それから数日後。
鏡台の前で化粧をしていた斗和は、降りしきる雨の音に耳を澄ませる。
これから少し遠くまで出掛けなければならない。
これでは着物が濡れてしまう。
そんなことを思いながら、唇に紅を引き玉簪を頭に挿す。
鏡を見れば、未だ見慣れない女が写っている。
化粧をしても、隠せない二つの傷。
(この格好も今日で最後…)
購入してから、数える程度しか袖を通していない着物だ。
斗和が持つ、たった一着だけの着物。
傷を隠す為の襟巻きを持たず、斗和は傘を差し自宅を出た。
逃げていたことに向き合わなければならなかった。
斗和には限られた時間しかない。
"まだ大丈夫"など、逃避の甘えた考えなのだと思い知らされた。
あと少し
もう少しだけ
そんな時間はもうこれっぽっちもない。
蝶屋敷でしのぶから突きつけられた現実は、想像以上だった。
半年もつか分からない心臓。
それどころか、突然止まる可能性もあると、そうはっきりと言われたのだ。
斗和は、実弥の前でだけは絶対に死ねないと思った。
故に、実弥から離れることを決意した。
どうすれば確実に離れられるか必死で考えた。
何度も何度も、斗和は考えた。
出した結論は、実弥を怒らせ呆れさせ、あちらから離れるように仕向けさせることだった。
実弥に斗和を心底憎悪させる。
見限り、捨てさせればいい。
手段は問わない。
実弥が離れてさえくれれば、なんだってよかった。
その為に斗和は、槇寿郎に文を書いた。
【あなたが気になっていることを、何でも分かる限り教えます。その代わり、私の頼みを二つ聞いて下さい。前回会った場所でお待ちしております】
そう書いて鴉の令和に届けさせた。
必ず槇寿郎本人が受け取るよう、念押しまでした。
すると令和は、初めて「ワカッタ」と返事をしたのだった。
返事を持ってきた令和を撫でてやったのが、昨日のことだ。
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──────
斗和は、裾が濡れそぼった着物で以前訪れた蕎麦屋の二階に入る。
そこには、既に槇寿郎が待っていた。
一番上の着物は脱ぐので待ってくれと告げ、斗和は急いで脱ぎまた帯を締める。
廊下で待っていた槇寿郎に声を掛け、改めて座卓を挟んで向き合った。
「こんな雨の日に申し訳ございません。来ていただき、ありがとうございます」
斗和は手を着き頭を下げる。
槇寿郎は戸惑っていた。
丁寧に頭を下げられる理由はないからだ。
斗和をちらっと見遣ると、苦笑いをした。
「いや…実はこの場で会うのはよくないと思ったのだ。この前会った時に目撃されたらしくてな。杏寿郎から、意中の人がいるのかと疑われたんだ。否定はしたが、未だ疑っているようで参った」
槇寿郎は、息子達が疑っていることに辟易していた。
一見普通だが、どうにも疑いの眼差しを向けられるのだ。
今日も出掛けることを告げれば、二人から何の用だと追及された。
現役時代の同僚から会わないかと文を貰ったと言えば、渋々ながら「そうですか」と言われた。
しかし疑っており、門から遠ざかるまで二人からの視線を感じていた。
「ああそれですか!私も甘露寺さんから聞いて驚きました。杏寿郎様に会った時に伝えておいたと言われ、ならば槇寿郎様の耳にも入っているのだろうと…。とんだ勘違いですが、確かに場所が悪かったですものね。今回で最後ですから、どうか御容赦下さい」
斗和は一呼吸おくと、槇寿郎を見据える。
「本題に入ります。今までのことで、私に様々疑問があるかと思います。分かる範囲でお答えしますので、何でも聞いて下さい。その代わり、私の頼みを必ず聞き入れて下さい。どうかお願いします」
槇寿郎は躊躇いを見せたが、ならば…と口を開く。
槇寿郎は、これまでの斗和の行動について聞いた。
なぜ自分しか知らない日の呼吸のことを、斗和が知っているのか。
歴代炎柱ノ書の内容は、現時点で槇寿郎だけが知っている。
槇寿郎の最大の疑問はそこだった。
「私は炎柱ノ書は読んでいません。…これから話すことは、到底信じられないと思います。ですが、私は真実しか述べません…」
斗和が知っていることは、大まかな流れだけである。
細部までは覚えておらず、記憶違いもあると思っている。
だが、今できることはこれしかないのだ。
「私が嘘を言う理由はありません。知っていることを、真実しか話していません。私がいるこの世界が、知っているあの世界と同じだというのは紛れもない事実です。なぜ私が記憶を戻したのかは分かりません。記憶を戻したことで、知らず知らず変えてしまった、又は変わった事柄もあるでしょう。ですが後悔はありません。私は杏寿郎様に生きて欲しくて鬼殺隊に入りました。それが叶ったことはこの上ない喜びです。無惨を倒した後のこの世界がどうなるかは私には分かりません。ですから…どうか今を大切に生きて下さい」
槇寿郎は相当な衝撃を受けた。
斗和が話す間中、幾度も驚愕し途中で重ねて問い、噛み締めるように言葉を紡ぎ、そして涙した。
斗和の当初の目的は既に達成している。
本来ならば、これらのことは耀哉以外に話すべきではない。
槇寿郎に話したのは、どうしても引き受けて貰いたいことがあるからだ。
斗和は、槇寿郎以外の他の誰にも頼めはしないと思った。
非常識なことを考え、実行に移そうとしている斗和。
救いようのない馬鹿だと、自嘲した。
だが、他の方法が思いつかなかった。
斗和の心臓は、最終決戦までもつかも分からない。
本当は玄弥を助けたい。
鬼喰いの反動で短命かもしれないが、いっときでも実弥と和解し笑い合って欲しい。
どうか実弥には幸せになって貰いたかった。
だが、玄弥がいなければ上弦ノ壱は倒せない。
例え斗和が代わりに戦おうと、倒せはしない。
玄弥を救うことは不可能だと判断した。
ならば元の状態に戻すしかなかった。
「私は以前、二十九歳で死にました。死因は恐らく心臓発作。先天的に心臓が悪かったようなんです。…困ったことに、今も心臓が悪くてですね…脈、確かめてみますか…?」
斗和は座卓の上で左腕を伸ばした。
槇寿郎は恐る恐るその手首に触れ、脈を取る。
「これは…!」
「酷いでしょう?…異変を感じるようになったのは、一年以上前です。…私、幼少期から農作業ばかりしてきました。力だって男に負けないくらいあるのに…」
斗和は、俯いた。
「…半年、もつかどうかだそうです。それに、突然心臓が止まる可能性もあると言われました」
「な…!?本当なのか!?」
目を見開いたままの槇寿郎は、驚愕し固まっている。
妻が長くないと言われた時、彼はどんな気持ちになったのか。
こんな顔をしたのだろうか。
斗和はふと思った。
他人でさえ衝撃なのだから、家族ならばこの何十倍もつらく悲しかったはずだ。
斗和には想像もできなかった。
「全盛期より動けなくなりました。ですがまだ呼吸は使えるし、技も撃てます。せっかく鬼殺隊に入ったのだから、最後まで鬼を倒したいんです。少しでも役に立ちたいんです…!」
槇寿郎は悲痛なまでに顔を歪めている。
言葉が出なかった。
まだ二十一歳の若い娘が、心臓の病で半年後には確実に死ぬと聞かされたのだ。
それが息子・杏寿郎を救った娘だ。
哀れとしか言いようがない。
その娘の頼みとは何なのか。
「…俺に頼みというのは?」
斗和は何度も考えた。
どうするのが最善なのか。
どうするのが誰にも迷惑をかけずに終われるのか。
最善だとは思えなかったが、方法も時間もない。
「一つめは私の体のこと、今話した内容は他言無用でお願いします。二つ目は…風柱の不死川実弥をご存知ですね?」
「ああ」
「彼を愛しています。…あの人は失うことだらけの人生でした。そしてこの先、たった一人残された隊士の実弟まで失うことになります。…ずっと失ってばかりのあの人に、更に本来いなかったはずの私を失わせるわけにいきません。…こんなちっぽけな私でも、死んだらあの人はきっと悲しみます…。だからその前に、私を憎ませ離れさせたいのです」
斗和は強く決意した眼差しを槇寿郎へ向けた。
「そうすれば、あの人は失わなくて済む。少しでもつらい思いをさせずに済むんです。こんなことを頼むなんて、非常識極まりないことは分かっています。ですがこれしか思いつきません。…槇寿郎様、どうか…っ、どうか私を抱いたように見せかけて下さい!」
「!!」
槇寿郎は驚愕して目を見開いた。
斗和とて、非常識極まりないことを頼んでいるのは百も承知だ。
「他の男に抱かれたと思わせる証拠を付けて下さい。裸にならなければ付けられない場所に、一目見て分かるよう強めにいくつも口吸いの痕を付けて欲しいのです…!」
「だがそんなことをすれば、風柱も君も互いに傷つくだけではないのか!?」
(ああつらい…胸が締め付けられる)
決めたことだった。
だが斗和は、いざ口に出せば涙ばかり溢れ出る。
斗和はいつからか、実弥の傍にずっといたいと思っていた。
痣のために亡くなるであろうあと数年を共に過ごしたいと、そう思うようになった。
だがそれは、この世界にいなかった斗和が願ってはいけないことであった。
叶うはずのない夢だった。
「傷ついても失わなければいいのです!傷はいつか癒されます。ですが失ったものは戻りません。…誰よりも何よりも、彼を心から愛しています…!もう悲しませたくない、つらい思いをさせたくないのです!」
涙が溢れる斗和は、嗚咽が込み上げしばし言葉にならない。
その間、槇寿郎は黙っていた。
なんと憐れな娘なのかと思った。
「本当に申し訳ございません…。私のような者にそのようなことをするのは嫌ですよね。奥様以外の女に触れたくないでしょうが、どうか頼みます!お願いします!槇寿郎様…!」
斗和は土下座し、ひたすらに頼み込んだ。
槇寿郎はその申し出に、悩み苦しんだ。
息子と同じ年頃の娘の肌に口を寄せるなど、到底できることではない。
だが、斗和が相当の覚悟で頼み込んできたのだ。
断れば娘は途方に暮れる。
更に苦しむ。
本来知るはずのないことを娘から聞いた。
槇寿郎は、斗和に感謝してもし足りない程だ。
泣きながら頼み込む、余命僅かな娘の頼みだ。
断れるはずがない。
しばらくのち、槇寿郎は立ち上がった。
斗和はやはりだめだったかと目を瞑る。
すると腕を取られ上体を起こされた。
目の前にいた槇寿郎は、静かに「承知した」と言い斗和に手拭いを差し出す。
斗和は更に涙が溢れ、受け取り顔を埋めた。
「ありがとうございます…!他に頼める人がいなくて、本当に感謝しています…」
「場所の指定は…?」
斗和は無言で首を横に振った。
意を決して帯を解こうとするも、震えてできないでいる。
見兼ねた槇寿郎がその手を掴み、斗和を壁にもたれ掛けさせた。
「…すまないが俺がやる」
槇寿郎は斗和の帯に手を掛け抜き取る。
胸の合わせを左右に開き、着物を脱がせた。
あっという間に襦袢と足袋だけになった。
斗和は深呼吸し、どうにか心を落ち着かせる。
それでも動悸が止まらない。
「際どい場所でいいんだな…?」
槇寿郎は改めて確認し、斗和は黙って頷いた。
「目を閉じていろ。すぐに終わらせる」
斗和は顔を背け目を閉じた。
すぐに襦袢が解かれるのが分かり、震えが起きる。
再び涙が滲み、歯を食いしばり耐えた。
(怖い…)
斗和は、実弥以外の男に肌を見せるのは初めてだ。
ましてや触れられるなど、有り得ないと思っていた。
嫌に決まっている。
しかし耐えなければならない。
こうすることで、実弥は斗和から離れる。
実弥が激怒し、心底斗和を嫌いになり離れていくことが目的なのだ。
顔を背け震えている斗和を見て、槇寿郎は苦しかった。
嫌で堪らないはずだ。
自らを悪者に仕立て上げ、愛する男を突き離すなど簡単にできることではない。
斗和が、それ程にまで風柱を想っていることを感じ取った。
槇寿郎は襦袢を開くと、それは簡単に斗和の肩を滑り腰に落ちた。
目の前には、久しく見ない女の裸体が広がる。
妻以外の女を知らない槇寿郎は、年甲斐もなく緊張し始める。
意を決し、斗和の左胸に口唇を寄せた。
「っ!」
左の胸に小さな痛みがはしり、斗和は僅かに身じろぐ。
槇寿郎は早く終わらせねばと、胸、腹、肩口、腕、脇、と至る所へ痕を付けていく。
口唇を肌に寄せる度、槇寿郎は男の本能が湧き上がる。
若い女の肌だ。
しばらく離れていた煩悩が蘇り、ある衝動に駆られる。
この娘が欲しい…と。
槇寿郎は、必死で煩悩を踏み留める。
この場で斗和を組み敷くなど、絶対にしてはならない。
「…後ろを向いてくれ」
斗和は小さく頷いた後、ゆっくりと向きを変え背後にあった壁に手を着く。
すると、背中や腰にいくつも痛みがはしる。
「すまないがもう一度前を。あとは足だけだ」
斗和はもう一度前を向き、再び目を瞑る。
正座を崩して座っていたその膝に、槇寿郎の手が触れる。
左足をぐっと開かされると、斗和はブルブルと震えた。
思わず口に手を当て、顔を背ける。
左右の足に痕を付けていく槇寿郎は、思いの外多く口唇を寄せてしまった。
最後に左右の太股の付け根の際どい場所が痛むと、斗和は一筋の涙を流した。
終わった後、槇寿郎は泣いている斗和に着物を掛けてやりその頭を撫でた。
「怖かっただろう…よく耐えた。…君には本当に感謝している。どうか悔いなく生きてくれ」
槇寿郎はそう告げ部屋を出て行った。
「っ…ふっ…うっ…」
部屋には、いつまでも斗和の泣く声がし続けた。