――ごーん……
――ごーん……
――ごーん……
遠くから、荘厳な大鐘楼の音が聞こえている。
大気を震わせて、遠く果てまで、時を報せる音が響いている。
美しく、荘厳で。
それでいて何処か悲しげで、儚い。
――ごーん…… ――ごーん…… ――ごーん……
鐘の音が聞こえている。
鐘の音ではない、暖かな音が聞こえる。
誰かが名前を呼ぶ声。
誰の名前だろうか。
聞いた覚えがある。
耳に良く馴染んだ名。
「――さま」
身体が揺さぶられている。
暖かな手が触れている。
「―――」
声が一つ増える。
二つの声が聞こえている。
「 ――グリムさま 」
ああ。
もう起きなければ。
――目を見開く。
瞳に映るのは優しく穏やかな光が差し込む、暖かな森の中。
見慣れた風景。そして、そこに見慣れた姿がある。
「くすくす……おはようございます、グリムさま」
「ぐっすり眠っていましたね、お疲れだったんですか?待たせてしまって、ごめんなさい」
アリス。
金糸の様に美しい髪にエプロンドレスの愛しき少女が隣に立っている。
柔らかな笑みが、森に差し込む光と比べても眩しさを感じさせた。
肩を揺さぶっていた手が離れていくことに寂しさすら感じる。
「僕が来た時には既に寝入っていたからね」
「時間を守るのはいいことだろうけれど、速く来すぎた挙句眠りこけるのもどうかと思うよ、グリム」
テーブルを囲む椅子に座っているのは黒い兎の姿をした友人、祈り主だ。
紅茶を片手に少し呆れたように肩を竦めている姿は、絵になっていた。
――――ああ、そうだ。
今日は、いつものお茶会の日だった。
一足先にこの場にやってきて。
暖かな日差しに耐えられずに眠ってしまっていたのだったと、そう思い出す。
眠ってしまってすまない、と謝罪の言葉を口にすれば、気にしないというようにアリスが首を振って席についた。
「さあ、今日もお茶会をはじめましょう」
「とってもいい茶葉を用意したんですよ、お菓子もたくさん焼きました」
「それはいいね、アリスのお菓子はいつだって美味しい、味がわからない作家に食べさせるには惜しい程さ」
「もう、またそんなこといって……でも、ありがとうございます……さ、どうぞ」
慣れた手付きで、アリスが紅茶とお菓子を用意する。
立ち上る煙、薫る茶葉の香に心が安らぐ。
「今日はマカロンを焼いてみたんです、お口にあうといいんですけど」
紅茶を一口。
その後にアリスが焼いたというマカロンを口に運ぶ。
食べる所をじっと見られているというのはなんだか気恥ずかしいが、彼女がなにを求めているのかは言われずともわかった。
美味しい、と口にすれば、ぱぁ、と大輪の花のような笑顔が咲いた。
「よかった、クロウサギさんもどうぞ」
「いただくよ。……ああ、美味しいなあ、紅茶にも合ってる」
「ふふふ……さあグリムさま、今日もお話を聞かせてもらえますか?素敵な、あなたの物語を」
微笑みながら、アリスがそう言う。
物語――夢見る童話、愛しき物語。
お茶会の度に、彼女達に聞かせている自分が描いた物語達だ。
カエルのお姫様、白雪姫、人魚姫、ラプンツェル、それとシンデレラ。
オズの魔法使いに、マッチ売りの少女、黄金のガチョウ。
――前回のお茶会で話したのは紅ずきんだったか。
今日はどんな話が良い?
「なんでも構いませんよ、グリムさまのお話なら、なんでも」
「ああ、でも物騒な話は勘弁して欲しいな、動物がひどいめに合うのは特に、他人事のような気がしないから」
「うふふ、そうですね、怖い話よりは楽しいお話がいいです」
二人が笑い合う。
その姿を見ていると自然と心が穏やかになるようだった。
――じゃあ今日はこういう話にしよう。
あるところに、すみかを追われた動物たちが――
――――話を終えて、お茶を飲んで、他愛のない会話をして。
アリスが焼いた菓子に舌鼓を打って。
気がつけば、日はとっぷりと暮れていた。
「あら、もうこんな時間」
「そろそろお開きにしようか、夜になると色々と危険だからね」
では、アリスは自分が送っていくことにしよう。
何かあってはいけない。
「ははは、送り狼にならないようにね」
黒うさぎの友人が軽口を叩く。
彼女を送る自分は狩人の立場。
どちらかといえば狼を退治する方だろう。
「そういう意味じゃないさ。それじゃあアリス、気をつけて」
「はい、ありがとうございます。それじゃあお願いしますね、グリムさま」
アリスの差し出した手を取って歩き出す。
知っていることだが、改めてわかる。
柔らかく、強く掴めば壊れてしまいそうな手だった。
傷一つ、シミひとつ無い。
自分の手はどうだろうかとちらりと視線を向けてみる。
ペンだこのあるそれなりに無骨な手だった。
「どうかしましたか?」
問われ、そのまま答えを帰す。
同じ人間の手でも変わるものだと考えていた。
「くすくす、男の人と女の人ですもの」
「それでも、グリムさまはちょっと細いぐらいだと思います」
「あんなにお強いとは思えないぐらい」
そうだろうか。
確かに筋骨隆々という見た目ではないが。
鍛えてないという訳でもないし。
アリスがそういうのならば、そうなのかもしれない。
「ふふふ」
アリスが笑う。
何かおかしかっただろうか。
「いえ、自分で言っていて少しおかしくって」
「ああ言いましたけど、私もグリムさま以外の手の硬さは知りませんから」
照れる事を言ってくれる。
笑って返せば、アリスの頬は紅く染まっていた。
それを見て握る手に力を込めれば、か細い力で手が握り返された。
……こそばゆいが、悪くない気分だ。
「えへへ」
アリスが笑う。
私も笑った。
そうして笑う三日月と満点の星々が見守る中、
手を繋ぎ影を一つにして彼女を送り届けた。
…
……日常を繰り返す。 愛しき日常を。
…
「思えば、君とこうしてのんびり話す仲になるとは思いもしなかったよ」
また別の日のお茶会。
紅茶と菓子の用意を忘れたアリスが席を外していた時。
ティーテーブルを共に囲む皮肉屋のクロウサギがそんな事を言い始めた。
言われてみればそれもそうだ、と思い出す。
出会った頃は言い合いばかりしていた気がする。
「君が無茶苦茶な事ばかり言っていたからね」
自分ばかりが悪かった訳ではないだろう。
こちらの言葉に一々口を挟むクロウサギの方に問題があった事の方が多かった。
いつも竦めるアリスの言葉も聞きもしない態度の悪さもあった。
「ははは、アリスが竦めていたのは君の方だったじゃないか」
「それに僕は間違った事を言っていたつもりはないよ」
「むしろ思慮深さが足りない君に忠告をしてあげていたんじゃないか」
「おかげで君は生きているんだから、感謝して欲しいぐらいだよ」
よくもそこまで虚言がいえるものだ、逆に関心する。
危険や未知を警戒し過ぎているからなんにでも遅れるのがこのクロウサギだ。
そのせいで逆に危険な目にあったことも二度や三度ではない。
「そんな事もあったかな。でも間違いなく君が原因の事も多かったよ」
ああいえばこういう。
たちのわるいクロウサギだ。
――この不思議の国にやってきて、クロウサギと出会い、アリスと出会い、長い冒険をした。
探検と言えるような些細なものから、圧政を敷く女王という巨悪に立ち向かう一大スペクタクルまで。
そんな中、いつも先頭に立っていたのは自分だった。
クロウサギとアリスだけではどこかでぽっくりなくなっていただろう。
「そもそも君が不思議の国の方方の出来事に首を突っ込んでいなければ」
「最初から危険な目に合っていないのを忘れてないかな?」
そんな事は忘れてしまった。
都合の悪いことは覚えていられない。
「ははは」
クロウサギが笑う。空笑いだった。
完全にバカにされている。
ここで雌雄を決するべきだろうか。
「童話作家が暴力に訴えようとしないでくれよ」
ペンは剣よりも強いが、剣は剣で強いのは事実だ。
時に暴力も必要である。
「ははは、どうして君みたいな男からあんな童話が生まれるか理解に苦しむね」
褒めているのだろうか、けなしているのだろうか。
よくわからないので長い耳を鷲掴みにしておこう。
「ぐえあ」
「おまたせしました……きゃあ!グリムさま、なにをしてるんですか!?」
そのあと、アリスに止められるまでめちゃくちゃ耳をひっぱった。
怒られた。
…
……日常を繰り返す。 愛しき日常を。
…
「今日は、お掃除をしましょうっ」
また別の日。
光差し込む森の中でアリスがホウキと鎌を手にそんな事を言い出した。
動きやすい格好で集まるように言われたが急な申し出だ。
「楽しいお茶会をするには、草が伸びすぎてしまってると思います」
「せっかく綺麗な場所なんですから、綺麗に保ちたいと思いませんか?」
それはそうだ。
しかしわざわざ鎌まで持ち出してやるのも面倒に思える。
剣で一帯切り飛ばしたり、焼き払うのではだめなのだろうか。
「君は聖森を燃やす気かい」
ある程度綺麗になったところで水を出せばいいのではないだろうか。
草はなくなる、森は燃えない、これで万事解決だ。
どうだろう?
「だめですっ、ちゃんと刈って纏めて捨てましょう」
怒られてしまった。
「当たり前だよ、この脳筋作家」
仕方ない、手間だが真面目にやるとしよう。
アリスから鎌を受け取り、腰を下ろして草の根を刈り分けていく。
今後もお茶会を楽しむための労働だ。
「ふふふ、お掃除が終わったら冷たくて美味しいアイスを用意してありますよ、頑張りましょうね、グリムさま、クロウサギさん」
ありがたい。
パパッと終わらせるとしよう。
「ううん、僕はアイスに釣られる訳じゃないんだけどね」
あって困るものではないだろう。
――この後、めちゃくちゃ草刈りした。
…
……日常を繰り返す。 愛しき日常を。
…
「――童話は、素敵ですね」
「グリムさまの書く童話は、いつだって素敵です」
屠殺ごっこも?
誂うようにそう聞けば、アリスは可愛らしく頬を膨らませた。
「ああいう趣味の悪いものは含みませんっ」
「だいたい、どうしてあんなもの書いたんですか?」
あんなもの、とは失礼な物言いだ。
あれでも試行錯誤して書いたものだというのに。
……少女受けする話ではないだろうが。
「救いのないお話は好きじゃありません、やっぱり優しくて暖かいものじゃないと」
むくれるアリスをどうどうと手で制する。たまにはそういうものを書きたい事もあるのだ。
――月明かりが照らす図書館の中、彼女と二人、会話を楽しむ。
皮肉屋のクロウサギの姿はない。
声を掛けたが来なかった。
急いでやる事も少ないだろうと言ったが、それなりに用事があるという。
お茶会は3人でなければ、なんとなく張り合いがない。
とはいえ、それでアリスと過ごす時間がなくなってしまうのは惜しい。
だからこうして彼女を訪ねて、彼女と話している。
来ないなら図書館に行くとは言ってある。
日が暮れない内に用事が終われば来るようにはいってあったが、
この時間ではもう来ないだろう。
忙しいことだ。
「不思議の国も、今はとっても平和になったとはいえ小さな魔獣達や、いたずら好きの妖精達はいますから」
「クロウサギさんは口は悪いですけれど、心配性で優しい人なので……ついついいろんな事を気にしてしまうんだと思います」
放っといてもいいと思うが、律儀な事だ。
あれだけの大冒険をしたのだ。
もっと心に余裕をもって、今を楽しんでもバチは当たらないだろう。
「くすくす、けれどやっぱり私も冒険は懐かしいと思う事はありますよ」
「邪悪なジャバウォッキー、トランプの騎士達、暴虐な紅の女王」
「とっても恐ろしかったけれど今では良い思い出です」
彼女はそう言って笑うが、あれをいい思い出とは流石に言えない。
願わくば二度と相手にしたくないものだ。
自分はこうしてのんびりと話したり、ペンを走らせる方が性に合っている。
「うふふ、私もそう思います」
「でも、あの冒険がなかったらこうして二人でお話して、お茶をして……そういう時間も無かったと思うと」
「どうしてか素敵なものだと思えてしまうんです、不思議ですね」
言われてみれば、そんな気もしてくる。
いや、やっぱり気の所為かもしれない。
顔を思い出すと具合が悪くなる気がする。
この平穏を永遠に満喫していたい。
「悪い女王様も、名無しの怪物も居なくなりましたから」
「小さな騒ぎはあるけれど、大きな騒ぎはもうありませんよ、ずっと……平和が続くと思います」
そうであって欲しいものだ。
やっと手に入れたアリス達と過ごす穏やかな時間が失われるのは惜しい。
「そう言ってくれると、私も嬉しいです」
「……グリムさまとこうやって過ごせる時間は、私もとても嬉しいですから」
言葉と共に、アリスが手を伸ばす。
たおやかな手でもって私の手に触れて微笑む。
指を絡めて、笑い合う。
窓から差し込む月明かりに照らされた彼女の顔は、どんな宝石より美しかった。
「……ねえ」
彼女が問い掛けてくる。
不安げな顔。
「グリムさまは……」
なにかを躊躇うような。
「……あなたは」
なにかに怯えるような。
いずれ訪れるそれを恐れるような。
そんな顔。
そんな目をしていた。
私が遠いどこかへ行ったとしても追い求めてくれますか?」
小さな手が、絡んだ指に、控え目に力を込めて。
弱々しく縋るような――あるいは答えを拒むような、否定を望むような。
そんな表情をして、アリスが私に問う。
「あ……」
その手を取って、立ち上がって、二人を挟む机に身を乗り出して。
彼女へ囁く。答えを返す。
勿論、約束しよう。
喩え何が二人を分かつとしても、必ず君に手を伸ばす。
今この時と同じ様に、その手を掴んで、離さない。
「ああ――……グリムさま」
アリスが、同じ様に立ち上がって、僅かに身を乗り出す。
言葉を口にするのは野暮だった。
月明かりに照らされる中、二つの影が一つになる。
ここにあるのは永遠に続くワンダーランドドリーム。
この愛は、永遠だ。
Fin
…
…
…
すっかり遅くなってしまった。
通い慣れた道を早足で歩く。
不思議の国は意外と広い。
用事を片付けてからここに来るまで、結構な時間が掛かった。
日はとっぷりと落ち、月明かりが世界を照らしている。
彼はもう帰っただろうか。
もしかしたら彼女一人かもしれない。
それもいい。
彼と彼女が話していたなら、自分も彼女と二人で話す時間があっていいだろう。
図書館が見えてくる。
不用心に、扉が僅かに開いていた。
彼か、彼女か。あるいは両方かもしれないが、どちらかが中にいるのだろう。
自慢の長耳が微かな話し声を聞き取る。
どうやらまだ居てくれたらしい。
表情がゆるむのを感じながらドアに近付く。
そうして僕は見てしまった。
愛し合う恋人達を。
かさなる影と、交差した指を。
月光は、残酷なまでに全てを照らし出していた。
僕たちは3人だった。
3人だった筈なのに。
彼は、アリスを独占していた。
――ああ、神様。 どうかお願いです。
どうか。彼と彼女を。
はい。