「花の砕けた日」の別の世界線です。
近頃はバッドエンドばかりだと胃もたれするので、適度な救いが欲しくなる時があるのです!
「……ち……誓い……ま……す……」
それは。
「……私は……リーネ・アゾットは……」
最悪を告げる。
「あなた様の……に──奴隷に……なる……事を……」
──現実にあまりにも近い、悪夢。
「────ひっ!」
銀髪の少女が、跳ねるように飛び起きた。
両の頬に、大量に伝う汗。
あまりにもけたたましく高鳴る鼓動。
「……あ、あ……」
酸素不足からか、視界がぐらぐらと頼りなく揺れている。
周囲を見渡せば、そこに広がっているのは普段自分の生活している景色。
幾度か深く息を吸い込み、そして吐き出す。
「また……この夢か……」
銀髪の少女──リーネ・アゾットは、吐き捨てるように呟いてベッドから立ち上がる。
「…………はぁ…………」
洗面台に映る自分の姿を見て、何度目かの溜息をついた。
我ながらひどい有り様だと、リーネは力なく苦笑する。
顔にびっしり浮かぶ冷や汗、目元に濃く浮かぶ青いクマ。
歯の根も噛み合っていないのか、先程から口もとからはガチガチと小さな音が零れていた。
「────」
手に水を溜め、顔を洗う。
ほんの僅かに冷えた体温が、幾ばくか高鳴る鼓動を沈めた気がした。
「…………」
ベッドに戻って、手足を投げ出す。
ふと、時計に目をやれば長針と短針がぴったり三時を告げていた。
眠気はもはやどこかへ消し飛び、かといって外に出る気にもなれない。
──ち……誓い……ます……
それは、先程の悪夢の残響。
今日だけではない。
ここ連日、同じ悪夢が何回も繰り返されている。
自分が見知らぬ男に性的調教を受け、男に屈する──そんな、どうしようもなく絶望的な夢。
一度や二度どころの話ではなく、眠りにつくその度に。
さすがに気も滅入るし、眠ることさえ嫌になる。
「……ただの悪い夢……いや……」
リーネは考える、こうも繰り返し同じ悪夢を見る理由を。
可能性として考えられるのは二つ。
疲労などによる影響──或いは。
「予知…………」
それは、有り得るかもしれない可能性の一つ。
聞いたことがある。
夢で見た光景が、そのまま現実となったケースは多々あると。
普段ならば、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばせるかもしれない。
だが、この状況──冗談と呼ぶにはあまりにも。
「…………っっ」
ずきずきと、痛み始めたこめかみを強く押さえる。
何もかもだ。
何もかもが、あまりにも悪く噛み合っては巡っていく。
人に相談する?
馬鹿な──こんな馬鹿げた話を相談して、一体どうなると言うのか。
考えれば考えるほどに、思考は絡まって分からなくなっていく。
混乱に次ぐ混乱。
何を、どうするべきかさえ今の自分には分からない。
「アイリーン……ユラ……アン……」
指折り数え、一つ一つを確かめるようにして声を出す。
今現在、自分が組んでいるチームメイト達。
退学騒動を乗り越えて結束を固めた、今の自分が一番信頼できる存在。
ああ──それと。
もう二人分カウントを足す。
一人は、自分の知っている中で誰よりも強い心の少女。
友が高みに立つのなら、自分も同じ位置に立って支え合いたい──何者にも臆することなく、そう言ってのけられる誇り高き少女。
もう一人は──。
「…………?」
はて、と疑問にぶつかった。
そういえばあの男──あの男は、誰だ?
現生徒会長である日向美海や、その友人である岸部沙織が絶対的な信頼をおいている存在──それは知っている。
退学騒動の時も、確かにあの男はその少女──岸部沙織の傍らでサポートしているのはずっと見ていた。
──だが。
「あいつは……誰だ?」
名前が分からない。
普段どこで、何をしているかも分からない。
αドライバーである事だけは知っているが、組んでいるプログレスがいるかどうかも分からない。
「αドライバー……か……」
αドライバー。
簡単に言えば、自分たちプログレスの能力を強化し、プログレスの受ける苦痛を一手に引き受ける──プログレスに必要不可欠なパートナー。
αドライバーとプログレスは一蓮托生。
故に、信頼できる人間でなければならない。
それこそ、命を平気で預けられるくらいには。
……ざ……ざ……
思考に混じるノイズ。
記憶に引っ掛かるなにかが、悪意と害意を伴う欠片として思考の片隅で鈍い光を放つ。
そうだ、αドライバーと言えば。
そう名乗って自分に接触してきた男が一人いた。
──俺のものになってよ。
──俺はこの学園でも、上位のαドライバーなんだ。
それはいつだったか、唐突に見知らぬ誰かからかけられた言葉。
あまりにも下卑た欲望を隠せていない、醜悪な声。
「……あいつか?」
あの時のあの男が、悪夢の元凶なのか。
一度深呼吸をして、慎重に思考を巡らせていく。
件の悪夢は、自分が男に屈する場面で固定されていたわけではない。
もう少しその手前──有り体に言ってしまえば、自分が今まさに性的調教を受けている場面もあった。
思い出していく、一つずつ。
記憶の海から、小さな欠片を取りこぼさないようにして。
──ふーん……まだそんな気力が残ってるんだねえ。
──君に選択の自由なんて無いことは、君自身がよく知ってるはずだろうに。
ぞくりと。
背中を鋭利な刃物でなぞられていくような、どうしようもない感覚。
合致してしまった、完全に。
悪い夢、どころの話ではなかった。
すぐそばまで迫り来ていた、悪夢という名の現実に──発狂してしまいそうなほどの衝撃が走る。
嫌な汗が止まらない。
鼓動はこの上なくやかましく鳴り響き、異常な程に口が渇く。
──ち……誓い……ます……。
それは。
──私は……リーネ・アゾットは……。
あまりにも。
──あなた様の……に──奴隷に……なる、事を。
間近に訪れるであろう──最悪の、現実。
「────!」
唐突に響いた目覚ましのアラームに、意識は強制的に現実へと引き戻された。
時計に目をやれば、時刻は七時半。
おおよそ四時間にも渡って、思考を繰り広げていたらしい。
「…………」
手早く支度を済ませて、玄関の扉に手を掛ける。
顔に触れる空気が、心なしかいつもよりも重い気がした。
「すいません! 生徒会長はいますか!」
学校に着いて早々に、生徒会室へと乗り込んだ。
声が大きかったのか、はたまた別の要因か──生徒会長である日向美海は、その来訪に目を丸くしているようだった。
「あー……びっくりした。何かと思ったら、リーネちゃんか。どうしたの、突然いったい?」
気を悪くした風でもなくそう答える美海に、リーネは詰め寄る。
これまでの事を細かく、丁寧に、ただ一つの見落としも無いように説明していくと、美海は徐々に眉根をしかめていった。
「……うーん。どうもキナ臭いね、その夢」
全てを聞き終えた美海は、開口一番にそんなことを口にする。
「たぶん、連日見るって言うのも偶然じゃないよ。もしかしたら最悪──明日、いや今日にだって起こりかねない」
美海の口調は、ほぼ断定に近い。
まるきり事情を知らない他人に一から説明して、返ってきた結果がこれなのだ。
今の予感はおそらく──ほぼ確定した現実なのだろう。
「生徒会長として──ううん、一人の人間として。そんな事を聞いたからには協力しなくちゃね。ただ、私が四六時中付いてるわけにもいかないから──」
美海がポケットから携帯を出し、どこかへ電話をかけ始める。
その電話から数分後に、生徒会室の扉を開けて一人の男が入ってきた。
「ごめんね──君。急に呼び出しちゃって」
「いや、それは別にいいんだけど……」
なんとなく、そんな予感はしていた。
退学騒動の時に、岸辺沙織の傍らにいた男の先輩。
何か用? と男が尋ねる。
美海の口から、先程と全く同じ説明がなされ男は小さく頷いていた。
「なるほど。話は分かった……で、俺に何をしろと?」
「リーネちゃんの護衛……って言えばいいのかな。とにかく、可能な限りリーネちゃんから目を離さないで。帰る時も必ず一緒に。絶対に寮まで送り届ける事」
「任された。それじゃあ行こうか……えーっと……」
「待ってください」
男の手を制して、今一度リーネは美海を見据えた。
「この人は本当に──貴女の信頼に足る人ですか」
失礼なことは分かっている。
それでも、信じたい。
信じたいから。
信じるための、確たるものが欲しい。
「うん」
対する美海は、即答だった。
「私だけじゃないよ。きっとこの学園の誰もが」
彼を、誰よりも信じていると。
美海は強く、そう言いきった。
「それじゃ、行こうか。ええと、リーネさん?」
「……リーネでいい。よろしくお願いします」
連れ立って、生徒会室を後にする。
「ああ、そうそう──君」
思い出したように、美海の声が背後から届く。
「もしその犯人と接触するような事があったら──容赦なく潰していいからね」
それは、明瞭な怒りの籠った声。
「勿論──そのつもりだよ」
男は飄々と、片手を左右にひらひら動かして今度こそ生徒会室を後にした。
かつかつ、こつこつ。
二人分の足音を響かせて、廊下を歩いている。
今、自分の隣にいるこの男は何を考えているのだろう。
「…………貴様、何を考えている?」
訝りながら、リーネは問う。
生徒会長があそこまで言うのなら、信頼はできるのだろう。
だが、やはり知らなすぎるのだ。
自分は、この男を。
今もその表情からは何も伺えない。
無表情というわけではないはずなのに、下手な無表情よりもよほど恐ろしく──。
「もし俺が君を付け狙う人間だったとしたら、いつ仕掛けるか」
「──っ!」
その言葉が、体温を急速に引き下げた。
「生徒会室からここまでだって、相当チャンスがある。……今日真っ先に生徒会室に乗り込んで正解だったな。もし今日の放課後まで待ってたとしたら多分──君は間違いなく詰んでいた」
どくん、どくん。
心臓の音が、いやに高く耳に響く。
「今朝来た時には君は走っていただろうし、普段はこんな所に来ないだろうから、もしかしたら知らなかっただけかも知れないけどね」
男が一度、言葉を区切り。
「見ての通り、ここはほとんど人の来ない場所なんだ」
そう、言葉を吐き出した。
今一度周囲を見渡す。
視界に広がる世界、その中に潜む死角。
見れば見るほどに、仕掛けられそうな場所がごまんとある。
「────」
近付きつつある悪夢に、胃液が逆流する。
視界がひどく点滅し、肩が、足が急速に震え始めた。
「……はっ……はっ……」
ひどく息苦しい。
出来損ないの呼吸が口から漏れる。
「落ち着いて」
ゆっくりと、優しく背中をさすられた。
「少なくとも、今ここには俺がいる」
慈しむように、語りかけるように。
「俺は君の、敵じゃない」
優しくけれど、力強く。
「君の、味方だから」
そう誓うように、彼は────。
「…………すまない、見苦しいところを見せてしまったな」
青蘭島内のとあるカフェで、頼んだコーヒーを片手に呟く。
「無理もないさ。ただでさえ悪夢で気が滅入ってる所に、あんな話までされたらな」
対面に座る男も、コーヒーを飲みながらそう一言。
「ところで」
男が調子の変わらない声で。
「プログレスとαドライバー、何が一番大事か知ってるかい?」
そんなことを問いかけた。
「…………信頼?」
自分の思う答えを口にすると、男は小さく頷く。
「その通り。……けれど、俺と君が関わったのは前の騒動一回きりだろう。互いに背中を預けるにはあまりにも、
それは奇しくも。
自分が考えていた事と、全く同じで。
「だから知りたいんだ。
向けられた柔らかい微笑みに、張り詰めた肩の力がどことなく抜けた気がした。
「リーネは何が好きなんだ?」
「権力と、それから金だ」
見なくても分かる。
男は間違いなく苦笑していることだろう。
「嫌いなものは平凡と貧乏。私は貧乏な家の出でな。色々といらん苦労をしてきたものだ」
取り繕うことなどしない。
「だから金が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい」
コーヒーを持つ手に、知らず力を込めていた。
「失望したか?こんな、可愛げの無い女で」
自嘲と共に、吐き捨てた。
目の前の男は何も言わず、苦笑することもなく。
「いいじゃないか」
淡々と。
「俺は好きだよ、そういうの」
あまつさえ、共感するかのように口もとをつり上げて。
「綺麗事を言われるよりかは、よっぽどいい」
そう、笑う。
「…………っ」
真正面から肯定される気恥ずかしさに、リーネは頬を掻く。
慣れていない、そういうのは。
やんわりと否定してくれるくらいで、丁度良いのに。
「つ、次は貴様が答える番だぞ!根掘り葉掘り聞いてやるから、覚悟しろ!」
声を張り上げ、眼前の男を睨む。
その様子を見て、男は僅かに苦笑を浮かべたのだった。
「…………はぁ?」
リーネが呆然と、口を開けていた。
眼前の男が語る言葉、それが。
「ファントム事件と呼ばれる騒動を解決して、ウロボロス事件の解決の立役者で、更にはルルーナ中尉やリーリヤ中尉、はてはアゲハ中佐と親交があって……赤の世界の女神や魔女王とも関わりが深い……だって……?」
にわかには信じがたい──というよりも、内容はもはや冗談そのものだ。
否、仮に冗談であったのならまだすんなりと理解も及ぶが。
「凄いのは
αドライバーとして、できる限りの事をしただけだと。
誇るでもなく、鼻にかけるわけでもなく。
さも当然のように、そう言ってのけているのだ。
どう見ても、嘘や冗談を言っている人間の態度ではない。
今、この男が語った内容は紛れもない事実で──。
──私だけじゃないよ、きっとこの学園の誰もが。
生徒会長の言っていた言葉の残滓。
その意味が再度、違う意味合いを伴って脳裏へ響く。
「な……なあ、1つ聞いてもいいか?」
コーヒーを口に運んで、喉を湿らせる。
「貴様はその、誰か一人のための……αドライバーなのか?」
それは文字通りの問いかけ。
一蓮托生たるパートナー、今の経緯を聞けば彼を専属のαドライバーにしたい者など、それこそ山のようにいるはずだ。
生徒会長も、魔女も、女神も、グリューネシルト統合軍の将校たちだって──。
それだけの実績を積み上げてきた、重ねてきた。
彼は、そういう男なのだから。
「いいや、そうじゃない」
男が即座に、首を横に降る。
「今の経歴を聞けば分かると思うけど、俺は、色々なプログレスのαドライバーをやってきた。けどね」
男が一度言葉を区切って。
「心の底から、この
そう、どこか寂しげに呟いた。
「どうしてかは分からないし、知ろうとも思わないけどね」
それだけの功績と魅力を持ちながら、特定の
成程、と一つ理解が及ぶ。
あの時に、男が見せた表情。
何を考えているのか、僅かにも伺わせないあの顔が──彼の、この男の本質なのだと。
「とりあえず、お互いに理解を深めるのはこのくらいでいいかい?」
男が空になったグラスから、氷の音を打ち鳴らす。
「あ、ああ……構わない……」
それじゃあ、と。
男が右手をまっすぐに差し出して。
「これからしばらくの間、宜しくリーネ」
リーネはゆっくりと、その手を握り返した。
「…………というわけで、彼にしばらく護衛についてもらう事になったんだ」
リーネがそう男を指す。
「おいおい、ボクのαドライバーを勝手に取るんじゃないよ」
そう不満げな声をあげるのは、チームリーダーのタイプX=01アン。
「そも俺は、お前の専属αドライバーになった覚えは一瞬たりとてないんだけどな」
男の反論もどこ吹く風だ。
アンは笑いながら、男の肩を叩く。
「なんてね、冗談冗談。いい男だったら諧謔の一つも嗜んでおかなきゃ」
飄々としたアンに対して、残りの二人──ユラとアイリーンは怪訝な面持ちだ。
「全く──水くさいですわね」
そう言うユラと。
「ええ、本当に──どうして何も言ってくれなかったのか」
その言葉を首肯し、さらに続けるアイリーン。
「いや、言わなくて正解だったかもしれないぜ」
それを、アンが否定した。
「仮にボクらに相談したとして……そうさな、ボクらが四六時中行動を共にしていたと仮定しようか」
アンが人差し指を静かに立てる。
「連日悪夢に出てくるようなそんな奴が、
その場にいた全員が、アンの言葉に息を呑んだ。
「少なくとも、ボクが狙う立場なら──その手の道具は間違いなく用意する。それも、とびきり高性能で広範囲に効くやつをね」
アンが視線を向けた男も同意見らしい。
視線だけで、アンに言葉の続きを促す。
「そんな状況で、上玉が四人。男からしてみればさぞかしラッキーだろうさ。何しろ一人狙っていただけのはずが、勝手に獲物が増えてるんだからね」
アンの言葉は、紛れもない事実だろう。
己の置かれていた立場に、リーネの顔が青くなる。
「でもまぁ。リーネ、こいつなら安心して背中を預けていいぜ。なんたってこいつは──ボクの知る限り、最高のαドライバーなんだから」
それから季節が、半年ほど流れた頃。
「最近は……どうだ?」
男の言葉に、リーネは静かに首を横へ降った。
「何も変わらない。それどころか──」
──貴様への思いも踏みにじられ、砕かれる。そんな最悪のおまけつきだ。
声に出さないまま、リーネは奥歯を噛み締めた。
「やっぱり、元凶を潰さないとどうにもならないか」
男がこめかみに手をやり、ため息をついた。
「ただ、相当慎重で、用意周到な奴みたいだ。俺がいる限り仕掛けちゃ来ないだろう」
いくら調べても、それらしき人物が見つかることはなかった。
今も、今だって──おそらくは息を潜めて狙いをすましているはずなのに。
「…………私に一つ、考えがある」
意を決して、リーネは男の顔を見据えた。
「────守って、くれるか」
夜の帳に包まれ、街灯の心なく灯る人気の無い道をリーネは一人で歩いていた。
「…………」
いつも傍らにいる男がいない。
それだけで、こんなにも心細く小さな震えが止まらない。
先程から十数分。
纏わりつくような視線を感じている。
言い様の無い、嫌な気配を感じている。
単独か、それとも複数か。
前後左右──全神経を研ぎ澄ませ、襲来を警戒する。
「…………」
どうしようもなく、喉が渇く。
絶え間無く存在感を放つ気配に、泣きそうなほど気持ち悪くなる。
寮までは、あと数分。
おそらく、仕掛けてくるとするならば──。
「────!」
鼻と口に、何かを当てられた。
「やっと……二人きりになれたねリーネ」
ぐらり、と。
意識が少しずつ遠くなり始める。
ひどく粘着質な声。
こいつが、夢、の────。
「効くだろう?僕の手製の眠り薬は。ゆっくりお休み──そして」
君の全部を僕のものにしてやる、と。
男が笑ったその瞬間。
「…………全く、度しがたい程の愚か者なん」
そんな呟きと共に、男の頭上から硬質化された飴が驟雨のごとく降り注ぐ。
「な、な、なんだこれは……っ!」
男はプログレスを相手取る以上、万全の装備を整えていた。
男の身に付けている、怪しげな紋章の刻まれている手袋もその一つであり、対象に触れている間そのプログレスの能力を無効化するものなのだが──。
「どんな準備をしてきたのか知らないけど、あらかじめ発動していた能力には意味がなかったようなん」
勿論それはこのフードを目深に被った少女──シャムだけによるものではない。
物陰からひょっこりと、ひどく不機嫌そうな表情をした天使の少女が姿を現す。
「女をこそこそ付け狙うなんて最低。こいつは今この場で即座に死ぬべき」
遅れて聞こえる足音。
「二人とも助かったよ。ありがとう、シャム。シャティー」
物陰からもう一人、男がその姿を現した。
「礼を言うくらいなら、庶務見習いはレボ部に入るべき。それか、私の専属αドライバーになるのでも可能」
頬を膨らませ、そう言うシャティー。
「シャムの能力で鋼鉄の硬度になった飴を、シャティーの能力で複製──それをあらかじめリーネの頭上に待機させる。罠としては、確かに最適な策なん。でも──」
淡々と言葉を並べるシャムの視線の先、薬を嗅がされ意識を失ったリーネの頭には怪我一つ無い。
「リーネが怪我をしていないのは何でなん? あの距離、間違いなく巻き添えを食らう距離だったはずなん」
「種明かしをすれば簡単、予め
笑う男に、シャムは感嘆の息を一つこぼした。
「……まるでこうなることが、全部見えていたかのようだよん」
「庶務見習い、早く帰る。こんなところにいつまでもいるのは非効率」
シャティーの言葉に、男が頷き意識を無くしたリーネを抱えあげる。
「しょ、庶務見習い! お、女の子を気軽に抱き上げちゃだめ! 私とシャムで
シャティーの視線の先には、鋼鉄の飴を幾千と頭に受けて完全に延びきった男。
白目を向いて倒れたその男は、息も絶え絶えだが辛うじて生きているらしい。
「分かった分かった。じゃ、行こうか」
首もとをつかんで、無遠慮にずるずると引きずっていく。
こうして、事件の全てに──ようやく幕が下りたのだった。
夢を、見ていた。
それはどこだろう。
見覚えのある場所で、よく見知った人物に。
私は──私から。
ゆっくりと、手を差し出して──。
「…………」
何週間ぶりかの、穏やかな目覚め。
事件が解決して早々に見る夢はただの幻か、それとも。
「────」
部屋のカーテンを開ける。
季節相応の太陽の光が、いやに強く輝いていた。
あれからの顛末を語ると。
犯人の身元は即座に割れ、その身柄はグリューネシルトの統合軍へと引き渡された。
なんでもかなりの悪事を計画していたらしく、グリューネシルト式の拷問で全てを洗いざらい吐かされた後、青蘭島から叩き出されたらしい。
詳細は省かれ──犯人の顛末だけが青蘭島全土に渡って知らされる事となり、しばらくは青蘭島内で不埒な真似を働くような輩は減るだろう──そう、生徒会長は言っていた。
そして──私は。
「き、来てくれたか」
自分が呼び出した男と、こうして向かい合っている。
「こ、今回はすまなかったな。き、貴様のおかげだ……本当に、本当に感謝をしている」
何度も助けられた。
何度も助けてくれた。
己の事など顧みず、ただひたすら自分のために。
「……そ……それで、だな……」
今なら分かる。
誰かに背中を預けたい。
誰かに己が存在の全てを託したいという、その意味が。
どくん、どくん。
心臓が、この上なくやかましく鳴っている。
言わなければならない。
そんな事は分かっている。
踏み出さなければならない──最初の、一歩目を。
──だから。
「……あの……その……」
意を決する。
躊躇いも、何もかもを投げ捨てて。
微かに動く唇が紡ぐ──その言葉の先。
「もし……もしよかったら……」
それは、きっと。
「私の……私だけの、αドライバーに────」
眼前にゆっくりと、そして真っ直ぐに手を伸ばす。
いつかの反転──今度は私から。
何よりも大好きな────貴方へ。
「────」
男の言葉と重なって、一陣の風が吹き抜けた。
囁くように、歌うように。
遠く遠くまで、風に流れて揺れる花びらを伴って。
──それはきっと、始まりを告げる第一歩。