ベアトリクス・ブレーメの淫靡な夢 作:雄渾
第一話
ユルゲン・ベルンハルトは、夜半に目が覚めた。
ただ一人、愛する女…… ベアトリクス・ブレーメ。
そっと、濃紺の
一人立ち上がり、戸外に目を向ける。
彼は、数刻前の事を思い起こしていた。
切っ掛けは、『主席幕僚』の秘密会合で、『夫婦の在り方』を問うたことであった。
世間では、『戦術機マフィア』4人組と呼ばれる、この集団。
空軍士官学校の同輩達に、家庭事情を相談したことが始まりであった。
1974年のソ連留学以来、親しい間柄の3人と組んで、4人組を作った。
空軍士官学校入学以来、席次を競って来たヨーク・ヤウク。
出自は、3世紀ほど前ヴォルガ河畔に移住したドイツ系ロシア人。
スターリンの強制移住で、東ドイツに追放された子孫の一人である。
容姿は、黒髪で筋骨隆々。成績優秀で、志操堅固な男。
自信たっぷりで、時々その真面目さが鼻に着く。
竹馬の友であり、士官学校同級生でもあるオズヴァルト・カッツェ。
出自はパン屋の次男で、栗毛色の
明朗快活で、己が心の闇まで明るく照らす様な輝きを持っている。
妹アイリスディーナ・ベルンハルトへの淡い思いを抱いていたのは承知していた。
紅一点のツァリーツェ・ヴィークマン。
彼女は、金髪碧眼の美女。小柄で
オリンピック代表選考に選ばれるほどであったが、政治的理由で断念せざるを得なかった。
士官学校の同級達は、
「なあ、そいつは傑作だ」
周囲の人間は、男が挙げた
栗毛色の髪の男は、他人の目を気にすることなく続けた。
面前の人物は、カッツェであった。
「それで、その後はどうなったんだ」
旧友の応対に、ユルゲンは
「ああ、結局そのまま喧嘩して彼女とは別々に寝た。アイリスは酷く落胆していたがな……」
旧友は彼の言動を
「でも自分としては安心したと……」
彼は目頭を押さえてながら、応じる。
「正直に言えば、そうなる」
「それにしては、何時になく不機嫌じゃないか」
「代わりに彼女を、夕食後に……」
「一夜の猶予だけか」
ふと顔を上げて、男の方を振り向く。
「まあ、そんな理由で
黒髪の男が立ち上がる。
「ユルゲン、君は軍団の主席幕僚だ。公衆の面前で猥談など許される筈が無いだろう」
少尉の階級章を付け、灰色折襟の勤務服を着た男。
同輩の一人であるヤウク少尉であった。
彼は、面前のヤウク少尉に言い放つ。
「別に良いだろう。それにお前さんだって俺達の猥談に興味が無いわけじゃなかろう」
満面朱を注いで、右手を面前で振る。
「それはそうだが……」
そう言うと静かに腰かける。
困惑した表情を浮かべたカッツェが漏らす。
「認めるのか」
ヤウク少尉は、苦笑交じりに答える。
「僕も色を知らぬから……興味津々だよ」
そんなことを言った同輩に対して、彼は茶々を入れた。
「貴様らしからぬな」
黒い瞳は煌々と輝く。
「
ベルリン、パンコウ区の閑静な住宅街。
周囲を塀で囲まれ、目隠しする様に木々が
彼は、その住宅に住まう
男の名前は、ヤン・ボルツ。
父、ヨーゼフ・ベルンハルトの同僚で、今は外務省嘱託職員。
彼から妻との状況を尋ねられていた。
「
手づから熱い茶を注ぎ、彼に振舞う。
息を吹きかけ、十分冷ました後、一口含む。
瑞々しい柑橘系の香り……。
鼻腔を通じて、全身に染み渡る。
「有難う御座います。ボルツさん……」
翁は、灰皿を引き寄せた手を止め、顔を上げる。
「他人行儀は止せ。ヨーゼフの奴とは同じ釜の飯を喰った仲だ。
とすると、君は私の
彼は黙礼する。
「美人の
両手の掌で覆う様にしてライターで、煙草の火を点けた。
「いえ、お手数をおかけするほどの事では……」
一息吐き出して、紫煙を燻らせる。
「そんな水臭いこと言うでない。私に話せば幾分かは気が休まるかもしれないじゃろ」
彼は、ゆっくりと紅茶を飲みながら決意していた。
深い溜息をすると、話し出す。
「俺とベアトリクスは……、別々に寝所を設けて、過ごしているんです」
翁は、彼の顔色を
「毎晩喧嘩しているが、朝には仲直りしていると……」
深く一礼をする。
「その通りです」
「私も若い頃はそうだった。
省の仕事が忙しくてな……、夏などは、帰る頃には夜明けだよ」
北極に近い高緯度の欧州は、極東以上に夏季の日照時間は長かった。
北部ドイツでは真夜中でも薄明るく、夏至の際は18時間も昼の時間が続く。
「あの頃は電話も碌になかった。
女房が、毎日台所で寝ていたのを憶えている」
深く皴の刻まれた顔をこちらに向ける。
「君も男としての踏ん切りがつかぬのであろうな……
夫婦生活は人それぞれだ。一思いに抱いてやりなさい」
ゆっくりと
「なぜ、まだ肌を重ね合わせていないのを……」
翁は哄笑する。
「年の功じゃよ」
すっと灰色の背広より封筒を取り出す。
「たまには外に食べに行ったらどうだね。いい刺激にもなる」
ソ連製高級セダンのZIL-111G。
ゼネラルモーターズ社の高級セダン・キャデラックを模倣した造り。
リアのオーバーハングは先代のZiS-110と比して、大幅に拡張。
ソ連車として初めてエアコンディショナーも備えている。
布張りの後部座席に座る一組の男女。
男の方は官帽を被り、俗にM52と呼ばれる将校用外出用制服を身に纏う。
銀糸の刺繡模様が施された肩章を付け、金属製星形章が輝く。
菱形の星形章の数と台布の色から、機甲科中尉。
側章の入った同色のスラックスを履き、センタープレスが綺麗に出ていた。
違いは、帽章に
上下とも、灰色のウールサージで出来ており、幾分化学繊維が混紡してある。
組んだ両足には黒色の
胴にベルトは着けておらず、また拳銃も帯びていなかった。
緊張した面持ちで窓の外を眺めている。
女の方は、地味な黒色のドレスで、純銀製のネックレス。
艶やかな黒髪に、白磁を思わせる様な肌。
真正面に顔を向け、
2.8トンの車体がゆっくりとベルリン市内を進む。
「ねえ、何か言ったらどうなの」
女の方が口を開いた。
「俺は怒ってはいないよ……。ただ、考え込んでいただけさ」
「何を……」
男は、女の方に顔を向ける。
「この先の事さ」
女の方は一瞬戸惑った表情を見せる。
「俺が君の事を大切に思っているのは……分かってくれているだろうと勝手に思っていた。
だが何時も見当違いの事ばかりしていたのは事実だ」
そう言うと、右手で女の左手首を掴む。
彼女の肌の温もりが、黒革の手袋越しに伝わって来る。
「だから覚悟を決めた……。君に俺の全てを曝け出したいと……」
彼女は紅潮した顔を背けた。
「そう……」
運転席の方から咳払いする音が聞こえた。
「お戯れは程々に為さってもらえますかな」
運転手はそう告げた。
車から降りた際、女は運転手に告げた。
「デュルク、一時間後にまた来て」
運転手は彼女に一礼する。
「もし、何かあればすぐ駆け付けられるようにしておきます。お嬢様」
彼女は
「今はその呼び方は相応しくないと思うけど」
「失礼しました。若奥様」
そう告げた後、運転席に乗り込む。
青白い煙を吐き出して、去っていくセダンを見ながら軍服姿の男は漏らした。
「長年仕えているから、呼び方は変えられないんだな」
女は、男の方に顔を向ける。
「あら、そう。あなたも人の事が言えないのではなくて……」
その言葉が終わらぬ内に、男は女の右肩に手を伸ばす。
「さあ、中に入ろう。ベアトリクス」