◆◆◆
未来はいつだって予測不可能だ。もちろん、そんなことは言われずとも知っている。誰もがそう知っている。けれど暖かいベッドに入る時、誰が明日、世界が滅びると想像できるだろうか?
少なくともドリームはできなかったし、したくもなかった。明日も明後日も、世界は昨日と同じように存在し続けるのだと信じていた。辛いことがあったとしても、大好きな人達がいればきっと乗り越えられるはずだと信じていた。
なぜなら──
「ほら、立ってジェントルー。もうすぐ夜が明けるんだから」
「……」
午前6時。
窓から差し込む朝日に目をすがめながら、うずくまる影に向かって声をかける。返事はない。仕方がないので肩を揺すってみることにした。するとようやく反応があった。
「……放っておいてくれ」
「だめよ。イースとユージを助けにいかなきゃ」
「私はいいのだ……もう何もしたくない……」
「もう……!」
ジェントルーの腕をつかんで無理矢理立たせる。ただ、その拍子にバランスを崩して床に尻餅をついてしまい、結局手を放してしまった。
ドリームは自分の右手を見つめる。傷一つ無い、普通の手だ。鏡の世界に入り込む能力が使えたのは幸運だったが、
(力が欲しい……変身できれば、今すぐに二人を助けに行けるのに)
ふと気づくと、ジェントルーが再びうずくまっていた。さっきよりもさらに縮こまっているように見える。
「何があったの、ジェントルー。話して」
「……」
「ねえ、ジェントルーってば」
「……もうお終いだ。シャンティアが駄目になって、ユージとも会えないまま、私は『私』に戻ってしまうんだ……」
「……何言ってるのよ?」
話が全く見えない。ドリームは首を傾げた。ジェントルーは自分の頭をガシガシかいて
ラチがあかないので無理やり顔を上げさせることにする。両手で顔を包み込んで視線を合わせた。潤んだ瞳の奥に自分の姿が映っているのが見えるくらい近い距離だ。
「ん……」
首を傾けて、唇を奪う。
「?!」
さすがに驚いたのか目を丸くしている。安心させるためのキスだから、体温をじっくり伝えるような優しい口づけにした。とにかく今は落ち着いてもらうことが先決だ。
「あ……ん、ふ……」
「んっ……ドリー、ん、ちゅぅ……」
最初は戸惑っていたがすぐに受け入れてくれたようで、背中に手が回されるのを感じた。舌を入れようかとも思ったがやめておく。ディープなキスをすればジェントルーの心は離れていくような気がしたからだ。
唇が離れると、互いの吐息が顔にかかり、体温が上がるのを感じた。まるで心臓が耳に移動したみたいにバクバク鳴っているのが分かる。自分は今どんな顔をしているのだろうか?
「何を……」
「何って……言わせないで。ただ、ユージがいたら、ジェントルーにこうしてあげたいだろうなって、そう思っただけ」
それだけ言って立ち上がる。なんだか顔が熱い気がするけれど気のせいだろう。きっと朝日のせいだ。
「……ずるいぞ」
振り返ると、真っ赤な顔をしたジェントルーがこちらを見ていた。恨みがましい目でにらんでいる。それが妙に可愛らしく見えて、自然と笑みがこぼれた。
「ふふ、かわいい」
「その顔、ちょっと怖いな。ユージはオオカミみたいな顔をするが、君は蛇みたいだ」
「そう? ユージに抱かれてる時のジェントルーの顔だって、まるで……うーん……? ネコ? 猫みたいよ」
「言うじゃないか。しかしまあ、確かにユージの前では私も子猫のようなものかもしれない」
「そうだね、それは私も」
二人で笑い合って、もう一度だけ触れ合うだけの優しい口づけを交わした。
それからもう一度、今度は優しく抱きしめた。小さな子供をあやすように背中をポンポン叩く。
「大丈夫よ、大丈夫。あなたはまだここにいるから」
耳元で
「……すまなかったな、取り乱したりして」
「いいのよ別に」
本当はもう少しこのままでいたいのだが、状況がそれを許さない。
〈鏡の外〉はディスダークの攻撃で滅茶苦茶だ。ユージは官邸から姿を消し、イースも〈鏡の中〉のどこかに引きずり込まれているようだ。
「どうしたらいい? 私、ジェントルーの言う通りに頑張るよ」
「……君、今は戦えないだろう」
ジェントルーは形の良い眉をハの字にした困り顔を浮かべた。
「そうだけど。でも、戦えなくたって私にできる事はたくさんあるはずよ」
言って、ジェントルーのたおやかな手をぎゅっと握った。
「君……」
「もちろん、ジェントルーにだってできる事はたくさんある。私に指示をちょうだい」
そう言って微笑むと、彼女は観念したようにため息をついた。しかしその表情には先ほどまでの悲壮感はない。いつものクールな怪盗少女、ジェントルーだ。
「フ……いいだろう。君と私で何ができるか、考えてみようじゃないか。ひとりより、ふたりだからな」
◆◆◆
午前6時。
昇り始めた朝日より、なお
ユージが少年を抱えて距離を取ったのを確認してから、ダークプリキュアは動力炉のゲインを最大まで上げた。
「ぬああぁぁぁっ!」
渾身の蹴りを放つ。地面を踏み砕くような踏み込みと同時に繰り出されたハイキック。もし標的が人間なら、上半身は粉々に消し飛んで骨も残るまい。
ユージが何と言おうと、ダークプリキュアはここでトワイライトを始末するつもりだった。たとえユージの意に反しても、いや、意に反するからこそ──
「ふ……」
だが、トワイライトは事もなげにその足を受け止めた。杖をかざし、まるで小枝か何かのように軽々と受け止めてみせたのだ。
「?!」
背の低い彼女は、下からのぞき込むようにこちらの目を見つめている。真紅のアイシャドウに彩られた瞳が妖しく光ったように見えた。
「鋭く、速く、しかも重い。なかなかの攻撃だけれど……」
(なんだ、まるで私の力が吸い取られたような──)
一瞬動揺しかけるも即座に切り替える。すかさずの追撃。回し蹴り、ローキック、カカト落とし──
あらゆる蹴り技を連続して叩き込む中に、トワイライトの細く小さな体が
〈ゆらゆらと、揺れている〉
かのように見えた。それも一瞬のことで、気づけばダークプリキュアは宙を舞っていた。
「うぐっ!?」
どこをどうされたものか、全く分からないまま背中から叩きつけられる。地面が陥没し、クレーターができるほどの衝撃だった。
だがダークプリキュアは兵器だ。痛みなど感じないし、意識を失うこともない。素早く跳ね起きて構えを取る。
「強い……!」
トワイライトの強さは、ダークプリキュアとは全く別種のものだった。単純にパワーやスピードが高いわけではない。戦いにおけるセンスが違うのだ。圧倒的なまでに洗練された動きは優雅ですらあるが、そこには一切の無駄がない。まるで舞踏のように美しく、それでいて力強くもある。
ユージが
(いかん……!)
電子頭脳の奥で警鐘が鳴るのを、聞いた。
「シャンティアが造り出した最強の兵器、ダークプリキュア。呼吸はなく痛みもなく、心もない。そして総統ユージを守る最後の砦。クローズが言っていた通りね」
言いながら、ゆっくりと近づいてくる。余裕のある優雅な足取りとは裏腹に、その瞳からは冷たい嘲りの感情が読み取れた。
「だけれど、所詮は総統が命じるままに戦う機械仕掛けの人形。高貴な者への振る舞いを知らぬ愚か者に、この私が負ける道理などない」
その言葉に。
ダークプリキュアは、なぜこの戦いが始まったのかを思い出した。この女は、総統に言ったのだ。
『どうして助けたのかしら。ノブレス・オブリージュなど、
『あなたよ、合成人間。総統を
『造られた生命なら、与えられた役目を果たせばよいものを』
そう、そこまで聞いて、ダークプリキュアは怒りに我を忘れたのだ。もはやユージへの服従回路は停止されているというのに、彼を侮辱されたことで反射的に動いていたのである。
それがただのプログラムによるものなのか、それとも感情と呼ばれるものに起因する何かなのかは分からないけれど。
「……訂正しろ」
「あら、何を?」
トワイライトが足を止めて聞き返す。相変わらず口元に冷笑を浮かべている。どこまでも見下した態度だ。気に入らない。気に食わない!
「私は、総統に命じられるまま戦う人形ではない。私は既に自由だ! 総統は私に自由を与え、そして、そして──」
ダークプリキュアは捨てられた。
「そう。あなたほどの兵器を有効に利用できないなんて、つくづくあの男は愚かね」
「違う! 総統は……総統は……ッ!」
ダークプリキュアは
「私を捨てたのではない! 私と別れることを選んだのだ!! 私のために!!!」
トワイライトが眉をひそめるのが見えた。構わず続ける。彼女の言葉を否定するためではない。電子頭脳が算出した答えを、人工知能に刻み込むために。
「私は、自由に生きる! 誰の命令も受けない! 私は……私は、もう私だ!」
「ふふ、ふふふ。ならば、なおさら
空気を切り裂く音を残して、トワイライトの姿が消えた。まばたき一つの間に間合いを詰められ、杖の先端で喉笛を突き刺さんとしてくる。すんでのところで体をのけぞらせかわしたが、次の瞬間には足を払われて転倒してしまった。無様に地面を転がるとそのまま馬乗りにされてマウントポジションを奪われる。
身動きができない!
「わたくしが慈悲を示します。炎に包まれて消えなさい」
ぴたりと喉元に杖を突きつけられる。先端に灯った炎が、ダークプリキュアの肌を焼き焦がした。
「おのれぇ……!!」
燃え上がる。ダークプリキュアの人工皮膚が、金属骨格が焼け焦げていく。熱せられた蒸気が吹き上がり視界を遮る中、それでもなんとか脱出しようと身をよじらせる。
だがトワイライトは攻撃をやめない。無表情のまま冷酷に見下ろし、杖に力を込めた。
「!!!」
ごきん、と音を立てて、ダークプリキュアの右腕が引きちぎられた。ケーブル類が火花を上げて燃えながらちぎれ飛んでいくのが見える。痛覚センサーからのアラートが視界いっぱいに表示され、ダークプリキュアは弄ばれる虫のようにじたばたともがいた。
トワイライトは意に介さず、とどめとばかりに頭部を狙ってきた。左に首をねじ曲げて回避するが、わずかに右の頬を
「あああ……!」
炎はついに眼球の擬装カバーにも達した。ガスを発して燃え尽きたカバーの下から、赤く光る視覚センサーが覗く。
「醜いわね。鏡で自分の顔を見たことはあるかしら? これがあなたの本当の姿よ」
「言うな……! 言うな言うな言うな言うな言うな言うな言うなぁぁぁ…………!」
もがくことしかできない。ダークプリキュアにとって、完璧に計算された美しさはアイデンティティであり誇りだった。それを
その時だった。突然横から何者かが割って入り、トワイライトの腕をつかんだ。
「やめろ!!」
ユージだった。彼は必死に叫んでいた。それはほとんど悲鳴に近い叫びだった。
「もうやめてくれ!! 頼むから……これ以上その子を傷つけないでくれ!」
ユージの声は震えていた。涙こそ流していなかったものの、今にも泣き出しそうな顔をしている。
それを見て、ダークプリキュアの中で何かがストンと音を立てて落ちたような気がした。
「総統……」
「……見苦しい。興が削がれたわ」
そう言ってトワイライトは杖を引いた。立ち上がり、ドレスについた
「国を預かる総統ならば、一目散に逃げるのが賢明な判断ではなくて? こんな機械人形を守るために命をかけるなんて……わたくしには理解できません」
トワイライトは侮蔑に満ちた目でユージとダークプリキュアを見比べた。
「総統……私はもういい……もう、壊れてしまった……逃げろ……」
ダークプリキュアの声は、まるで壊れたスピーカーのようにノイズ混じりだ。視覚センサーが動くと、モーター音のようなものが聞こえる。顔面の半分を焼かれ、防音の役目を果たす生体細胞を失ったためだ。
「ダメだ!」
ユージはダークプリキュアを立たせようとしたが、運動プログラムが破損しているらしくうまく立てない。やむなく肩を貸すようにして立ち上がらせくれた。
「君を見捨てるなんてできない」
そう言うなり、ふらつく足取りで歩き出した。ダークプリキュアの骨格は金属でできている。見た目以上に重いはずだし、そもそも彼女は破損しているのだから無理もないだろう。しかしそれでもなお歩き出そうとする彼の姿を見て、トワイライトは苛立たしげに舌打ちをした。
「愚かな男ね」
「何とでも言ってくれ。俺はこの子を助けたいんだ」
立ち止まったユージは、トワイライトを振り返った。一瞬
「……君とは、もっと別の形で出会いたかったと思うよ」
トワイライトもまた、彼を見つめ返した。どこか憐れむような眼差しだった。
「そう。愚かさを貫くと言うなら好きにすればいいわ」
彼女がそう言った途端、周囲の建物を覆っていたツタやイバラが急激に成長し始めた。生き物のようにうねって二人を目指す。
ユージは必死に前に進んだ。ダークプリキュアを支えながら懸命に走る。だがその速度はあまりに遅い。徐々に距離が詰められていく。
やがて二人は派手に転んでしまった。その間にも、ツタは容赦なく伸びてくる。
「バカめ……総統、お前は本当に愚か者だな……トワイライトの言った通りだ……」
ダークプリキュアがかすれた声でつぶやくのが聞こえた。ユージが思わずといった様子で怒鳴り返す。
「うるさい! 勝手に諦めるな!」
その言葉を受けて、ダークプリキュアは弱々しく笑った。
「こんな気持ちは、初めてだ……なぜ逃げなかった……?」
ユージは少し考えた後、言った。
「君が本当に魅力的だからさ」
「は……?」
予想外の答えにダークプリキュアは面食らった。今の自分が魅力的なはずがない。右腕をもがれて、人工皮膚は焼け落ち、金属骨格がむき出しになっている。目、いや視覚センサーが赤く光る様は不気味としか言いようがないではないか。
「何をバカなことを。こんなガラクタをつかまえて、どこが良いと言うのだ?」
思わず声を荒げると、ユージはゆっくりと首を振った。そっとダークプリキュアの頬に手を当て、愛おしげに撫でる。そして優しく微笑んだのだ。
「強くて美しいのに、悩んだり苦しんだり。それが君の魅力だよ」
「……!?」
その言葉に、ダークプリキュアの思考は一瞬停止した。
「君は素晴らしい女性だよ、ダークプリキュア。だから俺は、君に自由に生きて欲しい」
とうとうツタが二人に追いついた。蛇のようにうねりながら体に巻きつき始める。
だがそんなことはお構いなしに、ユージの唇がダークプリキュアのそこに重ねられる。
「……んん」
「……!?」
焼け焦げて固まった生体細胞を愛撫され、ダークプリキュアは小さく身を震わせた。何かしなければならないと思うのに、体が動かない。
「俺が君を修理するよ。必ず直す。だから、どうか諦めないで生きてくれ」
何か言わなければならないと思うのに、頭が働かない。電子頭脳が完全にフリーズしてしまっているからだ。ただ目の前の人物の顔を呆然と記録することしかできずにいるのだった。
ダークプリキュアの中に熱が生まれた。動力炉だ。そこに埋め込まれた4つのものが、一斉に光を放ち始めた。
『Gyaaaaaaahhh!!』
ツタが光に
「な、なんだこれは……総統、私の体は、一体」
「お、俺にも分からない! だけどきっと、何か奇跡が起こったんだよ!」
「大丈夫、大丈夫だよ!」
何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、なぜか安心できる響きがあった。
ダークプリキュアの自制回路がオーバーヒートしそうなほどに駆動して、今一番やるべき事を算出した。すなわち、眼の前の男を守り抜くことである。
胸の中央で、4つの光が激しく瞬く。緑、青、赤、黄。
『立ちなさい。この人を守るのよ』
『そうよ。優秀なお前にはその責務があるわ』
『アンタはもう自由なの。何もガマンしなくていいんだよ』
『情けは人のためならず……おっかしいの♪ 自分が助けたいだけだよね♪』
色とりどりの声……いや、声に色があるわけはないが、確かに4つの声が聞こえた気がした。どれも、聞き覚えのないものだったが。同時に膨大な量のデータが流れ込んでくるのを感じた。今まで一度も起動したことのないシステム群が次々と立ち上がるのが分かる。それが何を意味するのか理解するより早く、新たな力を起動する。
ユージを抱きかかえ、ダークプリキュアは
「お? お? おおおおっ?!」
「総統、離すな! 私につかまれ!!」
目指すはシャンティア官邸だ。大して距離もなく、この速度ならば一分とかかるまいが、今の彼女には無限にも思える時間だった。
「お待ちなさい」
案の定である。目指す官邸ビルの外壁に、魔法陣が現れる。ステンドグラスにも似た幾何学模様は、トワイライトの空間転移魔法に違いなかった。
「逃しませんわよ、ダークプリキュア」
美しい。ダークプリキュアは素直に認めた。魔法陣から出現するトワイライトは、どこまでも気高く尊く麗しく、唯一無二の美の体現者であった。朝日を浴びて輝きを増す彼女の髪の美しさたるや、どんな人工知能でも描き出す事はできないだろう。
そんなトワイライトに対して、ふと自分はどう見えるのだろうと考える。ボロボロの機械人形が空を飛んでいる姿は、滑稽でしかないのではないか。
だがそれも構わないと思った。なぜなら──自分は想われているからだ。捨てられた機械人形ではなく、自分の意思で動き、考え、悩み苦しむ存在であれと望まれた誰かなのだ。それは実に晴れやかな気分だった。
「おいダークプリキュア! このままじゃ激突する!」
「私を信じろ!
プリキュア! ダークネス・エクスプロージョン!」
全身から噴出する闇のエネルギー。ムーンライトは、空を舞う闇色の
羽ばたくたびに黒い鱗粉のような光が舞い散る。その光に触れた途端、ツタやイバラがあっという間に腐って朽ち果てていった。 腐った植物はそのまま地に落ちることもなく消え去る。
まるで拭き取られたように、後には元通りの街並みだけが残るのだ。
それは、ダークプリキュアの動力炉に秘められていた〈鏡の国のクリスタル〉のパワー。
より正確には、
「──……!!」
さしものトワイライトも驚きを隠せないようだった。無理もないことだ。かつてこの世界に存在していた伝説の戦士の力など、彼女は知りようもない。
そのはずだった。だが、トワイライトは衝撃を受けたように頭を押さえる。
闇の蝶は、光の速さで彼女の横を駆け抜けた。そのまま突入する。官邸ビル外壁の、鏡のように磨かれたガラス窓へと。
呆然としたまま立ち尽くすトワイライトを尻目に、黒い蝶は吸い込まれるように消えていった。
◆◆◆
ユージの背中が、摩擦で燃えるように熱くなる。ほとんど減速せずに突っ込んだため、受け身を取っても速度を殺せなかったのだ。重量があるダークプリキュアは尚更である。彼女は慣性の法則に従って官邸オフィスの床を転がり続け、椅子や机を跳ね飛ばしながら、壁に叩きつけられたところでようやく止まった。
「ぬぐあっ」
ユージは両手両足を使ってブレーキをかけ、どうにか停止に成功した。どうやら怪我はないらしい。
苦痛に顔をゆがめながら悶えるユージをよそに、ダークプリキュアはゆっくりと立ち上がった。
「……大丈夫か?」
ダークプリキュアが尋ねる。手を差し伸べようとするが、ユージはそれを断った。まだ息苦しいし背中も痛いが、このまま横になっているわけにもいかないだろう。ゆっくり起き上がると、何度か深呼吸をしてから答える。
「だ、大丈夫だ……ここは一体……」
「見てみろ」
ダークプリキュアが示したのは、床に散らばる大量の書類だ。国民向けの広報紙だが、ひと目見て異常だった。文字も構図も左右反対なのだ。
「まさか、鏡の世界にいるのか?」
「そういうことになるだろうな」
鏡の世界は初めてではないが、ダークプリキュアにそんな力があるとは知らなかった。一体シャロンは彼女に何を埋め込んだのだろうかと思案しながら周囲を見回していると、不意に肩を叩かれた。
「総統。……お前はさっき、助けてくれるなら命でもなんでも差し出すと言ったな」
振り返ると、いつの間にかダークプリキュアの顔が目の前にあった。ユージは思わずのけぞる。ダークプリキュアは呼吸をしない。そのはずなのに、生温かい吐息が感じられる気がするのだ。
だが構わず、ダークプリキュアは顔を近づけてくる。
「言ったな」
「う、うん」
「…………………………」
「…………おい、まさか」
嫌な予感がする。ダークプリキュアの力がドリームと同質のものであるなら。そしてそれが、4つ、彼女の中に埋め込まれているのなら……
「総統……むぐっ」
「んむっ!?」
予感的中である。
ユージの顔をつかんだダークプリキュアは、自分の焼け焦げた唇を押し付けてきたのだった。
ようやく気づいた。ダークプリキュアから感じられる、生暖かいもの。それは情熱であり、情愛であり、あるいは性欲であるに違いなかった。
(続く)