『…………』
氷と風。吹き荒び、輝く白の世界さえもが暗きに呑み込まれる真夜中の丘陵。
雪の中──
雪より白く、そして滑らかな腕。
命とともに沈みゆく少女の腕だけが、ただ一人の男の黒い瞳に映し出されていた。
吹雪く雪粒に黒髪を乱れさせたまま、己に向かって伸びる手を見下ろしながら……”賢者”は短杖を横に薙ぎ、そして大量の空気が流れ出すような音が辺りに轟く。
空気も煌めきを放つ凍てつきの中で──男の魔術は辺りに積もる積雪を、魔力の波で吹き飛ばした。
◼️◼️◼️
「う」
その掠れた音は。
小さく柔らかな喉を空気と共に押し分けて漏れ出し、すぐに暖炉の立てるパチパチとした響きに掻き消された。
くりくりと眼筋の巡る感触を自覚しながらぼやけた視界を動かす中で──ぱたん、と。書物を閉じる音がその耳朶を打つ。
「目が覚めたか」
男は、光のない瞳で少女を見下ろした。
首から下を覆う黒づくめの衣装。革の装丁を膝上に乗せて手袋越しに撫ぜる動作はどことない疲労の積もりを感じさせた。腰を浮かすことなく、ゴロ…と両脇の車輪を回して少女の側に己を運ぶ様子から、体の不自由な人間であるということが明らかだった。
そんな男のなりをしばらく眺め。しかしその少女は、どうやらまともな思考をしていないようだった。
雪より白く、そして滑らかな肌。
息を呑むような儚さ、とでも表現できるだろうか。だがそんな異質な質感の印象と相反するような、くすみ傷んだホワイトブロンドの髪と、濁りの混じる紫色の瞳からは、脆さと虚弱しか感じられなかった。
辺りを見ているようで、同時に何も考えていないかのような目──そんな顔が、あるものを視界に捉えた、ふとした一瞬を境にみるみると歪んでいく。
「あ……」
「これか? 情けない事だが、此処の所、皮膚の感覚があまり無くてな。どこかに引っ掛けてしまったようだ」
手袋に覆われた、本を抱える手とは逆の手の、包帯の巻かれた部分。男の親指の付け根、水かき部分からじんわりと血が滲んでいた。
「私の病だ、そういう物なんだ。気にするな……いや、気になるか?」
青い顔をする少女に──表情の読めない男は、怪我をしたその手を差し出して見せた。
少女はそれを見た。
男も、その様子をじっと見た。
僅かな時間。
動きが止まる。
「気持ち悪い……」
「む」
「いや、違うの……気分が……」
はあはあと息を荒くし、汗を滲ませはじめた少女の様子をそのまましばらく見つめていた男は──ふっと目を伏せて手を引き、包帯の上から手袋を付け直す。
「すまなかった。不要な刺激を与えたな」
「はあ、はあ……」
「口を開けなさい。落ち着いて喉を動かして、ゆっくり……」
軽く姿勢を起こさせ、透明な水の入った吸い飲みを咥えるようにし、こくこくと喉に流し込む。ひとしきり息を吐かせた後、男は清潔で柔らかな布を出しては少女の体の汗を丁寧に拭っていった。
水に薬が入っていたのか、少女の様子は緩やかに落ち着いていくようだった。潤んだ視界の中で自らが見上げる男の顔を見て──少女は、浅く意識を沈めていった。
数十分ほど意識を落としたあと、徐々に覚醒する少女が耳にしたのはさらさらと文字を書く音だった。机に向かい何かしらを記す男の背中に、少女はごく短な呼びかけをした。
「ねえ……」
「ああ」
「あなたは」
「聞かれた以上はあまり答えたい問いではないし、今の君に必要だとも思えない」
「
「……ん…………」
「何だと思う。わたしは何で、何のために、ここにいるのか、息をしているのか。
男は視線を寄越し、次に車椅子を動かして少女の方向に体を向けた。
「私の考えを言わせてもらうが」
「うん……」
「それが君に許されない事である筈は無い。
この世の誰も、理不尽に妨げられ、自由を奪われることなんてあってはならないんだ。
そんな世界に君のような者たちを残して行かないために、私は生きて、旅をしている。
そう言い放った車椅子の男は、体を乗り出して顔の前で指を組み、真っ直ぐな目で少女を見据えた。
「私は、君に自由を与えたい」
「自由……」
「何でもいい。それが他者の自由を損ねることさえなければ──当たり前のことを願うことなど、当たり前のことに過ぎなくてはならないのだから」
思考する。
少女の瞳に、焦点が合う。ゆるやかに像を結びつつある。
「正しいもの」
かくして少女は、口を開いた。
「……清く、とても、尊くて。何にも侵されることのない……神聖なものに、私はただ。触れていたい……過ごして、いたい」
◼️◼️◼️
男は、記録用の
捕捉の文章を何行も添えられた少女の幸せそうな笑顔。
それに彼は、救われていた。
あの冬の日から数ヶ月が経ち、都度様子を確認してきたが、少女の精神は安定しつつあった。
イリアス教の修道女が運営をしている、教会を兼ねた孤児院に少女は預けられた。修道女は男の身柄と立場について何年も前から把握しており、彼が身を寄せる場所として最も信頼を置く先の一つとなっていた。修道女は男を──賢者と呼ばれる彼を何も言わずに信じ、白い少女を暖かく迎え入れた。
少女は何を考えているかも分からず、緩慢で、己が生きていることにすらあまり関心を抱けていない様子だったという。あからさまに浮いた風貌もあり、まわりの孤児から疎外される事もあったと。
しかし少女は、いや、彼ら全員はひとつずつを共に乗り越え、確かに自分の気持ちで笑うことができるようになったのだと。
病に疲弊する男は、変えようと望む世界のその後を見ることすら敵わないはずだった。
だけど、ここに一つ。ほんのひとかけらでも自分の夢を。自分と、彼女が生きていきたかった世界を。浮かぶ笑顔を、子どもたちの居並ぶ小さな孤児院の円卓の中に見ることができたと。
体の苦しみに耐え、額に汗を滲ませながらも。穏やかな顔で車椅子に体を預けて、賢者は緩やかに目を閉じた。
そこで話は終わればよかったのに。
◼️◼️◼️
「例の子供、まだ孤児院の暮らしに混ざってるんですか?」
久方ぶりに地上へ戻ってきている無二の相棒から、またぞんざいな調子でその事を話題に振られる。
調査の結果と状況は逐一共有していた。その上で自分などよりも余程に視座が高く聡明な彼女がこの判断を完全に否としていない以上、賢者は己の責任をもって現在の処置を覆すことはしたくなかった。
「とはいえ、その子に関して不明な点が多すぎるというのも事実ですし。
「あの子は、誰かに庇護されるべきだった。望み通りに生きることができる心と体を持っていて、それが訳もわからず奪われていいはずがないんだ。お前にはお前の”道”があるように、それが俺にとっての……」
「わかりました、わかりましたって、貴方のことは……もう……そんな感じで私のことも見てくれているのはちゃんと分かってますから、こちらとしては何も言いやしませんよ」
ごほんと咳払いをして誤魔化した赤毛の彼女は、それでも苦言を呈し足りないようだった。
「しかしまあ、よりにもよってウチのやってる孤児院にああいう子供を……」
「彼女は満足しているみたいだ、それが幸福なのだと。俺もどうすべきかとは思ったが……あの子は傷を負っている。寄りかかることのできるものが救いになっているんだ、それがイリアスの教えだとしても」
「期待してくれてるほど綺麗なもんじゃないって教えてあげたほうが身のためな気はしますがね」
「それでも、今の彼女にとって孤児院の皆は家族だ。彼らを結び付けたものであるイリアス教はこの場合、不自由を強いられた弱者にとっての確かな救いになっているとしか言いようがない」
「それを御本人様がお認めになるかという話でもあるのでは」
「……俺たちはもっともっと無茶な要求を突き付けて、押し通そうとしているんだ。こんな降って湧いた特殊な事例さえ神には認めてもらえないのなら、ハナから無理だったと諦めるしかないかもしれないな」
特殊な事例、という言葉にプロメスティンは肯定的に眉を上げる。言わんとしていることは確かに理解できる。
「当人にとっては不幸かもしれんが……あの子の症状には可能性がある。もっと調べても損は無いはずだ」
「まあそれについては一理あります。私も関心ある分野ですし……ある種の障碍、ってことになるのでしょうか」
ある一面から見れば毒は薬にもなる。あの子はもしかすると……
「俺の夢を、叶える鍵になってくれるかもしれない」
「問題は山積みですがね……そも、それで当人が本当に幸せに生きていけていると言えるかも我々からは真に理解ができないわけですし」
「わかっているさ……けど、俺はあの子との出会いに掛けてみたい」
時は過ぎ去り、あの雪の日からおよそ一年が経過しようとしていた。
◼️◼️◼️
夥しいもので、教会は染め上げられていた。
涎混じりの血飛沫と少年たちの精液が辺り一面にぶち撒けられ。
崩れかかった建物は火を付けられてごうごうと燃え盛り、夜闇の中へ火花を散らしていた。
はあ、はあ、と肩で息をする賢者はようやくここに辿り着いたばかりだった。それでもなお、信頼していた相手である修道女と二、三人ほどの孤児の少女達が──鋭い牙と翼を生やし、胸と陰部をまろび出した状態でこちらを見ていた。この惨状。
当然、正気ではない。全身を赤と白濁に汚しながらにじり寄る彼女らに杖を向けつつ、男は炎に照らされた雪の中で、冷たくなって倒れている他の子供たちに目を向ける。男子は服を剥ぎ取られ、一部の「才能のない」女子は苦痛と恍惚のまま殺され──
あの子だけが、いない。
己の口から血が垂れていることに、その匂いが一層、正気だった頃を知る目の前の彼女らを興奮させていることにも気付かぬほど歯を食いしばりながら。
男は長い旅の中で手に入れた力を使い、すべての敵の肉体をまとめて潰し殺した。
『よもや、よもや
不快感と苛つきを前面に出す魔道士風の女が、眼下に侍る黒装束に身を包む女に呼びかけた。
ただし直接の対話ではない。魔法陣に映写された映像越しでの対話だ。
『とはいえ──うぬらが仕事を済ませるのに我がこれほど長く待たされていい理由にはならぬが』
「……面目無い」
恭しく控える忍装束の女との主従関係は明らかだった。生来の隠密能力を武器に忍びの訓練を受けた吸血鬼一派の私兵。それがこのヴァンパイア貴族の最大の持ち駒。
セントラ大陸内に点在する、陽の光も届かぬ洞窟の暗闇に構えられた吸血鬼の砦。シノビヴァンパイアの頭目が部下に少女を捕らえさせ、輸送の折に引き込んだのは、そんな砦の一つだった。
『まあよい。この娘の身柄さえ取り戻すことの適った今や──この我が、吸血鬼一族の女王となる大願叶う日もまた目の前という事よッ、ふふ』
高貴さを取り繕おうとしながらも下卑た声を漏らす女は、砦の壁に磔にした少女を映像越しに眺めて笑いが抑えられないようだった。
『この弱々しい小娘が
「私めの手に落ちた今、ここで確実に始末いたしましょうか」
『待て、待て。それだけでも同族の支持は多少なりともこちらに傾くよう都合を付けてあるが、もっとよい使い道はあるはず……どうした?』
「失礼、危急の伝令が」
カッ、と室内の石壁に突如突き刺さった矢文は吸血鬼忍術の一種か。それを頭目の女が素早く開くと──
「……敵襲! 数は不明、何者かが娘の輸送路を追跡し、私の配下の拠点を次々と壊滅させ……ッ!?」
どどどしゃッガララっ!!と、破砕音が轟き石煉瓦の天井がまとめて室内を押し潰した。魔法の映像は途切れ──代わりに鋭い金属音が断続的に響き渡る。
数時間後。
深い手傷を負った頭目による報告を受け、吸血鬼の貴族はあまりの怒りに数名の使用人をくびり殺したのだという。
「どう、して」
「わかってる、わかってるんだ。事情は知らないけど、お前があれをやったんじゃないってことぐらい」
魔力駆動の車椅子を全壊させ、少女を両腕に掻き抱いて。
重傷と病に冒された男は血と足跡を点々と残しながら、凍てつく風雪の中を歩き進んでいた。
「お前は、魔物だ。吸血鬼、ってやつなんだよなぁ。最初に会った時も、わざと手を傷つけて、お前のことを試して。今までずっと見捨ててきた、今度こそ、護ることができる魔物なのかと……すまない、俺は知っていたんだ、知っていて……」
「うっ……はあ、はあ、はぁ」
少女の容体が悪化する。賢者の傷口から滴る血液を感じ、その匂いと感触で顔を青ざめさせているのだ。
神経性の吸精障害。賢者とプロメスティンの両名は彼女の状態をそう結論付けた。人間や他の生命体で言うところの摂食障害に当たるだろうか。
まともな環境に身を置いていれば幼少からそのような症状は発現しない。生まれてからこの方どのような仕打ちを受けてきたかも想像すらできず。無論、そのような状態の魔物が本来の意味で健やかに生きることができるはずも無い。
イリアスの教えという枠組みの中で縛られながら、どうすれば多くの者が自由に生きられるかという研究を続けてきた男にとって、多大な”枷”をかけた上で存在を認めさせるというアイデアは、現状の中で考えうる限り数少ない方法に思えた。
今なら分かる。まさにこの手の中で命が失われようとしている今なら。
このような状態に精神と肉体を押し込んだ状態で「隣人」と嘯くなどと、笑わせる。精神と肉体の衰弱しきった彼女に、もはや力を取り戻させることすらできないのだ。
「すまない、本当に、すまない……」
「う、うう……」
何よりも、何よりも惨く、残酷なことには。
一度与えたはずである彼女の居場所を、最悪の形で永遠に奪い去ってしまったことだった。
銀色の雪原のただなかで。
暴風雪に全身を叩かれるまま、それら全てのこの世の脅威から守り抜かんとするように男はひしと少女を抱きしめた。そんなことにもはや意味はないのに。二人の体は既に限界だった。
「わた、し……」
「なんだ……」
「死んでも、いいよ。生まれてから一度も、生きてるべきだと、べつに思わなかった」
「っ、やめろ……」
「けど、イリアスさま……正しくて、大きなもののそばにいれば……わたしが、いつか……さばかれ、ても。そこに行きついた意味は、あったんだって」
「喋るな! もうそれ以上そんなことを言うのはやめろ、やめてくれ……!」
「でも、あなただったんだね」
す、と。男の吐き出した血反吐と返り血にまみれた顔を、ぞっとするような白い指で少女は撫ぜた。
「イリアスさまが、みんながくれたものは、結局わたしを幸福にしてくれた。でも、わたしが行きつく先のはずだった大きなもの、身を任せたいと思えた絶対なもの。それは、きっと……あなた」
わたしは、それだけのはずだった。
生きるための命では、なかったから。失った。
「わたしを、使って、どうか考えて。わたしの全てを、あなたに捧げます」
「なにを……」
「それが、わたしの生きた意味……し、くれ、れ……ば……」
「待てよ、待て! 待てったら、おい、クソ……く、そ……」
死者の肉体は極寒の中で既に固まりつつあった。
少女は男の顔に手を添えたまま、息絶えた。
嵐のような風を斬り裂き飛来したクナイを、杖の一振りで弾き飛ばす。
まだ終わりではない。あれだけ痕跡を残してきて場所を追われないはずが無かったのだ。
「はあ……ッ! はっは! 何ともお優しいではないか、イリアスの尖兵気取りで我ら魔族を数多殺害せしめた”賢者”様にしては!!」
奇襲に失敗したと見るや雷鳴が轟く。吸血鬼貴族の魔術が賢者の張り巡らせる透明な盾をギリギリと軋ませながら相殺したのだ。
二対一。いや周囲の暗闇と雪に溶け込む配下の数も含めればそれ以上は確実か。
「死んだのならば、もう必要はなかろうよ。そのゴミを黙って此方に引き渡せ。我々にとってはまだ色々と利用価値があるのでな……そのまま退けば温情をかけてやらぬこともないぞ?」
怒りが。
男の喉肉を引き裂いた。
「 来い 」
◼️◼️◼️
「こいつらヨオオ……どーにもうまそーに血ィってものだけ吸い取るがよ……わっかんねえよな、ゎざわざ肉とよりわけて……消化によかったりするンかなァァ」
「今度の改造で試してみるか。どうせ材料なら腐るほどある。吸血鬼というものが果たして腐るのかは未解明だが」
「おのれ……おのれおのれ、おのれェ!! 死肉を操る魔術は我らが一族の本領と見せてくれr」
ぐちゃり、とウィルム娘が両爪の腕力で貴族風の女の頭を挟み潰した音を最後に戦いは終わった。
持てる手段を使い尽くした戦いだった。あくびを噛み殺しながら棺に戻って消え去るウィルム娘の肉体もその実はあちこち損壊だらけで、しばらくはまともに戦えまい。
かくいう男も──
「…………」
氷と風。吹き荒び、輝く白の世界さえもが暗きに呑み込まれる真夜中の丘陵。
雪の中──
雪より白く、そして滑らかな腕。
命とともに沈みゆく少女の腕だけが、ただ一人の男の黒い瞳に映し出されていた。
吹雪く雪粒に黒髪を乱れさせたまま、己に向かって伸びる手を見下ろしながら……”賢者”は短杖を横に薙ぎ、そして大量の空気が流れ出すような音が辺りに轟く。
空気も煌めきを放つ凍てつきの中で──男の魔術は辺りに積もる積雪を、魔力の波で吹き飛ばした。
正真正銘、これが最後の力だった。
かろうじて掘り起こした少女の肉体をその腕に抱き、意識を落として倒れ込もうとするその寸前──
「……まったく」
見慣れた赤毛の少女の体が、正面から倒れる二人を抱き止めていた。
「なあ、俺は」
「わかってます、わかってますよ、聞いてあげますから……今はとにかく、お休みなさい」