ベアトリクス・ブレーメの淫靡な夢 作:雄渾
何故であろうか
これほどまでに切なく感じて、兄・ユルゲンを求める感情を、アイリスディーナは悩んでいた
時折襲われる全身を駆け巡る電撃と
兄の事を思うと、自身の頭から湯気が立ち昇るような感覚を
そもそも、兄に関してこれ程までに思い悩んだことがあったであろうか
何時も親友のベアトリクスと兄に関して話していた時、彼女のペースで物事は決められていた
何をするにも、彼女の顔色を
ましてや、たった一人の肉親の兄に背くような真似はした事も無かった
兄は、自分が心の中にある感情を伝えたのならば、苦しむであろう事は容易に想像がつく
彼から、失望されたのなら、どうして生きて行けようか
その様な感情が、浮かんでは消える
兄は、180センチメートルを優に超える体躯と
だが根は優しく、時々見せる憂いの表情から考えると弱い人間なのであろう
その様に思えて、仕方がない
無論、自身も弱い人間だ
この社会主義一党独裁下の東ドイツに在って、兄が居なければ暮らしていけたであろうか……
何故、この様に思い苦しむのか……、アイリスディーナには解からなかった
初夏の日差しが降り注ぐ中、婦人兵用の帽子を被り、野戦服姿の彼女は練兵場に向かう
既に士官学校の女生徒は整列済みで、彼女とベアトリクスを待つだけであった
官帽を被り、腕組みをした夏季勤務服姿の男性教官がじろりと彼女の顔色を
「同志ベルンハルト、君らしくないではないか。
顔色が赤い所を見ると、気分でも優れないのかね……」
何時もは、厳しい言葉を投げかけて来る教官からの身を思う一言
とても新鮮に感じた
「大丈夫です。同志曹長……」
教官は、
「では同志ブレーメが
軍事教練に在って、行軍は非常に重要な位置づけであった
部隊統制や指揮統率に影響するばかりではなく、作戦そのものの成否を分けた
時間、距離、資源、地形、天候、障害、隊形、秘匿性……
あらゆる要素を考慮する、この一見地味な行動は軍事組織にとってなくてはならないもの
自動車や鉄道の無い時代、花の都パリよりモスクワまで攻め入った
これも単に、大帝ナポレオン・ボナパルトが行軍を重視した結果、成功した事例である
武運
その
休憩の折、再び兄の事を思っているとベアトリクスと目が合う
彼女はバツが悪そうに、
汗で濡れた
何故同じ家族になったのに、その様な態度を取るのであろうか……
彼女には、そう思えて仕方がなかった
膝下までの長さがある軍靴を脱いで、きつく縛った
色の変わった足の指先を揉んでから、背嚢より取り出した汗知らずの缶の
兄から聞いた話だと、汗知らずを塗ると
ヤウク少尉が言うには西では高価ではあるが特殊なクリームがあり、それが一番良いらしい
あの少尉の時々見せる優しさ
自分への何かしらの感情を抱いているのではないのか……
シュトラハヴィッツ少将の
努めて明るく振舞う彼が、時々見せる
親の代とは言え、故国ソビエト・ロシアから、捨て猫の様に放り出される
その事を、未だに心の奥底で悩んでいるのであろうか
同年代の男子にも向けた事のない感情を抱いている、自身に驚く
心の中の
例え、
この胸が、張り裂けんばかりの鼓動の高まり
兄やヤウク少尉への感情……
一歩踏み出して、伝えることが出来るであろうか
新しい足布を着け、軍靴を履き、立ち上がると個人装具を再び身に着ける
行軍再開を知らせる合図が聞こえると、再び歩み始めた
大休止と同時に始まった昼食の際に、脇に腰かけたベアトリクスから声を掛けられる
士官学校校長から激励として頂いたジュースと菓子を食べた後、戦闘
「アイリス。貴方、何か隠していない?」
ぎくりとベアトリクスの視線が、彼女の方に向く
額に汗が滲み、体がそわそわしてくる不思議な感覚に襲われる
「な、何って、別に……」
「隠すことないじゃない。私、知ってるから」
彼女は
「あの人から聞いたわ」
どんどんと血の気が引いていくのが判る
ベアトリクスは、気の毒に感じたのであろうか
義妹が、つらい表情を浮かべているのは傍目に判る程であるのに耐えられなかった
「別に責めている訳じゃないわ。
知りたかっただけなのよ」
「で、でも……」
「本当よ、ただ知りたいだけ。だから、そんな顔しないで
「嫌な顔をしているの……」
「してるわ。必死に言い逃れをしようという表情が出てるわ」
「え、それは……」
なにか、虎の尾を踏んでしまった様だ
アイリスディーナは、桃色の唇をかみしめると俯く
腰まで有る黄金の髪は、稲穂の様に垂れ下がり、地面に着かんばかりであった
ベアトリクスは彼女から目を
「いやらしいこと考えてたでしょう。違う?」
彼女は下を向いた侭、縦に首を振った
「どんなことかしら」
ベアトリクスは、その事実に衝撃を受けた
幾ら夫と義妹が兄妹以上の感情を持っているのを薄々感じてたとは言え、当人から肯定されるのは辛かった
それでも、彼女は義妹の本心を知りたかった
「いやらしい事って、どんな事を考えていたのかしら」
アイリスディーナは、ゆっくりと顔を上げて、彼女の顔色を
不思議そうな顔で、何故その様な事を聞くのかと言う表情であった
ベアトリクスは、腰を浮かせて半歩にじり寄る
胸が張り裂けんばかりに、ドキドキと心臓が
「そんな事を……」
「教えなさい」
両手を伸ばして、アイリスディーナの左手を掴む
細く美しい指と、薄くマニキュアの引かれた爪
アイリスディーナは、戸惑いの表情でベアトリクスを見つめる
「何故」
彼女の声はかすれていた
「知りたいからよ」
「貴方に関係は無くて……」
「関係が無い?アイリスにとってあの人の事はそんな程度の事なの……」
「違うわ」
「じゃあ、どういう意味でそんな事を言った訳!説明して頂戴」
胸が締め付けられるような苦しみ
アイリスディーナの一言は、まるで
しかし、ここで諦められようか……
意を決して、再度尋ねた
「あの人の事、兄以上に愛してるの……」
アイリスディーナは、全く反論しなかった
彼女は、
ふと、冷静さを取り戻したベアトリクスは一言告げると背を向けて、缶詰の封を切った
「詳しい話は帰ってからにしましょう。食事を摂れなくて倒れた何て言う話になったら、あの人が恥ずかしい思いするだけでしょうからね」
どうしてこんな事を聞く気になったのであろうか……
アイリスディーナへの対抗心なのか
それとも自身の心の奥底にある暗い感情が浮き上がってきたからなのか……
いずれも正解であろうし、違う様な気がしないでもない
しかし、唯一つ分かっている事
何時も心に浮かんでは消える、あの人への想い
其れだけは、間違いのない事実
糧食を噛みしめながら、ユルゲンとの再会を想うた