翌日の昼過ぎ、
大学の友人たちへ、体調不良のため週末まで休むことを伝えると、こっちから頼まなくても休んでいる間の講義内容をまとめてやると進言され、それならばとレジュメや資料をメールで貰えるようお願いしておいた。
腹部には引き続きずきずきと不快な痛みがあり、何か食べないと薬が飲めないため朝食を適当に腹に入れる。
昼前に
「ごめんね、付き添ってあげたいけど…午後から仕事が入ってるんだ。でも、何かあったらすぐに連絡してね」
そう済まなそうに引きあげていく彼を見送って、蒼矢は再び3階の自室へ戻る。
ベッドに腰を落とし、ごろりと寝転がったところでスマホの通知が鳴る。
「…烈…」
昨日の口ぶりから察せたが、影斗は
""今日は一日店番にしてもらった。元気か?""
その、簡潔かつ端的過ぎな内容に少し噴き出し、怪我に響いたのか腹を押さえながらベッドの上で一時悶絶した後、返信しようと指を動かしかけたところでインターホンが鳴った。
「…はい」
応じた蒼矢は、モニターに映った人物を見て目を見開く。
『――こんにちは、先輩』
…
「…どうして、ここが…、住所…」
『先輩のお友達に聞きました。すみません、勝手に聞き出したりして』
「…!?」
…誰に聞いたんだ…? 俺、誰かに教えたか…!?
『先輩、急に学校休まれたって聞いて…心配で居てもたってもいられなくなっちゃって…お見舞いに来たんです』
頭の中が混乱し、言葉を続けられない蒼矢の目の前で、モニター越しの
『お家、入れてもらえませんか…?』
「すっごい広いお家ですね…! いいなぁ、憧れます。僕もこういうお家に住みたいなぁ…」
2階へ上がり、リビングに入るなり自分を追い越して小走りに進み、家具やキッチンを触って回る鱗を、蒼矢は少し気遅れ気味に目で追う。
「…あの、立羽…」
「! ああっ…ごめんなさい。僕約束しないで来ちゃったのに、手土産も無くて」
「いや、いいよ。こっちこそ、何もお構いできなくて…」
鱗は蒼矢の元へ戻ってくると、上目遣いに顔を眺めた。
「先輩、顔色悪いです」
「うん…まだ本調子じゃなくて」
「体調崩されたって聞きましたけど…体痛めたんですか?」
「! え…」
「ずっと、お腹押さえてます。歩き方も、少し引きずってる感じがしましたし」
そう指摘され、蒼矢は咄嗟に脇腹から手を外す。代わりに鱗の手が伸び、シャツの上から身体の曲線に沿わせるように撫で上げた。思いの外強めに触られ、蒼矢の顔がやや歪む。
「っ…」
「あっ、ごめんなさい。…どこかにぶつけたんですか?」
「…うん、ちょっと」
「寝てた方がいいかもしれませんね。寝室はどこですか? 僕、手伝います」
痛みに思考がぼやける面持ちを無邪気な顔で見上げ、鱗は蒼矢を引っ張るように3階へ上がっていった。
なんとか3階へ辿り着いたものの、引っ張る鱗の所作がかえって体力を消耗させ、息を切らせてしまった蒼矢今一度自分の不調を省みて、鱗へと振り向いた。
「――悪い立羽、やっぱり…このままちょっと休みたいから、今日はこれで…」
しかし鱗は蒼矢の方は見ておらず、先ほどリビングで見せたはしゃぐように興奮した様子からうって変わり、無感動な表情のまま、静かに室内へ視線をやっていた。
部屋奥から続くウォークインクローゼットや、壁一面にハード本が収まる本棚。綺麗に整頓されたデスク廻りに、最新型がひと揃え配備された電子機器の数々。
必要最小限の家具しかないながらもひとつひとつがハイクラスで、統一感ある全景を眺めながら、鱗はぼそりと呟いた。
「…ほんとにすごい家に住んでますね。さすが…あの旧帝大に入れられるような家柄は違いますね」
「…え?」
「僕みたいな賤民には、ひっくり返ったってこんな生活はできませんよ。…羨ましいを通り越して、憎らしくなってきました」
鱗は部屋を中へ進み、立ち尽くす蒼矢へと振り返る。
「先輩、あなたにだけは特別に、僕の出自を教えてあげますね? ――僕、今年の春まで施設にいたんです」
「…!」
「両親は遊び感覚でうっかり僕を作って、金も無いし愛情も無かったみたいで、結婚もすることなく別れてすぐ僕を手放しました。…それからの僕の人生は、終わりのない真っ暗なトンネルの中を、ひたすら歩いてるようでした」
うつむいて語り始める鱗の面差しは、前髪に隠れてうかがい知れない。
「施設での暮らしは最悪でした。この顔・この
鱗の、真っ赤な口元だけが艶めかしく動き、抑揚に乏しいトーンが続く。
「高校を卒業して、やっと施設から解放された僕の心の中には、何も残ってなかった。もちろん大学になんて行ける訳もなくて、適当なライン工場に契約で入りはしたけど…僕には金を稼ぐこと、ひいては生きていくことすらどうでもよくなっていたんです。いつ死のうか、どうやって死のうか…、そればっかり毎日考えてました」
「…立羽…」
にわかに語られ始めた鱗の生い立ちを聞き、蒼矢は眉をひそめ、気遣うように声を掛けかけたが、やにわに鱗の顎があがり、前髪に隠れていた黒い瞳が現れる。
「――でもね。そんな時、
真正面から見据えられ、不意にそれを浴びた蒼矢は、途端例えようもない怖気に襲われた。
「そう、ふた月ほど前でした。仕事からの帰り道、いつものように死に場所を考えながら歩いていた時…
「……!?」
言葉が出ず、凝視してくる蒼矢の視線を受け止めた鱗はその硬直した表情を眺め、にやりと三日月形に細める。
「
厭らしく細められる黒目が、蒼矢の身体を縫い留める。
「…それで、僕を犯し終えたその妖に聞いたんです。何でこんなことをしてるのかって。そしたらそれは、"食事だ"って答えたんです。…すごくないですか…? ご飯じゃなくて、精液が食事なんです。ひとの体液で、お腹が満たせるんですって」
にたりと口角をあげる赤い唇が、蒼矢の全身の毛を震え立たせる。
「気付いたら僕はその妖に、同じ存在にして欲しいと頼み込んでました。文字通り、
「立羽、お前――」
鱗の周囲を纏う空気が、変わる。
蒼矢は瞬時に胸元へ視線を落とす。しかし、起動装置は発光していない。
「無駄ですよ、先輩。僕は、"人"です」
こちらの思考を見透かしたような口振りに、再び視線をあげ顔を固まらせる蒼矢を、鱗は笑みを浮かべ、ごく穏やかな面差しで見ていた。
「先輩が『何者』なのか、僕は知ってます。でも…、あなたに僕は干渉出来ませんよ」
気付くと部屋の中にあの臭気が、今まで体感したことが無いほどに濃く、重苦しく充満していた。
「…っう…」
「髙城先輩…いえ、『アズライト』でしたっけ? 『あなたがた』の中でもとりわけ[こちら]を感じやすいみたいですね」
あまりの[異界]臭によろめく蒼矢を、鱗はその細い片腕だけで掴み、引き上げた。
「感じやすいのは、
蔑むように見下ろす鱗の双眸が、妖しく弧を描いた。