ケータイの隅っこから掘り出した日記を読み終えて、しばらくの間ちゃぶ台の上に頬杖をついたまま、私は固まっていた。
なんだこれ。
一体なんなんだ、これ。
私の書いたものじゃない。そんな記憶はない。
ありえない。じゃあ誰だ、これを書いたのは。
わけがわからない。
とりあえず、内容を整理しよう。意味のわからない単語も多いけど。
────要するに、
私は元人間で、
文も元人間で、
しかも外の世界の人間で、
二人は恋仲で、
そのために排斥されて、
世を儚んで心中しようとして、
誰かに拾われて、
天狗として幻想郷に生まれ変わらされた、と。
……うーん、三文小説だね。
まずもって、時代設定がおかしい。
私も文も、そんな若い天狗じゃない。数えるのはとっくにやめたけど、ざっくり千年ほどは生きているんだ。いちおう文のほうが少し年増のはずで……まあそれはいいか。ケータイを使い出したのも割と最近だし、とにかく辻褄が合わない。
つまりこれは何かの冗談、イタズラの類だとして。
いったい誰だ? 私のケータイに、こんなイタズラができるのは……。
……やっぱり、製作者である河童か。
使い始める前から入れられていたに違いない。私がこれを真に受けて騒ぎでもしたら、それを酒の肴にしようってハラだったんだろうか。まったく、趣味が悪いにもほどがある。今まで気づかなかったのは、我ながら間抜けというほかはないけどさ。
でも、冷静に考えると結構怖いなー、これ。
あいつらの作るものは実際とても便利で、その恩恵に浸るうちにすっかり信頼……というか何も考えずに使ってたけど。こうやって何か妙なものが仕込まれてるかもしれないとなると……。
なんらかの方法で管理することを考えたほうがいいかもしれない。このイタズラの犯人を吊るし上げたあと、上に進言してみようかな。
それにしても。
「私と文がねー……」
いやー、ない。ありえない。まったくありません。冗談も現実味がなさすぎると白けるという典型だ。もうちょっとうっかり信じそうな内容にしろっての。
そう思って軽くかぶりを振った上から、いきなり声が降ってきた。
「私がどうかしましたか?」
「うわ!?」
振り仰いだ窓の桟にちょこんと止まって、夕焼け空を背景に、文が私を見下ろしていた。
「窓から入ってくんなって言ってんでしょ!」
「玄関へ回るの面倒なんですよ。それにここ、ちょうど止まりやすいんですよね。いつも開いてるし」
「鳥か、あんたは」
「そりゃまあ」
器用に桟に下駄をひっかけたまま脱ぎ、すとんと部屋の中へ飛び降りる。
「で、何か用ですか?」
「は? 用って?」
「いま言ってたじゃないですか。はたてと私がどうだかって」
「あーいや……別になんでもないから。気にしないで」
ごまかしてポケットにケータイを仕舞いこむ。こんなものを文に見せたら、変な騒ぎ立て方をしそうな気がしたからだ。こいつはたとえ自分が絡んでいても、面白そうならネタにするクチである。いつだったかそれを言ったら、自分をネタにするのは公正な者だけにできることです、とか宣った。別に文が自身を切り売りするのは勝手だけど、私を巻きこまないでほしい。
「っていうか、それはこっちのセリフなんだけど。何の用?」
「特には。単に窓が開いてたから、通りすがりに覗いただけですよ」
「帰れ」
しっしっと手を振ってやる。何かにつけて私の家に寄っては、お茶やらお菓子やらをたかろうとするのだ、こいつは。
「最近また
「聞けよ。いちおう外出くらいしてるし……少しは」
いつもこうして上から目線、大きなお世話でうざったいことこの上ない。ほんのちょっと天狗歴が長いからって人生の先輩きどりか。
新聞作りの参考にと後を付いて回ったのがまずかったんだろうなぁ。弟子入りしたつもりはないってのに。
「刺激のない生活してると心が腐りますからね。心が腐れば記事も腐る。次はもう少し見ごたえのあるやつ出してください。どうにも張り合いがなくて困ります」
「……うるさいな! わかってるってば! っていうか張り合わなくていいっての! ほっといてよ!」
しつこいご高説に痛いところを突かれて、ついつい声が荒くなる。
あーあ。やっぱりあの時、ガラにもなくあちこち飛び回って上がったテンションで、ヘンなこと口走っちゃったせいか。
「はぁ?
「いや、あれはさー、つい弾みでというか……。ナシにしといてくんない?」
「自分勝手ですねえ。 まあ、いつでも受けて立ちますから」
「立たなくていい。いいから帰んなよ。もう日が暮れるし」
そっぽを向いてちゃぶ台の上に頭を転がした後ろで、少しのあいだ何かを言おうとしてるみたいな気配があったけど、やがて小さな溜息の音がした。そして、
「まあ確かに、鴉はねぐらに帰る時間です。せめてご飯はちゃんと食べるんですよ? ではまた」
「お母さんか、あんたは」
置き土産みたいなお節介に振り向いて噛みついたときには、もう文も下駄も消えていた。
「……たく、勝手なのはどっちさ。言いたいことだけ言いっぱなしで」
私も一つ、誰にも聞こえないため息をついて、また頬杖をつきなおした。
「……張り合いがない、って言われてもねー」
さっきの文の言葉を、反芻してみる。
一応あんなことを言った手前、本気で文を追い越してやる、なんて思ってちょっと発奮はしたんだけど、それはあんまり長続きしなかった。
やっぱりどうにも、私にああいうやりかたは向いてない。あっちこっちへ飛び回るバイタリティーがない。
結局、念写した写真を元に記事を組み立てるスタイルに戻ってしまって……だから私の弱点はそのままだった。
どこかで見たようなインパクトのない写真に、新鮮味のない後追いの記事。
酷評されることもあまりないけど、それはそもそも皆の視界に入っていないから。
あの時、弱小新聞なんて呼ばれはしたけど、文が私の新聞を知っていたことに、内心ちょっと驚いたくらいだ。まあ、人間のことなんか記事にする変わり者だから、着眼点も違うのかもしれない。
射命丸、文。
その名前を意識しだしたのは、いつごろからだったろう。
正義と真実の記者、なんて気取って、あんまり他人が拾わないネタを好んで記事にする変人。鴉天狗の例に漏れず、誇張や歪曲はお手の物だけど、丸っきりの嘘っぱちを書くことがないのは、謳い文句どおりといったところだろうか。
そして、誰よりも速く新しいネタを嗅ぎつける嗅覚。
記事の中身はともかく、文はやっぱりその点はすごい。
私も、あんな風になりたくて。
なる方法が、わからなくて。
身に染みついたスタイルを変えるのは、そう簡単なことじゃない。しかも、なまじ弱点を自覚しているもんだから、それが却って足を引っ張ってしまうのだ。
ふと耳にした噂を元に写真を撮って、それを前に記事を考えていても……どうせこんなのとっくに誰かが書いてるんだろうなぁ、と思うと、どうにもやる気が殺がれてしまって、結果ますます薄味な、どうでもいい記事が出来上がる……どころか、出来上がりもせずボツにするのもしょっちゅうだ。当然、人気も出るわけはなく、無力感からやる気が失せて……ああ悪循環。
別に出世を目指す気はない。誰も彼も、捏造記事を量産してでも、大天狗様の尻を舐めてでも上に行きたがるけど、私は地位にはそこまで興味がないんだ。
ただ……それでも自分の作るものを、誰かしらには認めてほしい。
誰もが知ってるような売れっ子でなくていい。そこそこの人数でいいから、私を知って、読んで、面白かったよって言って欲しい。
だから、ある意味で界隈の有名人な文が、私なんかを知っていたこと、それが少し……いや、かなり嬉しくて。
それで舞い上がってつい、あんな発言までしてしまったわけで。
でもやっぱり、そんな自分の弱点を克服できない私が、文に張り合おうなんて無理な話だったんだ。
「はぁ~あぁ……」
また、どでかいため息が出る。
あー、やだやだ。
こんなことを考えてると、どんどん気分が沈んでしまう。忘れろ。忘れてしまえ。別に新聞づくり以外でも、楽しいことなんかいくらでもあるんだし。
……と、別な方向へ逃げているから、ますますやる気が出なくなる。悪循環。
どこかで断ち切らなきゃいけない。わかっちゃいるんだけど……。
そもそも、何がきっかけでこうなっちゃったんだっけ?
自信とやる気を失うループに、はまって抜け出せなくなった場所は、一体どこだったんだろう。
やっぱり、あの講評会かなぁ。
自分では会心の、とまでは言わないけど、結構うまくできたつもりだったのに。酷評されて、笑われて……そして実際に他人のと見比べて、その評価にも納得してしまって……。
……いや、違うか。
最近すぎる。あれはそんなに前のことじゃない。数年前だっけ? 十数年前? とにかく、割と新しい出来事。それ以前からずっと新聞は出してたのに、それまでぜんぜん他人と比較しなかった、なんてことはないはずだ。
ケータイを持つ以前はどうだった? ていうか、それを変えたくてケータイにしたんだっけ? よくわからない。単にいろいろ便利だからで、深い意味はなさそうだ。
記憶をさらにさかのぼる。写真の普及。転写機の普及。筆からペンへ。瓦版から新聞という名称へ……。
「うーん……」
ダメだ。思い出せない。最初にその無力感を覚えたのが、いつだったのか。
もしかして、新聞がらみじゃなかったのかな?
一気に意識を大昔へ飛ばす。妖怪として物心ついたころから、そうして歴史を今度は順に、現在に向かって進めていく。
最初の記憶は、本当に昔のこと。妖怪も神も人も、すべてが荒ぶっていた混沌の時代。まだ鬼が化物の頂点にいて、天狗が集団を作り始めたころ。
やがて全てが少しずつ力を失い、その中で妖怪が繁栄を極めた黄金期。世の中はさらに移り変わって、人間の繁栄が妖怪を追い越し始め、西洋の文明が流れこんで、この国の形が激変し、幻想郷ができて、外の世界と隔絶されて。少しずつルールも整備されて、人と妖怪のあり方も変わっていって……。
そう、いろんなことがあった。さすがに稗田じゃないから細部まで明晰にではないけど、憶えてる。そのずっと昔、すでに文に出会っていたことも。そして、その私の歴史の中の、どこかで何かが────
「……あれ……?」
……変だ。
何か、変だ。
何かがおかしい、と思った。
そうだ……確かに、憶えているのに。
憶えている。間違いなく。
様々な出来事。いくつもの変化。幻想郷の、そして自分の歴史、その大よそ全て。
なのに、何故。
思い出せない。
その時々に、自分が何を感じ、何を思ったのかを。
私は……何を思って生きてきたんだっけ?
あの時、その時、何を考え……何をしようとしたんだっけ?
昔は、どんな気持ちで新聞を作ってたんだっけ?
どうして、ケータイを持とうと思ったんだっけ?
私は……。
私は、昔、文のことを、どう思ってたんだっけ────?
あたりが、急に暗くなった。
「あ……?」
顔を上げた窓の向こうの空が、暗くなっていた。
太陽が沈んでいく。
夜が、やってくる。
星が光り始めた空を見上げたまま、私はそれを探していた。
絶対にあるはずの、それを。
だけど。
時代の流れに。
幻想郷の成立に。
変わりゆく人妖の関係に。
そして、文に。
それらに抱いたはずの、私の想いが────
千年の記憶の、どこにもなかった。
日が沈んだ。
部屋と、頭の芯が、真冬のように寒くなった。
がちがちと、音がした。
私の口の中から。
「ひっ……」
嘘だ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
ありえない。あんなの河童のいたずらだ。そんなこと、あるはずがない。
ざあ、と風が吹いた。
窓の外で、木の枝がガサガサと揺れた。
薄い薄い月が、空に滲んでぼやけて見えた。
「いやぁっ……!!」
私は、全速力で部屋を飛び出していた。
翼が折れそうなほど、めちゃくちゃに飛んだ。
空と山と森を見る。その全てを確かめる。
妖怪の山がある。たくさんの天狗が、河童がいる。
人里がある。人間がいる。神社がある。巫女がいる。
魔法の森。迷いの竹林。霧の湖と紅魔館。
そうだ、ここは幻想郷。
そして私は、姫海棠はたて。
本当に?
本当に、そうだった?
いつから、そうだった?
私は……いつから、この世界にいた────?
「いやあああああああああっっっ!!!!」
絶叫が、夜に吸いこまれて消える。
すべての力を翼に込め、もがき、闇を掻きわけるように、私は飛んだ。
山のはずれに光る、小さな明かりに向かって。
ゆがみ、崩れる世界の真ん中。森かげにひそりと建つ、一軒家。
明かりの漏れる開いた窓へ、一直線に突っこんだ。
障子戸の向こうに、人影がひとつ。
短い黒髪が揺れて、土間の上へ激突するように着地した私を見る。
「……は?」
ちゃぶ台の前に座ったまま、ぽかんと口を開けた、その人に。
「文ぁっ!!」
跳ね起き、まっすぐに、駆け寄ろうとして。
乱れたつま先が畳に引っかかり、身体がつんのめる。
「っあ!」
「うわっ!?」
倒れこむ体の勢いをそのままに、私は文の胸の中に飛びこんでいた。
「っとぉお!? なんですかイキナリっ!?」
「文っ! 文っ! あやっ!! あやぁぁあっ!!」
のけぞりながらも私を受け止めた文の身体に、力一杯しがみつきながら、私はひたすらに、彼女の名を呼び続けた。
怖い。怖い、怖い怖い怖い怖い。
自分という存在が、自分のいるこの世界が、信じられない。
自分は本当に妖怪なのか。千年を経た鴉天狗、姫海棠はたてなのか。この記憶は、心は本当に私のものなのか。
ここは本当に妖怪の山なのか。怪異の楽園、幻想郷なのか。この世界は本当に、私のまわりに存在しているのか。
疑ってしまったら、それはもう暗黒の泥。
ねっとりと絡みつく、心を蝕む毒。
沈めば溶けてしまう、底なしの沼。
胸の奥が寒い。震えが止まらない。
助けて。
誰か、助けて。
拠り所を、ください。
たった一つでいい。小さな足場でいい。
何か、信じられる何かを、私に。
「あ、ああ……」
そう、たった一つ。
信じられるものがあるとしたら、それは。
「文ぁっ……!!」
文。
あなただけ。
あなただけが。
もし、あの日記が真実だとしても。
自分と世界のすべてが、空っぽのまぼろしだとしても。
文。
同じ空へ行こうと誓った、そのあなただけは。
私と同じ夢を見る、何かの存在なのだと。
私はただ、信じた。
それだけを信じた。
真っ暗だった。
でも、熱を感じた。
文の体温。
押し当てた額に、伝わってくる。
誰かの手が、頭を撫でている。
柔らかくて、暖かい。
文。
文の手が、私を撫でている。
「……文ぁ……」
「はい?」
文の声が、私の耳を震わせる。
「文は、ここに、いるよね……?」
「ええ。私はここにいますよ、はたて」
文の胸に顔を埋めたまま、その背中を抱きしめる。
細っこいくせに、柔らかい。
音が聞こえる。
文の呼吸の音。
文の心臓の音。
そして、私自身の音も。
身体の震えは、止まっていた。
文の身体が、暖かかった。
深呼吸。
胸に満ちてくる、文のにおい。
深呼吸、もう一度。
ゆっくりと、頭を上げる。世界がぐにゃぐにゃで、よく見えない。
「落ち着きました? って、うわぁ……ひどい顔」
歪んだ世界の向こうから、そんな文の声が聞こえて。
何か柔らかいものが、そっと目元に触れる。
涙でぐしょぐしょの私の顔を、文のハンカチがぬぐっていた。
「あ、う……」
少し軽くなった目で、まばたきをする。
クリアになった視界に、何かが映る。
ちょっとくせっ毛の、短めの黒髪。
薄桃色の肌に、柔らかそうな唇。
そして、丸くて大きな眼の中の、深い深い紅の瞳。
ちょっと首をかしげた、いつもの文の顔。
いつもの文が、そこにいた。
「……文」
「はい?」
「文、だよね」
「椛にでも見えますか? ……ってああ、もう」
またこぼれおちた涙を、吸い取る文のハンカチ。
私は、ごめん、と言ってそれを手に取り、自分で顔を拭いた。
「いったいどうしたんです? 急に。びっくりしちゃいましたよ」
「うん……ちょっと、その……なんか、不安になって……」
もう一度、肺の中身を全部入れ替えるように、深呼吸。ぐちゃぐちゃだった頭の中に風が吹きこみ、火照った雲が散っていく。
熱く腫れたまぶたと目頭を拭いつつ、畳の上に座りなおし。
改めて、文を見る。
いつもの白いブラウスに、いつもの黒いスカート。かたわらには愛用のカメラと、小さなネタ帳。ちゃぶ台に散らばった何枚もの写真。
座布団の上にちょこんと座る、見慣れた鴉天狗の姿。私の世界の、確かな風景。
ああ────確かに文は、ここにいる。
……でも。
なにか、変な。
文のブラウスが、おかしい。
胸のあたり一面がぐっしょり濡れて、肌に張り付いている。薄い水色の下着が透けて見えるほど。
なんでそんな、湿っ……て……
「……っ!! ご、ごめんっ!!」
一瞬で顔面に血が集まるのが、はっきりわかった。
のけぞるように身を離した私の視線を追って、文も自分の胸元に目をやると、
「……あ~やや、まったくですね。部屋の中だったからいいものの……あ、これ念写なんかしないでくださいよ?」
両手の指先でブラウスをつまんで引っ張りながら、にやりと笑って上目遣いに私を見る。
「するかっ、そんなの! って私の顔こそ、撮ってないでしょうね!?」
熱い! 顔が熱い! 本当に何やってるんだ私!
ってか、なんで!? なんでこうなった!? なんで文の家になんか来たんだっけ!?
「撮れるわけないじゃないですか、あの体勢で。あ、何なら今から……」
「撮るなっ! あの、その、汚したのは謝るから! ホントごめん! おやすみっ!!」
カメラを構えようとした文から逃げるように、私はまた夜空へ飛び出した。
◆ ◆ ◆
「あ~あ……何やってんだ私……」
バラバラになった思考を頭の中で転がしながら、飛んで帰ってきた家の扉をずりずり引き開け、大きな溜息を肺から吐き出す。
部屋は飛び出したときのまま、辺りと同じく真っ暗だった。明かりをつけ、ふらつきながら倒れこむように、座布団とちゃぶ台の上に身体を落とす。
「はぁ……」
突っ伏したまま、ケータイを開く。
まだ腫れぼったいまぶたを開けて、もう一度、その中身を確かめてみる。
念写した写真。新聞の草稿。スカスカな予定表に、雑然としたメモ……。
「……あれ?」
えーと。
何か……。
何か、探してたような。
なんだっけ?
私、何を見て……何をしようとしてたんだっけ……。
「うーん……」
モヤっとした頭を、左手で掻く。
掻こうとした。
もそ、と頭に何かが触れる。
「ん?」
上品な、それでいて可愛らしいフリルのついた、小さな布。
文のハンカチが、手の中にあった。
「……っ!! も、持ってきちゃった……」
握り締めてたのを、すっかり忘れてた。頭と顔が、また熱くなる。
返しにいく?
今から?
……いや、無理。今は無理。ちょっと、合わせる顔がない。
「洗って、明日返そう……」
はぁ、とまた溜息をついて、私はちゃぶ台に頭を転がし、手の中の布を見つめた。
その白いスクリーンの向こうに、否応なく思い出す。
文の顔。さっきの出来事。そして、あの感触。
私を呼ぶ文の声。私を撫でる手の柔らかさ。
温かい文の体。文の鼓動。文の呼吸。それと────
「……文」
……どうして、そんなことをしてしまったのだろう。
涙に濡れ、握り締められてくしゃくしゃになったハンカチ。
そこに私はそっと、自分の顔を寄せていた。
すん、と鼻が鳴る。
文のにおい。
ほのかに甘い、桃のような香り。
かすかに、でも確かに、さっき抱きしめた、抱きしめられたときと同じ。
何度も、小さく息を吸う。
においが、胸に染みこんでくる。
文の体の暖かさ、柔らかさが、頭の中によみがえってくる。
右手が、熱く火照った場所に伸びた。
「んっ……」
呼吸が荒くなる。
頭の中に、文のにおいが充満する。
指が動く。単調に、だけど激しく。
指先が濡れ、布に染みる。熱い染みは指に擦られて、どんどん大きく広がっていく。
「ふ、ぅ……んっ、んんっ……」
ハンカチの端を口に含んだ。
自分の涙の味と、文のにおいが、舌の上で混ざり合う。
「ん、あ、っふ、んっ、あ、あっ……」
ざわり、ぞくり、肌の上を震えが走る。
ぐしょぐしょになった下着の上から、指に力を込める。
文の指先の優しさを、思い出しながら。
文の笑顔を、思い浮かべながら。
そして。
「っあ、やっ……!!」
がたん、とちゃぶ台が小さく跳ねて。
熱い熱い波が、全身を満たした。
◆ ◆ ◆
翌朝。いや、そろそろ昼近く。
何もする気が起きないまま、ちゃぶ台の上に据え付けていた、睡眠不足の頭の上へ、
「おはようございます」
「うひゃぁ!?」
今日も唐突に窓から降ってきた挨拶を、そんな声を上げて振り仰ぐ。
青空を背にして、文がいた。
「いちおう生きてはいるようですね。ちゃんと朝ごはん食べました?」
だからお母さんか、あんたは。
「朝は食べたし! それより連日なんの用!?」
「用はまあ、昨日の心配が半分ってとこですかね。残りの半分は、私物の回収に」
昨日と同じく、すとんと畳に降りる。
「え? し、私物?」
「ハンカチですよ。持ってっちゃったでしょう、あなた」
「あ、ああ、ハンカチなら、そこに……多分もう乾いてると」
窓の脇に吊るした物干しを指差す。昨晩あのあと、綺麗に洗ったハンカチが、私の下着と並べて干しっぎゃああああああ!!
「相変わらず色気のないやつ穿いてますねえ。いい加減もうちょっと大人っぽいのを……」
「うるさぁい!! 見るなっ!!」
慌てて飛び上がって回収し、タンスの中に放りこむ。
そんな私を尻目に、文はハンカチを物干しから外すと、きちんきちんと畳んでから、ポケットに入れようとして。
つと鼻を近づけ、すん、と匂いを嗅いだ。
「ちょっ……な、なな何やってんの!?」
「いや、はたての匂いがするかなあ、と」
「するわけないでしょバカッ!!」
「んー? そうですかねぇ」
し、心臓が、心臓がヤバいっ!
大丈夫、大丈夫、バレるわけない。
昨夜、あのハンカチで、私があんな……うわああああ、死にたい……。
「……やっぱり変ですよ、はたて。何があったんですか?」
「うるさいっ! ない、何もないってば! ほっといてよもう!」
感情のまま叫び散らして、私は文に背を向けた。
ああ、なんでこうなっちゃったの?
ただの変なヤツくらいにしか思ってなかったはずなのに。
なんで? いつから? どうして私は文を、こんなに────
ぐちゃぐちゃの頭の中身が、また涙になって滲みだしてくる。
文に見えないように、私がそれをぬぐった直後。
その腕が、ぐいと引っ張られる。
「なっ……」
「はたて」
強引に振り向かされた目の前に、真剣な表情の文の顔があった。
「情緒不安定の原因、教えてあげましょうか」
びし、と鼻先に指が突きつけられる。
「えっ?」
原因?
原因って、それは、つまり。
つまり、この私の、文への……。
そんな。いや、うそ、なんで見抜かれて、そんな、どうして、
「違っ……!」
「それは、翼を動かしてないからですよ」
つん、と鼻先を、指がつついた。
「……はい?」
え? 翼? 翼がなんだって?
「昨日も言ったでしょう。刺激のない生活をしていると、心が腐ると」
「え、ええと?」
ああ、確かにそんな話を聞いた気がする。なんだ、そっちか。
「うん、その話は聞いたから。だから外出だってして……」
「聞いただけではダメです。外出ったって、どうせただぼんやりフラついてるだけでしょう」
ずい、と膝を詰め、目の前に顔を突き出す文。
起こった空気の流れに乗って、ふわりといい匂いが鼻先を掠めた。
いや、近い近い。近いって。
顔が、唇が、そして目が。
紅くて深い、その目が近い。
「しっかり翼を動かして、風を感じて飛ばなくてはだめです。そういうわけで」
言葉と同時にがっしりと、文の手が私の手を掴んだ。
「……えっ?」
何? なにこれ?
手があったかい。えーと、思ったよりちっちゃくて華奢だな、文の手。でもペンだこが、いやそうじゃなくて。
「行きますよ」
「はえぇぇぇぇえ!?」
にやりと笑った顔が、風をまとって窓へと向かい、私を青空の中へ引きずり出した。
「ちょっちょっちょっとぉ!? 下駄はいてないんだけどっ!?」
「飛ぶだけですよ! そんなもの要りません!」
ぐいぐいと、文は私の手を引っ張る。
ぐんぐんと、私を連れて空へ昇る。
日差しが温かい。風が心地いい。
ところどころに真っ白な雲の浮かぶ、抜けるような青空。
そのただ中に、私と文はいた。
「どうです、はたて」
やがて上昇から水平へ、ゆるやかに、けれど滑るように飛びながら、文は私に呼びかけた。
「空は広いでしょう」
「……うん」
青い青い空は、どこまでも広かった。
昨夜はあんなにも、狭くて息苦しかったのに。
「私たちなんて、ちっぽけなものでしょう」
言われて、広い空の中から、世界を見下ろす。
小さな山。小さな人里。小さな神社。小さな湖。
誰もいない空の中には、小さな小さな、文と私。
「この幻想郷は小さな箱庭だけれど……そんなここでさえ、空は、こんなにも広い」
隣を飛ぶ文の横顔を見る。
その大きな瞳に映るのは、きっと私が見ているのと同じ、大きな大きな青い空。
「こうして広い空を飛んで、ちっぽけな頭を空っぽにする。今のあなたに必要なのはそれなんです」
「ちっぽけな脳みそで悪うござんした」
「言葉のあやですよ」
ふてくされてうつむいた頭の上に、また文の声が降ってくる。
「悩みの種は、どこかで見たようなネタしか拾えないことですか?」
「……うん」
……さっき悩んでたのは、それじゃないけど。でも、確かに文の言うとおり、いつも私を縛りつけているのは、そのことだった。
「苦しいですよね。自分の問題点が自分で分かっていながら、変えることができないっていうのは」
「……あんたに何がわかるってのさ」
「わかりますよ。私も同じですから」
「えっ?」
意外な返事に、思わずまた顔を上げて文を見る。
「知ってるでしょう。私だって、別に売れっ子でもなんでもないどころか、下から数えたほうが早いことくらい」
確かに、そうだ。
人気のネタをあまり扱わないし、刊行だって不定期だし。読者に飢えて人間にまでバラまいている……そんな
「ネタの選り好みなどせず、売れ筋を片っ端から記事にするべきじゃないか。真実性なんか投げ捨てて、センセーショナルな虚構でいいんじゃないか……そう何度も思って、結局なにも変えられず、こうして底辺記者に甘んじている」
いつもの爽やかな声で語る横顔が、いつもほど自信に満ちてはいないように見える。
あの文が、こんなどこか不安げな顔をするなんて。
「……それでも、私よりはマシでしょ」
「五十歩百歩ですよ。念写という手段から離れられず、後追いのネタしか書けないあなたと大差ない。でもね」
そう言いながらいったん閉じられた目が、再び大きく開かれる。
「それが無意味なこだわりなのか、譲れない大切な一線なのか……それを決められるのは、ほかでもない自分だけじゃないですか?」
その瞳には、いつもの強い光があった。
「自分を疑うことは必要ですよ。でもそれ以上に、自分を信じることも大事です。何度も悩んで、だけど毎回、自分はこれでいいんだ、と納得して。そうして私は、今も元気に空を飛んでいる」
遥かな空の彼方を見つめて、にやりと笑う文の顔は、もうすっかりいつもの不敵な記者の顔だった。
「それに、別にいいと思いますよ。ありきたりな写真、ありきたりなネタでもね」
「……はぁ!? 私にはそれがお似合いだって言いたいの!?」
「違いますよ。新聞の価値は、写真やネタだけで決まるわけじゃないって言ってるんです」
突然こっちに話を向けられて、反射的に噛みついた声への返事は、またしても意外な言葉だった。
「いつもと同じ料理でも、食器や盛りつけを変えるだけで、食卓の気分が変わるように……まったく同じニュースだって、取り上げ方次第で変わって見えるものです。むしろ、ありきたりな食材だからこそ、それを懸命に調理しようとすれば、そこには必ずあなたの味が出る」
「私の、味……」
「そして、結構それに期待してるんですよね、私は」
「……は?」
期待?
文が、私なんかに?
まさか、そんなこと……。
「あなたは周りの空気を読まないというか、非常にマイペースなところがありますから」
「……褒めてるつもりなの? それ」
「ええ。時に突拍子もないことをやらかして、それでも平気でヘラヘラしていたり」
「褒めてるように聞こえないんだけど」
結局ただのイヤミか? と一瞬、そう思ったけれど。
「他の天狗とは違う、新しい視点。周囲に迎合しない、どこか独特な感性を持っている。だから思うんです。もしかしたら、その斬新な発想で、この硬直化した新聞業界に、何か大きな変革を起こしてくれるんじゃないかって。だから……」
ぎゅっと強く、手が握られた。
「だから、あの時の言葉どおり、私のスポイラーでいてくれませんか?
あなたの作る新聞が、私にとっても良い刺激になるように」
くるりと首が回り、澄んだ紅の瞳が、私を見つめる。
「文……」
「そして……時には新聞なんか関係なく、こうして二人でただ空を飛びたい。そうも思ってるんですよ」
文の言葉が、涼しく、それでいて暖かい風となって、私の中を吹き抜けた。
その風が私の胸の奥で、大きな鐘を高く鳴らした。
その鐘の音が、遠く遠くどこまでも、この空に響いたような気がして。
いつの間にか、文の手を握る私の手にも、強く力が入っていて。
そしてふと、喉と口が動いていた。
「ねえ、文」
「はい?」
「好き」
文の大きな目が、きゅるんと真ん丸くなって。
それから、ふんわり笑った唇が開く。
「ええ、私も好きですよ、はたてのこと」
「え?」
「えっ?」
なんて?
今なんて言った?
文が? 私を?
いや。違う。
違う、そこじゃない、その前だ、ななななな何を言った数秒前の私ィッ!!!!
「ちっ……ちがっ、違うのっ! 今のは、そ、そ、そういう意味で言ったんじゃなくて!!」
「はーぁ? じゃあどういう意味なんです?」
「だからっ、私はっ、文が、いやそうじゃなくて、昨日のっ、違っ昨日のアレはっそのっ」
目と頭とをぐるんぐるん回す私に、文は大きくため息をつき、
「まったく……これは少々、荒療治が必要ですねっ!」
ぐいっと力強く、手が引っ張られる。
景色が、一気にすっ飛んだ。
「はえっ!?」
翔ぶ。
私を引っ張ったまま、文は翔ぶ。
速い。速い。
どんどん速度が上がる。
風が、体の周りで裂ける。
空が、雲が、大地が、緑と青と白が、ぐるぐるぐるぐる回って混ざる。
「ちょっ、ちょおおお!? 待って! 待って、速すぎるっ! 文っ!」
「まだまだまだぁ! その湿った頭が空っぽに乾くまでいきますよーっ!」
「うひゃあああああ!?」
上へ、下へ、東へ西へ。
ひねり、渦を巻き、ジグザグに雲の尾を引いて。
幻想郷最速の、曲芸飛行。
天空に悲鳴を撒き散らしながら、私は文に引きずられ続けた。
「ぎゃー!! あー! わーーっ!! ぎゃぁーーーっ!!!
あーっ! あっひゃーっ!! っあ、あひゃっ、あは、あはは! あははは!! あははっはははは!!!!」
いつの間にか、悲鳴が笑い声に変わっていた。
「あははは! あっははははははは!!」
文も笑っていた。
二人で笑った。笑いながら、どこまでも飛び続けた。
爽やかに風が吹き抜けていく。
空っぽの頭に、たった一つの言葉。
「「好き」」
その想いは、きっと届いた。
この広い広い、空のどこかに。