『この子が私の怒りを鎮める為に捧げられた人間……。地上の人間は何を考えてるのよ。こんな傷だらけの子供を生贄にする何て。アナタ、酷い怪我してるけど大丈夫?』
地上で生きる人間への怒りを呟いたかと思えば、優しい声と心配した顔で女神は俺に駆け寄る。
『…………』
地上での出来事が頭から離れない俺は会話をする気力を失くしていた。
『……話したくないのね。それでも構わないけど、話せるようになったら私に言うのよ?』
俺は無言で頷いた。これが俺と女神の出会いだが、死ぬその時になっても後悔する事はないと断言できる。だって、彼女の事が心の底から大好きだから。
「まずは自己紹介からね。私はエレシュキガル。この冥界の管理を任された女神よ。あ、冥界って私達が今いる所ね」
エレシュキガルと名乗った彼女は冥界の管理をしている女神だと話した。彼女がいつから冥界にいるのかわからなかったから、それについて聞いてみる。
「生まれた頃から今に至るまでずっとここにいるのか?」
「……っ。えぇ、そうよ」
俺が気になった事を聞くと、彼女は言葉を詰まらせて小さな声で答えた。今ここで彼女個人について聞くのは良くないと思った俺は、それ以外で気になる事を口にする。
「冥界ってどんな所なんだ?辺りを見渡したけど、人間や動植物がどこにもいないぞ?」
「当然よ。ここは死者の住む世界であって本来生者が来る所じゃないのだから。普通の人間が長居しようものならすぐに死んでしまうのだわ。たまに好奇心や迷子が理由で冥界に来る者がいるけど、一部を除いて追い返す事が殆どね」
それを聞いて背筋が凍った。一刻も早く冥界から出た方が良いと俺は思ったが、同時に『地上は危険だ。ここに留まれ』という言葉が脳裏を過る。
「冥界の女神って言ってたけど、ここではお前が一番偉いのか?逆らうと……どうなるんだ?」
「そうよ。ここでは私が定めた法や意志が絶対。地上で暮らす人間や神々が何を言おうと私に逆らう事は出来ない。だから、いくらアナタであっても冥界を荒らそう何て思わないで。もう二度と、アナタを傷付けたくないのよ」
後ろへ振り向いた彼女は真剣な顔と底冷えする声、何かに怯えるような目で俺を見る。前者について理解できたが、後者の二度と傷付けたくないという言葉に疑問を抱いた。俺が冥界に来たのは初めてのはずだし、荒らすだなんてとんでもない。
「荒らさないって。というか、俺とお前は前にどこかで会った事があるのか?二度とって言ったけど……」
「……っ」
俺がそう言うと、彼女は目を反らしながら体を震わせるが、何を恐れているというのだ?
「……聞かない方が良いのだわ」
どうやら彼女から話す気は無いようだ。だがこれだけは言わせてほしい。
「わかった。でも俺が思い出したら話してくれないか?」
「えぇ、その時になったら……ね」
彼女は悲し気な顔をして小さく呟いた。
「他に気になる事は無いかしら?」
そう言われて目を瞑る。今の所気になる事は無かったから、その時になったら聞くと答える。
「わかったわ。あ、言い忘れてた。今のアナタは魂だけの状態で、このままだとそれが擦り切れて本当にこの世界から消えてしまうわ。だから私と契約を結びましょう?」
この女神は今、とんでも無い事を言わなかったか?
「こ、怖がらせちゃってごめんなさい。大丈夫よ。すぐに終わるから大人しくしてて」
彼女は俺に近寄ると、優しく肩を掴んできた。突然の事で震えた俺は目を瞑る。
「アナタは良い子よ。他の人間とは比べられない位にずっと……ね?」
今度は頭を撫でながら語りかけてくる。彼女の言葉が俺の心に染み渡り、何故か涙が溢れ出してきた。
「……んっ」
彼女の顔が俺に迫り、互いの唇同士が触れ合った。どうしてだろう。これはただ契約を結ぶ為のものだというのに、彼女と口付けする事が嬉しいと思うなんて。
「はい。これで私とアナタの契約は結ばれた。私が何かしない限りはその魂が擦り切れる事はないのだわ」
そう言って彼女は微笑んだ。彼女との出会いに、後悔何て無い。