江戸の町を、義賊・二代目鼠小僧が騒がせていた。
一方、太一郎は畜生働きをするニセ鼠小僧の一味を追い、その過程で二代目鼠小僧・お英と協力関係を結ぶ。
群衆の前で一芝居を打った太一郎たちは、見事ニセ鼠小僧どもを成敗する。
お英は太一郎を慕うようになり、義賊を続けながら、ジェニファーの診療所で暮らすようになったのだ。
Aパート
梅雨の季節になると、蕎麦は不味くなる。湿気で蕎麦粉が痛みやすくなるからだ。日本橋の蕎麦屋「竹むら」の店主、長兵衛にとってはまことに憂鬱な季節だ。
その日も朝から雨だった。昼時になっても客足は少なく、暇を持て余して店の隅に腰掛けていた長兵衛の前に、看板娘のお雪が茶を持って現れた。
「おやじさん、今日は閑古鳥かね」
まだ十四歳であるが、整った顔立ちの美しい少女である。さらりと流れる黒髪は、背中の中ほどまで伸びており、それを後ろで束ねている。
旗本の本多様が〈くれぐれも〉と念を押して長兵衛に預けた少女だが、口の悪いことを除けば気立てが良く働き者で、今ではすっかり店の娘のように馴染んでいる。
「ああ、まったくだよ。こりゃあ今日はもう駄目かも知れねぇなぁ」
「まあまあ、そう腐らなくてもさ」
お雪は湯飲みを置くと、長兵衛が膝の上に広げている本を覗き込んで言った。
「何読んでるんだい、おやじさん」
「これかい? この頃うわさの『
「なんだいそれ。『好色絢爛女』って、『好色一代男』とは違うのかい」
お雪と言えど、『好色一代男』の題名くらいは知っている。元禄期に井原西鶴が書いた浮世草子の嚆矢だ。主人公・世之介の好色遍歴をその生涯に渡って描いた一代記で、愛欲を肯定的に捉えた点で評価が高い。
だが、『好色絢爛女』なぞ聞いたことがない。長兵衛が言うには、これは武家に生まれながら多数の男と交わることになった女の物語らしい。
「なんだか面白そうだな。あたしも読もうっと」
「お前さんにはまだ早えよ」
長兵衛は本のある部分をちらりと見せた。
「うおっ……!?」
お雪が素っ頓狂な声を出す。その
「……!? ……お、おやじさん、こんな絵があるなんて聞いてないよ!」
「そりゃあ、今初めて出したからな」
長兵衛は笑って本を閉じた。
「どうだい、凄まじいだろう? この話に出てくる〈あい〉って娘は、ただの娘じゃない。どんな男も手玉にとって、思うままに操るんだ。まるで天狗の妖術みてぇなもんさ」
お雪は目を白黒させている。
「……な、なんで〈あい〉はそんな女になったんだ? 武家の娘が、どうして?」
「そいつは……まあ、実際読んでのお楽しみだ。お前さんが嫁入りする時、こいつを貸してやるよ」
「こ、子供扱いしないでくれよ!」
長兵衛から見てお雪は孫ほどの歳の差が開いているのだが、そのせいもあってか妙に可愛らしく感じてしまうことがある。ついつい構わずにはいられないのだ。
「あのね、親父さん。あたしゃ……」
「お雪ちゃん、いるかい」
暖簾をくぐって入ってきたのは、いかにも「洒落者」という羽織袴を粋に着こなした若い侍だった。
◆大江戸捜査網
ハーレム・サムライ◆
第三回 お雪の艶本
「あっ、太一郎兄貴!」
お雪の顔がぱっと明るくなった。
長兵衛にお雪を預けた本多左門守忠興の家臣である
「これはどうも、出楠様。いらっしゃいませ」
「おう、相変わらず元気そうだな。長兵衛、
「へい! 少々お待ちを」
太一郎はお雪より四つほど歳上なだけで、長兵衛からすれば若造と言っても良いが、れっきとした
最も、お雪は全く気にしていないようだ。
「兄貴、今日は雨だねぇ。お客もろくに来ねえや」
「一月もすりゃあ新蕎麦が出回って、飯も食えねえ忙しさになるんだろう。今日は俺がいるからいいじゃねえか。お雪ちゃん、お相手してくれるかい」
「え〜、太一郎兄貴の相手をするのかい」
「なんだよ、嫌なのかよ」
じゃれ合う二人を見ながら、長兵衛は蕎麦を茹で始めた。小鍋に胡麻の油を入れて火にかけ、熱々にしておく。すりおろした生姜と斜め切りにした葱を熱いかけ蕎麦の上に乗せたら、熱した胡麻の油を回しかける。ジュッという音とともに、食欲をそそる香りが、店の中に立ち込めてきた。
長兵衛が手早く南蛮そばをこさえている間に、二人は会話を続けていた。
「ところでお雪ちゃん、長兵衛のおやじさんと何の話をしてたんだい」
「えっ!? あー、いや、ちょっと貸本の話をね……。何が流行りだとか、どこの版元がどうしたとか、そんな話さ」
しどろもどろになったお雪を、太一郎は不思議そうに見た。
「お待ちどうさま、南蛮そばでございます」
そこへ長兵衛が割り込んで、南蛮そばを太一郎の前に置いた。
「ありがとよ、長兵衛。……おっ、こりゃ美味そうだ」
長兵衛自慢の南蛮そばは、太一郎の好物だ。胡麻油の風味を嫌う客も少なくはないが、太一郎は若いせいか油のコクを好んでいた。
「美味い……。やっぱりこれだよ、南蛮そばは「竹むら」に限る」
「大げさでございますよ、目黒のさんまじゃないんですから」
あっという間に南蛮そばを平らげた太一郎に、お雪がじゃれつくようにして言った。
「兄貴、今日は稲荷寿司もあるんだけど、食べてってくれない?」
「稲荷? そばを食う前に言ってくれよ。まあ、腹には入るが」
「あの、実はさ……」
お雪は少し恥ずかしそうな顔になって、声を潜めた。
「あの……」
「出楠様、今日の稲荷寿司はお雪が握ったんですよ。お代はいりませんから、召し上がってください」
長兵衛が助け舟を出した。
「お、そりゃあいいなぁ。それなら遠慮なくご馳走になろうかな」
太一郎もすぐに気を取り直し、お雪が差し出した稲荷寿司の皿を受け取った。
「どうぞ、めしあがれ」
「うん……うまい。この酢飯の加減が良い塩梅だぜ。お雪ちゃんも成長したなあ」
「えへへ、そんなに褒めても何も出やしねえよ」
太一郎の言葉に、お雪は顔を赤らめて喜んでいる。長兵衛はそれを眺めながら、心の中で呟く。
(やれやれ、お雪も色気づく歳か)
二人の関係を知っているだけに、長兵衛は複雑な気持ちだった。
この長兵衛、元は北町奉行所の同心に仕える岡っ引きであった。女房が死んだのを切っ掛けに引退して蕎麦屋の亭主になり、今は日本橋の「竹むら」を切り盛りしている。
お雪と太一郎が、御公儀から何らかのお役目を受けていることも承知している。太一郎が妻帯者で、余所に
太一郎とお雪は命がかかった役目によって結び付けられているのであって、そこに情愛を持ち込むのは危険でさえあると長兵衛は思っていた。だから、ほんのりと赤らんだお雪の顔を見ていると、憂鬱な気分になる。
それに、太一郎を見ていると、〈岡っ引きの勘〉が、何故か警鐘を鳴らす。
──血生臭いのだ。あの男、何かある。
◆◆◆
日が落ち始めると、ぽつぽつと飲みの客が入りだした。
一口に江戸の蕎麦屋と言っても、業態は色々だ。立ち食いの屋台もあれば「竹むら」のように酒を出し、歓談に使われる蕎麦屋もある。
「おい、蒲鉾とだし巻きをくれ」
「こっちは酒だ」
お雪は、店内を独楽ねずみのようにくるくる動き回って注文を取り、料理を運ぶ。長兵衛は、ひたすら蕎麦を切り、茹でては盛り付けている。
「へい、お待ち!」
「おう、すまねえ。あと、蕎麦味噌も追加してくれ」
「はい、ただいま!」
「お雪ちゃん、元気があっていいなぁ!」
常連の一人が笑いながら言うと、他の連中も笑った。
お雪はニッカリと笑う。蒸し暑い時期だから、お雪の肌にも汗が浮かぶ。その笑顔の眩しさに、皆が思わず目を細めた。
「なあに、このくらいでちょうどいいさ。おっと、そちらさんの蕎麦湯を忘れちゃいけねえや。さ、これを飲んで
常連たちはお雪を見守りつつ、「竹むら」の名物である
「お雪ちゃんも娘らしくなったな」
「ああ、すっかり看板娘が板についたな。あとは言葉遣いがなあ……」
「そう言うなって。〈俺〉が直っただけでも上出来じゃねえか。もう一人の女中は縁談が決まったらしいが、これで長兵衛親分も安心だろう」
常連たちは酒を飲み、蕎麦を食い、蕎麦湯を飲んで帰っていった。
「ふーい……おやじさん、全員帰ったよ」
「ご苦労さん。晩飯にしようや」
「やった!」
お雪が歓声を上げ、厨房へ駆け込んでいく。賄いは蕎麦がきと葱をたっぷり浮かべ、井戸水で冷やした汁だ。蕎麦屋だけあって、鰹の出汁がよく効いている。
「んん~、美味え! やっぱり夏は冷やし南蛮だよなあ」
そう言って、お雪は二杯目に取りかかった。
一緒に席に着いていた長兵衛は、早々に食べ終わって何かを読んでいる。
「また『好色絢爛女』かい? 飽きないね、おやじさんも」
「おいおい、お雪みてえな若え娘っ子には早えって言ったじゃねえか。こんな
お雪は頬を赤らめて答えた。
「なっ、なあに言ってんだよ! あたしゃ別にそんなつもりじゃ……ただ、〈あい〉っていう人はどんな人だったのかと思って……」
「そうか、まあそういうことにしておくけどよ。それにしても、お前さんも年頃だしなぁ。こういうことが気になるのも無理はねぇわな。うん」
「うぐ……。だから、別にそんなんじゃないってば……」
お雪は真っ赤になって抗議するが、長兵衛は取り合わない。
「へいへい、悪かったよ。そんじゃ暖簾を下ろしてくれや」
「ふん、わかればいいんだよ」
お雪はぷりぷりしながら店の外へ出て行こうとする。あっ、と言ったのは、ちょうど二人の客が入ってくるところに出くわしたからである。
「女中、かけ蕎麦を二つ頼む」
そう言ったのは、浪人風の男だった。白髪交じりの髭面だが、背筋はしゃんとしている。
「ああ……お侍様、もう店じまいなんだよ。また明日にでも来てくんな」
お雪が答えると、男は口をへの字に曲げた。
「贅沢は言わぬ。茹で置きでよいから、蕎麦を頼む。腹が空いて死にそうなのだ」
「そうかい、それはご愁傷さまで……なあおやじさん、茹で置きでいいってさ」
「茹で置きでいいってお前、かまどの火は落としちまったぞ。蕎麦屋がぬるい茹で置きなんか客に出せるわけねえだろ」
「む……そうか、火がないのか」
諦めかけた浪人の後ろから、もう一人が顔を出した。
「……申し訳ありません。お腹が空いているのはわたしなんです。ぬるくて構いませんから、お蕎麦をお願いできますか……」
女だった。何も特徴がなく、記憶に残らない女だった。
女が、眉の上に指を当て、横にすっと動かす。同時に頭をほんのすこしだけ下げる。
──
かんざしの鈴が鳴った。
「……………………………………ああ、はい、蕎麦屋ですから、蕎麦をお出しするのは当たり前のことで……へえ……席でお待ち下さい……」
長兵衛がふらふらと店の奥に消える。
「ありがとうございます。あなた、座りましょう」
女が男の手をひく。
「う、うむ」
夫婦と思しき客は座敷に上がった。お雪は、じっと女を見ていた。
髪……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
眉……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
目……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
鼻……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
口……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
頬……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
耳……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
身体……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
着物……何も特徴がない。記憶すべきことはない。
「……何も特徴がない。記憶すべきことはない……」
気がつくと、お雪は蕎麦を客に運んでいた。
「どうぞ、井戸で冷やした汁を使った
「おお、これはありがたい。では早速頂こう」
男が箸を取り、蕎麦をすすり始める。
「うん、うまい! こりゃあ、今まで食べた中でいちばんおいしい蕎麦だ」
「ええ、本当に」
女も相槌を打つ。動作にも言葉にも、何も異常はない。
「……あら? これは『好色絢爛女』……?」
女が本を手に取る。
「あ、あぁ……すみません、おやじさんの本でして……今片付けますので」
「いえ、気になさらず。面白い話ですね。特に〈あい〉という娘がとても魅力的で……少し読んだだけですが、どんどん引き込まれてしまいました。あの〈あい〉の妖術は、どうやったのでしょうね」
「さ、さあ……?」
お雪は困惑した。
この…………………………………………………………〈気をしっかり持て〉……特徴のな〈そうではない〉い女は、どうしてそんな話をす〈忘れるな〉るのだろう。
「ねえお雪さん、貴方は〈あい〉のようになってはいけませんよ。多くの殿方に抱かれても、女にとって良いことは一つもないのです。愛されることを夢見るより、愛することを心掛けなさい」
「はあ……そうします」
お雪は、適当に返事をした。二人は蕎麦の代金を払い、心付けを渡して去っていった。
「……あたしが見たものはなんだったんだろう」
お雪は、蕎麦屋の看板娘であり、悪を討つ隠密同心だ。客の顔を覚えるのは得意な方だ。しかし、女の顔は思い出せなかった。声さえ覚えていない。
ただ、特徴がな
〈そうではない〉
いと
〈騙されるな〉
いうことだけは、は
〈気をしっかり持て〉
っきりとわかった。
〈お雪さん、貴方は〈あい〉のようになってはいけませんよ〉
……そう言えば、名前を名乗っただろうか。お雪は腕組みをして考えたが、答えは出なかった。
◆◆◆
暖簾を下ろし片付けをすると、長兵衛はぼんやりしたまま自分の長屋に戻った。
お雪は「竹むら」の戸に心張棒をかけると、蝋燭を持って二階に上がる。実のところ、この「竹むら」の二階にある一間が、お雪の住まいとなっているのだ。
着替えたお雪は、布団に入って横になった。そして、蝋燭の明かりで本を読み出した。長兵衛が忘れていった『好色絢爛女』である。
「……〈あい〉は武家に生まれて、物心付く前に両親を亡くし、乳母が育ててくれたのか」
乳母は言った。
『あなたはお父上から才能を受け継いでおられます。言葉ではなく、身体で嘘をつくことができるのです』と。
それは危険すぎる才能だと、お雪は思った。身体は、言葉と違って封じ込めるわけにはいかない。いつも心と共にあるものだ。その体が嘘を付きだしたら、心はどうなるのか。
乳母の言ったとおり、〈あい〉は目線一つ、指先一つ、吐息一つで男の心を操ることができた。女もだ。男も女も皆、〈あい〉に夢中になり、金を出した。そうした環境にいれば、〈あい〉が早くから色事を知ったのもうなずける。〈あい〉は多くの男たち、女たちから愛された。その様子は、写実的な絵で生々しく描かれていた。
お雪は、自分が〈あい〉になるところを想像した。多くの男と女が群がり、自分に愛されようと必死になっている。自分は、たくさんの愛に囲まれて幸せに暮らす。ぞくっとした。
(あたしは、何を考えていたんだろ?)
お雪は、次の項に進んだ。
多くの愛を得た〈あい〉。しかし、〈あい〉は誰も愛さなかった。愛の主体となる自分というものがわからなかったからだ。誰をも騙す〈あい〉の肉体は、やはり彼女自身の心さえも騙し、その有り様を歪めていた。
「……うぅ」
お雪は、眉間にシワを寄せた。いつの間にか、お雪は〈あい〉に感情移入してしまっていた。
お雪には、親がない。
長兵衛は親身になってくれるが、立場は後見人だ。店の常連やお役目で会う人々にも、お雪は本当の姿を偽っている。お雪の全てを理解してくれる者は一人としていない。
いや……
(太一郎兄貴……)
太一郎は、蕎麦屋のお雪も、隠密のお雪も知っている。その上で、自分を妹のように可愛がっている。
(と、思うけど……でも、兄貴にはお
「あたしって、本当に寂しい奴だなぁ……」
お雪は、ぽつりと言った。
〈まったく、お前ってやつは〉
太一郎の声が聞こえたような気がしたが、それは空耳だったようだ。
お雪は、再び本の続きを読むことにした。
〈あい〉は、決して人を好きにならない。誰かを愛することもない。自分さえ自分に騙されているのだから当然だ。〈あい〉を救う誰かが現れて欲しいと願いながら項をめくり続ける。しかし、最後まで現れることはなかった。
〈あい〉は最後まで愛を知ることができなかったが、眩いような性の悦楽を体験していくことになる。それを知ることで、自分の心が救われると勘違いした結果だった。『好色絢爛女』は、心の歪んだ女が、それゆえに悦楽を求める姿を克明に描き出していた。
いつの間にかお雪は、布団の中で股間を弄っていた。お雪の身体は〈あい〉に比べればずっと素直だというだけで、年頃の娘が艶本に触れたのだから自慰くらいは自然な結果だ。しかし、お雪は自分が〈あい〉と一体化したような錯覚を覚えていた。
寝巻きの中に手を入れ、乳房を揉み、乳首を摘む。そして、指をお腹から下腹部へと滑らせていく。
「ああっ……」
口から甘い声が漏れた。右手は、陰毛の生え際で止まった。そこは、まだ幼い性器だ。おっかなびっくりで中指を這わせた。
「ふぅん……んっ」
〈あい〉の身体は、濡れやすい体質だった。それが〈あい〉が男を欺くために選んだ道だとしたら、なんとも皮肉な話だが……。お雪の身体も、すでに潤んでいた。左手で胸を撫で回しながら、右手の中指をほんの少しだけ秘裂に差し込んだ。
「痛っ……」
怖くなって、秘裂の周辺だけを刺激し始めた。
「ああっ……あたしのアソコ、こんなにビショビショになってる……」
声が上ずって、お雪は無意識のうちに腰を動かし始めた。快感を求めてというよりは、何かにすがるような動きだ。暗闇の中、蝋燭一本の明かりだけが浮かび上がり、布団の中から漏れ出る息遣いだけが聞こえる。
「んん……誰か……怖いよ…………気持ちいいの、もっと欲しいよう……助けてえ……」
両手で乳房を強く掴んだ。乳首が固く尖っている。
「あう……誰か……あたし、寂しいのに、気持ちいいよぉ」
さらに激しく秘部を擦り上げ続ける。お雪は、目を閉じて〈あい〉になりきった。涙が溢れてくる。
「ああん……ああん……いやだよぅ……ひとりはもう嫌ぁ……寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しいよぅ……」
その瞬間、絶頂に達した。
「く、ぅ……っ!…………ん、ぁ、ぁぁっ!」
お雪の手の動きは止まらなかった。むしろ激しさを増していった。そして涙も止まらない。動きが激しくなるにつれて、蝋燭の小さな炎が大きく揺れ動く。お雪は、まるで闇に潜む何者かが、自分の痴態をじっと見つめているかのような気分になった。
「うう……やだあ……怖い……助けてぇ」
お雪は、恐怖から逃れようと、さらに激しく動いた。
「ああっ! ああ……っ! ううっ、ぐすっ、うあっ、あぁっ……」
再び強烈な快感が訪れた。お雪は、二度目の絶頂を迎えた。今度は意識を失ってしまいそうだった。
(こんなこと、しちゃいけない)
乱れ切った呼吸を整えながら、お雪は自分の浅ましさを恥じた。
涙がこぼれ落ちている。〈あい〉は、こんなときどうするだろう? お雪には、わからない。〈あい〉のように自分を騙すこともできない。
「うう……助……けてよぉ……太一郎兄貴ぃ……………………うおっ!?」
お雪は、ガバっと起き上がった。息を荒げながら、自分の指を見詰めている。
「なんなんだよ、これぇ!」
お雪は思いっきり叫んだ。飛ぶように一階に降り、「竹むら」の戸を開けて、釣瓶井戸から汲んだ水を思い切り頭からかぶった。
「冷たっ…………!」
そして荒くなった息を整えながら、「ちぇ」と言った。
「こんなときに兄貴の顔を思い浮かべるなんて卑怯だぜ、あたし……」
冷たい水が心地よい。お雪は、そのまましばらく動けなかった。
(続く)