※この作品はR-18です。

双月の手繰る糸    作:紅月RIN

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第2話

離せば銀の糸が互いを繋いだ

先程まで唯月の胎に収まっていた肉の楔は、漸く元に戻り暴れ狂う熱が鎮まったところだ

(誰にもまだ触れられていなかった)

奥へ奥へと押し進めた時、浅い場所で楔を阻むソレを感じ取った時には、思わず口元が緩んだ

未だ誰にも触れられず、清いままの華を手折るのは自分だけ

辿々しく上がる嬌声も、頭の芯を焼き焦がす甘い香りも、絶えず吸い付いて離れない最奥の華の淫らな感触も

それら全てを感じているのは自分1人だけ

他の誰も知らない、唯月の見せる初めての表情

優越感で満たされて、会話を交えながら揺さぶりを掛けるという目的を忘れていた

不惑を過ぎたというのに、若き日の青い自分のように、我を忘れて彼女を抱いた

首筋に何度も跡を刻み、自分の手を借りるつもりはないと言い張るのが、少しだけ気に食わなくて、その度に下から突き上げて啼かせてみたり

抜いた楔に纏わり付く白濁を眺めて、また仄暗い笑みを浮かべて、この胎に蒔いた種が早く芽吹いて根付けば良いと願った

目隠しに使った黒い手拭いを外し、前開きの下着と青いブラウスの釦を止め直してやる

初花を散らされた直後の疲労で、唯月は未だ眠ったままだ

壊れ物を扱うように、ゆっくりと横抱きにした後は片手で引き戸を開けて、無造作に転がした草履を履き直す

待ち構えて適当な離れに連れ込んだが、彼女が露天風呂の近くを通ったということは、桜の木が植わっている近辺に自室があるということ

殆ど屋敷の端に近い場所で、人気もなく警備が最も手薄なところである

事が済むまでの仮住まいとさせるにしても、後遺症が残る左足のこともあるし、多少の改装と調度の吟味は必須だろう

目的の場所を探して、蕾が膨らみ始めた桜の木々の間を縫うように歩く

朝の透けるような陽射しが暖かで、そよぐ風は柔らかく髪を梳いて、幾つもの花の蜜を煮詰めて、程よく薄めたような甘い香りがそこら中から漂ってくる

空色、薄紅、菜花色、翠、淡い色彩のパレットを思わせる景色を抜けると、同じように、今度は濃淡を付けて鮮やかな色合いを持たせた庭の真ん中に出た

今立っている場所から振り返れば、桜の木々が全て見渡せる

庭から前にあと少し歩けば、日当たりの良い縁側に到着だ

表座敷で唯月の横に控えた珠希の姿がその離れの中に見えたのと、他に2名世話役がいて、執事が縁側の奥に立ち、何やら思案しているような顔で、手元の紙をじっと見つめていることから、ここが唯月の部屋だと分かった

「今帰った、部屋の差配は俺がやる故、皆1度此方へ集まれ」

「おかえりなさいませ旦那様、失礼ですが唯月様はどこかで倒れられたのですか?」

自分達の姿を見た執事は、すぐさま靴を履いて近くまで寄って来た

室内にいた者も全員庭先へと集まってくる

「いや、あの後少し2人で話をしていてな・・朝早くから起きてあのように込み入った話をしていたから疲れたのだろう

話の途中で眠ってしまったのだ、そのままにしておく訳にもいかぬので、俺がここまで運んできた」

「それでは、唯月様がお目覚めになられましたらすぐにお食事を出せるように致します

此方はまだ支度が整いませんので、母屋でお休み頂くことになりますが・・お部屋は如何致しましょう?」

世話役筆頭の珠希は、昔と変わらず必要な時に必要な処置を行える

恐らく自分がこの離れにずっと唯月を住まわせることはないと知っているのだ

「そうだな、ここはあくまで事が済むまでの仮住まいとせよ

元々この一帯は花見のために整えられた場所だ、客人用であって家人が住むには不適当だからな

母屋の開かずの間をもう1度、畳から調度まで全て新しく入れ替える、後で俺が指示を出すのでまずは掃除を頼む

約1週間あれば足りるな・・その間は俺の部屋の隣に住まわせる

唯月は左足の具合が悪い、なので布団ではなくベッドを置いてやってくれ

それと立ち上がる時に手すりになるような物も、その近くに置いておけ

表座敷にあった座椅子と円卓も忘れずに運ぶのだ、唯月の普段使う物はなるべく手の届く範囲に置いてやれ

装飾品は少なめに、壺や皿などの割れ物は下げよ・・その代わり絵や押し花などの飾りは増やせ

寝室の壁を塗り替えるには時間がない、色の合った布を掛けて、全体のバランスを取れ

花は俺が活ける、それとあれを唯月の目に触れない部屋に移せ

癇癪を起こして此方に怪我をさせられては困る、近々相応の物を持たせて屋敷から出すがな」

「かしこまりました、旦那様」

粗方の指示を出し終えると、彼女を抱きかかえたまま縁側に腰掛けた

珠希と世話役達は、急ぎ母屋の方の支度を整えるため、全員がそちらにかかりきりになっている

2部屋に渡るため、あちらでは手の空いている使用人を総動員していることだろう

離れの中を見ながら、合わせる物を考えた

畳はそれなりに年数が経って藁色に変わっているが、仮住まいなので敢えて取り替える必要はあるまい

「ここは、派手に飾り立てる必要はない

敷布団は厚めの物を2枚重ねてベッド代わりに、リクライニングの座椅子をひとつ置いておけ、それに合わせたテーブルもだ

箪笥はあれ以上高くなれば、唯月が使い難いだろうから、そのままで良い

掛け軸は風景画か動物の絵に変えろ

奥と手前に2つで良い

あまり華美にせず、簡素でも質の良い物を最低限揃えるのだ

それと昼間はあまり構わずとも良いが、夜間の見回りコースにここを追加させろ

あれらがもし唯月に接触しようとしたら、その前に止めろ、ここには唯月の家族とお主と世話役、それと俺以外は入れるな、誰であっても例外はない」

「かしこまりました」

手元の紙に指示を書き綴って、物品の手配に戻っていった執事を横目で見送り、再び腕の中に目を落とす

長時間横抱きにしても疲れは全くない

唯月はとても軽くて、どこもかしこも細かった

比較的細身の自分の腕と比べても、厚みはその半分程度で、本当にこの腕で大太刀など振るえるのかと心配になる

確かにここにいるのに、いつか消えてしまいそうな気がして、でも手紙を読む限り唯月は、実際にそうする気なのだろう

それが単に姿を消すという意味であるのか、また別の意味であるのか、まだ解らないけれども…

寂しい、悲しい、痛い、憎い、愛しい、欲しい、閉じ込めてしまいたい

正と負の感情が綯い交ぜになって、言葉が出てこない

20年、ずっと会いたい、もう1度触れたいと渇望していたのに、いざ現実に手の内に入れてみれば、すっと頭が冷えた

唯月が目覚めた時に、何から話していいのか分からない

いや、その前に平常心を保っていられるのだろうか?

「お主は…やはりまた刃を握るのだな…」

指の跡がくっきり残った鉄の鞘

解けてバラバラになった柄巻きの糸

刃毀れの酷い刀身

いつかの遠い記憶の断片が鈍い痛みを連れて甦る

身に降り掛かる火の粉は自分が全て掃うというのに、生まれ変わっても守られてはくれないらしい

「ならば俺は、その刃が血で汚れぬよう計らうのみよ・・・」

存外、唯月という女は詰めが甘い

緻密な計算で策を練る反面、自ら綻びを作っていく

部屋の場所を執事に口止めしていながら、その翌朝には自らの口でぽろりと離れだと零す

先陣を切るにも向かないが、軍師に向いているとも言い難い

いやそもそも荒事自体に向く性質ではないかもしれない

目に見えぬ守りを固めるのは自分の得手とするところだ

ひっそり笑みを浮かべながら、愛らしい寝顔をじっと眺めた

 

 

陽射しが薄い金糸雀色に変わった頃、執事が再び離れへと戻ってきた

母屋の部屋の支度が整ったと告げ、また愛人として囲っていた女も、使用人達が起居する棟へと移したともいった

「手間を掛けたな、それで唯月の部屋はどうなった?」

「いえ、最近は特に奇行が目立つという話も聞いております・・唯月様が此方に戻られた以上、機会あらば必ず危害を加えるでしょう・・・唯月様のお部屋はこのように致しました」

執事は端末をポケットから取り出し、写真をタップして見せてくる

入ってすぐの霞棚には写真サイズの額縁に入った桜とフリージアの絵が上の段に、風信子の絵が真ん中にあり、両脇は空白

空白には唯月の私物を置くということで、目覚めたら必要な物を取りに行くという

30畳ある部屋の中央には薄い茶色の四角いテーブル、白色の座椅子、床の間には木蓮の掛け軸と黄色と桃色のウサギの木製の置物が置かれている

箪笥の代わりに蓋つきの籠が4つ置いてあって、そこに当座の衣服などを仕舞うようにしたらしい

並びに小さな円卓が置かれていた

寝室を隔てる襖は外され、天井から御簾が下ろされている

その上部分には、自分が好んで着る狩衣の色と同じ蒼の地に袖にある物と同じ三日月の意匠が左右に2つ並んでいた

「お主、これは露骨過ぎないか?」

「僭越ながら、一門のお歴々の中には、未だ旦那様が後添いを迎えず、お子が1人もいないことに気を揉む方もいらっしゃいましょう、まして側女がいながら長いことお子が産まれないとなれば、また煩く言われかねません

そうなれば唯月様も落ち着いてここにはいられますまい・・私めの判断でこうさせて頂きました」

「確かにその意味は間違ってはおらぬが、果たして石切の叔父上が納得して下さるだろうか・・」

「旦那様に会わせるつもりがなくば、石切の大旦那様は最初から此方に唯月様を預けるようなことはなさらないかと・・

きっと何かお考えがあってのことでしょう」

顔を隠そうが、姿を隠そうが、屋敷の中で動いていれば必ず使用人達の間で噂になる

まして亡き妻に瓜ふたつなら、巡り巡って必ず自分の耳に入るのは明らかだ

それを分からない叔父ではない

最初から、そのつもりで唯月をここに送ったのか・・・

「肝心の寝具はどうなった?戻ったらすぐに寝かせる」

「和風のベッドに致しまして、高さはあまりありません・・畳の上に布団を敷いているのと同じ感覚でお休み頂けます

あまり布の類を付けますと、夜中にお部屋を出られる際に怪我をなさる可能性もありますので、正面の壁のみ布を掛けました

天蓋は上から半分までの長さにしてあります」

また別の写真を見せながら、執事は細かく説明してくる

「ふむ、急ごしらえにしては良い仕上がりだ、では戻るぞ」

空白に私物が入れば、もう少し華やかな雰囲気になるだろう

良く眠る唯月を起こさないように立ち上がり、背後に執事を従えて元来た道をゆっくり戻った

「おかえりなさいませ、旦那様」

玄関から続く長い廊下で立ち働く使用人達が一礼していく

足早に自室へと急ぎ、隣室に控えていた珠希に目配せして襖を開けさせる

小物を除けば、蒼と白と茶で統一されていて、無駄のないすっきりした印象を受ける部屋だ

後ろに付き従う執事が御簾を持ち上げれば、真新しい白木のフレームに薄緑の畳の貼られたベッドが目に入る

高さは自分の脛の中程までで、ベッド兼足を伸ばして寛げる大きめのソファーといったところだろうか

ちょうど羽根枕の置いてある真横に小さな手摺りがあり、天蓋には真っ白な絹布が四方に垂らされ、金の飾り紐が4つ揺れている

正面の壁には生成り色の目が粗い布が掛けられ、葉書サイズの押し花が横並びに3つ紐を通して固定されていた

真新しい布団も、上掛けはやはり蒼で他は皆白一色だ

ベッド下の籐の籠にはクリーム色の丸いクッションが3つ仕舞われている

寝室の襖がないのは、なるべく遮蔽物を少なくして、部屋の中の行き来を楽にするためらしい

上掛けを捲り、唯月を布団に寝かせると起こさないようにまた元に戻した

「そろそろ昼餉の時刻になりますが、本日はどちらで召し上がられますか?」

時計はもう11時半を過ぎている

「今日は自分の部屋で食べる、それと3時には唯月の好物を用意してやれ」

「かしこまりました」

早朝から意識を飛ばすほど無理をさせてしまった彼女に、これ以上の負担を強いる気はない

眠る顔も愛らしいが、出来るなら今度は起きた状態の唯月を目の前で見たいものだ

後のことは珠希に任せ、ひとまず隣の自分の部屋に戻った

 

 

side唯月

不意に目が覚める

ぼやけた視界がクリアになると、至るところに白が見えた

白木、薄緑の畳、布団の白、手摺り、金の飾り紐

見覚えのない景色

軋む関節と鈍い痛みが残る腰から下の怠さを堪えて起き上がった

上掛けは蒼く、顔を右隣に向ければ御簾がぴっちりと下ろされている

寝かされているのは、マット部分が畳の所謂和風ベッドで、高さはそれほどでもなく、手摺りに掴まれば無理なく立ち上がることもできた

あぁ、そういえば今日は離れの調度品の入れ替えがあるかもしれないと、前夜に言われていたのだった

ということは、ここは母屋のどこかの部屋なのだろう

「お目覚めでございますか、唯月様」

御簾越しに、良く知った声がしてほんの少しだけ安堵した

「ええ、私は朝からずっと寝ていたのですね…片付けを手伝いもしないでごめんなさい」

ただでさえ、あの離れと母屋の距離は遠い

きっと何往復もさせてしまったはずだ

皆が一生懸命働いている時に、本人が寝こけていて本当に申し訳ないと思う

「いいえ、申し上げ難いのですが、唯月様をここまで運ばれたのは旦那様でございます…早朝からずっと大事そうに、腕の中で抱いていらっしゃいました

先程、このお部屋に来て漸く手が離れたくらいですよ」

「あの、旦那様は他に何か私にしませんでした…?

その、何というか…いかがわしいようなことは…」

早朝のことを思い出して、顔が真っ赤になった

「いえ、普通に抱っこしておられましたよ

いつになく良いお顔で、唯月様を見ていらっしゃいました」

「そ…そうですか、それなら良いんです」

少し左足の先を引き摺りながら、御簾の外へ出てみる

だだっ広い畳敷きの部屋は、必要最低限の物しか置いていない

床の間にあるウサギの置物は可愛かった

寝室の襖はなく、代わりに御簾が下げられ、上にはかつての夫の目印ともいえる、蒼い布に三日月の意匠が左右に2つ並んでいた

「離れはもう支度が終わったのですか?」

何となく居辛くて、あちらの支度が終わったのなら早く戻りたい

「それにつきましては、旦那様より幾つか言付かっております

まずあちらは、唯月様の事が済むまでの仮住まいにせよと仰せになりました

そして現在開かずの間となっている、以前のお部屋をもう1度畳から調度まで、全てを新しく入れ替えるとのことです

約1週間で、全ての作業が終了致しますので、その間は此方のお部屋でお過ごし頂くようにと、私共に命じられました」

やはり、離れにずっと住むことは許されなかったようだ

「分かりました…ところでこの部屋は母屋のどのあたりでしょうか?」

「はい、旦那様のお部屋の隣でございます」

「…他に空き部屋はなかったのですか?

ちょっとあまりにも気まずいんですけど…」

「申し訳ございません、それも旦那様がお決めになられたことです

私共では何とも…」

「…仕方ありません、なるべく私が隠れているしか方法はありませんね

後で、また離れへ行って荷物を取ってきます」

「お食事は召し上がられますか?」

「はい、軽めでお願いします」

「かしこまりました、すぐにご用意致します」

相変わらず上品な所作で退室する背を見送り、ちらりと床の間がある方の壁を見てしまった

彼は今何をしているのだろう…

もう食事は終えたのだろうか

気にならないといえば嘘になる

(私にしたように愛人も抱いたの…?)

まさか、この配置も自分へのあてつけなのか?

何も言わずに逝ったことへの無言の…

悪い考えを止めるように頭を振った

いけない

自分は復讐のためにここに来たのを忘れたのか

色恋にかまけている場合ではない

「お待たせ致しました、唯月様…

お食事でございます」

手際よく四角いテーブルに並べられていくのは、温かな湯気の立つ中華粥の入った土鍋と、出汁を取った後の鶏肉を裂いて、ごま油と醤油で味付けした物、すりおろした生姜、細切りにして揚げたワンタンの皮、刻んだ白胡麻、小松菜を炒めた物、若布と玉子の澄まし汁、胡瓜の甘酢漬にデザートの杏仁豆腐だ

土鍋は1人前の大きさで、小鉢もそれぞれ多すぎず、少なすぎず程の良い量が盛られ、シンプルながら見た目にも美しい

座椅子に座って徐に足を伸ばし、食事の前の挨拶をした

レンゲで粥を茶碗に取り分けて、一口食べると雑味のない、鶏出汁の上品な味がする

やはり、ここの厨の料理人はとても腕が良い

それぞれの薬味を加えて、味を変えてみても出汁の味を損なわず、それでいて薬味自体の味も生きている

澄まし汁も甘酢漬も美味しかった

デザートの杏仁豆腐は、またいつかここにいる内に、もう1度お願いして作って貰おうと思う

「珠希さん、ひとつお願いしたいことがあります」

食後の烏龍茶を飲みながら、ここにいる内にやらなければならないことを思い出した

「はい、何でしょう?」

「ここに、あの男の娘さんがいるんですよね?

その人に、1度だけ会いたいのです

部屋の場所を教えて貰えませんか?」

「…っ申し訳ございません唯月様、それだけはお受けすることができません…」

さっと顔色を変えて、珠希さんは平伏した

「旦那様…ですね? 

私に居場所を教えるなと、そう言われているのでしょう?」

「私からは何も申し上げられません、ですが、あの近くへ行かれるのはとても危険です」

「分かりました、そこまで言うのなら、無理にとは言いません

ただ、危険というのはどういった意味ですか?

私がその場所に近付くと、襲われるとかそういうことでしたら、多少なりとも護身術の心得はありますから、心配には及びませんよ」

珠希さんは、浮かない表情で言葉を継ぐ

「実は、旦那様の愛人もその部屋の近辺に移されました、娘さんよりも此方が問題でして…近頃は奇行が目立つようになり、もし唯月様を見れば、問答無用で襲うでしょう

素手なら対処も出来ましょう…万一、凶器になる物を持っていた場合、お怪我をなさるかもしれませんし、最悪はお命に関わることにもなりかねません

ですから、どうか今は此方で静かにお過ごし下さい

あのお二方のためにも…」

最後の一言に不穏な物を感じて、再度問いかけた

「私に何かあると、その2人に不味いことが起こるのですか?」

「はい、唯月様にかすり傷ひとつでも付いたら、旦那様はその場で愛人も娘さんも斬り捨てるでしょう

そうなればまた20年前の嵐がまた吹き荒れます

私共は、それが堪らなく恐ろしい…」

恐らく、自分の死後に何かしら悶着があっただろうと予想していても、実際話を聞いてみると、きっと旦那様は想像を絶する方法で報復をしたのだろう

これは、1度じっくりと話を聞く必要がありそうだ

「…珠希さん、抹茶は好きですか?」

暗い雰囲気を和らげるように話題を変え、離れに行く口実も作る

「はい、好きですよ

唯月様は何か芸事を習われていたのですか?」

「ええ、茶道と書を少し…離れに道具一式があるので取りに行きたいのですが、手伝って貰っても良いですか?

此方に持ってきたら、2人でお茶にしましょう」

「かしこまりました、それでは私もお供致します

薄茶でしたら干菓子が付き物ですね

誰ぞに頼まなくては…」

「略点前ですから、畏まらなくても大丈夫ですよ

お湯はポットですし、お盆の上で点てるだけですから、今日ある物で構いません」

「和菓子なら桜餅の用意がございますよ

洋菓子なら苺のショートケーキとパフェもあります」

「本当ですか!苺のケーキは大好きなんです…嬉しいなぁ」

「でしたら、コーヒーの用意も致しましょう…また何か食べたい物など、私にお伝え下されば厨に伝達しますので、どうぞ遠慮なさらず、仰って下さい」

「はい!ありがとうございます」

母屋の廊下でとりとめのない会話をしながら、玄関を出て、広い庭を眺めながら離れを目指す

その途中、珠希さんに前の自分が死んだ後のことを色々聞くことができた

旦那様が私のことを全て調べたこと

姉さんのことや両親のこと、元婚約者の所業、全てを知った後1週間、旦那様はろくに飲まず食わずで自室に閉じ籠もり、泣き続けていたこと

自室から出た後は、前の私のように復讐に駆り立てられ、手始めに父の会社を裏から手を回して潰し、家も財産も全て奪い家族を路頭に迷わせたという

お祖父様とお祖母様は、私が死んですぐに心労から身体を壊して、間もなく互いの後を追うように亡くなったらしい

元婚約者の会社は、それから20年、生かさず殺さず、手を回して仕事を与えないようにして、資産をじわじわと削り取り、どうにもならなくなった去年あたりから、あの男は娘を人身御供にして旦那様から資金援助を受け始めたようだ

援助といっても雀の涙ほどしか貰えないので、運転資金にさえならずとうとう自宅や車まで売却したそうだ

それでも手持ちの資金が底をついたようで、後はお姉様が調べてくれた通りだ

持たないと分かった時点で、援助は打ち切られている

あの優しかった旦那様は人が変わったように、時として冷徹な手段で次々に前の自分の敵だった人間を葬っていた

真綿で首を絞めるように、何年も苦しめて・・・

それでも姉さんの遺骨を引き取ってくれて、菩提寺の一角にお墓を立ててくれていたことは唯一の救いだ

ずっともやもやしていたことが、ひとつ晴れた

明日、天気が良かったらお墓参りに行こうと思う

離れに着いて、またスーツケースに着替えや本などを詰めていく

香炉とノートパソコンは向こうで然程使うこともないので、これはそのままに、書の道具はケースの一番上に仕舞い、茶道の道具類はお盆に乗せて珠希さんに持ってもらった

立て掛けた大太刀も忘れずに左手で持つ

とりあえず7日分の荷物だけを持って、また母屋へ戻る

「お道具類も良い品でございますね、此方はどなたのお見立てですか?」

「お祖母様が買ってくれた物なんです、ああ見えて色々な免状を持っているんですよ」

「石切の大奥様には当家のお坊ちゃま方が、大変お世話になりました

ええ、その昔旦那様も書を習っておられましたので」

「あの字はお祖母様仕込みでしたか…実は茶道と書の師はお祖母様なんです

剣は父から習いました」

「そうでしたか…左足のお加減は如何でしょう?痛みや日常生活での不自由などはありますか?」

「軽度ですが、膝のお皿を損傷してしまいまして…正座などの姿勢を取ることはできません、基本的に足を伸ばしたままになります

まだリハビリ途中なので、日によって痛みが出たり、歩けない時がありますね

あと膝の曲げ伸ばしが自由にできません」

「かしこまりました、また後日主治医の先生がお見えになりますが、その前にお伝えしておきます」

「はい、それと明日は私、朝から夕方頃まで外出しますので、珠希さん達はその間休憩していて下さい」

「それでは、車の手配を致します・・念のため護衛の者も付けましょう」

気持ちはありがたいが、明日だけは1人静かに過ごしたい

「いいえ、それには及びません・・すみませんが明日だけ私1人にして貰えませんか?」

「かしこまりました、春とはいえ日が落ちるのは早うございます・・夕方5時までにはお戻り下さい」

何故か、実家のお母様に言われることと同じことを言われて、説いて聞かせるように、珠希さんは再度同じ言葉を繰り返した

また自分の部屋に戻ると、食べ終えた食器は既に片付けられ、入り口付近に2人の女性が正座している

どちらも20年前、前の自分の世話役として付いてくれた人達だ

「おかえりなさいませ、唯月様…本日よりまた私共が、身の回りのお世話をさせて頂きます」

「ただいま帰りました、此方こそ、改めましてどうぞよろしくお願します」

前にここで過ごした過ごした日々は、とても穏やかで、彼女達の顔を見ると懐かしい思い出が幾つも蘇る

「珠希さん、せっかくですから皆でお茶にしましょう…お茶は私が点てます

ポットのお湯と茶菓子の用意をお願いできますか?」

茶碗も人数分の用意を頼み、お盆を受け取って道具をそれぞれの場所に置いた

刀は危ないので、ベッドの前に立て掛け、手伝って貰って書の道具は霞棚の空いたスペースに入れ、着替えは蓋付きの籠の中へ入れて貰う

膝の曲げ伸ばしが不自由なため、こういう時に自分ですぐに出来ないのは、ちょっと歯痒い

厨へ行った珠希さんの帰りを待つ間、今度はひっそりと、屋敷の内情を彼女達に聞いてみた

それで分かったことは、奇行が目立つという件の愛人は、旦那様とは閨を共にしたことが1度もないことと、結局、自分の身代わりとしてこの屋敷に留め置かれているということだ

傍に置いても、何を話すでもなく、旦那様は無言で仕事であったり、何か趣味のことをしているらしい

その人の名前も呼ぶことなく、時折昔を思い出しては、那月としか言わず、声も立てずに泣いているという

そしてあの男の娘さんは、狭く、日当たりの悪い部屋に住まわされ、日常の用を足す以外は自由に出歩くことを禁じられているらしい

自分を早死にさせたあの男の血が流れているだけでも、憎しみの対象となっているようで、娘さんの顔を見れば冷たい表情で詰るのだと・・・

ここまで聞いて、愛人は奇行が目立つのではなく、心を病んでしまったのではないかと思った

そこにいても、いないのと同じ

自分ではない誰かの身代わりで、名前すら呼んで貰えない

きっと、彼女はどこまで行っても手の届かない月に魅入られてしまったのだ

「…旦那様は、昔の私になってしまっているのね…

きっと今は何も見えていない…」

あの時、差し伸べてくれた手を取らなかったのが罪なのか

望む物も地位も権力も自分にくれると、貴方は言ってくれたのに、それでも頑なに口を閉ざしたのが罪なのか

貴方を置き去りにして、背を背け続けて、声も心も何もかもを、受け取ろうとしなかった自分自身が罪なのか

真実をひとつ、またひとつと知る度に、ズキリと心が痛い

苦しくて、悲しくて、それでも涙は出なかった

「ごめんなさいね、貴方にはあんなモノを見せたくはなかったのに…」

憎み続けることの苦しみも、悲しみの極地に囚われることの痛みも、嫌というほど良く知っている

事が終われば、すぐにでも消えるつもりでいた

だけど終わりのない暗闇に落ちてしまったあの人を、このままにしておいて良いのだろうか…

昔、自分が目を曇らせて、自ら作り出した地獄でもがいていた時には、旦那様は理由を知らないまでも、何とかそこから救おうと手を尽くしてくれたのに…

行き着く答えは今ならもう解っている

抜け出す術は知っていても、救い上げる術を自分は知らない

足音が部屋に近付いて来ても、まだ笑顔にはなれそうになかった 

 

 

茶碗の中で、軽やかに茶筅が踊る

作法に則り、規則正しく点てられた茶が目の前に置かれていく

取皿に乗った桜餅の色に、茶の緑が良く映えた

四角いテーブルを皆で囲むように座り、そのちょうど真ん中の席で、彼女は集まった顔ぶれを見て、安心したように笑っている

「あれから随分経つから、全員が揃うことはないと思っていました…執事さんには感謝しかありません」

「私共も、初めに珠希さんから話を聞いた時には驚きました

ご安心下さい、このことは屋敷の誰にも口外致しません」

「ありがとうございます」

至って平和な午後のおやつ時である

とても数日後に嵐の到来が控えているとは思えない、ごく平凡な日常の風景だ

微かな笑い声が絶えず聞こえ、昔話や今の家族のことなど、あれこれと話題が尽きることはない

襖越しに漏れ聞こえる声を聞くと、確かにここに唯月がいるのだと実感出来て安心する

家具のカタログを捲りながら、彼は静かにその声に耳を澄ませた

「何やら隣は賑やかですな…昔を思い出します」

傍近くに控える執事は目を細めて笑みを浮かべている

「ちょうど3時だな…世話役も入れて茶を飲んでいるのだろう、何ぞ厨で菓子を見繕って持っていってやれ」

「かしこまりました、旦那様」

音もなく立ち上がると、静かに退室していく

(それにしても、同じようでいて同じではないのだな…昔よりはっきり物を言うようになった…)

儚げで誰かが手を引いてやらねば、迷い込んでそこから抜け出せない、そんな危うさを感じさせたあの頃とは全く違う

煮え滾る激情と張り詰めた氷のような冷静さ、相反する2つの感情を上手く同居させている

どちらが勝るでもなく、凪いだ海のようにただ静かにそこに在るのだ

1点の曇りなく、感情に流されず、目的を見失うこともなく

確かに執事が言った通り、強くなった

心の中で彼女に何度も問い掛けては永遠に返ってくることはなかった答えを、今なら聞くことができるだろうか・・・?

時間を置いて戻って来た執事は、盆の上に抹茶の茶碗と桜餅をそれぞれふたつ乗せていた

「ほう・・今日は抹茶か、誰が点てたのだ?」

「唯月様のお点前です、先程の菓子のお礼にと旦那様と私に点てて下さいました」

「そうか、ではありがたく頂こう・・・隣で何か変わったことはなかったか?」

目の前に置かれた、黒の美濃焼の茶碗の中で鮮やかな緑が僅かに撥ねる

彼女は泡の少ない点て方を好むのだろう、浮かぶ泡は少量で味も申し分ない

見事な点前だった

隣で執事も、何か孫を見るようなほっこりした表情で茶を飲んでいる

「特に何もないようでした、ですが唯月様は明日、お1人で外出なさるそうです」

「俺の車はすぐ出せるか?」

「はい」

「ディーラーに電話して、助手席を後部座席と同じ仕様に替えさせろ

多少割増しになっても構わん、明日の午前中までに間に合わせるように伝えておけ」

「かしこまりました、すぐに手配致します」

執事がその場でスマホを取り出して、業者に連絡しているのを聞きながら、明日から幾日か何も予定がないことを思い出す

数年前からは、弟達に任せられる仕事も増えてきた

そのお陰で、こうしてのんびりと屋敷で過ごせる時間を多く持てるようになっている

若い頃、那月にしてやりたくても出来なかったことが、今は唯月にできる

恐らく、唯月も前のことで何かしらの後悔を抱えているだろうが、それは此方も同じだ

仕事や家中の雑事に追われて、あまり那月を構ってやれなかった

2人きりで旅行や、どこかに出かけるということも出来なかった

もっとまめに部屋に通って、話したり触れ合っていれば、様子がおかしい、どこか元気がないなど、すぐに気付けたはずで

昔の苦い思い出を掘り返せば、後悔などとてもひとつでは足りない

口の中に広がる桜餅の甘さに、ほんの少しばかり塩の味が強く感じられるのは、無理矢理に心の古傷を開いたせいだ

障子の色が朱から藍色へ変わる頃、屋敷のあちこちで真白や薄黄の燈が灯る

人工の白い燈の真下で、そこそこの厚みのある資料を、ほんの手慰みに捲っては戻しを繰り返す、整えられた指先は一番上のとある男の写真を、ぴしゃりと弾いた 

平素は種々の花や枝物を、長年積み上げた技術と歳を追うごとに冴え渡る勘でもって美しく、在るべきところに収めるその指は、男にしては繊細で優美さが滲み出ている

「貴様の始末を真っ先に口にさせるとはな…唯月の意識にその名があることすら腹立たしい…」

一時の預かり物故に綺麗な状態を保っているだけで、もしこれは要らぬ、好きにしてくれと言われたなら、彼は迷わず所有する太刀で、判読不可能な程に切り刻んだだろう

最愛の妻の命を縮めた怨敵

本来なら、彼女が健やかに育つはずだった芽吹きの時期を、怨嗟と悲嘆の暗闇に塗り替えた、憎い仇

そして新たな生を受けても、未だ唯月に憎しみを抱かせる、彼にとっては最早疫病神とも言うべき、あの男

「貴様はこの俺から半身を奪ったのだ…決して楽に終わらせてなどやらぬぞ」

ぞっとするような低い声で呟くと、またテーブルの上にそれを戻す

感情の読み取れない冷えた青嵐の瞳が、写真を射抜いた

 

 

漆黒の空に玻璃や金剛石を細かく砕いてばら撒いたような、無数の寒色の煌めきが遥か彼方で明滅を繰り返す

春の宵はまだ少しばかり肌寒い

黒の夜着に浅葱鼠の帯を締め、人気の少なくなった母屋の廊下を、ゆったりとした足取りで彼は自室に向かって歩いていた

ちょうど厨の近くを通った時に、見覚えのある背中を見つけて話し掛ける

「珠希か、唯月はどうしている?」

「先程、お風呂からお戻りになられましたので、水菓子のご用意を…

ベッドをソファーに変えてお休みになっています

唯月様は、それがいたくお気に召されたご様子でした」

最初からソファーに置くことを考えてか、木製の深鉢に懐紙を敷き、その上に良く冷えた生の茘枝が品良く盛られていた

それをさらに、目の細かい持ち手の付いた籠に入れて持っている

「生の茘枝か…珍しいな」

「夕刻に、石切の大旦那様のお使いの方がお見えになりました」

近々、孫娘の顔を見に来るという伝言と共に、これを土産に置いていったと言い、聞けば神楽井の家からも、時折は菓子や珍しい酒などの差し入れがあるのだと話した

「ふむ、それならこれは俺が持っていこう

ちょうど、今朝唯月が忘れていった物を返しに行くところだ」

「人払いは致しますか?」

「ああ、頼む」

「それでは私は、これにて失礼致します

旦那様…くれぐれも唯月様を無理矢理、ご自分の閨に引っ張り込むようなことはなさいませんように…

唯月様はまだ成人されていません、ややが出来たら、石切の大旦那様と神楽井の旦那様にお叱りを受けますよ」

眉を潜めて、忠告してくる彼女はさらに言った

「唯月様の首筋に、それらしき痕がたくさん付いておりました…全く、朝も早い内から貴方様は何をなさっているのですか…」

「お主…見たのか、あれを…」

「はい、お召し替えの際にしっかりと…

石切の大旦那様がいらした時に、嫁取りの相談をなされませ

手順を飛ばしてはまた面倒なことになります」

「うむ…そうだな、聞いてみよう」

静かな口調で早朝の色事を窘める、珠希の追撃の手は緩まない

良い歳をした男が、ぐうの音も出ず、視線を彷徨わせながら、ただただ頷いている様は何とも形容しがたいものがある

その最後に彼が望むことへのアドバイスも残していくあたりは、流石というべきか

叱られているのか、発破をかけられているのか、いまいち判然としないものの、ここで長話をしていては、せっかく良い塩梅に冷えた茘枝が温くなってしまう

籠を受け取ると、少し足を速めてまた歩き出した

 

 

ザラザラした茶色の薄くて少し硬い皮の上部を、指先で力を入れて引っ張るようにして剥ぐ

手間なのは、初めのこの作業だけで、後は楽に剥くことができた

つるりとして光沢のある、乳白色の果実は噛むと弾力があって、柔らかでいて甘い

マスカットの酸味だけを除いて、さらに甘さを足したような味で、口の中に日本の果物にはない、大陸の芳香が広がっていく

丸くて然程厚みのない果実の奥には、幅広の種が鎮座しており、例えるなら枇杷の種のようだ

ベッドの上に白い布団だけ敷かれ、その他は彼女の足元に畳まれている

クリーム色のクッションを彼女の背にひとつ、足元にひとつ、隣に座る男の背にもひとつ挟み、大人2人が寝ても余裕で収まる大きさのベッドで、茘枝の入った籠を挟み、先刻から彼らは無言で、それを食していた

縦に足を伸ばす形で横並びに座りながら、徐に口を開いたのは男の方だ

「正直俺は、お主に会って何を話したら良いのか解らぬ…今はただ甘やかされていてくれ

それは、ずっとお主にしてやりたかったことだ…唯月」

「昔も今も、貴方は私に甘過ぎです

私より、ご自分のことを甘やかして下さい」

水分の多い果物だけに、果汁で艶々と光る彼女の小さな口唇は、見ているだけで欲を煽られた

「俺は、その方法を知らぬ…」

沈黙を加速させるように、またひとつ、彼女は茘枝を手に取って皮を剥く

剥き損ねて果実に爪が引っ掛かり、透明な果汁が指の先を汚す

隣の彼は無言のまま、片手で彼女の指を掬い上げて口付け、そのまま紅い舌で上下にゆっくりと舐めた

「甘いな…お主は、どこもかしこも甘い…

細くて可愛くて…すぐに壊れてしまいそうだなぁ」

「っ…そんなに脆く出来ていません…

内側から食い潰されるなど、1度で十分です」

指の付け根の剣胼胝を舐められて、思わず息を詰める

湿った音を立て、物足りなそうな顔で舌を離す彼は、妖しく微笑んだ 

「この細腕で、どうやって大太刀など持つのかと思っていたが…やはり太刀を扱う手だな

しかし、お主には太刀よりこれの方が似合いよ」

彼女の左手にある、先程剥き損ねた茘枝を取り、彼はするすると皮を剥いていく

果実だけを綺麗に残し、そっと小さな口唇に運んでやる

品の良い仕草で齧り付き、音を立てずに咀嚼する様を暫く眺めた後、彼は静かな声で問う

「俺の後妻になりたくない理由があるのか?」

「貴方こそ冷静に考えて下さい

顔が同じで、前の記憶があっても、私は那月ではありません

神楽井唯月という、全くの別人です

ここにいれば、貴方は今の私を見ないでしょう?

必ず那月の影を重ねるはず…私であって、私でないモノの代わりになるのは御免ですよ

それと、私は他の女と男を分け合う趣味はありません」

鮮度の良い茘枝の香りは濃厚で、何故だか唯月の周りだけ、とても良い匂いがする

口に入れた茘枝を飲み込んで、唯月はきっぱりと拒絶した

彼女が言葉を紡ぐ度に漂い、鼻腔を擽る香りに頭の芯が熾火のように静かに熱を持つ

「お主自身を見て、嫁に請うのは良いのか?

しかし、お主もひとつ勘違いをしているぞ

俺が那月とお主を重ねて見ているなら、初めから名前を呼ぶことはない

ただ、黙って俺の傍に置いて眺めるに留めるだけだ

良く思い出してみろ…俺はお主の名を1度も呼び間違えてはおらぬ」

言われてみれば、夜間の訪いの許しを得る時も、この部屋に入ってからも、確かに彼は唯月としか呼ばなかった

「心から、今の私が欲しいと望まれるなら、全て終わった後に考えるかもしれません

貴方の心の裡はどうなのです?

ほんの僅かでも、前の私への未練がないと言い切れるのですか?

どちらも愛せるなどと言ったら、貴方の頬に手形が付くことになりますよ」

長押に吊られた丸い照明は、砥粉色の光でベッド周りを照らしている

柔らかな色合いの光は、2人の影をぼんやりと敷布の上に映し出す

「那月は20年前、確かに俺が看取った・・・そのことに関しては未練はない、勿論・・悲しみはあったがな

もしも、を強く願うことはあっても、頭の中で、もう2度と帰って来ないことは痛い程分かっていた

ただ、那月の心に抱え込んでいた物に気付いてやれなかったこと、救う手段を持っていながら、何ひとつしてやれなかったことは、俺にとっての未練だ

あの頃は仕事も多忙で、新婚旅行も遠出も出来なかった

那月にもあまり構ってやれなかったな、もう少し頻繁に顔を合わせて、話を聞いていれば、病を呼ぶこともなかったかもしれん

結婚して1年経たずに永別することになったのだ・・那月にしてやりたいことは山ほどあったのに、それも叶わなくなった

今、お主にしていることは、俺の贖罪のようなものだ

それに、同じようでいて同じではない

昔よりはっきりと物を言うようになったし、強くなった

俺は今のお主がこの先どんな華になるのか、隣で見ていたい

過去の巻き直しではなく、もう1度・・唯月、お主と番いたいのだ」

目元に少しばかり深い皺が刻まれている以外は、驚く程に昔と変わらない彼の面差しを横目で見ながら、唯月は今しがたの言葉の真意を探ろうとしている

「貴方に何も言わずに逝ったのは、私の責です・・それは貴方が気に病むことではありません

・・・今さら謝ってもどうにもなりませんが、本当にごめんなさい

あの時、私の胸の裡を貴方に明かすことが堪らなく怖かったんです

こんな結果を招くなら、もっと早く言ってしまえば良かったですね

私の手は決して綺麗ではありません・・・人を殺めた血塗れの手でも貴方は取ることが出来ますか?

その上にまだ血を塗り重ねようとしているのですよ?」

繊手をくるりと返して、今は鉄錆の臭いも汚れもない手のひらを広げて見せながら、しっかりと眼を見ながら唯月は問う

「謝るな、だが、その理由は俺もずっとお主に聞きたいと思っていた…もし、今話せるなら教えてくれ」

絹のような手触りの白い繊手を数度、軽く撫でた後に、ひと回り以上大きな自分の手のひらをそっと重ねて、5本全ての指を絡ませた

粗方食べ終えた茘枝の入った籠は、彼が床に下ろして、中途半端な距離を詰めるように身体を寄せる

密着していて、此方の表情の変化さえも彼に見えてしまうのが怖い

黒の夜着に焚き染められた、伽羅の香りで頭がくらくらしそうだ

不意に目の前が暗くなって、伏せ気味にしていた視線を戻せば、少し長めに切り揃えられた彼の艶やかな黒髪が、辺りの光を遮るように頬に掛かっている

至近距離で見た彼の眼は、懇願するような、僅かな偽りすら射抜くような、純粋な愛と獣の欲を混ぜたような、複雑な色を宿して、此方の双眸を覗き込んでいた

彼は、きっとこのまま黙っていることを許さない

口唇を戦慄かせながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ

「貴方がとても綺麗だったから、もしも私があのことを言ってしまえば、貴方が汚れてしまうと思ったんです

あの時の私は自分の親でさえ憎み、殺したいと思っていた

そんな汚いことを願う人間でした

言えば、貴方はきっと奴らを処断したでしょう…私は、貴方の手を汚したくなかった…」

瞬間、指を絡ませた方の手が強く引っ張られ、唯月は上半身を彼の懐に抱かれる格好になる

「俺はお主が思う程、綺麗でもない…

さっき、お主は人を殺めた血塗れの手だと言ったな?

それでも、誰かを守り、救いもした手だろう…決して奪うばかりの手ではなかったはずだ

俺は、守るよりも多くの物を奪った…

この手こそ、人殺しの手だ…俺は…」

(……を…した、……を守ってやれなかった)

耳元で、苦しそうな掠れた声で囁かれた言葉は、とても弱々しく、その全てを聞き取ることは出来なかった

「元より俺も同類だ

汚れたこの手で良ければ、いつでもお主の手を取ろう…

俺の隣には、唯月だけがいれば良い

他の女などもう要らぬ」

絡めた指が離れて、今度は両腕が薄い背に回る

抱き締められた温かい腕の中で、胸板に密着した片耳は、彼の規則正しい鼓動を聴いている

「私のことに関しては何ひとつ、貴方が悪いことなんてないんです

傍にいられたのは本当に短い時間でしたけど、私は幸せでした」

何と言って返したら良いのか解らず、言葉にできたのはそれだけだ

先に聞いた言葉達が、耳の中でぐるぐる回って頭を駈け巡る

彼もまた自分と同じように、歪な秘め事を抱えて生きてきたのかと思ったら、目の奥が鈍く痛んだ

滲みかけた涙を誤魔化すように、唯月は目を伏せ、そっと彼の心臓の音を聴いていた

(貴方もあの地獄を、ずっと見てきたのですか…?)

惜しみなく優しさを自分に与えながら、彼自身はどうだったのだろう…

また胸の中であの痛みがぶり返して、きつく瞼を閉じる

髪を梳くように頭を撫でる、彼の手の温かさが無性に悲しかった

(私は無力だ、ただ受け取るばかりで、何も返せなかった)

 

 

 

完結しました

 

 

 

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