇぇっ!!!」

 

 屍人が飛び掛ってくると同時に、太一郎も前へ飛び出した。繰り出された刃をすんでのところで避け、カウンター気味にボディブローをお見舞いしてやる。

 腐った臓腑の感触が伝わってきたが、気にも留めない。間髪入れず、地面すれすれにまで上半身を伏せた。

 

 必殺の、アッパーカット!

 

 昇る龍のごとき拳が顎に炸裂し、夢路は宙を舞って地面に落ちた。

 

「ぁ、…………」

 

 屍人は仰向けにひっくり返り、びくびくと痙攣している。脳震盪を起こしたのか、さしもの妖かしも立ち上がることができないでいた。

 

「……ふん」

 

 短く鼻を鳴らして、太一郎は落ちた刀を拾い上げる。そうして、足袋で屍人を踏みつけた。

 

「最後に一つ、いい事を教えてやろう」

「……あぁ……?」

 

 切っ先を心臓へ向ける。

 

「殺しの楽しさってのはな、相手の断末魔と亡骸を愛でることにあるんだ。足掻くだの生気だの、おれは趣味じゃねえ」

 

「この、鬼め……」

「それがどうした」

 

 体重をかけて、刺し貫く。切っ先が皮膚を破り、筋を断ち、骨をくぐり、心ノ臓をゆっくりと抉っていく。

 

「ぐっ……あ……」

「どうだ? 自分の死を感じる気分は」

「お……おおぉ……これが、死……うぐぅっ……心地好い……ぐぶふっ、案外……悦(よ)いぞぉ……」

「……そうかよ」

 

 ぐりっと捻りを加えて、とどめをさす。自分を不死身と称した人斬りは、口元を三日月の形に歪めたたまこと切れた。

 太一郎は刀を引き抜き、立ち上がって着物の裾を払う。

 

 ふと西を見ると、江戸の湊にかがり火がいくつも灯っていた。船手組がついに動き出したのだ。もはや一刻の猶予もない。

 お雪と共にあの大男を倒し、大納言を斬ってデウスの鐘を破壊しなければならない。

 すべき事の多さに目眩がしそうだ。だが今は立ち止まるわけにはいかない。お雪に向かって走り出そうとしたその時だった。

 

「ヨそう、オンミツドウシン」

 

 大男が、いきなり身を引いたのだ。

 意表をつかれたお雪が、疲労でたたらを踏む。彼女は反射的に槍を構え直し、声高く叫ぶ。

 

「止そうだあ!? 冗談も休み休み……! っく、はあっ、はあっ、はっ……!」

 

 言い終わらないうちに息が切れる。無理もないことだ。戦い始めてから半刻(約一時間)はゆうに過ぎている。その間ずっと、ろくに休むこともなく動き続け、しかも緊張を保ったままなのだ。いかに十文字お雪であろうとも限界がある。

 イワンは戦斧を一振りしてから、表情一つ変えずに言った。

 

「センニチテ……だったか。おマエがそれホドツカれているのに、オレはおマエにキズヒトつオわせられないでいる」

「くっそ、顔色一つ変えずに……土左衛門にだって、もう少し表情だとか印象だとかあるもんだよ……」

 

 悪態をつくものの、やはり息が切れて言葉が続かない。そんなお雪を尻目に、土気色の肌をした男は続けた。

 

「ミトめよう。おマエは、オレよりツヨい。だから、もうタタカいたくない」

「よくも抜け抜けと……!」

「アトラソフは、シズんでしまった。オレはもう、あのカネをモってカエれない。このクニのヤクニンに、ツカまるワケにもいかない」

「だから見逃せってかい!」

「そうだ。ミノがしてくれ。オレがタタカうべきテキは、このクニではない」

 

 大男の答えは単純明快であった。そこには何の欺瞞も感じられない。ただ自分の利益を守るべく、損切りを行っているのだ。

 

「なら誰でい」

「……」

 

 大男は、西北西の空を見上げた。

 太一郎やお雪が知る由もない事だが、その先にはロシア帝国の首都ペトログラードがある。そしてカール・マルクスらにより『共産党宣言』が記されてから、もう十年以上が経っているのだった。

 

「だんまりかよ!」

「フン……おマエたちにはイってもリカイできまい」

 

 言うが早いか、大男は岸壁に向かって走り出した。

 

「あっ、おい!」

「よせ、お雪。構っている暇はない」

 

 追いかけようとするお雪の腕を摑み、引き止める。その時にはもう、大男は冬の海に飛び込んでしまっていた。波間に一瞬浮かんだ影はすぐに見えなくなり、後には海面を打つ音だけが残った。

 

「行くぞ、御前を追う。大納言を斬ってデウスの鐘を破壊する」

「分かってるよう、そんな事ぁ! ああ畜生、勝ち逃げされたみたいで悔しいったらありゃしない……」

 

 

 ◆◆◆

 

 二人が忠興を追って建屋に飛び込んだ時、既に大納言は絶命していた。そばには無事の忠興が立っていたが、斬ったのは彼ではなさそうだった。

 

「お主ら、無事であったか」

「は、紙一重でございましたが」

 

 忠興の言葉に応えながら、太一郎は辺りを見回す。すると大納言の死体の傍に、小さな影がひとつあった。

 年端も行かぬ少女だった。燭台の明かりに照らされて、長い金の髪と青い目が目立つ。真冬に薄っぺらい貫頭衣のような寝間着一枚だけという格好で、呆然と座り込んでいる。

 

 顔には、暴行されたと思しき青痣があった。

 その両手には、血に濡れた脇差しが握られている。上等な拵えからして、大納言のものであろうか。

 

「この娘は……」

「オロシャの遊女であろう。大納言を追い詰めた時、突然飛び出してきてな。それで、このザマだ」

 

 忠興はそう言って、死体を一瞥した。少女は俯いたまま微動だにせず、一言も発さない。太一郎とお雪もまた、言葉もなく彼女の姿を凝視するしかなかった。

 と、急に少女が顔を上げた。

 

「ん?」

 

 少女の口元が小さく動くのが見えた。何かを言っているようだが、声が小さくて聞き取れない。しかし確かに、唇が言葉を紡いでいるように見えた。

 やがてその言葉を理解したとき、三人は同時に息を呑んだ。

 

「……コロして……クダさい……おナカに……こいつの、コドモが……イるんです……」

「……!」

 

 嘘を吐いていないことはすぐに分かった。なぜなら少女は脇差しを逆手にし、まだ膨らんでいない腹部に突き刺そうとしたからである。

 

「あっ、バカッ!」

 

 慌てて駆け寄ったお雪がその手を払い除けると、刃先は僅かに皮膚を傷つけただけで床に転がった。

 

「ううっ……うああ……っ!」

 

 泣き崩れる少女を前にして、太一郎たちは何も言えなかった。ただ、ただ茫然と立ち尽くすしかない。

 忠興だけが、言葉を発した。鉄のごとき冷たい声で、太一郎に命じたのだ。

 

「ひと思いに斬ってやれ、太一郎」

「……!?」

「お殿様!?」

 

 お雪が驚いて振り向く。忠興はそれを片手で制して、なおも続ける。

 

「いかに外道と言えど、大納言は上様の嫡男。その種と異人の胎から生まれた子など、天下騒乱の火種でしかない」

「お殿様、あたしは!」

「お前は黙っておれ!」

 

 お雪が叫ぶや否や、忠興は怒鳴り返した。普段、滅多に声を荒らげるような男ではないだけに、余計に迫力がある。

 それでも納得できない様子のお雪に、忠興は彼女を睨みつけて言い放った。

 

「この娘は我らが大納言を狙った事を知った。なおさら生かしてはおけぬ」

「く、口止めすれば」

 

「万一にも正体が漏れれば、お前はともかく太一郎が江戸で生きていけなくなる。美樹殿もな」

「う……」

 

「お雪、これは千載一遇の好機なのだ。大納言を殺めたのはこの娘、今ならオロシャに全て押し付けられる」

「……」

 

「さすれば、お前と太一郎はこれからも江戸で共に生きていける。どうだ、これが一番良い選択ではないか? 違うか?」

「で、でも、でも、それは、あたしの都合で」

 

「……お前なら、産みたいなどと思うか。あの大納言の子を」

 

 そこまで言うと、忠興は目を伏せた。裁きを受けている者のように首を垂れて立ち尽くしている姿は、まるで我が子可愛さのために罪を犯そうとする咎人のようであった。

 

「兄貴……」

 

 お雪はそう言ったきり、押し黙ってしまう。

 

 沈黙の中、太一郎は鞘から刀を抜いた。

 燭台の揺らめく明かりに照らされた刀身には、困惑を隠せない男の顔が映っている。それはまるで自分の心の内を映す鏡のようだった。

 一体、何を迷うのか。殺すべき理由も、殺して良い理由も揃っている。理性では殺すのが慈悲かとさえ思う。

 何より、年端もいかない異人娘を殺すのは初めてだ。その断末魔を、味わってみたくて仕方ない。このまま刀を振り下ろせば、自分は大義名分を手にできる。

 

「ハヤく、シなせてクダさい……おネガいです……ワタシはもう……タえられません……」

 

 そう言って涙を流す。犯され孕まされたあげく、寒さの中で震えながら死を待つ運命。お前が死んだほうが都合が良いと、誰からも、自分自身からも思われている。

 隠密同心ならば、苦しみを終わらせてやるべきだろう。迷わずに刀を振り下ろすことが本当の優しさなのだ。

 だが──

 

「……すまん」

 

 太一郎は、刀を鞘に収めた。そして膝を付き、泣いている娘に手を差し伸べる。

 

「酷な頼み事かもしれぬが……その子を、産んでやってくれぬか」

 

「……」

 

「親に愛され、幸福を願われる事は……子にとって、何にも代え難い喜びだからだ」

 

 いつの間にかお雪も、おぼつかない足取りで傍に寄ってきている。その目に涙を溜めているのを見ると、彼女もまた同じ気持ちなのだろうと思えた。

 少女は差し出された手を取りもせず、虚ろな目でこちらを見つめている。やがてその目からは大粒の涙が零れ落ち、床を濡らしていった。

 太一郎の手は所在なく宙をさまよい、結局は何もできずに下ろされた。小さく息を吐いて立ち、忠興に向かって頭を下げる。

 

「ご下命には、従えませぬ」

「そうか。儂の命は、聞けぬか」

「はっ」

「ならば、今日を限りに隠密同心の任を解く」

「はっ」

「だが……よくぞ申してくれた。さすがは出楠太一郎。さすがはお雪が選んだ男よ」

「はっ。それがしは、お雪の子の父になる男なれば」

「こやつめハハハ」

「もう、兄貴ぃ」

 

 こうして、大納言とオロシャの陰謀は幕を閉じた。

 

 ◆◆◆

 

「でぇえりゃあああ!!」

 

 お雪の十文字槍が、今度こそデウスの鐘を砕いた。

 ギヤマンの欠片がばらばらと飛び散る音が、静まり返った入江に響き渡る。朝日を浴びて煌めく様は宝石のように美しい。

 だが、それが持つ恐ろしさを知る太一郎たちにとっては忌まわしいものにしか見えなかった。

 

「やっと……終わったか」

「これにて、一件落着だ」

 

 お雪が呟く。心なしかその声は弾んでいるように聞こえた。

 

 ここは石川島ではない。そこから二里半(約10km)ほど離れた小島である。

 

「どうするの、この欠片。危なくないの?」

 

 不思議そうに尋ねたのは、盗み装束姿のお英だった。体型の出る黒尽くめである。

 あの後、太一郎たちは駆けつけたお英の小舟に乗り移り、船手組の追跡を振り切ってからクリストファーの帆船へ乗り換えたのである。

 

「心配はいらねえとさ。カビが成長するには、鐘の紋様を正確に通った光が必要で……」

「ふうん、欠片じゃなんの役にも立たないんだ」

「ま、そんなところだ。義父上はどちらに?」

「ジェニーとお茶してるよ。あの二人、案外気が合うみたい。美樹姉さまのお菓子もうまいうまいって」

「へえ。おれにも、そのくらい親しげに接していただきたいもんだが」

「無理じゃない? 私をさらう時あれだけ挑発しちゃったんだし。あ、でも……」

 

 薄い金髪の新妻は、そっと太一郎の右手を取って下腹部に触れさせた。

 

「……孫を抱かせてあげれば、案外ころっといくかも」

 

 悪戯っぽく微笑む愛しい女に、太一郎は苦笑いするしかなかった。

 

「うおっほん、ちょっと兄貴」

 

 わざとらしい咳払いとともにお雪が割り込んできたので、二人は手を放して距離を取る。見れば彼女は、不満そうに唇を尖らせていた。

 

「あんた左手が骨折、右足に重度の火傷、左肩に刺し傷、その他にも全身に火傷してるんだよ? その右手はあたしを労うために残しておいて欲しいね」

「しょうがねえなぁ。おら、おいで」

 

 両腕を広げてやると、待ってましたとばかりにお雪が飛び込んでくる。妹妻の柔らかい体が、胸の中にすっぽり収まった。

 

「…………兄貴ィ」

 

 甘えるような声で呼ばれたかと思うと、背中に腕を回されて強く抱きしめられる。そのまま頬をすり寄せられたかと思えば、耳元で囁かれた。

 

「兄貴はさ、兄貴はさ、今からあたしが何ていうか、分かるかい」

「いいや、分からねえ。分かりたくもねえ。せめて、お前の口から言ってもらいてえもんだ」

 

 するとお雪は体を離してこちらを見上げる。上気した頬と潤んだ瞳が愛らしいと思う間もなく、口づけられた。

 優しく触れるだけの短い接吻を終えると、お雪は少し寂しそうに微笑んだ。

 

「あたしは、兄貴とお別れしなくちゃいけない。さよならだ、兄貴」

「ああ、おれもお前と別れなくちゃあなるまい。さよならだ、お雪」

 

(続く)

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