祝言(終)
この話は、出楠太一郎のエピロォグです。
そして僕、本多小太郎のプロロォグです。
江戸が東京府と呼ばれるようになって、五年ほど経った頃のお話でございます。
「小太郎、これはどうじゃ」
「いただきます」
僕を自室に呼んだ父、本多忠興が、僕の前にお饅頭が乗った皿を置いた
ようですと言うのは、僕は生まれつき目が見えないからです。
食してみると、柔らかく蒸された餅米が粒のまま表面を覆っていて、その触感が口の中を騒がせてくれます。粒の一つ一つが舌の上で転がって、うん、うん……。
「よい食感ですね。小豆の産地は丹波、砂糖は琉球、米は…………伊勢、でしょうか」
「ほほう、さすがは小太郎じゃ」
もち米の触感、生地の柔らかさ、白くない砂糖の風味、そういったものが僕の味覚・嗅覚・触覚を刺激し、自分たちがどこから来たのかを教えてくれました。
「伊勢国
「父上、最近あの辺りは
「おお、そうじゃった。小太郎はまだ九歳なのになんでも知っておるのう」
嬉し気な声で父上は僕を誉めそやすのですが、我ながら甘やかされすぎのような気も致します。
学友が言うには、父親というのはもっと厳格で、時には鉄拳で教育を施す存在だとか。
本多家の家令である小野寺勘蔵の方がよほど厳しいくらいで、彼いわく
『良いですか若、男は強く逞しくなければなりませんぞ。愛されるからと言って、愛ばかりに
とのことでした。
いや言語道断とまで言われる筋合いは、ないと思うのですが……。
「ところで小太郎よ、こんど汐留に
「陸蒸気、ですか?」
それは先生から聞いて知っておりました。水車が水の力で回るように、石炭の熱エネルギィで車輪を回す大八車の大統領だとか。
ただ、
「あれは音が大きいと聞いております。僕は、ちょっと」
とお断りすると、頬を掻く音がしました。そうか、と言ったきり、父上はしばらく何もおっしゃいません。皿の上の饅頭が一つ、僕の方へ押し出される音がしました。
「すまぬな、我が国初めての鉄道を、お前に感じさせてやりたかったのだが……」
「いえ、お気になさらず」
僕は幸せ者です。目が見えぬとは言え、父上からの愛を一身に受けているのですから。
おや、虫の羽音────そこ!
はっしと、僕が掴んだのは饅頭に寄ってきた厚かましい蠅でした。秋も深まりつつあるというのに、未だ元気な奴ですね。
「さすがじゃ小太郎」
「いえ、簡単なことです。ふふん」
僕は胸を張りました。
光に恵まれぬ代わりに、僕は他の感覚器官が発達いたしました。特に、耳は大変優れておりまして、音の反響で立体的に空間を把握し、物の形状を認識することができるのです。
そんな訳で、生活に困ることはほとんどありません。もっとも外を歩く際には杖をついて歩く必要があります。それに陸蒸気のような大き過ぎる音は苦手です。
「陸蒸気の代わりに、船で横浜に連れて行ってください。近頃評判の大道芸人、浅見忠太郎の芸を聞いてみたいのです」
「よいとも、よいとも。小太郎の言うことはなんでも聞くぞ、わしは」
そう言って父上は僕の頭を撫でました。本当に甘い人です。
そんな父上にも、一つだけ言えぬことがあります。
それは、握りつぶした蝿が藻掻きながら死んでいくのを手のひらで感じて、背筋がぞくぞくと震えるような気持ちよさを覚えてしまうことです。
きっと一生誰にも言わない秘密です。
こんな異常者だから、神様仏様は僕から……いえ、何でもありません。
◆◆◆
「うるせえぞ、妾の子の
父母と僕を侮辱した学友を、杖で力いっぱい殴りつけました。変な声を出して洋学塾の床に崩れ落ちた彼に、馬乗りになります。
「誰が妾の子だって? もういっぺん言ってみやがれ、この丸太ん棒がッ!」
胸ぐらを掴んで揺さぶりました。彼は怯えた声で許しを乞うてきます。
「ふん、腰抜けめ、てめえ──」
その薄汚い口が利けなくなるまで殴りつけてやる。そう思いましたが、
「こらこら、小太郎君。やりすぎだよ」
この洋学塾の師範である小野寺正之助先生に止められてしまいました。
「……てめえ、先生に感謝しろよ」
先生に言われては仕方ありません。しぶしぶ彼を解き放ちます。
「まったく、軟弱な奴です。江戸っ子ならもっと強く在るべきです」
「ほんとう、君は母御にそっくりだねえ」
「先生はそう言われますが、僕にはよく分かりません」
父上と結ばれた母は身分が低かったらしく、しかも僕を産んですぐ亡くなったので、顔も知りませんし名前も教えてもらえません。
先生も死んだ母の知人だったらしいのですが、何度聞いても詳しい事は知らぬ存ぜぬです。
最も、僕は父上に対して思うところはありません。母が死んだ時、心無い中傷をたくさん受けながらも、それらを跳ねのけて僕を引き取ってくれたそうですから。
「小太郎君、無闇矢鱈に怒ってはいけないよ。怒りのエネルギィは、いざという時に爆発させるほうが有効なんだからね」
先生は指を立てて、穏やかで涼し気な声指導してくださいました。確かに仰る通りです。
先生は家令の勘蔵と親子なのですが、言うことも立ち居振る舞いもまるで似ていません。僕が馬乗りになっている間も、先生は一度も声を張りませんでした。床に転がった僕の杖を拾って、埃を払ってから握らせてくださいます。
先生のあり方は、僕がこうなりたいと思う大人そのものでした。ただ、
「無暗にカッカしている男は
「はあ」
「いつも言っているように、女の秘密を探るのも立派な学問の一つだ。乳首の大きさとか、乳房の柔らかさとかね」
などと、子供に向かって真剣な声を作って言うところは、いささか。
「先生は先生なのに破廉恥でいらっしゃいます」
「ははは……だから二十二にもなって独り身なのさ」
冗談めかした物言いですが、先生が方々の女性から好意を寄せられていることを僕は知っています。ただ噂では、心に決めた人がいるとか。
「さあ小太郎君、お昼を食べに行かないか。御馳走するよ」
「また〈竹むら〉の蕎麦ですか? お好きですね」
「うん、好きだよ。君と食べると余計にね」
僕と正之助先生の関係は、師弟と言うより歳の離れた兄と弟のようでした。先生のようになりたいと思うのは本当です。尊敬する気持ちに嘘はありません。
……ちょっとだけですよ。
本当にちょっぴりだけ、嘘です。
◆◆◆
ところで、正之助先生について特筆すべきはもう一つあります。それは
「お雪さん、最近噂の
「小太郎の前で物騒な話をするんじゃあないよ!」
お雪さんの怒声とともに蕎麦用の揚げザルが飛んできて、正之助先生の頭を直撃しました。あ、いや、しっかり受け止めていますね。さすがです。
ここは日本橋の蕎麦屋〈竹むら〉です。
昼時には早いせいか、他に客はいません。
「小太郎、お前も聞き耳を立てるんじゃない。何回言ったら分かるんだい?」
重々しい声が僕を叱責します。
「は、はい」
お雪さんに言われると何故だか背筋が震えます。怖いというより、とても
「ごめんなさい」
「それも何回聞いたっけね」
ため息をつくお雪さんは、この蕎麦屋〈竹むら〉の女将さんで、僕がもっと幼い頃からの知り合いです。
お歳は二十四、女将と言ってもまだ独り身で、先代の長兵衛さんが引退された跡を継いで店を切り盛りされています。ご自分でも料理や接客をなさいますが、お店を奉公人に任せて顔を見ない日もあります。
「もういいから、腹いっぱい蕎麦を食って塾に帰りな。ほら、お前の好きな稲荷寿司も付けてやるから」
お雪さんの稲荷寿司!
「やった! 大好きです、お雪さん!」
「はいはい、ほら、おいで」
とても幸せな気分になった僕は、いつものようにお雪さんの胸に飛び込んで頬ずりを致しました。彼女もぎゅっと抱きしめてくれます。
「…………」
「…………」
うず高く盛り上がった柔らかい胸元からは、出汁と蕎麦粉と椿油の匂いが致します。その下にもう一つ、店のどこにも無い匂いが混じっていて、僕はそれを知っている気がするのです。
それは遠い昔にお雪さんと遊んだ時の記憶なのか、それとも死んだ母の記憶なのか。
「お雪さん、いい匂いがする……」
「馬鹿だね、この子は」
そう言うとお雪さんは笑い声を漏らして、僕の額にそっと唇を押し当ててくださいました。鼓動が速くなり、思わず言ってしまいます。
「お雪さん、僕、大人になったらお雪さんをお嫁にもらってあげます」
「またそれかい、士族の子が馬鹿をお言いでないよ」
僕は僕なりに真剣なので、はぐらかされると悲しくなります。
「馬鹿ではありません、お雪さんを幸せにしたいんです。勉学も武芸も頑張って、立派な男になりますから」
「……あたしゃ今のままで十分、幸せだよ。お前には将来があるんだから、そんなことを軽々しく口にしちゃあいけない」
「どうして駄目なのですか? 僕が子供だからですか?」
「!!!」
子供と言った瞬間、お雪さんの心音が跳ね上がったのが分かりました。どうしてそんなに驚かれるのでしょうか?
「あ、あー。小太郎君、今日はその辺にしておきなさい」
離れて見ていた正之助先生が、何故か慌てた様子で間に割って入りました。どうしたのでしょう?
「いいから蕎麦をいただこう。あんまり遅くなっては午後の講義に差し支えるからね」
そう言われると急にお腹が空いてきましたので、僕らは大人しく昼食を取り始めました。
ああ、やっぱりここの蕎麦は最高です。僕は三度たぐって、汁まで飲み干してしまいました。稲荷寿司は、一つめを飲み込む前に指が二つめを探しています。
蕎麦湯をしみじみと味わっていると、向かいに座る正之助先生が
「お雪さん、あの人が戻ってくるのは十日後でしたね」
「ああ、まあね。亜米利加から船で直行らしいから、何日かずれるかもしれないけど」
あの人? 亜米利加?
「いつ打ち明けるので?」
「いつと言われてもねえ」
「もう、隠せませんよ。早いほうがいい」
「そりゃあ……分かってるんだけどねえ」
二人の物言いには、奥歯にものが挟まったような間があります。おまけに、言葉の切れ目のたびに声の当たる向きが変わるのです。二人とも、僕の方を向いています。
「あの人とは誰のことでしょうか?」
思い切って訊いてみました。すると返事の代わりに、二人が同時に息を吸う音がしたのです。一体どうしたというのでしょう。
その時でした。
「いま、帰ったぜ」
がらりと戸が開きました。入ってきたのは、日本橋のどこにも無い匂いです。花のようで、花よりも重く、鼻の奥に残ります。
「あっ……!」
お雪さんの、絞り出すような叫び声。
「義兄上、よりによって今ですか……」
先生の困り果てたような呟き。
「え、え……?」
わけが分からないでいる僕の耳と鼻に、その男が組み立てられていきます。
鬢付け油が濃く匂います。いまどき、髷を結っているのです。
歩くたび、腰で鞘と鞘が触れ合う音が二つ。大小を差しているようでした。
声の出どころは、父上より少し低い位置。歳は三十前くらいでしょうか。板の間の軋みは、体の重さのわりに短く途切れています。
「お雪…………!」
「あ、あに、じゃない、太一郎……!」
男はお雪さんを認めるや、急に余裕を失って真っすぐに彼女の方に向かいました。すごい勢いなのに、足音が小さいのが不思議です。
そして力強く抱きしめると、
「お雪、お雪、お雪…………!」
「太一郎、今はちょっとまず、んっ…………♡」
貪るように、唇を重ねました。
お雪さんは最初、僕の方へ体を向けようとしていました。衣擦れが二度、三度。それが止んで、お雪さんの足が、床を二度こすりました。それきり、動かなくなります。
されるがままになって、次第に自分から男の口を吸い返し始めたのです。
僕の優れた聴覚には、二人の激しい心音が重なって聞こえました。
──顔から、血の気が引いていきます。大好きなお雪さんが見も知らぬ男に唇を奪われ、しかもうっとりと接吻に応じているなんて……。
「義兄上、義姉上、見られておりますから、もうその辺で」
義兄上? 義姉上?
正之助先生がたしなめると、ようやく二人は顔を離しました。
それでも、男はお雪さんの背中に手を回して抱き寄せたまま離しません。お雪さんも抵抗せず、むしろ自分から身を寄せています。
「義兄上? まさか、正之助殿か? はははっ、ずいぶん背丈が伸びたもんだ」
どうやら、先生とは久しぶりに会ったのでしょうか。驚いた声に懐かしさと嬉しさが混じり合っておりました。
「すまなかった、つい気がはやってな」
「私は構いませんが、その」
「美樹は小野寺の家に戻ってるよ、後で会いに行くといい。今は何をしてるんだ?」
「洋学を教えながら犯罪研究をしております、それで義兄上、あのですね」
「そいつは立派になって! お雪との祝言には出てくれるんだろう?」
「義兄上聞いてください今はまずいんですよっ」
僕は叫びました。
「祝言っ? お雪さんとっ?」
ガタンと大きな音がして、気が付くと僕は床にひっくり返っていました。
祝言? それはつまり男と女が夫婦になること? 誰と誰が? お雪さんが? 誰と? 僕ではなくて? あの男と?
「う、う、う、うわぁぁぁぁぁぁん!!!」
あまりのことに泣き出す僕を見て、皆がぎょっとしています。
けれどそんなことはどうでも良いのです。大事なのは、お雪さんが見知らぬ男と夫婦になって、あんなふうに愛し合う仲になってしまうということで……
「ああぁ~ん!」
「おい、あの子は誰だ。正之助殿の弟子か何かか」
「……はあ……」
お雪さんのため息が聞こえた気がします。
「あのね太一郎。その子が、小太郎だよ」
「小太郎……そうか! お前が小太郎か!」
太一郎という男は突然叫ぶと、こちらにやってきました。
怖い。そう思いました。
あの男に捕まったら、九年間の人生が全く別のものに変わってしまいそうな、そんな予感がありました。
男の手が肩にかかります。
「ああ……小太郎! 会いたかったっ、分かるか、おれがお前のっ」
「うわあぁぁぁっ!」
僕は一目散に逃げ出しました。戸口に向かって一直線です。
「あっ、おい小太郎っ」
後ろから呼び止める声が聞こえしましたが無視です。戸を開けると往来に出ました。
通行人がびっくりしていましたが知ったこっちゃありません。ともかく、一刻も早くこの場から逃げ出したかったのです。
僕の人生を変えてしまう、あの男から逃げ出したかったのです。
◆◆◆
走って走って走り抜いて、足の裏が石畳から土に変わりました。返ってくる音がありません。僕の足音は、どこにも当たらずに消えていきます。
「あ、し、しまった……!」
僕は目が見えませんから、知らない場所、人のいない場所では簡単に迷ってしまうのです。物にぶつからず歩くことはできても、今どこにいて道の先がどこに繋がっているか、まるで分からないのです。
舌を鳴らしてみると、正面からは何も返らず、左右の高いところからだけ葉擦れが返ってきます。木立に囲まれた原っぱなのでしょう。ただ、どっちへ行けば日本橋に戻るのかすら分かりません。
途方に暮れた時でした。ふと香ばしい匂いが漂ってきたのです。
「嗅いだことのない匂いだ……!?!?!?」
いや、違います。今までは鴨の肉を焼くような匂いだったのが、急に腐りきった魚を焼くような耐え難い悪臭に変わったのです。
鼻を押さえながら慌てて辺りの音を聞くと、人の話し声がします。男の声が、二つ。
「くせえな、人の脳みそを焼く臭いってのはよ」
「まだあるんだ、とっとと埋めちまおうぜ」
死体を焼いて埋めているのです。思わず胃液が込み上げてきました。吐きたいのをこらえて立ち去ろうとした時です。
「そういやこのアマ、『お雪』っつったな」
心臓が止まりそうになりました。
「なかなかいい女
「ああ、乳も丸っこくて、いい声で泣いてよお」
まさか、こいつら?
『最近噂の拐かしの件、何か噂話は──』
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
お雪さんは、つい先程まで僕と一緒にいたのです。同名というだけで他の女性に違いありません。
「ああ、日本橋の蕎麦屋に同じ名前の女が……」
「あれも中々の上玉だったな、気が強くて……」
「ヤッちまうか? なあに、よがり薬で……」
「いいねえ、一通り愉しんでから金子を……」
殺してやる。
そう思った瞬間、腹の底が急に静かになりました。二人の息の数も、草を踏む間隔も、はっきり数えられます。
二人の声は途切れることなく続いています。僕が草を踏む音など全く気にする素振りもありません。
相当に油断しているようです。好都合です。
ここで殺ってやる……。
「ん?」
「どうしたんでえ」
あっ、気づかれ……。
(伏せろ)
(!?)
突然口元を塞がれ、草むらの中に押さえつけられます。
(っ…………)
(暴れるな、見つかる)
「いや、足音がしたような」
「兎かなんかだろ」
「ああ……捕まえて食うか」
「止めとけ、この金で牛鍋食いに行こうや」
男たちが遠ざかって行きます。
気配が完全に消えたところで、僕の口元を押さえていた手が離れていきました。
「──ぶはっ!」
「……よし、行ったようだな」
その声は、太一郎という男でした。尾けられていたのです。真っ白になっていた頭が、たちまち恐怖で塗りつぶされます。
しかし、彼が僕を助けてくれたことも事実です。ここはお礼を言わなくてはなりません。
「……あ、ありがとう」
恐る恐る顔を上げると、男は笑って首を横に振ったようです。
「ちゃんとお礼が言えて、いい子だ。偉いぞ」
そう言って僕の頭をぽんぽんと軽く叩きました。
するとなぜだか、握りしめていた手がひらいてしまいました。ひらいたことが悔しくて、僕は男の腕を払いのけたのです。
「子供扱いするなっ、僕はもう九歳だぞっ」
「そうかそうか」
男は楽しそうに笑います。それから急に真面目な気配を放ち、僕の肩に手を置いて言いました。
「あいつらを殺したいか」
一瞬のためらいもなく頷きます。
僕は本当に腹が立っているのです。お雪さんを汚そうとする男たちを許すわけにはいきません。
「あいつらは殺してもいい悪党だと思うか」
再び頷きました。肩に置かれた男の手が、一度だけ強くなって、それから力を無くします。
「さっきから何を」
「最後にもう一つ聞く。お前は命を奪うのが好きか」
「えっ……!」
なぜ知っているのでしょう。言葉に詰まった僕を見て、男が小さく息を吐くのが聞こえました。
そして少し躊躇うように、間を置いてから尋ねてきたのです。
「猫を殺したこと、あるか」
「……」
「まだか。ならニワトリかな。あれは狙いやすいし、いい声で鳴くからな」
「う、うう……」
まるで見てきたように言うのです。でも不思議と怖くはありませんでした。
それどころか──父上にも先生にもお雪さんにも言えなかったことを言い当てられて、なんだか気持ちが弾んだのです。
だからつい正直に答えてしまいました。
「うん、ある……百姓にお金を払って、絞めると、すごい声で、喉の奥がひゅうって鳴って、とても……」
「気持ちいいだろう」
「!! ……気持ち、良かった……」
口に出した途端、僕はとても
男は責めるでもなく、ただ僕の悩みを理解してくれていたからです。それが嬉しくてたまらなくて、涙が出そうになってしまいました。
「泣かなくていい。おれにはお前の悩みがよく分かる」
男はそっと呟きました。そこには何の感情も伺えません。……いえ、色々な感情が渦巻いていて、僕には理解ができないだけなのかもしれません。
でも今の僕にとって、そんなことはどうでもよく思えます。男に対して抱いていた警戒心も薄れていました。
「立て。おれが、お前に人の殺し方を教えてやる」
僕は、首を縦に振りました。
◆◆◆
男は、信じられないような強さでした。
二人の悪党を音も立てずに追跡すると、気づいた時には一人の首を折って殺していたのです。
もう一人の悪党もあっという間に地面へねじ伏せて、汗一つかいていません。
「あっ、あががっ……!」
「貴様、連続拐かしの下手人だな。女を次々さらっては薬を飲ませて犯し、金を奪って殺している」
「金ならやるっ! 頼むっ、見逃してくれっ!」
「ま、今更おれが出張る事でもないんだが……」
ごきんと音がして、男が掴んでいた悪党の右腕が折られたようです。
「ひぎゃあああぁぁあっ!」
「……おれの女房を狙うと言った以上、そう易々と見逃すわけにはいかないな」
そう言って太一郎は、ぽきりと、悪党の右人差し指を折りました。
「たっ! たっ、助けてくれっ!」
悪党の絶叫を無視して今度は中指を掴みます。
「洗いざらい吐きな。縄張り、仲間の居場所、薬の入手先、拐かしの計画、その他諸々全部だ」
「そっ、それは……」
ぼぎんっと嫌な音が響きます。二本折られて苦痛に呻く悪党に対し、なおも太一郎は冷たく告げます。
「おれは気が短い方じゃないつもりだが、指は手足に五本ずつしか生えてないんだぜ」
「話すっ! 話します!!」
「妙に聞き分けがいいな。念のため薬指もいっとくか?」
ひいっと情けない声を上げて、悪党が語り始めました。
それは僕も聞いていて気分が悪くなる悪事の数々でしたが、それでも必死に耳をそばだてます。
太一郎から少しでも多くを学び取りたかったのです。
「これで全てだな」
「はいっ、間違いありません!」
「分かった。……小太郎」
太一郎は僕を手招きしました。おずおずと近づくと、彼は僕に脇差しの柄を握らせました。
「抜いてみろ」
「はい」
言われるままに抜刀します。すらりと、鞘走りの音。重いです。初めて持つ真剣でした。
「上手だ。では次に、心ノ臓の真上に切っ先を当てて……そう、そこだ」
言われた通りにしました。手は少し震えていますが、力まず悪党の背中に刃を当てることができたと思います。……大丈夫でしょうか?
「後は体重を乗せて突くだけだが……ゆっくりやるんだ。いいな」
突けば、この悪党は絶命します。僕にとっては初めての人殺しです。
「はっ、はっ、はっ、はっ──」
心臓が早鐘のように鳴っているのを感じます。呼吸が苦しいです。
ですが止めようとは思いません。このまま押し込みたい、突きたいという思いでいっぱいです。体が熱いです。
「や、や、や、止めろっ、話したっ、ぜんぶ喋ったじゃないかああっ!」
女を拐い、薬を飲ませて凌辱し、挙げ句金品を奪って殺してきた悪党が何か喚いています。
「助けるなんて一言も言ってないぜ」
太一郎の声には少しの動揺もなく、彼がこれまでどれほど人を殺めてきたか想像させます。
それはどれほど、気持ちの良い殺しだったのでしょう。
指示通り、ゆっくりと刺していきます。鋭く研がれた刃先は悪党の着物を貫き、肌に刺さりました。
「たすけたすけたすけてええぇぇええぇぇ!」
泣き叫ぶ声に合わせて肉が裂けていく感触が伝わってきます。でも大人の筋肉は思っていたより固く、中々貫通しません。
「そういう時は、焦らずに一度力を抜くんだ。そうすると肉の方も柔らかくなって一気に刺さるようになる」
太一郎の指示通りに脱力すると、ズブっと深く刺さっていく感覚がありました。
「もう少し刺して……」
「はい、こ、これくらいですか」
「そう、上手だ。そこで止めなさい」
「いやだぁぁぁぁ……!」
刀は男の体に埋まっていき、血管を傷つけたのか血の臭いが濃くなりました。呻きに泡の音が混じり始め、血の匂いに小便の匂いが重なります。タスケテタスケテ、と繰り返す声が、だんだんと、短く……。
もう少しでこいつは死ぬ。そう思うと、僕は目眩がしそうなほど興奮して、さらに力を込めようとしたのです。
「待て」
そんな僕を制止したのは、他ならぬ太一郎でした。
「どうして止めるんですか」
僕は思わず声を荒げてしまいます。
この男を殺せば、お雪さんは守られるのです。
僕の手で、悪党を殺すことができるのです。
なのに何故邪魔するのですか……!
僕の不満を察したのか、太一郎は苦笑しながら言いました。
「殺す前に、お前が一つ学ばなければならない事がある」
「……何を学ぶっていうんです」
「我慢だ。誰を殺すか、いつ殺すか、どう殺すか、どこで殺すか、なぜ殺すか……どんな時でも、殺したい気持ちをぐっとこらえて、色んなことを考えてから殺さないとな」
僕がぽかんと口を開けていると、太一郎はまた笑って続けます。
「お前は今、こいつを殺してやりたいと思っているだろう?」
頷くほかありません。その通りですから。
「でも、その理由がなんなのか……お雪を守りたいからか。それとも、お前が殺してみたいだけなのか……」
「……それは」
そんな事、分けて考えられるものなんでしょうか。
太一郎はそんな僕を見て、優しく諭すように語りかけてきます。まるで子供に教え説くような口調です。
「分からないなら、それが答えでいいんだ。ただ、考えなしに人を殺しちゃいけないって事だけは覚えておくといい」
そう言って太一郎は、脇差しから僕の手を払い除け、自分の手で悪党の胸に貫き通しました。
血が噴き出し、彼の死を告げます。
「ふぅーっ……♥」
「……あ、はっ♥」
途端に力が抜けてしまいました。その場に座り込む僕を見て、太一郎は静かに言います。
「どうだ、人の死は。美しいだろう」
僕は何も言えませんでした。代わりに頷いたような気がします。僕の
「お前はいつか、自分の手で人を殺す。それはきっと避けられない。でもその時は、決して衝動に身を任せるなよ」
僕は頷きました。それしかできません。自分の鼓動が耳の奥で聞こえます。唇に生温かいものが垂れてきて、鉄の味がしました。鼻血です。
太一郎の鼓動も、僕と同じく興奮で早くなっているのが聞こえます。その音は、僕の鼓動と合わさり響き合います。
僕はやっと、気づきました。
「あなたは、僕の……父、なのですか」
「そうだ。初めまして、小太郎」
槍を持った何者かが拐かしの組織を皆殺しにしたのは、その夜のことだったそうです。
◆◆◆
あっという間に冬になり、本多の屋敷には初雪が舞い始めていました。
今日は太一郎とお雪さん……いえ、僕の両親が祝言を挙げる日です。
「よう似合うぞ、小太郎」
「そうですか」
背中に本多家が使う立ち葵の家紋を大きく染め抜いた正装。
僕の姿に、父上あらため、祖父の忠興が満足げに笑いかけます。
「僕には見えませんし、なんでも良いのですが」
「そう言うな。今日はわしの人生で最も喜ばしい日なのだ。老い先短い身、冥土への土産とさせてくれ」
「ち……ではなく、お爺様はまだ四十一ではありませんか。この先いくらでもいい事がありますよ」
お爺様は目を細め、まだまだ皺もない大きな手で頭を撫でつけてくれます。少しくすぐったいけれど、とても嬉しいです。
「そうじゃな。まずはお前の弟か妹じゃ。それから、お前の元服に、祝言……楽しみなことばかりだわい」
お爺様の嬉しそうな声につられて僕も笑います。
少しして、背後から母が近付いてくる気配がしました。
「馬子にも衣装ってね。どうでえ、お
「…………美しい。見事じゃ、お雪、わし、わしは、お主ほど美しい女子は他に知らぬ……!」
お爺様は感極まった声で言うと、目元に浮かんだ涙を拭います。母上の花嫁姿は本当に綺麗なのでしょう。願わくば僕も、その美しさを共有したかったです。
「よく言うよ。手前味噌って言葉、知ってるかい?」
そうは言うものの、母は照れたように身をくねらせ、鼓動を早くしています。本当に母に似合わぬ可愛らしい仕草です。
「おや小太郎、お前はなにを膨れっ面してるんだい?」
「別になんでもないです」
「なんでもなかったらそんな不細工な顔はできないよ」
「……だって母上、父上と婚礼をするのでしょう」
「今更なに言ってんだい。親父に焼き餅焼くんじゃないよ」
「そうではなく! ……父上には他に三人も妻がいて、僕は突然十二人も兄弟ができたんですよ!」
そう。そうなのです。一時は尊敬できると思った父は、実はとんでもない好色漢だったのです。
兄と姉と弟と妹、合わせて十二人を紹介された時の衝撃たるや……!
「まあ確かにそうだね。ひでえ男だよ全く」
「うぐっ」
あっさり肯定されて、しまったと思いました。
僕がどう思おうと、二人は十年も離れ離れだったのです。母の口から言わせるべきではありませんでした。
「何がうぐぅだい、馬鹿だねこの子は!」
しかし母は怒るどころかケラケラ笑いながら、僕を抱きしめてくれました。抱きしめる腕の力は、〈竹むら〉の頃と同じです。違うのは、着物が絹で滑ることと、僕がこの人を母上と呼んでいいことだけ。
着物越しに感じる母の体は細くて柔らかくて暖かくていい匂いがして……とにかく最高の気分です。
こんな素晴らしいものを独占していたとは、我が父ながら憎らしいです。いや羨ましい……?
「お雪、せっかくの白無垢が乱れるではないか」
「いいんだよ、着物なんか着なおしゃあ。母親として堂々と小太郎を抱ける方がよっぽど大事!」
僕は母の声に聞き入りました。今まで聞いたことがないほど晴れやかで、たまらなく嬉しいらしく、幸せそうで。
「さあて、あたしも人生の裏道からは引退だ。これからはお前の弟や妹をばんばん産んで、しっかり育ててやらにゃあならんからね」
ふと気付くと、お爺様が泣いていました。涙もろくてちょっと恥ずかしいけど、気持ちは分かります。
だから次の言葉は、すらすらと出てきたんです。
「母上、どうか父上とお幸せに」
「ありがとう、小太郎」
「あと僕は妹を希望します。同じ家族がいる幸せなら、
「現金な奴だね、お前は。どっちに似たんだい」
「さあ、父上じゃないですかね」
僕は母の手を取り、父の下へ向かいました。
母は、僕に呆れた顔を向けているのでしょうか。
それとも父を想って笑顔なのでしょうか。
僕には見ることができません。
それでも、僕は自分が幸せな人間だと信じます。
だって、家族の愛に包まれていますから。
◆大江戸捜査網
ハーレム・サムライ◆
完
最後まで読んでいただき、本当に、本当にありがとうございました。
筆力も拙く投下間隔も維持できず、後悔も多い作品ですが、それでも初めて長編を完結させることができ、感無量です。
土曜日あたりにageを兼ねてあとがきを投下しますので、あしからずご了承ください。
重ね重ね、読んでいただき、ありがとうございました。
厚く御礼申し上げます。
令和4年11月29日 a-su